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2009年5月30日 (土)

天踊

2008年12月19日に亡くなられた太刀川瑠璃子先生の訃報を伝える記事では、その肩書きは、「スターダンサーズ・バレエ団常任理事」、「バレエ・プロデューサー」、「昭和音楽大学副学長」などとなっている。

1通の葉書が届いたのは、1978年の秋か冬のことだったと思う。差出人は、故渡邉暁雄先生。内容は「貴君にお願いしたいことがあるので、連絡をください。」というもの。私は大学院生だった。

お電話をしてみると、スターダンサーズ・バレエ団という団体の公演のために、「白鳥の湖」第2幕をピアノ2台用に編曲してほしいというお話だった。暁雄先生が、「ポケットマネーくらいにしかならなくて申し訳ないけど」とおっしゃったのを妙に覚えている。

初めて青山のスターダンサーズ・バレエ団スタジオに打ち合わせに伺った時から、その後何度も何度もスタジオに足を運ぶたびに、迎えてくださるのが太刀川先生の笑顔だった。

いつものその笑顔には、ほっこりとした感じで、品の良いお人柄が顕れていた。「こんにちは。きつかわくん、元気?」と、いつも「つ」を小文字にしないで発音された。

しかし、いつもいつも笑顔でいらっしゃったわけではない。スタジオでのレッスンを見守る表情は真剣だったし、ダンサーを注意したり、日本の文化状況を憂うお話をされるような時には強い口調にもなられたが、高圧的だったり感情的だったりしたところを見たことがない。慈母のような人だった。

1979年7月、浅草公会堂でのスターダンサーズ・バレエ公演は、クルト・ヨース台本・振付の「緑のテーブル」と、遠藤善久振付による「白鳥の湖」第2幕。

この「モノトーンの白鳥湖」は、簡潔なスコアを用いることで、作品の持つ新たな容貌を引き出したいというドナルド・リチー氏の構想に支えられていた。2台のピアノの演奏は、渡邉康雄さんと渡邉規久雄さん。

スターダンサーズ・バレエ団のレパートリーは、いつも筋が通っていた。戦争の不条理を風刺的にグロテスクに、そして悲しく描く「緑のテーブル」に出会ったのも、この公演の時だ。こんなバレエを観たのは初めてだった。振付、音楽ともに衝撃的だった。

この時の「白鳥湖」の仕事が端緒となって、1981年にはバレエ「おしらさま」が生まれ、86年には2管編成の管弦楽版となって東京で初演の後、中国の北京での公演に繋がっていく。

いつも二つのことを語っておられたのをよく覚えている。一つは、「もっともっとバレエの裾野を広げなければいけないし、日本で生まれ、日本人によるバレエを作らなければならない」こと。もう一つは、「絵画や音楽の大学があるように、日本にもバレエの高等教育機関が必要」ということだ。

バレエの裾野を広げるための、行政が運営を全面的にバックアップする、全国でも珍しい市立のバレエスタジオが遠野市に生まれた。そして、その設立10周年を記念して計画されたのが、創作バレエ「おしらさま」だった。バレエの高等教育機関設立」という念願は、昭和音大にバレエ・コースが設置されたことで具体化に向かった。遠野市や大学を動かしたのも、創作バレエが発表できたのも、すべて太刀川先生の信念からだった。あの静かな笑顔のどこに、そんなエネルギーが潜んでいたのだろう。

近年はしばらくお会いする機会がなく、最後にお会いできたのは、草刈津三さんのご逝去を偲び、遺著の出版を記念する会だった。草刈さんは、暁雄先生らとともに日本フィル設立に尽力された方で、晩年は私も勤めていた某音大でご一緒だった。先ごろ亡くなられた暁雄先生の信子夫人に最後にお会いできたのも、この時だった。

太刀川先生は、大病をされた後と伺っていたが、お元気そうで、以前と変わりなくお話できて嬉しかった。2005年の初春のことだ。2007年12月、遠野での「おしらさま」再演の時、再び体調を崩されていることを伝え聞いた。お元気ならば当然その場に来ていただけるだろう。とても残念だった。

2008年12月19日の朝、前の晩、音楽会を聴いて仙台へ戻る新幹線に乗るために、東京駅のホームを歩いていた私に向かって、少し離れたところから会釈している人がいるのに気がついた。Mさんだった。Mさんは、遠野のバレエスタジオの1期生で、高校を卒業してからは東京で勉強を続けてダンサーになり、今はスタジオの指導者として、東京と遠野を往復している。久しぶりの再会に喜んで、短く言葉を交わして別れた。太刀川先生のご様子を聞けばよかったなと、別れてから思った。

その日の夕方、太刀川先生は亡くなられた。享年81歳。そんな日にMさんとばったり会うなんて、後で考えると何だか不思議な気がする。

Photo

2009年2月28日、昭和音楽大学のテアトロ・ジーリオ・ショウワで、お別れの会が催された。法名、釋天踊信女。あのお優しい笑顔の先生を忘れることはないだろう。

2009年4月10日 (金)

満開

今日の仙台は、最高気温が26℃とかだったらしい。

通勤途中に、桜の木を見ながら運転していたのですが、一昨日はまだ咲きかけ、昨日の朝はそこそこ、夕方はだいぶといった具合に少しずつ咲きはじめていたのが、今日の暖かさで一気に満開になりました。

Photo_2 いつもより、少し早い感じ。これから東北では、首都圏よりは少しだけ遅めの春がやってきます。楽しみです。

そうそう・・・そういえば一昨日は、このようなものを頂きました。

Photo_3 白魚のかき揚げ

Photo_4 空豆の炭火焼

Photo_5 若筍の炭火焼 甘くて美味しかったぁ。

2009年4月 1日 (水)

N先生の1095日

Nさんは、私たちの大学の卒業生だ。

卒業したらどうするのかなと思っていたら、仙台近郊の町の臨時職員として小学校に勤めることになった。3年前のことである。臨時職員と言っても、仕事の中身は指導助手的な「先生」で、「町の職員」として雇って学校に送り込む新しい制度の第一期生なのだそうだ。

Nさんが小学校の先生?

初めて聞いた時、私は正直に言って、少し違和感を感じた。卒業研究は、私の研究室で近代の難しい曲を分析して立派に弾いたし、どちらかというと饒舌な人ではないから、子どもたちに向かって大きな声を出している姿が想像できなかったのだ。教員採用試験を受けようともしていなかったので、制度に束縛されるような公教育の先生にはなりたくないのかなとも思っていた。勤め始めてからも、ピアノのレッスンを受け続け、音楽会や美術展に足しげく通っていたし、私たちの勉強会にもちょくちょく顔を出していた。彼女には、少々「(良い意味での)高等遊民」的なポリシーと心のゆとりが感じられた。

音楽を専門に勉強してきたのを知って、学校は、ピアノを弾く仕事をNさんに任せることにした。式典での校歌や朝会、学習発表会の合唱、器楽合奏、卒業コンサートや歓迎コンサート、いろいろな合唱コンクールへ参加など、全学年の子どもたちは、事あるごとにNさんのピアノで歌ったり、演奏したりした。本人は必死だったかも知れないが、難しげな曲も軽々と上手に弾いてくれるN先生に、子どもたちはみんなびっくりした。すごい!きれい!かっこいい!

