フォト

-天気予報コム-
2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

友人のページ

こんなページを見つけました。

無料ブログはココログ

« 2011年2月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年3月

2011年3月31日 (木)

2011.3.11 仙台(18) 

3/31(木)  晴れ

昨晩、同僚のTRさん運転の車に同乗させてもらって、仙台に入る。

東北道は、当初災害援助車両限定だったが、すでに解除されて一般車も走れるようになっている。SAは人も少なく、節電のために照明を落としているので寂しい感じがする。レストランはどこも営業していなくて、フードコートのみ営業。

那須高原を過ぎて福島県に入った途端、道路に傷みが目立つ。補修した跡を乗り越えるたびにガタガタするのだ。しかしそれも、国見あたりからは、つまり宮城県に入ったころからは無くなるというのも、ちょっと不思議。

夜の仙台市内は、車も人通りも少なくて、退避命令でも出てるの?と尋ねたくなるような雰囲気。

家に着いてから、少しだけ近所を歩いてみた。生協は20時まで。ずいぶん長くなったものだ。向かい側のSEIYUはまだ営業していて、この頃首都圏ではなぜか手に入らない納豆もたくさん売っている。牛乳は、残り数パックあったのが目の前で売れていった。ヨーグルトは無し。電池はたくさんある。そして、すでに24時間営業に戻っているという。ここには買い物客がそこそこ来ている。

それにしても、道路にしても、スーパーにしても、震災から間もなく3週間とはいえ、ここまでの復旧ぶりはすごいと思う。

商店街の心意気。東北の人たちは口数少なく、この状況に我慢強く耐えている。だがこの人たちは、とても強くて優しい。苦難に耐えるDNAを持っているかのようだ。

Photo_3   

2011年3月29日 (火)

2011.3.11 仙台(17) 

3/23(水) 晴れ

940分、県庁前バス停。10時発山形行きのバスに乗るために並んでいるのは約10人。私の後ろにも10数人並んだけれど混雑というほどではない。11時半前に山形着。いつものように静かで平和そうな山形の街を眺めて、車で1時間余りなのに、これほど違うものかなと不思議な感じがする。ただ、コンビニに物は少ないし、駅ビルのお土産屋さんでも仙台に本拠のある店舗だけは閉じている。

並ばずに入れるコンビニで、新聞を買う。気仙沼の中学校で卒業式が行われたという記事が1面にあり、写真に卒業生WTさんが写っているのだ。WTさんは、気仙沼の中学校の先生。消息がなかなかわからなくて、とても心配した何人かのうちのひとり。数日前に直接メールをくれて無事がわかったのだけれど、こうして写真で確認すると、本当に安心する。

昼食をとって、1240分発のバスで空港へ。13時過ぎに山形空港に着く。こぢんまりとした空港はかなり混雑していて、各都市の作業着を着た人も何人かまじっている。災害復旧の応援に来て、これから戻るところだろうか。1435分のフライトで羽田へ。18時過ぎ、川崎の家に到着。


mixiのマイミクさんたちに宛てた日記

明23日、仙台を離れます。

新幹線が不通になり、川崎との行き来が簡単ではなくなりました。

それにしても、もっと早く、無理やり仙台を脱出することもできただろうと思います。

けれども、そういう気にはなれませんでした。

まず、音楽科の学生の皆さんの安否が、一人でも確認できないうちは仙台から離れるまいと思っていました。

それに、年度末のすべての仕事を放り出すこともしたくなかった。

本当に不幸中の幸いというべきでしょうが、音楽専攻・コースのみんなは全員無事が確認できたし、卒業生の皆さんや、音楽以外のマイミクさんたちの無事も確認できました。

そして、22日に今年度最後の教授会が終わりました。
ここから少しの間、私の大学での仕事は空きます。

これ以上仙台にいると、仙台の人に渡るはずの食糧を消費する穀ツブシになってしまうだけだし、正直なところさすがに少々疲れてきたので、明日の朝、山形経由で川崎に向かいます。

