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2007年4月14日 (土)

1900年 ミラノ パリ セントルイス

昨年度に引き続き、今年度も「芸術・文化(授業の余滴)」というカテゴリーに、「現代芸術論A」のメモを書き込みます。授業をまとめるために考えたこと、言い足りなかったことなど。

今年度は、小沼純一さんが編集したユニークな20世紀音楽入門書「あたらしい教科書8 『音楽』」(プチグラパブリッシング)を教科書にして、20世紀のさまざまな音楽シーンを切りとってみたい。第1回は、「1900年 ミラノ パリ セントルイス」。

まずは、カルーソーが歌うプッチーニから。

昨今「泣ける」音楽や文学が世間を賑わしているが、19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパでも「泣ける」音楽・文学が、崩壊寸前の調性音楽の上に咲いた。プッチーニ「ラ・ボエーム」はその典型。

現代では「三大テノール」のCDが世界的なヒットになったりしたが、カルーソーは、録音技術の発達によってその演奏が世界中に伝播した最初の大スターといって良いだろう。存在感溢れる美しいテノールの歌声は、今聴いてもまったく色褪せることなく、当時厖大な枚数のレコードを売り上げたことも納得させられる。

ついでながら、「ラ・ボエーム」の二重唱を共演しているネリー・メルバの美声も忘れ難い。メルバは、オーストラリア出身のソプラノ歌手だが、その活躍ぶりは、母国の紙幣に肖像が飾られていることからも知ることができる。余談だが、「ピーチ・メルバ」というデザートは、ネリー・メルバのために作られたことからその名がついたのだそうだ。

プッチーニは、演劇として上演された「蝶々夫人」に心を動かされ、オペラの作曲に没頭した。1900年から1903年にかけてのことだ。その際、彼がどのような資料を見て「日本の音楽」についての情報を得たのか、興味深い。オペラ「蝶々夫人」の中には、「お江戸日本橋」「さくらさくら」などの旋律が、歌詞の本来の文脈とは無関係に引用され、音楽におけるジャポニスムの代表例としてもよく知られる作品となった。有名なアリア「ある晴れた日に」の直後の場面では、「宮さん宮さん」の旋律が聴こえてくる。

1900年、パリでは万国博覧会が催された。エミール・ガレのガラス工芸やアルフォンス・ミュシャのポスターや装飾などアール・ヌーヴォーで知られるこの万博は、会場の動力はすべて電力であったことや、開発されて間もない映画が公開されるなど、20世紀の生活、芸術を予告するものだった。夏目漱石も、ロンドン留学の途中立ち寄ったとされる。

反政府自由党の壮士・川上音二郎は、妻の貞奴とともに川上一座を率いて、サンフランシスコ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、そしてロンドンと興行の旅を経て、1900年パリにやってくる。一座は、「日本帝國演劇集団」としてパリ万博会場内の劇場に5ヶ月にわたって出演、ヨーロッパで公演した最初の日本人劇団となった。

驚くべきことに川上一座は、その際パリでレコード録音をしていたのである。一般には知られることなくイギリスのEMI社で眠り続けていたその録音は、1990年代になって発見されCD化された(「甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座」東芝EMI)。音二郎や貞奴その人の声は録音されていないが、彼ら一座のレパートリーや芸の一端を知ることができる。

授業を聞きに来ていたさとてぃ先生が、貴重な指摘をしてくださった。録音で聴くことのできる「オッペケペー節」は、飴売りなどのフシによく似ているそうだ。

「オッペケペー」は命がけの世相風刺ソングだが、まったく新しいフシが作られたのではなく、物売りの唄の一種の「替え歌」だったというのは、とても興味深い。一般庶民は、耳馴染んでいるフシに強烈な世相風刺の歌詞がついているのだから、面白がって喝采を送っただろう。

さて、川上一座の演目には、長唄、新内、三味線曲弾き、詩吟、歌舞伎役者の声色模写などさまざまなものが含まれる。

「ニューヨークの演劇学校で見た『笑い』の練習風景を真似てみます」という「笑いの試験」。西洋演劇の笑い方を真似る後ろには三味線の伴奏が付いて、ちゃんとひとつの「芸」にしているのが面白い。また、「才六 人肉質入裁判 白洲之場」という愉快な出し物は、見ての通りシェイクスピア「ヴェニスの商人」裁判の場面の翻案。「才六」はユダヤ人の金貸し「シャイロック」である。

そして、「こちゃ江婦志」という出し物では、「お江戸日本橋」そして「宮さん宮さん」が歌われる。プッチーニが川上一座を観たかどうかはわからない。だが、ジャポニスムが1900年代初頭のヨーロッパにおけるトレンドだったことは窺い知ることができよう。

川上一座は、アメリカで何を聴いただろうか。その頃セントルイスでは、スコット・ジョプリンが多くのラグタイムを作り始めていて、ピアノロール録音も残している。ジャズと呼ばれることになる音楽はまだ生まれていないが、黒人の音楽と西洋音楽は入り混じり、ジャズの萌芽が生まれ始めている。

川上一座も、歌や芝居を生業とした人たちである。異国の音楽にまったく興味を示さなかったとは思えない。スコット・ジョプリンそのものではないかも知れないが、彼らはアメリカのどこかでこのような音楽を耳にしたに違いないと、私は思う。

根拠のないことだが、そんなふうに考えていくと、同じ時代にいろいろな人たちが、別の場所で全然違うことをやっていながら、どこか繋がっていくように思えて楽しい。

追記:左サイドバー下の方「このブログで話題になった本」に、「あたらしい教科書8 『音楽』」を追加しておきました。

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