伴奏がきちんと弾けていると、子どもたちは落ち着くんです。歌に集中できますから・・・と、Nさんは言う。当然のことだろう。ピアノが上手にリードしてくれると、子どもたちの姿勢は自然と前を向く。元気なリズム、レガートなフレーズ・・・「いまN先生どうやって弾いた?」指揮の先生から問いかけられて、子どもたちは伴奏を聴き、お互いの声を聴き合うようになった。やっぱり何と言っても生の伴奏はいいよね・・・N先生のピアノで子どもたちの歌を聴いた人は、誰もがそう思っただろう。伴奏テープを流すだけでは、周囲の音をきちんと聴く習慣ができない。伴奏テープは子どもたちの歌を聴いてくれないからだ。

そうやって、この小学校の子どもたちは、N先生のピアノで安心して歌うことがあたりまえになった。余計な言葉はいらない。伴奏のほんのわずかなフレーズだけで、彼女は子どもたちからの尊敬を得た。

最近、教科の専門的な力はほどほどで良い、それよりもどうやって教えるかについて学ぶことに重きを置くべきだという風潮がある。それは絶対に間違っている。甘くみてはいけない。芸術は、人の心を変えてしまう武器にもなり得るのだ。

だが、Nさんの仕事の中心は、実は音楽ではなかった。

「低学年を中心とする、学級経営補助」。通常の学級の中にいる、特別な支援が必要な子どもに勉強を教えること、遅れ気味の子どもの勉強や生活を、学級を越えてフォローしてあげることが、彼女の仕事だった。常勤の先生では埋められない「隙間」を埋めていく仕事と言っても良いだろう。時には、発達障害のある子が興奮して暴言を浴びせたり、暴れるのを落ち着かせようとしたはずみで傷を負ったりしたこともあった。夏休みには、同じ立場の先生とともに、宿題や勉強をみてあげる集いを企画した。彼女の仕事ぶりは、後に同僚から、「時にはクノイチのように、時には白百合のように、いてほしい時にいつの間にかそこにいて、何かをしてくれている先生」と評されることになる。

そして、あっという間に3年が経った。

この仕事は1年任期、更新は最大3年まで。なぜそうなのかというと、その町の臨時職員の規定がそうなっているから。3年経つと、いかなる成果や功績があったとしても職を解かれる。移動ではなく、解雇なのである。この春、同様の「雇い止め」で、教育の現場から失職する人は、国立大学法人の非常勤職員だけでも100人に上るという。

Nさんはこの仕事を続けたいと思い、周囲も続けてほしいと願った。臨時職員の任期を教育職に当てはめられるものなのか、特例は認められないのかと、校長先生は何度も要請したし、町議会で話題になったこともあった。だが動くことはなかった。

この国では、人の働きや心よりも規定が優先される。いつまでも同じ仕事を続けられるものではないにしろ、せっかく良い制度を設計しながら、その効果や実績をいささかも考慮することなく、融通のきかない運用でブレーキをかけてしまう。この国の行政の縮図という気がしてならない。

離任式の前日、笑いながら「明日は号泣してきます。」と電話で話してくれていたNさんだったが、号泣したのはNさんだけではなかった。離任式の日、同じように今年度をもって離任する先生と演奏した二重奏を聴いて、「子どもたち、みんな泣いていたよ。」と、同僚は言った。Nさんには、両手では持ちきれない花束や、たくさんの手紙、プレゼントが、子どもたちやPTAのお母さんたち、同僚の先生たちから贈られた。「きれいなピアノひいてくれてありがとう。」「Nせんせいみたいにピアノがじょうずになるようにがんばります。」子どもたちは、そんなふうに書いた。

折に触れて聞く学校の様子は、いつも生き生きとしていた。Nさんが小学校に勤めると聞いた時に感じた違和感は、完全に私の思い違いだった。「隙間」を埋めるような仕事だからこそ重要で、彼女の気質にも合っていたのだろう。「失業」することになったNさんは、いくつかの団体の面接を受けたり、一般事務の雇用を求めて履歴書を出そうとしていたが、会社の机で、計算をしたり、営業の電話をかけまくったりしているNさんを、また私は想像できなかった。しかしそんな時、幸いなことに講師の仕事が舞い込んで、4月からは、今までとは離れた地域の中学校で、音楽の先生として勤めることになっている。

離任の日、今まで一度も話したことのなかった男の子が寄ってきて、こう言った。

「先生、今度T中学行くの?ぼく、前住んでたところと超近いよ。がんばってね。」

N先生の3年間、1095日は終わり、新しい365日が始まる。

2009年3月25日 (水)

「ガンダーラ24」の卒業

2005年4月に入学したGB専攻学年を「ガンダーラ24」と呼ぶ。

入学の翌月、新入生合宿研修の雑談の中で、誰かがこの呼称を名付けた。言い出したのは誰だろう。タケシかな?美術系と音楽系が共存するこの専攻、学年担当は、美術のH.N先生と私。私たち学年担当二人を加えて24人なので、「24」になった。なぜ「ガンダーラ」なのかはよくわからない。

1泊2日の合宿研修は私がお供した。1日目の夜、消灯時間ギリギリまで討論をして、翌朝の発表に向けて準備をしていたが、どうにも間に合わない。明日は朝5時に集合しようということになった。5時なんていう早い時間に一体何人が集まっているのだろうと思って覗きに行ってみると、何とほとんどみんな起きて来ているではないか。この頃から、美術系、音楽系の枠を超えて、みんな仲良くなった。

24 これが、2005年5月の写真。眠そうである。

H.N先生と私とで受け持った1年生の授業では、みんなで美術館に行ったり、音楽会を聴きに行ったりした。それからは、いつも全員一緒というわけにはいかないが、キャンプに行ったり、合同で発表会をしたり、飲み会に集まったり。

2009年春、美術系は卒展、音楽系は卒演で、それぞれ研究成果を披露して、体調を崩し中途退学した1人、海外の姉妹校に留学中の2人を除いて、卒業することになった。特定の数人がよく一緒にいることはあっても、目立った「派閥もしくはグループ」はなく、それぞれ自由にやりたいことをやりながら、ゆるやかに繋がっていた。隣県の温泉を訪れるというささやかな卒業旅行には、就職の研修などで都合のつかなかった数人を除いて、ほとんどみんなが参加したそうだ。H.N先生と私は、公務が重なって同行できなかった。残念。

Photo 一人一人への学位記を、H.N先生と私から渡す。そして、みんなで記念撮影。

さすがに全員というわけにはいかないので、ここでは音楽系の12人についてメモしておきたい。

<ずほ>ピアノが上手で、とても賢い。なのに、どうしてだかものすごくアホなので、先生たちからいじられている。独特のずほ語は、最近は少しおとなしくなったか。何事を任せてもいつもちゃんとこなして、人のために奔走することも厭わない。誰かがずほの人柄を悪く言ったりすることは決してない。

<し~ちゃん>1年生で、初めて作曲の授業を取った時には本当にどうしたら良いかわからない様子だったのに、1年間の最後には立派な作品ができあがった。伸びシロの大きさに感服したが、それがこの人の能力の高さであることは、その後の3年間で何度も証明されることになった。時々笑い過ぎて壊れる。

<かなっぺ>最も控え目のようにも見える。だが、授業発表会の運営が失速していたとき、一人で黙々と対処してくれていることを聞いて、かなっぺらしいなと思って嬉しかった。真面目に取り組む努力家であることを否定する人は誰もいないだろう。この人が楽しそうに笑っていると、何となくホッとする。

<ねんねん>1年生の時、地元のホールの企画をやってみたい、なぜならば、今その仕事をしているのが「そこらの普通のおっさんなんです」と言ったのを聞いて爆笑した。ちゃんと仕事をしてほしい、文化行政に対してそう言いたかったのだろう。就職先はホールではないが、その志は何かのかたちで活かされるはずだ。何とも力の入っていない笑顔は、ある意味癒される。

<りんない>最近学校に来ているの?見かけないけど・・・と某先生が心配していたことがあった。私の授業、ちゃんと来ていますよと別の先生。十分な単位を取って卒業して、ちょっと意外な仕事に就くことになった。学校でだらだらしたりしないで、用事が終わったらさっさと帰り、自分にとって本当に必要なことを見極めていたのかも知れない。

