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2006年7月25日 (火)

国立劇場の冒険(2)

承前

昭和59(1984)年、石井眞木作曲による新作声明「蛙の声明」の誕生は、プロデューサー・木戸敏郎と国立劇場による三つ目の冒険と言えよう。舞台に登場するのは本職の僧侶たちであり、日々のお勤めの場でのみ唄われていた声明の声に、仏典ではない言葉、伝統的ではないフシ回しが作曲された。日本語の言葉と芸術的な音楽表現との関係は、瀧廉太郎以降様々に試みられてきたことだが、表現者としての僧侶の登場は、日本語の作曲にとって大事件と言えるだろう。またここでは、宗派の異なる声明が同じ舞台に立つという画期的な試みが成功している。
「蛙の声明」は、草野心平の詩と石井眞木の音楽的資質が、幸福に結びついた例である。ただし、草野心平の詩にある破天荒とも言えるスケールの大きさに対峙する石井眞木の音楽的設計は、ダイナミックでありながらも予定調和的であり、全体としてはお行儀良く感じられる。それだけ、草野心平の世界が型破りなものなのだと言えそうだが。

「蛙の声明」の成果は、平成3(1991)年初演の吉川和夫「論義ビヂテリアン大祭」に繋がっている。石井眞木が演者任せにして、細部についてはやや放置した感のある論義風の部分の言葉ひとつひとつについて、この作品では丹念にフシが付けされている。日本語にどのような音を付し、どのようにテンポを伸縮させ、どのような声で歌われることによって、語りと歌との間(あわい)なるものが現出できるか、作曲者がかつてオペラ「金壷親父恋達引」で試みて以来のテーマを、別の面から考える作品となった。声明と狂言の語り、そして唄には、日本語を歌うということの原点があるはずだ。だが、現代の日本の歌、歌曲のほとんどは、そういうところを出発点にするなど眼中にないといった様子である。
「論義ビヂテリアン大祭」は、宮澤賢治の原作の面白さ、田村博巳による優れた構成・演出もあいまって、「秋庭歌」を除けば国立劇場委嘱作品としては異例と言ってもよいほどに再演を重ねている。

国立劇場の作品委嘱活動は、木戸が取り組んだ雅楽、復元楽器、声明以外にも、筝や尺八、打ち物など日本の楽器のためにたくさんの作品が書かれてきた。この活動は、木戸の定年退職後、後輩のプロデューサー田村博巳らに受け継がれるが、1999年第94作を最後にリストは途絶えてしまう。理由はわからない。しかし、そもそも国立劇場というところは、廃絶した作品の復活や普通に上演されているレパートリーの確認が本分であって、新しい作品を作曲家に委嘱する必要などないという、全盛期当時から洩れ聞こえてきていた上層部の声が反映したものでないことを祈るばかりだ。創作のエネルギーを失った劇場は、生きた現場とは言えないからである。

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