フォト

-天気予報コム-
2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

友人のページ

こんなページを見つけました。

無料ブログはココログ

2011年10月27日 (木)

レポート(南三陸町戸倉中学校)

「被災地へピアノをとどける会」の活動をしています。http://www.piano-donation.org/

10月25日、南三陸町戸倉中学校にグランドピアノをお届けいたしましたが、 同校を訪問し披露演奏をした「被災地へピアノをとどける会」実行委員長・庄司美知子先生のレポートを掲載いたします。

***************************

皆様

改めてご報告いたします。昨日戸倉中学校にグランドピアノをお渡ししました。

戸倉中学校は、校舎が損壊したため、現在は登米市に場所を移して授業をしています。生徒さんたちは、毎日戸倉からこの仮設の学校まで、バスで1時間かけて通っています。昨日は戸倉小学校の生徒さんもコンサートに参加されました。

校長先生(女性の方です)のお話によると、戸倉中の40代の先生が、地域の方々を助けだした後に、体育館のピアノと一緒に津波に流されてしまったそうです。 熱心に合唱の指導をしていらしたそうですが、何と流されたピアノのそばで亡くなられていたとのお話に、みんな涙でした。

もう一人、生徒さんが避難中に恐怖で動けなくなり流されたそうです。子供たちが受けた心の傷は深いし、ほとんどの生徒さんのご家族(もちろん先生方も)家、車、仕事を失っているとのこと。これからが大変とおっしゃっていました。

心をこめてピアノを弾かせて頂きました。帰り道、石巻のそばを流れる北上川の静かな流れを見ました。この川がこの町をのみ込んだのかと思うと信じられませんでした。

阿久津様から寄贈されたピアノはとても立派で、象牙の鍵盤でした。気仙沼の調律師さんは本当に丁寧にピアノを磨いてくださり、ぴかぴかの新品のようでした。11月3日の文化祭にはこのピアノを使って合唱をします、と校長先生は話してくださいました。

たくさんの人の手によって運ばれたピアノです。皆様ありがとうございました。この後もピッチを上げてピアノをお届けしていきたいと思います。

 

 

 

一方、 難しい現実をたくさん見てきました。

気仙沼も、ホールはすっかり壊れ、秋の音楽祭やすべての行事が中止となっているそうです。

また、石巻方面への交通(道路)は未だに正常にはなっていないのです。三陸自動車道はかなり混んでいるというので、帰りは45号線の道路を走りましたら、途中で通行止めのバリケードがあ り、何台かの車と共にUターンして戻ること20~30キロ。やっと高速に乗りましたが8キロ渋滞というのに巻き込まれました。石巻と仙台をつなぐ電車もま だ止まっているので皆さん車で移動をするし、あちらこちら道路も寸断されているので、どこもかしこも大渋滞になるのです。通勤の人たちの苦労がわかりまし た。1日も早い道路や電車の復旧なくして、この地域の復旧は難しいと感じました。

 

2011年10月24日 (月)

川崎と仙台(2)

Img_3721_800x600_2 Jリーグでは、1シーズンのうちに、同じチームとホームとアウェイそれぞれ1回ずつ対戦します。前述の4月23日は、フロンターレのホームゲームとして開催されました。あれからちょうど半年。10月22日、今度はベガルタ・ホームゲームの川崎戦が、仙台のユアテック・スタジアムで行われました。最初の写真は試合に先だって披露された女川潮騒太鼓です。

開始時刻が近づいた頃、あのフラッグが運び出されてきました。4月23日、川崎フロンターレ・サポーターが被災地激励のメッセージを書き込み、仙台サポーターに渡したビッグ・フラッグです。

Img_3725_800x600 ベガルタ・サポーターから、「川崎フロンターレ!」のエールが湧き起こりました。フロンターレ・サポーター席に「お~!」という大きなどよめきが起きます。すぐに唱和。そして「ベガルタ仙台!」のエールを返します。フラッグはベガルタサポーターのゾーンに運ばれ、広げられました。