<スギイちゃん>スギイちゃんは、ふだんは物静かで眠そうにもみえる。しかし、実はそんなことは全然なくて、授業中に指名して弾いてもらったりすると、嫌な顔もせずに出てきて、きちんと弾く。圧巻だったのは卒業研究での丁寧な作業ぶりだ。出版社に就職すると聞いて、なんかすごくスギイちゃんらしいなと思った。

<ぬーまん>2005年の写真では、ほとんど少年のようだ。本人はあまり変わってないというかも知れないが、この4年間で、その風貌だけではなくずいぶん変わったと思う。礼儀正しく思いやりのある青年になった。作曲を専門にするがピアノも上手だから、これからはもっと多くの人から、いろいろなことで頼られるようになるだろう。大学院での研究も楽しみだ。

<はぎりか>歌唱に関して、とても高い力を持っているのに、格好をつけたりひけらかしたりしないところが、この人の育ちの良さだろう。仲間の新曲なども喜んで歌う。いつも明るいオーラが漂っているように思えるのは、笑顔で挨拶してくれるからだろうか。某神社の「福娘」に選ばれたのも納得できる。歌を勉強するために学校に残り、もっと上を目指す。

<Watta>音楽が溢れてきて止まらない感じだった。そんな新入生を見て、うるさがったり少し呆れていた上級生もいたようだが、高校時代には思うように叶えられなかった音楽を勉強する環境と仲間を得て、存分に泳ぎまわっていたのだろう。希望の研究室は、初めは敷居が高かったが、体当たりを繰り返して入門を許された。彼を弟子にしたら、師の方だって良いに違いないと思って、私も彼の背中を押した。春からは、その成果と自信を持って東京に向かう。本当の力が試されるのはこれからだが、熱意だけは誰にも負けないだろう。

<ぐーちゃん>入試で弾いた電子オルガンの見事な演奏は、今でも強く印象に残っている。そして、自分で編曲したその譜面を見て、高校生とは思えない音楽的な力の持ち主だと感心した。作曲の授業も楽しんだ。おもちゃ箱ひっくり返し系の曲を作らせたら、この人に敵う人はなかなかいない。融通のきく力を持っているから、音楽の広い範囲をカバーする仕事ができるだろう。春からは小学校で、3人しかいない5年生の担任の先生になる。ラーメンを食べる時は、替え玉が必須。

<まっすん>カメラを向けると逃げる。集合写真を撮ると、ほとんどの場合視線を外している。偶然なのか故意なのかはよくわからない。シャイでクールなまっすんだが、フルートの腕前はしっかりしていて、それはこれからも、いろいろな場面で彼女を助けるだろう。卒演で、最後に集合写真を撮ることになっているのに、自分の出番が終わったら、さっさとドレスを脱いでしまったあたりも、まっすんらしい。結局、あとでもう一度着たけれど。

そして、留学中の<ずっけん>は、そろそろ帰ってくるのかな?

Photo_2謝恩会で、卒演後のレセプションの写真を、2005年の写真とセットにして、音楽系のみんなにプレゼントした。謝恩会も終わりがけの頃、数人が駆け寄ってきて、寄せ書きを渡してくれた。予想外のことだったので、不意を打たれた。寄せ書きの中央には、同じ時の別の写真が貼り付けられている。Photo_3 何ものにも代えがたい嬉しいプレゼントだった。Photo_4

2009年3月16日 (月)

またまたご無沙汰のお詫び

なんと2ヶ月も止まってしまいました。

この中断は、今までで一番長かったかな。更新を楽しみに来てくださっていた方々には大変申し訳ありません。このような大して面白くもないブログなのに、定期的に覗きに来ていただけるのは本当にありがたいことです。

多少風邪気味だったりしたこともありましたが、大きく体調を崩していたわけではありませんし、身辺に深刻な出来事が起こったりしたわけでもありません。ブログに飽きてしまったわけでも、書くことがなくなったわけでもありません。

言い訳になりますが、もうただただ忙しかったのです。

まず、大学の年度末や次年度向けの仕事が、次々と締め切りを区切って、降りかかってきます。成績を届けてください、あれやこれやの書類を提出してください、これやそれやの問い合わせの返答がまだ提出されていません、それやどれやをどうするか決めて返答してなさい・・・云々。

求めてくる方も苦労しているのはわかっていますけれど、それにひとつずつ応えるのも大変なのですよ。

音楽科の行事も次々と。卒業試験、論文試問、大学院の論文試問、授業発表演奏会が2日間と作曲の授業の発表会、卒業演奏会がリハーサルを含めて3日間。

そして、大学全体の入試の仕事をするチームに入っているので、センター入試、アクシデント発生のためセンター入試の再試験、私費外国人入試、前期日程、後期日程と、それぞれについての会議や作業が頻繁に入ります。これからも、まだもう少し続きます。

さらに、広報誌編集担当として、特集原稿と格闘していました。先週ようやく校了し、間もなく発行されます。3年間続いた「なんちゃって編集長」の仕事も、これでひとまず終了です。

それから、これは2月に入ってからですが、実家が改築をはじめたので、時々は様子を見に行かなければならず、金曜日に仙台から川崎へ戻って、土曜日に名古屋に行き、日曜日の夜にまた仙台に戻るなんていうことが何度もありました。まだ続いています。

あ、それから作曲もしましたよ!中断期間の間に初演もされました。10分程のピアノ曲。これについては、後日レポートします。

このほか、仙台フィルを聴いてレヴューを書く仕事があり、大学の会議や勉強会があり、少しは飲み会もあり・・・。

はぁ・・・。こうして書いてみると、自分の状態を「忙しい」と言うのはとても嫌だけれど、これは忙し過ぎだわ。我ながらよく乗りきれたものだ・・・。

ようやく、少しずつ落ち着いてきて、放置しっぱなしのブログを、これではいけない!と思えるようになりました。上に書いたようなことの一部は、まだまだ続きますけれど、少しずつ更新していきますので、どうぞ気長にお付き合いください。

春のショットを3箇所から。

数日前の大学構内で。Photo まだ寒い仙台で見つけた春のきざし。そういえば、山菜の美味しい季節が近づいていますね。

次は川崎で。Photo_2

数十年前は、桃の林があちらこちらにあって、これが果てしないくらい続いていたら「桃源郷」とはかくやと思えたのに、いつの間にかずいぶん少なくなってしまいました。

3枚目は、名古屋で。Photo_3 ハクモクレンが満開です。陽射しも一段と明るく感じるのは、やはり西に位置するからでしょうね。

2009年1月14日 (水)

御神火

夕方、街で買い物をしていたら、鈴とも鉦ともつかない鋭い音が近づいてきた。裸参りの行列だ。

毎年1月14日、宮城県の各所で、「どんと祭」と呼ばれる行事が行われる。正月飾りや古神札などを焼納する正月送りの行事である。伊達政宗建立の国宝、大崎八幡宮の「どんと祭」は、「松焚祭」というのが正式な名称だそうだ。

裸参りの人々は、市内のそれぞれの場所に集合して、白い鉢巻とさらしを巻いた姿になり、何時間もかけて八幡宮に向かって歩く。企業や組織、学校の研究室などの単位で、数人から数十人のグループを作り、その名を書いた提灯を持つ。行列が、鐘の鋭い音のほかは厳粛に静まっている気配なのは、私語を慎むための紙を口にくわえているためだ。

Photo_2

今年は、2700人以上の裸参りの人々が参詣したという。

Photo_3 門の中に到着した行列は、階段を昇り、本殿に到着。御祓いを受け、お神酒を振舞われる。

Photo_4 私のような、とてもとても裸参りはできない一般人も、本殿に参拝する。早めの時間だったので、それほど混雑してはいないかったが、参拝の人々は翌日早朝まで続いたようだ。