大学からのいろいろな連絡はメールで来ますから、これからも今まで通り、日記に書き込んだり、必要ならばメーリスで回したりします。

また、ブログで震災日記を書いています。石巻や南三陸町、気仙沼のような甚大な被害に比べればかすり傷ですらないような環境にいましたが、私なりに、今日までの仙台の街の様子などを少しずつ足していきます。
いつも皆さんとともにいます。みんな体に気をつけてね! (3/22)



2011.3.11 仙台(16) 仙台市内の写真③

藤崎デパートの前に掲出された新聞には、目が釘付けになる。「あぁ、この写真は○○(地名)だ・・・。」などと言い交わす家族連れ。惨状に涙ぐむご婦人。思わず息をのむ写真ばかり。
Hi3e04800001_2
仙台駅付近で。右はデパートの壁の一部が剥落した跡。左手は石巻行きバスに乗る人々の行列。
Hi3e0479
閉店しているコンビニエンス・ストア。新聞紙などで中が見えないようにしてあるのは、盗難防止だろうか。
Hi3e0491

闇市を連想させる妙な活気。この日は、お寿司屋さんのトラックが干物などを運んできて路上で売っていた。
Hi3e04970002


2011年3月28日 (月)

2011.3.11 仙台(15) 仙台市内の写真②

匂当台公園付近Hi3e0504 このビルは閉鎖が決まったと書いてあった。

Hi3e0506_2

Hi3e04980001
このビルは閉鎖しなくて良いのかしら・・・。中では店を開けていたようだけど。

2011.3.11 仙台(14) 仙台市内の写真①

三陸の惨状は、テレビや新聞等でよく目にするが、仙台市内の様子は実はあまり知られていない。つまり、それほど大きな被害を出してはいないということでもあるが。

時刻は、もちろん14時46分で止まっている。

Hi3e0485_2
定禅寺通にあるディーラーさん。

Hi3e0493_2
青葉通りの某交差点。

Hi3e0499_2 定禅寺通付近

Hi3e0502_3

Hi3e0503_4

 




2011年3月27日 (日)

2011.3.11 仙台(13)

3/22(火) 晴れ

ガソリン不足は深刻で、何時間も車列を作って並ばなければならないという状態が震災後ずっと続いている。灯油もしかり。幸い私の車は満タンに近い状態だったし、灯油も買い置きがあったから、この日まで問題なく保たせることができた。それにしても、供給が安定するまで補充しなくて済むように、どちらもなるべく節約している。

自分の車がガス欠に陥っているOBさんをピックアップして大学に向かっていると、OBさんが、大学院生のOKさんと卒業生のOHさんが並んで歩いているのを見つけた。車を停めて喜びの再会を果たす。2人は震災後実家に帰るに帰れず、一緒に行動しているとのこと。OHさんのご親戚のお墓が近くにあり、お彼岸であるし花も買えたので、これからお墓参りに行くところという。親族の無事は確認できているとはいうものの、実家に戻れる当てがない日々なのに、偉いなぁ。

同僚が集まる。何人かで一緒に昼食。持ち寄ったおにぎりを頂く。午後は教授会。本当は16日に行なうはずだった今年度最後の議題がいろいろ。終わってからまた同僚が集まって、お茶を飲みながらこれからのことなどを話題にするけれど、まだまだ見通しが立たないので、話もぼんやりとしている。ちなみに、大学にはまだ水もガスも通っていない。建物が安全かどうかの診断結果もまだ出ていない。解散した後、OSさんを誘って北四番丁の韓国料理屋さんに行く。限定メニューながら、明日から少し頑張れそうな晩ご飯だった。

街から大学に通じるバスは、今日から運行を再開した。

2011.3.11 仙台(12)

3/21(月・春分の日) 曇り

散歩をしていると、街が息を吹きかえすために、様々な手が差し伸べられていることがわかる。いろいろな都市からの救援車が停まり、都市名の書かれた腕章や制服を着た人たちが歩き、自衛隊の災害支援車が走り去る。震災発生後、こういったプロの技術者たちがたちどころに集結して街の復興へと力を寄せ合う。秩序立ったフットワークが、海外のメディアを驚かすのだろう。広瀬町の厚生病院の裏手から街中に向かって歩く。1台のヘリコプターが大学病院の屋上に着陸した。しばらくホバリングの音を響かせていたと思うと再び飛び立って行き、違う方向から別のヘリが着陸する。救急患者を搬送しているのか、物資を積んでいるのか。