川崎のマスコット、ふろん太君も来ていたのね。合羽着てるのが可笑しいよ。

Img_3732_800x600_2











試合は、両チームとも攻撃的に展開して、ノーガードの打ち合いのような様相を呈しましたが、どちらも決めきれず、結局0-0のスコアレス・ドロー。しかし、気持ちの入った良い試合でした。

川崎の選手たちがサポーターゾーン前に来て挨拶。エールをおくって、選手は退場。普通だったら、これで帰り仕度を始めるところです。ところが、ドラマはその後起こりました。

川崎サポーターたちが、突然「ツイステッド」を歌い始めたのです。とてもとても力強く。

「ベガルタ仙台 GO!行くぞ仙台 俺たちとともにREADY GO!」

相手チームのチャントを歌うことは、滅多にありません。4月23日のビッグフラッグにこめられた思いが、再び仙台に対して受け渡されたのです。場内を回っていたベガルタの選手たちは、フロンターレ・サポーターの前まで挨拶に来てくれました。これも滅多にないことです。そしてフロンターレ・サポは、自分たちの選手に対するのと同じように力強いエールをおくりました。ベガルタ側からも大きな拍手とともに「お~!フロンターレ!」のチャントが起こりました。本当にスタジアムがひとつになりました。

写真を撮る余裕がなかったので、こちらを見てください。

http://twitter.com/#!/yunbara/status/127687037544443904/photo/1

この日は、タオルマフラーを2本持つ人が多く見られました。川崎サポが仙台のタオルマフラーを、仙台サポが川崎のタオルマフラーを、自分のチームのものとともに巻いているのです。私もそうしていました。

ベガルタのDJの方が「川崎サポーターの皆さん、応援ありがとうございました。川崎サポーター、最高です!」と放送してくださいましたが、その声は感極まっている感じでした。夜になってから、Twitterやmixのコミュニティには、ベガルタサポーターからフロンターレ・サポーターに向けた謝辞が並びました。

フロンターレというチーム、そしてそのサポーターはそういう人たちです。
前節新潟戦の前日には、陸前高田から子どもたち40数人を含む70人あまりを「川崎修学旅行」へ招待。春日山部屋で塩ちゃんこを御馳走になり、かわさきエコ暮らし未来館でちょっとお勉強、藤子・F・不二雄ミュージアムで遊んで、新潟戦を観戦しました。

http://www.frontale.co.jp/diary/2011/1019.html

こんなふうに書いているとどうも自慢げで、何だか親バカみたいになってしまうのですが、サッカーというスポーツの中にも、震災をめぐって心の交流のドラマがあることを書き留めておきたいと思うのです。川崎と仙台は、私の生活の二つの拠点です。その二つの都市をサッカーが結ぶことになったのは、まったくの偶然とはいえ、とても嬉しいことです。

Img_3728_800x600 今日のベガッ太さんとふろん太君は手をつないでいました。

最後の写真は、川崎サポ前に挨拶に来たベガッ太さんです。いつものふてぶてしい(?)態度とは違って素直だったなぁ。

Img_3736_800x599

 

川崎と仙台(1)

大震災の衝撃から少しずつ日常が戻り始めた4月23日、中断していたJリーグが再開されました。川崎フロンターレの再開初戦は、延期されていたベガルタ仙台戦でした。

あいにくの雨、風も強く吹いていました。東北の交通はまだまだ正常ではありませんでしたが、たくさんのベガルタ・サポーターが等々力へやってきました。「被災地」仙台のチームがどんな戦いを見せるのか、川崎・仙台戦はこの日一番の注目を集めていたと思います。仙台の壱弐参横丁では、パブリックビューイングも行われました。(なぜ壱弐参横丁だったのかは謎です。)