Photo_5 お焚き上げの御神火。正月飾りや古い神札などが焚き上げられる。

裸参りの人々は、火のまわりを回って暖を取る。暖を取るというより、火のすぐ傍は、当然のことながら熱い。

裸参りの人々の列が途切れるのを見計らって、一般参詣者たちが火に近づき、持ち寄った松飾りや注連縄、門松、古い御札や絵馬などを火に投げ込む。

年末から正月にかけて、実家の部屋の整理をしていたら、祖母の遺品がたくさん出てきた。祖母は仙台の生まれだ。私が仙台に仕事を得るはるか前に他界した。

遺品のうちの、祖母が書いた写経やお守りなどを御神火にゆだねる。煙は、故郷の空高く消えていった。祖母はきっと喜んでくれたことだろう。

Photo 門前の洋品店には、どんと祭の装束を着たマネキンが出ている。

老舗の味噌醤油店の店先で、味噌おでん(熱々のコンニャクに仙台味噌をつけたもの)をいただく。冷えた身体が温まる。味噌醤油店のおばあちゃん、普段は物静かだが、この時ばかりは張り切ってお客の応対をしているのがほほえましい。

大崎八幡宮の松焚祭→ http://www.okos.co.jp/oosaki/festival/matsutaki/index.html

2009年1月 2日 (金)

なごやめし

お正月、いかがお過ごしですか。

私は、31日から実家の掃除、それもウン十年にもわたって溜まり続けたゴミの始末に、正月返上で格闘しています。

名古屋は、もちろん雪も降らず、穏やかな天気。 東北地方は寒いかな?

なごやめしもいろいろありますが、今夜のなごやめしは、山本屋本店の味噌煮込みうどん、名古屋コーチン入り。
かしわ(鶏肉)や卵はトッピングだったりしますが、やっぱりそれ無しだと物足りないな。

注文を取ると、まず漬物が出てきます。
麺を茹でるのに時間がかかるので、その間漬物を食べて待っていてくれということらしい。

1_2 そして、熱々の、土鍋のふたの隙間からぐつぐつ煮立っているうどんがやってきます。はじめのうちは、熱くてやけどしそうなので、ふたをお皿代わりにしていただきます。 そのため、ふたには蒸気を逃がす穴がないのだとか。
麺は硬いので、しっかり噛みましょう。もっとも、つるつる通る麺だったら、たちまちやけどしてしまいますが。
2_2 拡大写真。もちろん味噌は赤味噌(八丁味噌)です。
最近は、牡蠣入りというのもあるようです。名古屋で、産地でもない牡蠣ってどうよとも思うけれど、土手鍋風で合うだろうなぁ。
久し振りで美味しかった~note お腹いっぱいになって温まります。

2008年12月28日 (日)

忘年会

12月27日の夕方、佐山さんの演奏会の打ち上げが下北沢であって、美味しい飲茶だったけれど、夜に約束があったので、飲むのも食べるのも控えめにする。

そして、夜はピアニストのMさんと、自由が丘のダイニングバーで忘年会。こじんまりしたお店ながら、落ち着いた雰囲気でゆったりできて良かった。旬野菜のバーニャカウダや肉がお箸でほろほろ取れるスペアリブなど、とても美味しかった。Mさんとは、時々会って食べたり飲んだりしながら、ゆっくりお喋りをする。毎月たくさんの演奏会で弾いている著名で多忙な人なのに、決してそんな素振りを見せないところがすごいなと、いつも思う。

というわけで、夕方4時半から、途中約30分の移動をはさんで9時半過ぎまで、ちびちび食べ続けた。馬鹿者である。

ふと気がつくと、居酒屋のようなところにいた。なぜだか、丸いテーブルに凭れて、立って飲んでいるのである。それでなくてもざわざわしているところに、新しい客が入ってきたらしく、また一段と周囲がうるさくなった。

新しく入ってきた客は5、6人の一団で、その中に父がいた。あれ?おっ?と短く言葉を交わして、私は、その一団のために席を探してやった。あの奥が空いているよと言うと、彼らはどやどやとそちらの方へ行った。父は、通りすがりに私のお尻を抓っていった。お礼のつもりなのだろう。痛いなぁ。

どのくらい後だかわからないけれど、私は誰かに「店に親父が来たんだよ。」と言った。「・・・お父さんが・・・ねぇ・・・。」訝しげに返ってきた言葉で、私は父がもうこの世界にはいないのだということを思い出した。

そうだ、父は一団で飲み歩いたりしない人だし、通りすがりに人のお尻を抓っていくようなことはしないもの、あれは夢だったのだ。そう思うと、足が萎えるような寂しさを覚えた。だが、お尻には抓られた痛みが残っているような気がしてならなかった。

夢の中なのに、あれは夢だったのだとわかることがあるらしい。朝になったとき、私は夢から覚めた夢を見ていたことを知った。

しかしその日の午後、車を運転しながら、私はつけっぱなしのラジオから流れてきた歌に釘付けになった。

「東一番丁、ブラザー軒。

硝子簾がキラキラ波うち、

あたりいちめん

氷を噛む音。

死んだおやじが入って来る。

死んだ妹をつれて

氷水喰べに、

ぼくのわきへ。

色あせたメリンスの着物。

おできいっぱいつけた妹。

ミルクセーキの音に、

びっくりしながら。・・・」(菅原克己「ブラザー軒」、高田渡・歌)

私には、死んだ妹はいない。だが歌よ、よりにもよってこんな夢の翌日に流れてこなくたっていいじゃないか。預言するみたいに現われるなんて、ちょっと怖いよ。「ブラザー軒」は仙台の老舗のレストランだ。その店構えもよく知っている。現実と幻想のブラザー軒がないまぜになった。

そして、夕べの居酒屋も、夢だったのかどうか、わからなくなってきた。

2008年12月13日 (土)

一周忌

昨年の今頃は、入院してからまもなく3ヶ月経つ父を、別の病院に移すことになるのか、あるいは介護施設に入るのがいいかなどと、悩んでいた。

「別の病院」に移る余地があるのだろうか・・・」と、当時の容態を見るにつけ、思っても口には出せなかった予感が的中して、父は入院3ヶ月制限の最終日に他界した。命日は1月3日だが、遠方から集まる親戚たちのことも考えて、少々早めながら一周忌の法要を執り行う。

Photo 父が逝って、生活も劇的にというほどではないにしろ変化した。しかしそれ以上に、私自身の内面的な日常が大きく変わったような気がする。何がどう変わったのかと問われても、説明はできないけれど。ふとした時に、父の不在が沁みこんでくるのである。

ただ、やはり1年という時間は、父の不在を風化させることはないにしても、寂寥感をいくらかでも和らげる。親戚たちも同様で、この日を口実に、ふだんは離れている同士が再会できて楽しそうでもある。楽しそうと言っては父に気の毒だが、父もみんながそんなふうにしているのを喜んでいるだろう。

法要と御斎が滞りなく終わり、家に戻る頃、入れ替え戦第2戦の様子を伝えるメールが、刻々と入ってくる。今日はジュビロ磐田のホームなので、会場はヤマハスタジアム。父が眠る墓所のすぐ近くだ。スタジアムの歓声は、墓所まで地鳴りのように伝わってくる。「やっかましくてかなわんなぁ」などと言いながら、覗き見ているかも知れない。

ベガルタ仙台は、2-1で敗戦、J1入りを逃す。到底勝てないという相手ではなかっただけに残念だが、来年こそは文句なくJ1入りできる力をつけてほしいな。

2008年12月12日 (金)

白熱するユアスタ

12月8日(月)

