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2006年8月14日 (月)

私は誰?ここはどこ?そして何をうたうのか?・・・

現代芸術論第15回(8月3日最終回分)

4月から15回にわたって、「現代芸術論A」という授業で「日本の作曲家」を取り上げてきた。授業概要と授業計画は以下のとおり。これらは、大学のホームページ掲載の電子シラバスでも見ることができる。

●授業概要
現代の音楽の展開を、様々なトピックに基づき考察する。社会情勢が激動し、価値観が多様化し続けた時代にあって、作曲家・演奏家たちは何を考え、自らの作品・演奏に何を託そうとしたのか、そしてそこで何が実現でき、また何が実現し得なかったか等について、ディスクを聴きながら考えていく。
●授業計画
今年度のトピックは日本の作曲家。音楽スタイルの変遷を追いながら、瀧廉太郎や山田耕筰以降の日本の作曲家たちが目指してきたものについて考察する。

このブログでは要点の他に、授業で言い残したこと、うまく言えなかったことなどをまとめてきた。左側下の方の「カテゴリー」で「芸術・文化(授業の余滴)」を選ぶと、この関係の記事だけを表示することができる。

15回の授業では、約30人の日本人作曲家の作品、70曲余りを聴いてもらってきたことになる。もとより「日本現代音楽小史」ではない。歴史的視点から日本人作曲家の仕事を網羅するには、特に戦後の作曲家の作品傾向は偏りすぎている。林光、三善晃、松村禎三、一柳慧、湯浅譲二、高橋悠治といった作曲家について話すことができなかったのは残念だし、武満徹にしても、没後10年というメモリアルイベントもあいまって、これだけ世界的名声を誇っているのに、取り上げたのは「秋庭歌」だけとはいかがなものかと非難を受けそうだ。だが開き直るようだが、限られた時間の中で聴ける作品は限度がある。そのためには、ともすると見逃しがちな作品を優先したい。武満は他にいくらでも聴く機会があるから、ここで取り上げるのは1曲にとどまった。

15回をゆるやかなテーマで括るとすれば、「日本の作曲家は、どのように『(自分が)日本人(作曲家)であること』と向き合ってきたか」ということになろう。その格闘ぶりは、現代の作曲家たちに比べ、戦前、戦中の作曲家たちの方がより熾烈だったように思える。「どのように日本人(作曲家)であることと向き合ったか」といっても、その姿は千差万別、集約することなどは不可能だから、それぞれの作品から聴きとっていくしかないだろう。だが言えることは、どのような作風であるにせよ「自分が日本人であること」から完全にフリーになっている作曲家は皆無ということだ。海外暮らしが長ければコスモポリタンになるかといえば決してそうではなくて、かえって強烈な愛国主義者になったりする。振りかぶって言えば、「日本人作曲家であること」との格闘の諸相を見ることは、作曲家たちが「日本とは何か」「日本人とは何か」について考えてきた精神史を辿ることになるだろう。

しかし、それはちょっと振りかぶり過ぎで、要は日本の作曲家たちの作品に興味を持ってもらいたい、その切っ掛けになればということなのである。音楽を専門的に学ぶ人たちが、何世紀も前の、遠い異国の、なかなか想像しがたい階級と生活環境の、測り知れない才能を持った天才たちが作った音楽以外には一切目が向かないというのは、やはり異様なことだと思うのだ。
ただ日本の作曲家たちの作品、特に戦前・戦中の仕事は、故秋山邦晴氏の労作「昭和の作曲家たち」(みすず書房)などをわずかな例外として、十分に検証、紹介されてきたとは言えない。最近になって、NAXOSからシリーズで出ているCD「日本作曲家選輯」や音楽評論家・片山杜秀さんの仕事、紀尾井ホールでの演奏会シリーズ「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」や、芥川也寸志氏の遺志を継いだオーケストラ・ニッポニカの活動などが、戦前から戦中の創作状況をようやく少しずつ伝えてくれるようになった。これらのディスク、演奏会でいくつもの作品が甦ったのはとても喜ばしいことだ。

最終回の2つの作品は、吉川和夫「遠野民譚抄」~歌と十七絃のために (2003/平成15)~よりと、「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」(2002/平成14)。
バリトン歌手谷篤さんの「柳田国男『遠野物語』を歌いたい」という念願を叶えるべく作曲された「遠野民譚抄」は、当然のことながら、いわゆる「歌曲」にはならず「語り物」に近いものになった。「遠野物語」の中から選ばれた7話の文章そのままにフシ付けがされているが、そのフシは、聲明や平曲などからたくさんのエッセンスを得ている。新作聲明「論義ビヂテリアン大祭」で取った方法を、ここでは僧侶ではない歌手が歌うことを前提で行なったということになるだろう。
「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」でも、聲明から敷衍した旋律が曲をリードしていく。2つのヴァイオリンは、どちらかが優位になるということはほとんどなく、双子の姉妹のように、ひとつの性格の2つの分身のような鏡像をなす。
いずれの作品も瑕があり、完璧な出来栄えとはとても言えないし、簡単には再演できそうにない作品だが、自分なりに集中できた仕事であるとは思うので、この授業の(ゆるやかな)テーマの延長にある表現として聴いてもらうことにした。

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