電力節約のためにキックオフは14時に変更。前座試合が終わり、出場者たち(サッカー経験のある芸能人や川崎・仙台に縁のある選手たち)が「LOVE 日本 今こそ心ひとつに」と書かれたフラッグを持って場内を一周します。

Img_32211_4 列が川崎サポーターが陣取る、いわゆるGゾーンに近づいた時、突然川崎サポーターから、ベガルタのチャントである「ツイステッド」が湧き起こりました。そして「FORZA SENDAI がんばれ!仙台・宮城」と書かれたビッグフラッグが下りてきました。


 

反対側に陣取るベガルタ・サポーターたちは、一瞬不意を打たれたように見えましたが、すぐに「ツイステッド」を唱和。スタジアム全体に仙台応援の声が響き渡ります。

「ベガルタ仙台 GO!行くぞ仙台 俺たちとともにREADY GO!」

相手チームのチャントをこんなにも本気で歌うことは、普通はまずありません。
ビッグフラッグには、サポーターたちからの寄せ書きがびっしり書かれています。
歌いながら、私は涙がとまりませんでした。

http://www.youtube.com/watch?v=S5xwHidCLl0


Img_32252 引退を表明したばかりの仙台・千葉直樹選手を讃えるフラッグも用意されていました。受け取った千葉選手は川崎サポーター席に向かって深々と頭を下げます。

ビッグフラッグは、バックスタンドを通ってベガルタ・サポーターのゾーンに運ばれ、サポーター席に広がりました。そして、ベガルタ側から湧き起こる「川崎フロンターレ!」の力強いコール・・・。
この15分間にも満たない出来事は、強く心に刻まれることになりました。

この日、もうひとつ強く印象づけられたのは、スターティングメンバー発表時に流れたVTRです。ホームである川崎寄りの作りになっていますが、川島選手、岡山選手のメッセージは、応援チームのいかんに関わらず、胸に響くものだったでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=ZGkDAnvqGjY&feature=related

試合は、激戦の末1-2で仙台の勝ち。
フロンターレ・サポとしては、そこまでサービスとなくても・・・と思いましたけどね。

http://www.frontale.co.jp/goto_game/2011/j_league1/07.html

しかし、この時見せた仙台の粘り強さが、今シーズンずっと続いているように感じます。

2011年10月14日 (金)

「壊滅」した町並み、未だに。

学校訪問を終え、学生くんたちと別れたあと、同僚のO先生と塩竃の町を歩いてみました。
マリンゲートの脇の広場は、まだ津波の傷跡が生々しく残っています。
1

衝撃的だったのは、乗降客の多い本塩釜駅付近、本来なら賑わっているはずの駅前商店街が「壊滅」状態であることでした。有名なお寿司屋さんなど、営業している店は数えるほどで、多くはシャッターなどが壊れたままなのです。

2












この古い商店は取り壊しが決まっているようで、未だに放置されたままです。
3

大資本による量販店の影響もあるのでしょう。しかし、この荒廃の様子は尋常ではないと感じます。塩竃のことはほとんど報道されませんが、復興とかがんばろうというような美しく力強いスローガンからは完全に取り残されています。これも、震災の現実なのです。

4

その日

この学校は、特認という制度を利用して学区外である島外(塩竃方面)から、毎朝汽船で通ってくる児童・生徒が大半です。その日の島の学校の様子を、校長先生から伺いました。

3月11日は、ちょうど中学校の卒業式。児童・生徒の多くは早い時間の船に乗って帰っていた。残る生徒たちは14時21分発の船で塩竃へ向かっており、もう間もなく港に到着という時に地震が発生した。

子どもたちは、塩竃到着と同時に大津波警報が出ていることを知らされ、そのまま船着き場である塩竃マリンゲートの3階に避難し、難を逃れた。たまたま出張のために早く学校を出た先生や保護者の方も同じ船に乗っておられたために、速やかに避難できた。