J1とJ2の入れ替え戦が、ベガルタ仙台対ジュビロ磐田ということに決まって、19時から、ユアテックスタジアムでの第1戦のチケットが発売になる。

仙台にいる日なんだし、行くっきゃないでしょう。

19時半頃、コンビニに行くと、予約機の前に数人並んでいる。こんなことは珍しい。普段、数分で売り切れるようなチケットを買おうとしたことがないからだけど。

どうやら、回線が混雑していて、待たされたりする様子。しばらくして私の番になると、後ろに並んでいた青年が、「チケットありますかねぇ・・・」と不安げに話しかけてきた。

「大丈夫でしょう。でも、申し込みが混んでるみたいですよ。」と、適当なことを言いながら予約機を操作すると、考えていた席は「完売しました」という表示が出て、ちょっと焦る。

席種を変更して再度申し込みをかけたら、問題なく発券できた。この席ならば大丈夫みたいですよと、青年に言ってレジに向かう。

そうか、年間シートを買っている人などへの優先販売があったからだろうけど、もう完売の席があるとはすごいな・・・と思いながら家に帰る。22時過ぎに、何気なくベガルタのホームページを覗いてみると、「チケットは完売しました」というお知らせが出ていて、びっくりした。2時間か3時間で完売してしまったのだな。

12月10日(水)

朝9時半から会議が怒涛のように続く。ウニ化した頭でこの日最後の会議に耐え、待っていてくれたTルせんせ、Nっちゃんとともに大学を飛び出す。仙台スタジアムに着いたら、「カントリーロード」が歌われ、まさに選手が入場してくるところだった。

1 前半は、なかなかいい感じで仙台が攻めた。轟音のような応援が頂点に達したのは、前半終了近く、ナジソンがゴールを決めた瞬間だ。

後半も、ベガルタがすごく悪くなったわけではないと思うのだが、一進一退。そのうち、一瞬の隙を突かれて、失点してしまう。

その後、どちらのチームも決め手がなく、結局1-1のドロー。うーん・・・アウェイゴール点を持っていかれたのは悔しいなぁ・・・。やや不完全燃焼気味ながら、仙台サポーターの応援は、最後まで緩むことなかった。

2 よく思うことだが、いつもはどちらかと言えば物静かな東北人である仙台の人たちが、ことベガルタの応援になるとここまで熱くなるのは何なのか、興味深い。ちなみに、強力サポーターである同僚のAK子せんせは、第2戦に参戦するため磐田まで行くそうだ。

2008年12月 6日 (土)

2008最終戦

今年も、なかなかサッカーの試合に出かけることができなかった。

この前に行ったのが、10月26日の等々力で、札幌戦。直前にJ2降格が決まって戦意喪失気味のコンサドーレを、3-1で撃破。ケンゴの目の覚めるような鋭く美しいシュートのあと、タニとジュニーニョが得点。そんな、池に落ちた人を蹴飛ばすようなことしなくても・・・とか言われたが、厳しいのだよ、この世界。

優勝争いも入れ替え争いも熾烈なままの最終節は、東京ヴェルディ戦。味の素スタジアムに参戦するのは久しぶり。

Photo ヴェルディサポーターよりもフロンターレサポーターの姿の方が目立つなぁ・・・と思いながら、駅から続く道を歩く。02

スタジアムに入って唖然とした。アウェイ席はすでにぎっしりなのに対して、ホーム側は明らかに少ないのだ。敵ながらさびしい。

正午から始まっているJ2の試合の成り行きを気にしながら、キックオフを待つ。ベガルタ仙台、ようやくゴールを決め、入れ替え戦出場決定との知らせが入る!がんばったなぁ。

03_2 こちらは、大量得点で勝つと、鹿島、名古屋の結果次第では優勝の可能性があるフロンターレと、降格の危機が迫っているヴェルディとの、壮絶な打ち合い。

フロンターレは、概ね有利に試合を進めるが、決定的なチャンスをことごとく外す。ヴェルディも、早い時間に退場者が出たにもかかわらず、必死で粘る。

無得点で折り返し、64分にレナチーニョが決め、ロスタイムに、札幌戦を髣髴とさせるケンゴのすばらしいロングシュートが決まって、ヴェルディに引導を渡した。04_2

後半のピッチを活性化させた大橋選手、我那覇選手は、これが川崎でのラストゲーム。試合後、カメラマンにもみくちゃにされ、腕で涙を拭いながらサポーターに挨拶する我那覇選手の姿に、涙を誘われた。 ガナ、ありがとう!がんばれよ!といった声が飛ぶ。

千葉が大逆転劇を演じたため、ヴェルディが自動降格になった。最終戦を閉じるセレモニーでの社長挨拶に、ヴェルディサポーターからのブーイングがものすごくて驚いた。対照的に、キャプテン服部選手や柱谷監督の涙まじりのお詫びの言葉には、川崎サポーターからも激励の大きな拍手が起こる。さまざまなドラマを生んだ結末。

05_2 帰りに、食事をしようと、自宅近くの店に入ったら、向かいに座っていた知らない男の人が、いきなり話しかけてきた。

「勝ちましたか!?」

「あ?・・・あぁ、はい。勝ちましたよ。」

「おめでとうございます。今日は仕事で行けなくて。」

「2対0でした。でも、鹿島が勝ったから優勝はないです。」

「いや、大したものです。私、他サポなんですが、今年はふがいなくて・・・。」

「あぁ・・・はぁ。」

私が、レプリカユニフォームを着ているから、観戦の帰りだとわかるのである。これを着ていると、「サッカー好きの同志」という目印になる。電車やオフィシャル・ショップで、見ず知らずの人に話しかけられることもあるし、知らない人たちとハイタッチしたこともある。

「では、また。来年は巻き返すようにがんばりますよ。」間もなく、そう言い残して彼は出て行った。

そんなふうに、共通話題で一瞬にして打ち解けることができる。サッカーとは、かくも不思議なスポーツなのである。

2008年12月 5日 (金)

最近、本を読むスピードが落ちたような気がするけど

この数ヶ月ほどの間に読んだ本をメモしておく。

・「漱石の孫」(夏目房之助著、新潮文庫)

文字通り漱石の孫である漫画家・夏目房之助氏が、漱石がロンドン滞在中に下宿した部屋を訪ねる。その時、心ならずも沸き起こった感情。その意味を解いていく。さとてぃせんせにお借りした本。

・「フェルメール全点踏破の旅」(朽木ゆり子著、集英社新書ヴィジュアル版)

フェルメールについての本はたくさん出ているが、これは今年のフェルメール展を観る前から気になっていた本。作品が所蔵されている欧米の美術館を巡る。作品の制作年代別解説ではないので、作品スタイルの変遷を理解するためにはわかりやすいとは言えないが、新書版というフォーマットの良さもあって気軽に読める。

・「旧約聖書物語」(犬養道子著、新潮社)のうち、「列王の書 預言者エリア」の部分

メンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」の内容を理解するために読む。それにしても、この名著、まだ最初から通して読んだことがない。いつかじっくり読む時間を作りたい。

・久生十蘭作品集「湖畔 ハムレット」(久生十蘭著、講談社文芸文庫)

久生十蘭を読むのは初めて。これはやばい。面白い。特に「湖畔」は、いささかペダンティックな文体で、聞きなれない単語が頻出するが、字面を見ればほとんど意味はわかるし、ずるずると引き込まれる。久生十蘭にハマるのを「ジュウラニアン」と言うのだそうだ。もう少しいろいろ読んでみたいが、いずれ私も「ジュウラニアン」の名乗りを上げる可能性あり。

・「硝子戸の中」(夏目漱石著、岩波文庫)

新聞連載のエッセイ。内面の底を照らし出すような文章は、内容がごく身近な事柄である場合にも、不思議な幻想味を帯びている。その陽炎のような靄の向こうから、漱石の日常が垣間見える。

2008年12月 1日 (月)

塩竈遊覧

11月24日(振替休日)

