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2009年6月13日 (土)

「音楽創造における楽譜の意味」(1)

音楽表現学会というものが、わが大学を会場に行なわれました。私は会員ではありませんが、シンポジウムの発言者に指名されたので参加して参りました。パネリストは、星出豊さん(指揮者)、赤松林太郎さん(ピアニスト)と私。司会は小畑郁男さん。それぞれの発言についての、パネラー同士の突っ込みもあり、フロアからの質問も出続け、シンポジウムとしてはなかなか面白いものになったのではないかなと思います。

それぞれのパネリストが最初に約10分ずつ発言をしましたが、ここには、私の発言を記録しておきます。シンポジウムのタイトルは、「音楽創造における楽譜の意味」。

 シンポジウムへお招き頂き、ありがとうございました。ここ宮城教育大学の教員をしております。私は会員ではありませんが、同僚たちが一生懸命準備しているのを見ておりました。お忙しいところお集まりいただきました皆さまを、心より歓迎いたします。どうぞ、仙台の初夏をお楽しみ頂けたら幸いです。

 さて、「音楽創造における楽譜の意味」について、作曲の立場から考えを述べよというのが、私に課せられた宿題かと思います。世界中には、いわゆる五線譜を使わない音楽がたくさんあることは、言うまでもありませんが、ここでは「いわゆる五線による楽譜」に限ってお話いたします。

 私が、作曲家として「五線による楽譜」についてどう考えているかということを、端的に申しあげるならば、「全幅の信頼」と「拭うことのできない不信、あきらめ」、この相反する考えを同時に持っているということになるかと思います。このようなアンビバレンスな考えについてご説明することが、本日の私の発言の骨子になるかと思われます。

 「五線譜への全幅の信頼」については、あまりご説明する必要がないでしょう。西洋芸術音楽と、その延長上にある音楽に携わるのは、基本的には「五線譜を信頼する」ことで成り立つからです。当たり前のことですが、ベートーヴェンが書いたピアノ・ソナタの譜面がデタラメであったとしたら、演奏も解釈も評論も成り立ちません。私たちは、ベートーヴェンが遺した譜面を、彼が思い通りに書いたという前提で譜を読み、演奏し、それを聴いて楽しんだり研究したりしているわけです。

 その面で、大学教師としての私は、(特に非西洋の音楽を専門とされる方々からは)ガチガチの「五線譜主義者」と見られるに違いありません。理論や作曲の授業で、学生くんたちが書いてきた楽譜を見て、この音符はタマが大きすぎるだの小さすぎるだの、線からはみ出していてソかファかわからんじゃないか、ホォ・・・これは付点なんですね、私はまた音符の横にゴミが落ちているのかと思いましただのと言ったりします。楽譜は自分の考えを伝えるためのものなのだから、他人が見てちゃんとわかるように書きなさい、ソかファかわからないようではダメだし、付点もゴミと間違われないようにしっかり書き込みなさいなどと、いちいち小うるさく言って嫌がられております。

 作曲家の林光さんが少年だった頃、先輩作曲家の尾高尚忠氏に楽譜を見てもらっていました。ある時、16分音符がたくさん続くパッセージを書いて、そのひとつひとつのタマにスタッカートを打った、ところが、ひとつだけうち損じた。尾高先生は、たちまちそれを発見して、その16分音符を輪で囲って、余白に「おお神様、かわいそうなこの16分音符にも、仲間たちと同じように、スタッカートの点をおめぐみください!」と書いたそうです。作曲家という種族は、音楽の中身にもそうですが、楽譜の書き方にも、うるさくなる宿命を持っているものと思われます。正しく書かれた楽譜は、世界中の、どんな時代の人に対しても、自分の考えが伝えられるという確信、もしくは希望、もしくは幻想を前提に、作曲家は楽譜を書き続けるのです。

(続く)

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