「船の到着は、絶妙のタイミングでした。」と校長先生は話されましたが、もう少し早く着いて、保護者の迎えの車に乗っていたら津波に巻き込まれたかも知れません。もう少し遅かったら沖合で津波に襲われることになったでしょう。船着き場付近に停めてあった車は、ことごとく「洗濯機に揉まれるように」流されていった。島外から通う先生方の車もすべて流され、その中の1台は遂に行方がわからなかったそうです。

You Tubeでは、マリンゲートから見た津波の映像を見ることができます。

http://www.youtube.com/watch?v=wl1VMkZma50&feature=related

学校に残っていたのは、校長先生をはじめとする先生方のみ。学校はすぐに避難所となり、校長先生がようやく出た臨時便の船に乗って東松島のご自宅に戻られたのは4日後だったそうです。

野々島

浦戸諸島のおかげで、松島や塩竃あたりの被害は少なかったという話を聞いたことがあります。では、松島や塩竃を守った(?)島はどんな様子なのでしょうか。

桟橋からは仮設の道路が、本来の土地より一段高く作られています。私がここに来たのは2年前ですが、景色が変わっていて、方角がよくわからなくなりました。もちろんこの島にも津波は襲い、家屋を破壊していきましたが、幸い亡くなられた方はいらっしゃらなかったとのこと。学校は高台で、小さな島ですからすばやく避難できたのでしょう。今でもところどころに瓦礫の大きな山が築かれ、防災無線用の電柱が曲がったままになっています。そして、思わぬところに水が溜まっています。

Photo_3

学校は、幸い大きな損傷は受けず、7月まで避難所になっていたそうです。4月21日から学校が始まって、3カ月ほどは学校と避難所が併設されていたわけです。
普段から、島に住む方々と学校の方々は深い交流をもっているのですが、避難所を運営したことで一層絆が深まったと、校長先生は話してくださいました。

「ちょうど帰りの頃は大潮です。」と言われましたが、帰りの船着き場では地盤沈下の影響を実感しました。
Photo_4

海のように見えますが、右側は海ではありません。本当は埠頭なのですが、大潮の時にはこんなふうに完全に水没してしまいます。仮設の道路が一段高く作られているのも、水が溢れてきて水溜りになるのを避けるためだと思います。石巻などでは、普通に家屋があるところで、こういう状態が起きているのでしょう。

島の学校

松島湾に浮かぶ浦戸諸島・野々島の学校に行きました。
小学校・中学校併設で、全部で26名という小さな学校。塩竃から汽船で約30分です。
毎年私たちの大学の音楽の1年生が伺って、授業研究をさせて頂いています。
今年は震災の影響で実施が危ぶみましたが、学校のご厚意により、例年通り実施させて頂くことができました。

楽器紹介をしたあと、歌を歌ったりして楽しく過ごし、子どもたちと一緒に給食を頂きました。
短い時間でしたが、名残を惜しみながら無事戻ってきました。

Img_3688_800x600

2009年4月27日 (月)

月産570字

昨年から、毎月仙台フィルの定期演奏会を聴いて、読売新聞仙台版に570字のレヴューを書くという仕事をしている。

演奏会に行く前には、可能な限り音源とスコアを入手して、曲について把握しておくようにしている。スコアは10代の頃から買い続けているから、あらためて買わなくても良いものも多いし、大抵の作品は入手できるけれど、中には簡単に手に入らない曲もある。その場合は仕方がない。注文して何ヶ月も待つことはなかなかできないからだ。

音源は、最近はネットでも簡単に買えるけれど、仙台の某CDショップでは、定期演奏会で取り上げられる曲のCDを、数ヶ月前からコーナーを設けて揃えている。入手しずらい曲の場合などありがたい。便乗と言えばそれまでだが、地元のオーケストラを応援しようというディスプレイを設けるのは、地方都市ならではのことだろう。東京では考えにくい。