かつて同僚だった関西のKUさんから電話。こちらの状況を話す。そのほかにも、この日までに、プロデューサーのKYさん、ピアニストのKMさんや、岡山のAKさん、島根のYMさんなど多くの方から電話を頂き、また、海外からも含めて、たくさんのお見舞いのメールやメッセージを頂いた。ありがたいことだ。そうそう、ショールームのガラスが損壊していた車のディーラーさんからも電話があった。「お怪我などありませんでしたか。」と尋ねられたけれど、それはこっちが聞きたいです。「スタッフはみんな奥の方にいて無事でした。」と聞いて一安心。

夜は豚キムチと豆腐のバター焼きを作ってみる。豆腐のバター焼きは懐かしいメニューで、思い出を共有する人は多いはずだけれど、作ってみるとどうも違うな。何が違うのだろう。

2011年3月25日 (金)

2011.3.11 仙台(11)

少年の家は無傷だった。周りが津波にのみこまれ、彼が通う中学校は、今も避難所になっている。彼は毎日学校にやってきて、避難所の手伝いをする。しっかりした少年。しかし、何人かの先生は彼の異変に気づいていた。言動が妙にハイなのだ。

作業中に、水がかかって彼の靴下が濡れてしまった。自衛隊の人が足湯を入れてくれているから、温まっていきなさい…と先生。「いえ、いいです。」と少年。支援物資の靴下があるから履いて帰ればいい…と先生。彼は、それも断った。

ある日先生は、真っ暗な教室にぽつんと一人でいる少年を発見した。「どうした?」、「いや、ちょっと…。一人になりたかったんで…。」

たくさんの生徒の家が流された。兄弟が亡くなったり、親が見つかっていなかったりといった生徒もいる。そんな中にあって、自分だけ無傷だったことを自ら責める暗黒が、彼の心の中に宿ってはいないだろうか。これからは、多くの子供たちに対する果てしないケアが必要となるだろう。以上、実話

 

 

―― Nさんが勤める中学校は、1階まで津波が押し寄せた。翌日の卒業式の準備をしていた生徒たちも避難してきた周辺の住民たちも、校舎の屋上で難を逃れた。Nさんの愛車も含め、ここだけで約200台の車が水没。水が引いてから、2階以上は避難所となり、一時は1500人もの人がいた。Nさんはそのまま避難所のお世話を勤めて、翌朝一旦勤務解除となり、1時間半ほどかけて歩いて帰ったという。

震災の何日目だったか、ラジオが、この中学校に1500人が孤立していると伝えているのを聞いた時は身が凍りついた。Nさんと学校の無事を祈り続けるしかできることはなかった。 

 

2011.3.11 仙台(10)

3/20() 晴れのち曇り

朝、ジャガイモとベーコンを炒めて食べる。

天気予報では、だんだん崩れるとのことなので、すぐ散歩に出かける。

角五郎→知事公館→西公園通→春日町。ここまでで約30分。

知事公館の門は仙台城のものを移築したものとのこと。その近くに、澱不動尊文永十年板碑という古跡。散歩をしていると、普段通り過ぎているところに意外なものを発見する。

いつもお世話になっている車のショールームのガラスが崩落している。中の人たちは大丈夫だったのだろうか。メディアテークや県民会館も痛んでいる様子。

仙台一番丁買物公園。あちらこちらの店の前に列。ドラッグストアは、どこも少しは行列。

出店を出して、お弁当や野菜、魚の干物などを売っている。人出も多く、「お弁当いかがですかぁ」と誘う声も高く、ちょっとしたお祭り状態。

多くの人が、売っているものを道端に出ている椅子や道端に座って食べている。値段も良心的だったり、ずいぶん高かったり闇市状態。戦争直後の様子を少しだけ想像させる。居酒屋さんが焼いて出している紅塩鮭焼きを買う。靴屋、鞄屋は開いている。花屋も。衣料品はまだ少ない。街に来れば何か食べるものは買える。