22、23日と推薦入試があり、実施本部業務に従事。入試現場にいるのとはまた違った疲れ方でぐったり。25日には朝から会議があるため、空いた一日である24日は神奈川に戻るのも慌しいし、どうしようかと思っていたら、卒業生のNさんが、「塩竈神社行きませんか」と誘ってくれた。Nさんは、塩竈の隣のR町の住人なのである。

こんなに頻繁に仙台にいながら、また何度も塩竈にも行く機会がありながら、いつも食い気に走るばかりで、名高い塩竈神社をお参りしたことがないのはいかがなものかと反省し、お誘いに乗ることにする。

「食い気に走る」のは、塩竈は港町で、お鮨屋さんが多く、海の幸が美味しいからだ。

Photo_2 あいにくの曇り空で寒い日だったけれど、境内の木々が、これでもかというくらいに紅葉していて、それはそれは美しかった。

見事なグラデーション。写真はクリックすると、少し大きく表示できます。02_2

01_2

神社の裏坂に、旧亀井邸がある。「海商の館」亀井邸というのが、正式な呼び名のようだが、仙台を拠点とする企業、カメイの初代社長さんの住まいだったそうだ。住まわれなくなっていたところを、現在はNPOが管理し、一般公開しているとのこと。

Photo_4 「和洋併置式住宅」という建物で、大正ロマンを思わせる洋室もある。作りつけの箪笥(仙台箪笥)が実に立派。塩竈の港も眺めることができる落ち着いた佇まいの邸宅である。

ついでに、松島へ回る。五大堂、瑞巌寺といった観光エリアはパスして、奥松島方面へ。 Photo_6

Nさんが連れて行ってくれた海産物屋さんの店先では、新鮮な貝類を炭火で焼いてもらって食べることができる。牡蠣、帆立、ツブ貝を焼いてもらう。あさり汁のサービスもある。いずれも絶品!

やっぱり、最後は食い気に走ってるな。

またご無沙汰のお詫び

大変ご無沙汰いたしました。いやはや、すっかり更新を怠けてしまい、申し訳ないです。更新は10月19日以来!?なんてこった!

べつに、身辺に異変があったわけでも、体調を崩していたわけでもありません。ネタがなかったわけでもないのです。

ただ、10月19日にも言い訳をしていますけれど、10月後半は某編曲の仕事に時間が取られていましたし、それは無事終わったのですが、宮仕えのお仕事が忙しくて、帰ってくるとぐったり疲れてしまうのです。歳かな。

師走は師走で、またきっとバタバタするのでしょう。でも、ここいらで更新しておかないと、書けなくなってしまうといけないので、まずはお詫びから。

11月の出来事も、少しは振り返って書いておこうと思いますので、どうぞお見捨てなく、時にはまた覗いていただけると嬉しいです m(_ _)m

2008年10月19日 (日)

限りなく新作に近い作品

2本のクラリネットのための曲を、改訂初演。仙台市青年文化センター・コンサートホール。

2005年に発表したのだけれど気に入らず、半分くらいを入れ替える。だから、限りなく新作に近い作品となった。

2005年の時、演奏は高校音楽科の生徒さんたちだった。今回は、卒業生のこずゅさんとなおさんにお願いする。

亡くなられた本間先生は、そんなふうに、若い人にご自分の作品を託して、演奏の機会を与えてこられた。そのことが、今回私の頭の隅にあった。

10分ほどの作品。とりあえずこの曲のために自分がやるべきことはできたかなと思う。もう少しだけ、つまむかも知れないけれど。

音楽作品は、そこに在るというだけでは成長しない。これから何年かかっても良いので、作品として育ててくださるクラリネット奏者さん募集中。

p.s.

すっかり更新が滞ってしまっています。せっかく覗きに来てくださっているのに、申し訳ありません。管理人、別に体調を崩しているわけでも、書くことがなくなったわけでもないのですが、大学の仕事がいろいろあること、某編曲の仕事をしているのですが、目下かなりの時間をそちらに取られていることから、こんなことになっています。書いておきたいことはいろいろあるので、また少しずつ更新していきます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(11月3日記)

2008年10月12日 (日)

本を包む

東京・神田神保町は、好きな街だ。

Photoたくさんの書店、古書店が軒を並べるこの街には、大学時代からよく来ている。1日がかりで、というわけにはいかないけれど、何時間かでも時間を見つけて書店を巡り、いくつかの古くからある喫茶店の、今日はどこで休もうかななどと迷うのも楽しい。

構えが変わった店もあるが、街全体の雰囲気はそれほど大きくは変わっていないし、依然として「昭和」のたたずまいを残しているところも多いから、学生に戻ったような気分にもなる。

本を買うと、今でもこんなふうに包装してくれる古書店が多いのも、この街ならではのことだ。

Photo_3ゆっくり丁寧に包み紙で包んで、輪ゴムで留める。薄めの本でも同じ。プレゼント用の包装を頼んだからではなく、いつもこうなのだ。

この包装、ちょっと煩わしいなと思ったこともあったけれど、買った品物が無造作にレジ袋に放り込まれ、家の中にやたらとレジ袋が増えていく昨今では、こういう包み方が、街のポリシーを象徴しているようにさえ思える。

包み紙は、もちろん後で本のカバーとして使える。テープで貼るのではなく、輪ゴムだから一部分が破れたりすることもない。

そもそも、こういうふうに包んでくれるのは、苔の生えていそうな椅子に座っているガンコそうな店主であり、パートやバイトのご婦人方ではない。

その、ちょっとヘンクツでガンコそうな店主は、包んだ本を両手で渡しながら、ゆっくり、「ありがとうございました。」と言う。口調以外は無愛想と言ってもいいくらいだ。両手をお腹の前で組んで礼をしたりしないし、「またお越しくださいませ。」などということは言わない。しかし、その言葉はきちんとこちらに届く。今日はこの本が買えて良かったな・・・と思える。

新本の量販店や、雑多な品物を売るスーパーマーケットなどのように、客がレジに列を作ったりしないから、ひとりひとりの客にこんな対応ができるのだけれど、何よりも店主が本を大切にしているからこその心意気だろう。オートマティックに会計を処理され、儀礼的に礼を述べられることに慣れている身にとって、この街のオヤジの対応は、古くさくも新鮮である。

ただし、ここでは、紙で包んだ本をさらにレジ袋に入れるような過剰包装はしない。だから、神保町に行く時は、手さげバックなどを持って行った方が良いな。

2008年10月10日 (金)

芋煮

今年も、同僚のO和先生主催、恒例の芋煮会に伺って、お相伴にあずかった。

1 朝9時に集まって、大学院生さんやO和先生研究室の学生さんたちが、河原で火を起こして作ってくれたのは、仙台風と山形風の二つの大鍋。

説明しよう(「水曜どうでしょう」藤村D風)。仙台風とは味噌味で豚肉、山形風は醤油味で牛肉、どちらもたっぷりの里芋とともに煮込む。

何年か前までは仙台風だけを作っていたのが、山形出身の学生くんが「こんなの芋煮じゃない!」と言い張ってから、山形風も作るようになった。どちらも、とにかく里芋がとろとろに煮えていて、とても美味しい。

いつも昼休みに駆けつけ、午後はまた授業があるから大学に戻らなければならず、慌しく食い逃げするような次第で、誠に申し訳ない。

2 東北の秋の、楽しい行事。この時期、晴れた日には、広瀬川の河原のいくつかの芋煮スポットから、いく筋もの湯気が立ち上るのを見ることができる。スーパーマーケットにはアルマイトの大鍋や芋煮材料が並ぶし、スポットに近いコンビニの店先では薪を売っている。皮をむいた里芋をはじめ、材料、調味料までパックにした「芋煮セット」も売られているそうだ。

ついでに言えば、この日は以前「体育の日」だった。1964年の東京オリンピック開会式を記念した日。一年のうち、よく晴れる日ともされている。実際、今年も秋晴れのすばらしい天気だった。祝日を月曜日に設定する制度ができてから、絶好の運動会日和だった「体育の日」も、晴れとは限らなくなったようだ。学校関係で言えば、月曜日の授業ばかりが潰れるので、大迷惑な制度なのである。

私事で言えば、誕生日の翌日が祭日だったのが、そうでなくなって、ちょっとつまらない。もっとも、馬齢を重ね・・・と謙遜してみても、馬にさえ失礼なのではないかと思えるこの年齢、誕生日だからどうということもないのだが。

3

2008年9月22日 (月)

ヴィエトナムのマグカップ

少し前のことになりますが、同僚のさとてぃせんせが、ヴィエトナムでお土産にマグカップを買ってきてくださいました。

さとてぃせんせは、ヴィエトナムの古典音楽についてのプロジェクトに関わっておられて、もう何十回もヴィエトナムへ渡航しておられるのです。あ、何十回も・・・は、言い過ぎか?