本番では、膝の上にスコアを開き、ノートにこっそりメモを取る。音楽会の本番で、楽譜をめくり、メモをするなんて無粋この上なし。周りのお客様に申し訳ないなぁと思うけれど、楽譜を見るのも、メモを取るのも、思い違いを避けるためと、後付けの何となくの印象で書いてしまわないためだ。

私は批評家ではないから、基本的に貶す批評は書かない。「アンサンブルが乱れた」「バランスが乱れた」なんていうことだけを書いたって、乱れたのはちょっとした事故かも知れないし、演奏会に立ち会わなかった読者が、アンサンブルが乱れたことを知ったって、何の役にも立たないし面白くもない。

それよりも、「この作品はこういう曲。それをどのように表現しようとしていたか」という、作曲する者の視点を持ち続けていたいと思っている。

それにしても、何が大変といって、570字にまとめるのにとても手間がかかる。当日メモした走り書きのうち、少しは使えそうなフレーズだけ書き写してみても、すでに700字くらいにはなってしまう。それを整理したり、言葉を入れ替えたり、諦めたりして570字まで削る。削ることで良くなっていく部分とわかりにくくなる部分と、両方あるような気がする。

さらに、専門用語はできるだけ避けてほしいという注文がある。読者は専門家ばかりではないというのが理由だが、「運弓」を「弓の運び」に替えるくらいは良いが、「オーケストレーション」の代替言葉は「管弦楽配置」で良いのか。「パッセージ」を「走句」と言い換えてもわからないだろう。「動機(モティーフ)」も、「犯行の動機」の「動機」と混同されるので使えない。字数制限も、用語や使用漢字の制限もない「ブログ」は、呑気なフォーマットだなぁ。ただ、用語や使用漢字の制限はともかく、字数を制限に合わせて削っていくのは面白いことでもある。

ここでは、これまで報告しそびれてしまった定期演奏会をメモしておく。

2月20日(第235回定期) 指揮:デリック・イノウエ、クラリネット:赤坂達三

 コープランド:バレエ組曲「アパラチアの春」

 コープランド:クラリネット協奏曲

 アイヴズ:答えのない質問

 ハンソン:交響曲第2番「ロマンティック」

とりわけアイヴズが面白かった。演奏時間はたった5分くらいだけれど、果てしない時間と空間の中に放り出されたような感じ。どんな曲であるかよりも、どんな体験ができ曲かの方が重要。アイヴズが、ケージに繋がる実験音楽の始祖であることがよくわかる。他の3曲、コープランドもハンソンも、生演奏では滅多に聴けないから貴重な機会だったし、それぞれ良い演奏だった。ハンソンの交響曲は、調性との距離の取り方、時流から隔絶した孤独なロマンチシズムがシベリウスを思わせる。

3月20日(第236回定期) 指揮:パスカル・ヴェロ、ヴァイオリン:米元響子

 ベルリオーズ:序曲「海賊」

 ショーソン:詩曲

 サン=サーンス(イザイ編):ワルツ-キャプリス

 フランク:交響曲

ベルリオーズのこの曲はあまり知られていない。超特急のパッセージが駆け回る部分と半音階進行を含むゆっくりした旋律の部分がめまぐるしく交替し、カンカンを思わせるどんちゃん騒ぎに至る。こんな曲なのに・・・というよりもこんな曲だからこそ、とても丁寧にリハーサルされたことがよくわかる。演奏の仕上がりはむしろ端正。ヴァイオリンの2曲、どちらも演奏は自然体のロマンチズムで落ち着いて聴けた。ショーソンの詩曲のオーケストラ版、生で聴いたことあったっけ?詩曲は、独奏が霞の中から浮き上がって聴こえるように、オーケストラが書いてある。名オーケストレーション(という言い方あるのかな?)だと思う。オーケストレーションで言うと、フランクは「厚化粧」だ。いくつかの絵の具を混ぜて中間色を作るようにして、音色を配置する。それなのにというか、だからこそというか、オーケストラがオルガンのようによく鳴る。聖職者のような仕事ぶりだったというこの作曲家も交響曲は、むしろ人間臭い苦悩とカタルシスのドラマ。常任指揮者ヴェロ氏とこのオーケストラとの関係は、今とてもうまくいっている。彼が指揮をすると、このオケは音が落ち着く。ヴェロ氏と仙台フィルで聴いてみたい曲が、まだまだたくさんある。2009年シリーズも作文を続けることになったので楽しみだ。