電力ビル前でバスに乗る。その足で八幡町生協に並ぶ。約30分。一昨日売っていたものが今日はなく、なかったものがある。日によって入荷が安定しないのだろう。1人15点まで。ちなみに、一昨日八幡町生協に1時間半並んで15点まで買えたが、同じ日に別の生協では、店頭販売10点まで、6時間並んだという。

トマト、じゃがいも、乾燥わかめ、りんご、豆腐などを買う。帰ってじゃがいもの味噌汁を作り、鮭の塩焼きとおにぎり。

石巻で、80歳女性と孫の16歳少年が瓦礫の中から救出された。すごい!涙が出る嬉しいニュースだ。

2011.3.11 仙台(9)

3/19() 晴れ

午前、間宮先生からお見舞いの電話を頂いた。先生や林光さん、北爪道夫さんと上野の奏楽堂でお会いした翌日の震災だった。あの日でなくて良かった。あの日だったら、川崎の家にも帰れず、仙台にも行けず八方塞がりになっていただろう。

昼、簡単にチャーハンを作って食べた後、歩いて出かける。大学病院まで約20分、北四番丁まで約30分、青葉区役所まで40分。県庁前バス停には、山形、古川方面行のバスを待つ長い列。ここから市バスに乗り、仙台駅付近へ。今日から運行再開した石巻便には、とても長い列。被害の大きかった地域への運行再開で、列に並ぶ人々は一様に押し黙り、緊張した表情のように見える。

駅舎には立ち入れない。ドラッグストアで花粉症グッズなどを買う。10人程度並ぶ。

電機量販店、一部開店中。クリスロード(アーケード街)では、ファーストフード店が無料でコーヒーをサービスしていた。大型スーパーでは、「待たずに入れます」言っている。まもなく閉店なのだろうけれど。それにしてもこのスーパー、店に入るために、復帰開店直後は定禅寺通まで並んだというが本当なのかしら。地下鉄で駅2つ分くらいあるのだけれど。

他の店も時間限定で、少しずつ開いている。ヤマハ前の産直販売で、野菜を少し買う。

国分町でも、ところどころ店を開けている。帰りも途中まで歩き、市役所前でバスを待つ。なかなか来ない。夜は、ホウレンソウとベーコンのパスタ、買い置きしてあった缶のクラムチャウダースープ。お見舞い電話をしてくださっていたTDさんに電話。

ブログを更新。お見舞いメールやメッセージをくださった友人たちにメール。

2011年3月24日 (木)

2011.3.11 仙台(8)

3/18() 晴れ 風は冷たいが日差しは暖かい

「支援物資や燃料が到着した」、「甚大な被害を受けた町へのバス運行が始まる」、そういったニュースを聞くととても安心する。仙台の街には物資を輸送する自衛隊の 車両が行き交い、スーパーでは相変わらずの長蛇の列だけど、店舗の中での販売が始まった。少しずつ動き始めていることを実感する。店舗を無料休憩所として開放していたり、おにぎりやお弁当を販売したり、限定メニューながら、定食が食べられるような店も増えてきた。ただ、これは大都市仙台の地盤の良い地域にいるから感じられること。ライフラインが確保されていない地域はまだまだ多い。けれども、少しずつ良くなっている。


八幡町の生協に行ってみる。10時半過ぎから1時間半並ぶ。

今日から店内販売、115点まで。しかし、昨日までは店頭販売で、110点までだったのだから格段の前進だ。店員さんは声を嗄らして案内していたり、「長丁場になりますから…」とキャンディを配ったりと、がんばっているなぁ。店内にたくさんの果物が積んであるのを見て、当たり前の景色なのに感動。魚も少しある。牛肉はないけれど、豚肉、鶏肉やハムなどはある。乳製品、冷凍食品はない。

