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2008年4月12日 (土)

東儀兼彦氏を悼む

篳篥の東儀兼彦さんが3月25日に亡くなられて、4月2日、告別式に参列した。築地本願寺。

1977年、まだ学生だった私たちは、国立劇場の雅楽公演「LICHT-HIKARI」初演に、裏方として参加することになった。作曲者シュトックハウゼンは、ドイツの前衛作曲家として日本でも大変よく知られていたから、この公演は日本の音楽界にとって大きな「事件」だった。

「LICHT-HIKARI」初演をめぐる毀誉褒貶について書くのは、機会を改めよう。私にとって、そしてその後しばらくの間私と同じように雅楽への接近が続くことになる友人の作曲家・菅野由弘にとっても、シュトックハウゼン以上に、この時の雅楽楽師の方々との出会いは、重要なできごとだったと思う。

伝統を受け継ぐリーダーとしての矜持のためか、いささか気難しくも見え、しかし時として親分肌で人なつっこい笑顔を見せてくださった笙の多忠麿先生、飄々として謙虚でいながら、ひとたび龍笛に息を吹き込むと、恐ろしいほどの存在感ある音色を立ち上がらせる芝祐靖先生、そして兼彦先生が、当時の宮内庁楽部のホープだった。

兼彦先生の篳篥は、揺るぎなく堂々としていて、その安定感にはいつも圧倒された。だがある時、「縒合という曲はね、静かに吹くの。こんなふう。」とおっしゃって一節聴かせてくださったそのピアニッシモの音色の、何と繊細で美しかったことか!

兼彦先生は、とても気さくなお人柄で、冗談交じりでお話していると、秦河勝を始祖とする楽家の52代目で、こんなことでもなければ決してお知り合いになれたりしない方であることなど忘れてしまいそうだった。正確なお年は知らなかったが、当時の私の年齢から考えると、40歳前後でいらっしゃっただろうと思われる。

今40歳という年齢を考えると、当時の先生方はとても落ち着いておられ、大人の風格をお持ちだった。そして、雅楽といえば越天楽くらいしか知らない若造の作曲学生のくせに、最高の雅楽演奏家の方々のそばで、練習や演奏を聴かせていただいたり、時には作曲したものを演奏していただけたりしたのは、何て幸せなことだっただろう。兼彦先生には、雅楽の唱歌を教えていただいたこともあった。

そして、本当に一流の人たちは、決して偉ぶったり威張ったりしないのだということを、兼彦先生をはじめとする当時の本当の大人の方々から学んだ。

忠麿先生は思いがけなく早世され、芝先生は楽部を辞して伶楽舎を率いての活動が中心となる。私たちも国立劇場の仕事から遠のいた。兼彦先生は、2000年から3年間、宮内庁楽部の主席楽長も勤められたということだが、残念ながら、近年はお目にかかれる機会がなく、年賀状をやりとりするだけだった。ご病気になられたが克服されたとも聞いていただけに、本当に残念なことである。享年70歳は早すぎる。

告別式で献奏をされた宮内庁楽師は、すっかり世代交代して、若い方々ばかりになっていた。光陰矢のごとし。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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