Photo 農民画風でとてもかわいいのですが、どうして顔というか頭というか、こんなに90度も回転しちゃってるんだろう。画像はクリックすると、少し大きく表示できます。

そして、帰国されてしばらく経ってから、絵葉書が届きました。

Photo_2実は、だいぶ前にも、ここでヴィエトナムからの絵葉書を紹介したことがあります。2006年4月16日の記事をご参照ください。

まるで、その時の絵葉書の続編のようです。以前のものは、たくさんのアヒルたちが、バイク(スクーター?)の籠に押し込められて、運ばれていく写真でした。そして、今回のは、運ばれた先の(?)市場で、アヒルたちが並んでがぁがぁ言ってます。いや、写真なんだから音は聞こえないけれど、言ってるに違いない。

それにしても、面白い図案ですね。いくら活気があって面白くても、築地市場や仙台朝市の写真は絵葉書にはならんでしょう。

次の絵葉書は、食卓に並んだアヒルたち・・・とかいうのはやめてね。

2008年9月 7日 (日)

思う会

1081080_imgもはや伝説の人となってしまったが、原田力男というピアノ調律師がいた。

・・・などと書き始めると、この記事は長大なものになってしまう。

音楽や文筆、演劇関係者、学者などたくさんの著名人を顧客に持ち、コンサートを制作し、自身の意見を吐露する場として、ガリ版を切って印刷し、友人知人に配って歩いた。

ある日突然ポストに投げ込まれるガリ版通信は、多くの人を面白がらせたり、考えさせたり、怒らせたりした。この点で彼は、言ってみればブロガーのハシリだが、今だったらブログという便利な手段を使ったかどうかはわからない。

若い音楽家、学問者を応援したが、青年たちの内に、軽薄な物言いや、テングになっているような行動を嗅ぎつけたりしたら、容赦なく叱咤した。「権威」におさまってふんぞり返るような輩が大嫌いだったのだ。

私は大学受験浪人が終わる頃、この人とひょんなことから知り合いになり、その後、彼がコンサート制作にムキになっていくきっかけを作ることになってしまう。

私の東京でのデビューも、彼の制作したコンサートだった。その同じコンサートで、私と同じ大学に属していた「先輩」もデビューする。父が著名な編集者だというその青年の名前は坂本龍一だ。

原田さんは、大学生の私を引き回して大人の世界に、つまり大人たちの集まるバーなどによく連れて行ってくれた。武満徹さんや松村禎三さんと一緒になったのもバーの止まり木だったし、作家の中井英夫さんにもよくお会いした。中井さんは、「虚無への供物」という長編でよく知られた作家である。私は、何という生意気で贅沢な大学生活を過ごしていたのだろう!

その中井さんに「夜翔ぶ女」という短編がある。主人公の名前が「吉田和夫」というのだが、これはもしかして私の名前から取りましたかと尋ねてみたかった。しかし、その時を得られぬまま、機会は永久に失われた。

・・・そんなことを書き続けていたら、きりがない。

病魔に蝕まれてからは、体力が必要なコンサート制作は止め、若い学問者の研究発表を聴く小さな勉強会を主宰した。音楽学、美術学、宗教学など、ジャンルを問わなかった。医学や哲学を学ぶ青年もいた。当時の若き学徒たちは、現在ではベテランと呼ばれる位置にいる。

コンサートも含めて、これらの活動はすべて彼の手弁当で行なわれ、入場料などを取ることは一切なかった。この活動は自分の「余技」なのだから、誰からも金銭的援助は受け取らないのだと開き直っていたが、金銭を受けることで性根が浅ましくなることを警戒していたのだろう。同時に、「余技」の持つ大きな力を信じていた。

しかし、「ぼくらの創作活動は、余技ではないのに・・・」と、若かった私は考え、彼のそんな姿勢に巻き込まれることに、反発を感じたこともある。

亡くなってから、はや干支を一回り過ぎた。数奇な人生、生涯独身だったから、友人たちが終末の面倒を見てきたが、このたびは、その友人たちの発起によって、「原田さんを思う会」が催された。

皆で昔話をしても原田さんは喜ばない、と考えたのだろう、勉強会のメンバーでもあった高久暁さんが、「中国のピアノ教育に接して」というタイトルで発表を行なった。かつての勉強会の一日限りの再現である。かつて顧問のような存在だった戸口幸策先生もお見えになった。

1081086_img 高久さんは、ギリシャの作曲家スカルコッタスや、ロシアの作曲家メトネルなどを研究している音楽学者だが、近年は、Chinese Pianism ということにも興味を持っているそうだ。話は、狭義の「ピアノ教育」に留まらず、中国のピアノ音楽事情全般をめぐって約3時間。ウィーン楽友協会で毎年催されているというチャイニーズ・ニューイヤー・コンサートの話などにも及んで、とても面白かった。

1081084_img 会場の「こどもの城」研修室から外を見ると、別棟の屋上で子どもたちが遊んでいるのが見える。不思議な景色。その下は青山通り。

この後、凄まじい雷と豪雨になって帰るに帰れず、レストランで高久さんらと話す。この場に原田さんがいないのが物足りないけれど、同時に、彼がいた時代が遠い遠い昔のことのようにも思える。

彼が今もし元気でいたら、この平成という時代の浮薄な文化状況を、すっかり軽蔑しただろう。しかし、それでも彼はあの頃のように、今の若い音楽家や学徒たちのうちに、志と希望を見出そうとしただろうか。

2008年9月 4日 (木)

激励会

私が学年担当をしている学年の学生、ズッケンが半年間イタリアの姉妹校に留学することになった。同級生が集まって、激励会を開く。

1081059_img わたるが焼いてくれたお好み焼き。美味しそう・・・というか、美味しかった。女子テーブルでは、すごい勢いでお好み焼き、焼きそば、肉類、魚介類、野菜類、その他いろいろなものが焼かれどんどん消費されていったのに対して、ボーイズテーブルでは、かたちの美しさなどにこだわり、ひとつひとつ時間をかけて丁寧に焼いていたのが面白い。

この学年は、音楽系と美術系が一緒にいるクラスだけれど、1年生の時からとても仲が良い。この日は、美術のN先生も参加。そういえば、半年先行して留学したさやかさんの激励会には参加できなかったな。間もなく帰ってきたら、お帰りなさい会をやらなくちゃね。

1081064_img

この悪童(ばちあたり)どもも、もう4年生なのだ。ズッケンとさやかさんは留学のために半年休学するので、みんな揃って卒業できないのが残念だな。留学という、積極的な理由だから卒業遅れも致し方ないけれど、彼が戻ってきた時には、同級生はみんな卒業している(はず)。

1081077_img_2 そういうわけで、いぢられまくるズッケン。

2008年9月 1日 (月)