2009年4月10日 (金)

満開

今日の仙台は、最高気温が26℃とかだったらしい。

通勤途中に、桜の木を見ながら運転していたのですが、一昨日はまだ咲きかけ、昨日の朝はそこそこ、夕方はだいぶといった具合に少しずつ咲きはじめていたのが、今日の暖かさで一気に満開になりました。

Photo_2 いつもより、少し早い感じ。これから東北では、首都圏よりは少しだけ遅めの春がやってきます。楽しみです。

そうそう・・・そういえば一昨日は、このようなものを頂きました。

Photo_3 白魚のかき揚げ

Photo_4 空豆の炭火焼

Photo_5 若筍の炭火焼 甘くて美味しかったぁ。

2009年1月14日 (水)

御神火

夕方、街で買い物をしていたら、鈴とも鉦ともつかない鋭い音が近づいてきた。裸参りの行列だ。

毎年1月14日、宮城県の各所で、「どんと祭」と呼ばれる行事が行われる。正月飾りや古神札などを焼納する正月送りの行事である。伊達政宗建立の国宝、大崎八幡宮の「どんと祭」は、「松焚祭」というのが正式な名称だそうだ。

裸参りの人々は、市内のそれぞれの場所に集合して、白い鉢巻とさらしを巻いた姿になり、何時間もかけて八幡宮に向かって歩く。企業や組織、学校の研究室などの単位で、数人から数十人のグループを作り、その名を書いた提灯を持つ。行列が、鐘の鋭い音のほかは厳粛に静まっている気配なのは、私語を慎むための紙を口にくわえているためだ。

Photo_2

今年は、2700人以上の裸参りの人々が参詣したという。

Photo_3 門の中に到着した行列は、階段を昇り、本殿に到着。御祓いを受け、お神酒を振舞われる。

Photo_4 私のような、とてもとても裸参りはできない一般人も、本殿に参拝する。早めの時間だったので、それほど混雑してはいないかったが、参拝の人々は翌日早朝まで続いたようだ。

Photo_5 お焚き上げの御神火。正月飾りや古い神札などが焚き上げられる。

裸参りの人々は、火のまわりを回って暖を取る。暖を取るというより、火のすぐ傍は、当然のことながら熱い。

裸参りの人々の列が途切れるのを見計らって、一般参詣者たちが火に近づき、持ち寄った松飾りや注連縄、門松、古い御札や絵馬などを火に投げ込む。

年末から正月にかけて、実家の部屋の整理をしていたら、祖母の遺品がたくさん出てきた。祖母は仙台の生まれだ。私が仙台に仕事を得るはるか前に他界した。

遺品のうちの、祖母が書いた写経やお守りなどを御神火にゆだねる。煙は、故郷の空高く消えていった。祖母はきっと喜んでくれたことだろう。

Photo 門前の洋品店には、どんと祭の装束を着たマネキンが出ている。

老舗の味噌醤油店の店先で、味噌おでん(熱々のコンニャクに仙台味噌をつけたもの)をいただく。冷えた身体が温まる。味噌醤油店のおばあちゃん、普段は物静かだが、この時ばかりは張り切ってお客の応対をしているのがほほえましい。

大崎八幡宮の松焚祭→ http://www.okos.co.jp/oosaki/festival/matsutaki/index.html

より以前の記事一覧