同僚のOBさんのために卵を買う。電話で他に何か必要なものは?と尋ねると、自分のものは必要ないが、学生のnyさんが、実家にいる生れたばかりの子犬のためのミルクが買えなくて困っているという。石巻のnyさんは、あの日は仙台にいて難を逃れた。しかし、実家はもう住める状態ではないという。生協で私自身の食べ物と、子犬のためのミルクを買い、東六番丁小学校で2人に渡す。nyさんは、ここでボランティアをしていて、明日、震災後初めて開通するバスで石巻に帰る由。避難所にはまだ食うや食わずの人々がたくさんいるというのに子犬のミルクとは何事か、不謹慎である…などと言う勿れ。被災者の心の支えとなっている小さな命を救うことを差し置いて、食うや食わずの人々を救う手立てを私は持っていないのだから。

OBさんをお宅まで送っていったら、自分で焼いたパンをくださった。美味。街で同僚OSさんをピックアップして大学へ。水を届け、パンをおすそわけ。夜は、自分で豚肉の味噌焼きを作る。お見舞いメールをくれていたHGさんに電話。


震災から一週間。1446分には、各地で黙祷があった。一週間経ったという実感はまったくない。え…もうそんなに?というのが実感だ。

2011年3月22日 (火)

2011.3.11 仙台(7)

3/16(水) 晴れ

@hiro_ak: @kichikic おはようございます。昨日、石巻の学生の無事がわかりほっとしました。家はダメになったけど、家族に会えたようです。

→おはようございます。こちらも石巻の学生の無事情報に喜んでいます。

@yuri_mue:今日の任務『炊き出し担当』。アルファ米を使った「五目ごはん」と「山菜おこわ」。まさかこの非常食を使う日が来るなんて…。

→美味しく頂きました。ありがとうございました。やけどした指、大丈夫ですか。

被災者のペースというものがある。避難所では、何もせずに横になったり座ったりしている人 たちが映し出される。ある種の虚無感だろうか。今日は、地震以降初めて講座の同僚が顔を揃える会議日だが、懸案を次々と処理していくことはできず、近況報告と情報交換に終始する。その意味で避難所の人たちと変わりはない。午後の教授会も予定が変更されて、議題は災害対応についての報告事項に限られた。

入試は中止、卒業式は中止、予定していた演奏会や退職先生の祝賀会も中止。入学式も中止。 大学での次の仕事まで、少し時間がある。しかし、よし!ではその間にアレとアレとあの仕事を片付けよう・・・とはできない。1日に片付く用事は少ない。怠惰のように見えるが、ついぼんやりしてしまう。それが被災地のペースなのかも知れない。

けれども、卒業生や学生くんたちの書き込みや、大学の若手職員さんたちの働きぶり、この状況にあくまでも前向きに向き合おうとする姿勢を見ていると、本当に救われる思いがする。震災から4日目の昨日、卒業生の書き込みを読んで、初めて涙が出た。

3/17() 雪 寒い

大学に行き、同僚から頂いたぽんかんやりんごを、親しい事務の人におすそわけする。昼はカップラーメン、夜はレトルトカレー。

テレビでの様子を見たり、学生くんたちの書き込みを読んだりしていると、被災地となったところに居合わせた者は、それぞれの場所で被災して、それぞれの環境に生きて、それぞれ心の荷物を背負うものなんだなぁ…と考えさせられる。

雪ががんがん降って積もる。今年一番になるのではないかという勢い。避難所の寒さが心配。

2011年3月20日 (日)

2011.3.11 仙台(6)

3/14() 晴れ

昨日の食事が豊かだったので、少し元気。大学に行く。しかし、あまり何もできない。大学生協の炊き出しを頂く。おかず、ごはんと味噌汁。

夕方、街へ出る。歩いていると、和食屋が開いていた。さば塩焼き定食。普通の食事。美味。

携帯も通じるようになったので、昨日から学生の安否確認を続けている。私が学年担当をしている学生たちは概ね無事であることが、だんだんわかってきた。

夜、東六番丁小学校に避難しながらボランティアをしている学生のM君に会いに行く。携帯で呼び出したら、飛び出してきてくれた。何人かの学生が、ここでお世話になりながらボランティアをしている、また昼間には別の学生たちがお掃除ボランティアに来ていたとのこと。中には、まだ地元と連絡の取れない学生もいる。気が気ではないだろうに、偉いなぁ。


