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2006年4月27日 (木)

作曲家の栄光と悲惨~橋本國彦の音楽

現代芸術論第3回

学生くんたちのほとんどが、瀧廉太郎や山田耕筰は知っていても、橋本國彦の名や作品を知らない。そんな彼らに、橋本作品のいくつかを聴いてもらうことができただけで、この授業は意義があっただろう。
古典舞曲<サラバンドの面影>の端正なたたずまい、歌曲「お菓子と娘」の清楚でおしゃれな美しさ、歌曲「薊の花」に聴こえる日本音階と西洋近代和声の融合・・・大正から昭和初期にかけてのこの国に、こんな音楽作品が生まれていたのは何と素敵なことか!だが、橋本國彦の才能はそこに留まるものではなかった。「班猫」「舞」と続く歌曲では、山田耕筰の流儀とはまったく違う作曲術でドビュッシー流の朗唱やシュプレッヒシュティンメが実験され、海外の最新の音楽的思潮が彼のすぐ隣にあったことが示される。かと思うと、新民謡「富士山見たら」やノーエ節のリミックスである「旅役者」からは、いささか浮薄にも見える曲想の中から一味効かせた伴奏が聴こえてくる。そして、彼の作品に見られるジャポニズムは、内側から滲み出たものというより、外側からの憧れ、エキゾチシズムとしてのジャポニズムに近いものであるように思える。
彼の音楽的才能は、求めに応じてところ厭わず振りまかれた。前衛的な手法を用いた純音楽から歌謡曲、CMソングやラジオ体操の音楽まで彼は作曲した。そしてまた、東京音楽学校の教官として戦争に巻き込まれていく。戦意高揚を目的とした音楽活動にまで、彼の才能は消費されることになる。

昭和15年に書かれた交響曲第1番ニ調は、皇紀2600年奉祝曲であるという出自に惑わされることなく評価されるべきだろう。マーラーのように、それまでとはまったく違う曲調が突然カットインされたりする第1楽章、琉球音階による主題がボレロ風に積み重ねられていく第2楽章、そして第3楽章は唱歌「紀元節」(伊沢修二作曲)を主題とする8つの変奏とフーガだが、彼はどの楽想をも、交響曲を構築するひとつひとつの素材として冷静な視点で扱っていく。主題は自在に変形される、たまたま主題が「紀元節」という曲だっただけのハナシ・・・作曲者には主題を変形し展開させていくのが面白くて仕方がない。フーガまでくると、こんな主題だが料理の仕方によってはこんな音楽が作れるんだぞと言わんばかりの腕の振るいようである。あくまでも作曲家の目は、この主題をどう展開させると音楽的に豊かな楽章が出来あがるか、その一点にしか感心がないように思える。皇紀2600年におもねって筆をすべらせている感じがほとんどしないのだ。

橋本には、戦時中の活動の責任を負う必要があったのだろうか。確かに多くの戦時歌謡を作っている。しかし、それは橋本ひとりのことではない。音楽家を束ねる役割を果たし、軍服を着て日本刀を下げて歩いたという山田耕筰に対して、戦争責任を追求する声が沸き起こっていた。しかし、その論争はほどなく霧散する。結局、山田はその後も音楽活動を続け、橋本は公職を辞した。戦後の橋本に残された時間は、ほとんどなかった。遺作「アカシアの花」は通俗的な歌曲だが、美しい旋律の上に漂う寂寥感は晩年の心境を映し出しているようだ。いや、そう感じるのは、思い込みが過ぎるだろうか。晩年といっても、没年44歳なのだが・・・。

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コメント

こんにちは。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
「朝はどこから」の歌もとりあげています。
よかったら、寄ってみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611

>kemukemuさん
お立ち寄りくださって、ありがとうございました。ブログ、興味深く覗かせていただいています。橋本國彦は、意外なところで話題になっているのですね。

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