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2009年6月13日 (土)

「音楽創造における楽譜の意味」(2)

学会の開会式で、私たちの大学の学生くんたちが、サムルノリをご披露しました。

Photo_2

(承前)

一方の「拭うことのできない不信、あきらめ」についてお話しましょう。

 このシンポジウムのレジュメに、小畑先生が、「音の様々な要素のカテゴリーを示す記号の配列として楽譜は成立している。」と書いていらっしゃいます。もちろんそのとおりですが、逆に言えば、「楽譜は、様々な要素のカテゴリーを示す記号の配列でしかない。」とも言えるのです。作曲家が楽譜に書きこめる情報は、実はとても限られたものでしかありません。例えば、このフレーズは、ヴァイオリンのどの弦のどのポジションでどんな弓使いで弾いてほしいか、よほどの場合にはそれも書き込みますが、例えばオーケストラ・スコアのすべての音に、そういった情報を書き込むわけにはいきません。指使いや細かなテンポの揺れなど、神経質に細かく書き込み始めたらきりがないし、煩雑な楽譜になってしまうので、どこかで諦めます。諦めると言うのがふさわしくなければ、思考を停止して、こうつぶやくのです。「これは演奏に任せよう。」

 私と同世代のある作曲家が、電子オルガンのために作曲した時、彼はレジストレーションを、ひとつひとつの数値まで詳細に楽譜に記しました。同じ時期に私も電子オルガンのために作曲したのですが、音色については、例えば「打ち寄せる波のように」とか「遠くで鳴る鐘のように」とか、あまり役に立たないことを書いただけでした。もちろん、目指している音楽の違いがあるわけですが、彼が書いた詳細な指定は、電子オルガンが機種変更すると、たちまち役に立たなくなりました。一方、私が書いた大雑把な書き込みは、機種がパワーアップするたびに響きがゴージャス過ぎるようになって、少々困っています。ジョン・ケージが、プリペアド・ピアノで、ピアノの弦に挟むように指定したボルト類は、すでに生産されていないそうです。どのケースでも、作曲者の当初の意図を厳密な意味で再現することは、もはや不可能なのです。

武満徹さんのエッセイに興味深い一節があるので、ご紹介しましょう。「消える音」を聴くというタイトルです。

 すべての音楽表現の根底には、消えていく音を聞き出そうとする、人間の、避け難い、強い欲求が潜んでいるはずだ。だから音楽は、時間を超越して、幾度となく聴き返されるのだろう。また、そのために必要な楽譜というものは、消えていく音を、身裡に、どうにかして留めたいとする欲求の表れだが、だからといって人間は、記譜することで、そこに「音楽」が余すことなく定着されたとは思っていない。音の全容を平面的な譜に置き換えることなど、所詮、無理だということは、百も承知だ。
 だが楽譜は、作曲家が聴き出した、実体としての音を、再び、時空を超えて、この世界に喚びもどす装置であり、その不完全さが、逆に、そのことを可能にしている。(武満徹 「消える音」を聴く/新潮社『遠い呼び声の彼方へ』所載)

 新しい曲を書いて、初演のための練習を聴くような時、作曲者である私の耳と、演奏者の耳とは、初めのうち少しずれているように感じます。演奏者が、楽譜を間違って読んでいるというようなことではないのです。それは、楽譜に書かれなかった、いえ、書くことのできなかった様々なこと、文章で言えば「行間」を、作曲者と演奏者が共有できていないからではないかと思われます。

 「拭うことのできない不信、あきらめ」と、初めに私が申しあげたのは、楽譜に書き付けるときの作曲家の耳と、それを演奏する演奏者の耳が、初め、いつもずれていることを、少し大げさに、ペシミスティックに表現したのでした。しかし、作曲家は、自分の想像の中だけで完成された音を聴いているのだし、演奏家は、現実の演奏行為として音を組み立てていこうとしているのですから、ずれが生じるのは必然とも言えます。練習や打ち合わせを重ねるごとに、そのズレは修正され、最終的に音楽は、作曲者が考えていた以上の姿にもなり得るのです。

 音楽は抽象であるだけに、文章以上に、「行間」には、作曲者が楽譜に書ききれなかった感情がひしめいています。作曲者と演奏者が「行間」を共有するために、作曲者が近くにいる場合には、直接話し合うこともできますが、そういう場合は多くはありません。作曲家が近くにいようがいまいが、紙の上に書かれた記号に命を吹き込んでいく行為は、演奏者自身の主体的な創意に委ねられています。

 演奏芸術とは、作曲者が書き込むことのできなかった「行間」を推し量り、充実させ、演奏者自身の、そして聴き手の心の中に、楽譜の「行間」を再創造していくことです。その段階で、楽譜は、もはや作品の「取り扱い説明書」でしかありません。
武満さんが言うように、「不完全であるゆえに、作曲家が聴き出した音を喚びもどすことができる」と考えれば、楽譜の不完全さこそが、演奏芸術の無限の可能性を導き出せるのだとも言えると思います。

 これで私の発言を終わります。ご清聴ありがとうございました。

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コメント

先生みたいなプロの作曲家さんでも、楽譜で伝えることって難しいんですね。
私も、作曲発表会とかで人に演奏してもらうとき、自分と全然違う解釈とかがいっぱいあって、びっくりしたのを思い出します。まぁ私の場合は必要事項を書かなさ過ぎだったと思いますが。。。
ほんとのほんとに作曲家が思うような演奏をしようと思ったら、その人と同じ時代に同じ生き方をしてないと無理なのかなぁ

おひさしぶりです(◎´∀`)ノ
楽譜から音へ・・・
考えれば考えるほど難しいですよね。


そんなこんなで明日,吹奏楽コンクール。
わたし,指揮者デビューです。

>し~ちゃん
>tomoちゃん

お久しぶりでしたsign01
そう、どんな曲でも、作ったものを誰かに弾いてもらうとわかるよね。「ほんとのほんとに作曲家が思うような演奏をしようと思ったら」、作曲家本人が弾く以外にないでしょう。でも、それだけでは演奏芸術が発展しない。結局は、作曲家の意図から少しずつズレながら、受け継がれていくのでしょうね。そして、それで構わないっていうことですね。

tomoちゃんの指揮者デビューはどうだったかな?

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