3/15() 晴れ 暖かい。

学年担当をしている学生で、OKさんだけが唯一連絡が取れない。普段ならば出したメールに必ず返事をくれるのに、まったく反応がない。また、近くに住む別の学生の家が半壊になったと聞いたので、安否確認に訪ねて行くことにした。

震災後初めて車で宮城野区に入る。ここは、青葉区よりも被害が大きかったように見える。車のショールームのガラスが崩落していたり、電機量販店の壁が剥離していたり。電気もまだ復旧していない様子で埃っぽい。人々の行列も長く、生活は切実な感じがある。

OKさんは無事だった。連絡が取れなかったのは、電波は入らず、携帯の電池が切れた、停電中なので充電できずという、最も想像できる理由だった。とりあえずこれで担当学年の学生は確認できて一安心。

午後は、同僚のOSさんに私の家に来てもらって、20日に予定していたW先生の退職記念演奏会・パーティーのキャンセル連絡作業。ホールもホテルも損傷があって、閉鎖してしまったのだ。お祝い行事を進める雰囲気でないことも確か。メールとたくさんの電話。

夜、富山から新潟、山形を回って同僚のTRさんが帰ってきて、食品やパンやイチゴなどを差し入れてくれた。夜、雨が降る。


2011.3.11 仙台(5)

3/12(土) 晴れ
大学に行く。研究室に散らかっている書類や本を拾い上げて、通り道だけを作る。
書類や本を、泥の中から拾い上げるのでない分だけ幸いというものだ。
停電、断水、ネット・携帯繋がらず。

同僚のOWさんが、街中は携帯が繋がるよと教えてくれる。
街中に出て、はじめて少しゆっくり家族に電話。
行列に並びコンビニに入るけれど、買いたいようなものはほとんど売っていない。
ペットボトルや紙パック飲料はひとり1本、乳製品は無し、カップ麺やレトルト食品無し。
手指消毒用のアルコールを買う。
家に帰っても真っ暗だし寒いので、布団をかぶってラジオを聞く以外、何もできない。
8時に寝てしまう。余震があり、何度も目を覚ます。
山形のSさんからお見舞いの電話。ジーンズ、セーターで寝る。寒い。

3/13(日) 晴れ
頭痛。肩こり。
大学に行く。
大学生協の厚意で、昼ごはんが振る舞われる。
なんとカツカレー。カレーは冷たいがありがたい。

街中で充電ができることを聞き、同僚のOSさんと街に出る。
クリスロード商店街の、閉まっているお店の前から延長コードが出ている。
電源コードをさして充電させてもらう。
サービスだったり、誰かが勝手にやっていたり、お店は黙認していたり、いろいろなのだろう。
私たちが充電した店は公認だったようで、お店の人が暖かいお茶を振る舞ってくれる。ありがたい。充電しながら、メールをしたり電話をしたり。

帰ろうと歩いていると、他に店はひとつも開いていないのに、ラーメン店が営業していた。
メニューは3つだけ。ちょっと塩辛かったけれど、ありがたかった。
工夫して、苦労して営業しているのだろう。
「がんばりましょう!」帰り際に店主が声をかける。

帰ってみると、電気が通り、水、ガスも戻っていた。

2011年3月19日 (土)

2011.3.11 仙台(4)

時々「ラジオ深夜便」などを聴くために置いている電池式ラジオ。これだけが初期のライフライン。「電話がかかりにくくなっています。災害伝言ダイヤルは…ネットのURL。」停電で、携帯もネットも遮断されているのに、どうやってアクセスするの?こうした連絡手段が力を発揮したのは、少し経ってからのことだった。

水や電気を、それこそ湯水のように使い、そのうちバチがあたるぞと思うことはあったが、直接被災者を指すのではないにしろ、あの「天罰」発言には、私のように恵まれた状況にいる者でさえ、呆れ悲しく力が抜ける。被災地に力を与えるような言葉をかけるのが首長ではないのか。(3/14)

 

2011.3.11 仙台(3)

 

Tさんへのメール

お見舞いのメール、ありがとうございます!あぁ皆さんご無事で良かった!

私は、あの日の朝東京から移動して、仙台の自宅に寄っていました。家での用事を済ませ、明日の入試会場の設営のために、そろそろ大学に行こうかなと思った矢先、携帯の緊急地震警報がけたたましく鳴り、ほぼ同時に揺れが始まりました。


…立っていられない揺れが、強弱を繰り返しながら不気味に強まっていく。慌ててストーブを消す。家具が揺すられる音、物の落ちる音も次第に激しくなる。電気が消える。ベランダのサッシを開けると、電線が激しく揺れるのが見える。外で作業をしていた人や歩いていた人が、不安げに空を見上げていた。これは尋常ではない、被害が出る…と思う。長い。なかなか静まらない。玄関に走り扉を開ける。同じ階の住人も、みな扉を開けている。ようやく終息して、初めて足が震えた。携帯はすぐに通じなくなったが、1524分、最初にかかってきた電話は遠い地域にいる友人からだった。大丈夫!?テレビでやっているけど、津波が町を飲み込んでいるよ。もう町だとはわからないくらいになっている。すごいよ…

…大学に行く。途中の道路に異常はない。事務のSさんに、すぐに大学食堂に避難してくださいと言われる。同僚や学生たちと合流。しばらくして、同僚や学生たちと音楽棟に戻る。研究室は足の踏み場もない。演習室を点検している間にも、次々と強い余震が襲ってくる。

…夕方になって、バス停前の公衆電話が繋がるという情報を得て、ようやく家族に連絡。明日の入試は中止という決定を受けて、帰宅することにした。家までは約4キロ。通常、車だと10分もあれば着くのだが、亀岡八幡宮の手前から大渋滞して、結局1時間半かかった。途中毛布などを持ったたくさんの人たちが、避難場所になるコミュニティー・センターに向かって歩いている。停電、断水、ネット・携帯繋がらず。そして雪。寒い。夜通し余震がある。2011年3月11日曜日、仙台は曇りのち雪だった。


それから2日間は、電気も水道も不通で寒くてつらかったですが、幸い3日目には電気、水道、そしてウチはプロパンなのでガスも使えて助かっています。しかし、都市ガスはまだ復旧していません。東京も揺れたのでしょう。それに、計画停電で大変な混乱だと聞きました。どうぞお体気をつけて。


 

2011.3.11 仙台(2)

3日目の朝、あ、このままでは続かないぞ・・・と思う。頭痛がするし、だるくて起きられない。前の日は、昼のカップラーメンくらいしか口にしていない。もはや弱ったか?ちょっと早すぎるんじゃないか。まだこれから、この状態がいつまで続くかわからないのに。頭痛の原因は寒さと肩こりにあるようだ。それで、ジーパン、セーターで眠るのはやめることにした。ぜそんな恰好だったかと言えば、再び激しい揺れが来てもすぐに飛び出せるようになのだ。(3/13)

CDが吹っ飛んだ。書類が散乱した。プリンターが墜落した。しかし、そんなのは被害とは言えない。あの瞬間に味わった恐怖心を加味しても。海の近く、まだ連絡の取れない何人かの若い友人たちから無事の声が届くまでは、地面は揺れ続けているような気がする。(3/13)



2011.3.11 仙台(1)

窓からは近所のマンションや家々の灯りが見える。町の大通りには車が行き交う。いつもと同じ見慣れた風景。だが何か違う。人は歩いているのに店は閉まっている。ところどころに長蛇の列。割れたガラス、剥がれたタイル、給水車や災害救援車が行き交い、救急車、消防車がけたたましく行き過ぎる。そう、ここは被災地なのだ。明日は何が食べられるのだろう…と、今夜も考える。(3/14)

窓から灯りが見えるようになったのは昨夜のこと。未だ灯りが見えない地域もたくさんある。初めの夜は星がきれいだった。しかし、頼りは懐中電灯のみ。暖房のない夜が続くのは厳しい。寒いから布団をかぶる。本も読めないから、ラジオを聴きながら眠るだけ。8時から8時まで。何度も余震で目を覚ます。(3/14)


« 2011年2月 | トップページ | 2011年10月 »