散歩

週末のスケジュールがハードだったので、大学の仕事を早仕舞いして、夕方散歩に出る。

Photo 小鹿田焼の猪口。大分県。おんたやきと読む。

衝動買いには違いないが、後ろめたさを感じない安価ながら、すっきりした景色が気に入って、立ち寄った民芸品屋さんで購入。柳宗悦やバーナード・リーチも絶賛した窯元だという。

01 写真を見れば、きっと知っている人も多いだろうと思われる、仙台市内の某カフェ。どこにあるかは内緒。

02 置いてある本を手に取って拾い読み。ゆっくり過ごす。

2008年8月27日 (水)

秋田日記

大学の仕事で秋田へ出張。朝仙台を発つのでは間に合わないから、26日は前泊。

宿泊のホテルは、特別何ということもないビジネスホテルだけれど、温泉大浴場があるのがとても良い。部屋は、広いわけでもないのに、ドアを開けて入るともうひとつガラスの引き戸があってから部屋があるという、ちょっと見慣れないつくり。冬の防寒のためにはこの方が良いのかな。

27日は10時から昼食休憩をはさんで16時半頃まで、某連絡協議会。毎年日本全国で何十万人だかが参加する、もはや国家的事業、今年もまたどこかで手違いがあったと、毎年社会問題のように書き立てられるのだが、こんな複雑なシステムでは、ミスの根絶はあり得ない。午前中は、感心しながらというか呆れながらというか、それでも何とか話についていったけれど、午後、時間が進むごとに頭はメモリオーバーでフリーズしたあげく、最後はほとんどクラッシュしかけた。

Photo 昼休み、同行のSさんたちと、少し高いビルに上って、街を眺める。

秋田には「ババヘラアイス」というのがありますよ・・・とSさんが言う。彼は、この県の出身なのだ。あ、聞いたことある、どんなものでしたっけ?「おばあちゃんが、ヘラでアイスを盛り付けてくれるんですよ。だから、ババヘラ。」

そうか、どこで買えるんですかと尋ねると、「いろいろなところにいるんですよ、道端とかお祭りとか・・・あ、あそこにパラソルが見えるでしょう、あれがそうです。」

16時半過ぎ、破裂しかけた頭を少しでも早く回復させなければいけない。その国家的事業は、今の私の仕事のひとつとして組み込まざるを得ない事柄だが、私の人生にとっては少しも大切なものではない。

帰りの予定までは時間があったので、Sさんたちと別れ、秋田の街を散歩する。

Photo_2 「菅江真澄の道」と書かれた碑がある。真澄は、晩年この久保田城下に住んで、佐竹の殿様と親交があったという。

千秋美術館にふらりと立ち寄り、「日本近代洋画への道」という展覧会を観る。http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ss/senshu-art/

大きな美術館ではないが、立ち寄りやすい雰囲気。高橋由一の「鮭図」や「丁髷姿の自画像」、青木繁「二人の少女」など。良い時間を過ごすことができて、頭はクラッシュの危機から免れた。

喉も渇いたし、せっかくだから・・・と、千秋公園入り口のパラソルのところまで行く。「ババさんアイス 150円」、おばあちゃんが二色のアイスをヘラで盛り付けてくれる。何もかも、さっきSさんが言ったとおりだ。

Photo_3 しっとりしたアイスクリームというよりは、少しジャリジャリした感じで、シャーベットみたいでもある。ベンチに腰掛けて食べる。何となく懐かしい味で美味しい。イタリアン・ジェラートとかって気取るよりいいよなぁ・・・ババヘラアイス。

Photo_4この人がババさんのひとり。頬かむりに長袖という、農作業ルックがユニフォームらしい。

アイスが盛られたかたちはバラの花みたいだが、腰掛けたベンチの後ろ、千秋公園のお堀には巨大な蓮が群生していて、その花のようでもある。

Photo_5

蓮の葉や花の大胆なかたちと色合いを眺めていたら、秋田蘭画を思い出した。

2008年8月23日 (土)

還燈会

Photo_2 今年も還燈会に出かける。還燈会は、神奈川の家の、すぐ北側にある公園墓地で行なわれるお盆の行事。

昼間から霧雨が降って寒いくらいだったけれど、法要の行なわれた時間にはやむ。法要の前には、「越中おわら」が奉納された。「風の盆」として知られるこの芸能は、胡弓が縹渺とした音色を響かせて、独特の哀調を醸しだす。繊細で美しい。

Photo_3 亡き人を偲ぶ「献灯」。偲ぶ人の名前の書かれた灯篭に灯火を点ける。例年は自分には関係なく、横目で眺めるだけだったが、今年は父と本間先生の名前を、ひとつずつの灯篭に書いてもらってお供えした。地方によっては、「灯篭流し」として川に流すのだろう。

Photo_4 法要の後は花火大会。15分間ほどだが、首が痛くなるくらい、すぐ真上に上がるので、それはもう大迫力。縁日・屋台が出てはいるが、大勢の人が集まってごったがえすようなイベントではない。けれど、これが終わると夏も終わりと、告げられているような気がする。

8月中旬のいろいろなこと(2) 名古屋の夏

8月14日(木)~16日(土)は、名古屋へ。

父の初盆。でも、お寺での行事は6月末に早々と済ませたので、母が自宅で毎年していることを眺めに行っただけである。

もうとにかく暑い。連日36度だの37度だの。自宅の2階に上がっていくと、空気が薄くなっていくみたい。窓を開けようと思って見ると、窓はすでに開いていたりする。この街の夏は、とにかく風がそよりとも吹かないのだ。

Photo ギラギラぶりを、写真に撮ってみる。これでは伝わらないかな。

Photo_2 こちらのギラギラぶりはいかが?

名産の海老せんべいを、黄金色の缶におさめた商品だそうだ。中身は、なじみ深い海老せんべいだけれど、このパッケージデザイン、いかにも名古屋っぽいセンスではないか。私は、名古屋生まれ、名古屋育ちだけれど、こういう素質が自分にもあるかも知れないとは思いたくないなぁ・・・。

2008年8月14日 (木)

8月上旬のいろいろなこと

8月5日(火)は、仙台七夕前夜祭の広瀬川花火大会。

0808 花火の写真を撮るのは難しい。美しい円が捉えられず、火花が散ったところばかりが撮れてしまって、どうしても爆撃みたいに見えるのだ。

私の仙台の家からも、少し遠いが見ることができる。寝っころがって冷たいものを飲みながら見物。いいでしょう。

6日からは、Mさんを初めて大学にお招きして、集中講義をしてもらう。古くからの友人であるMさんは芝居の演出家。この集中は、芝居を仕上げることが目的ではなく、文章をきちんと読み込んだ上で、臆せず声に出して、内容を人に伝えるというようなことをお願いした。

0808_2 子どもが書いた詩や詩人による「少年詩」を、次々と読んでいくことから始まった。1日目が終わってみれば、みんなで110編もの詩を読んだそうだ。2日目からは、散文、独白文と進み、最後は短い戯曲を読む。ほんの少しだけ動きもつけて。本格的な戯曲って、みんな読んだことなかっただろうなぁ。

冷房のない演習室で4日間全15コマは大変だったけれど、Mさんはとても熱心に指導してくださったし、学生くんたちも楽しそうだった。学生くんたちが、4日間でどんどん変わっていく様子は、なかなかの驚き。

010808 そして、6日からの3日間は、ちょうど仙台七夕と重なった。(写真はクリックすると、大きく表示できます。)

020808 連日夜まで授業をしてくださるMさん、ちょうど夏休みなので毎日お手伝いに来てくれた卒業生のNさんと、七夕の街に突入。最終日は、さとてぃせんせも加わって、仙台の魚料理を堪能。まだ宮城県で水揚げされたものではないが、秋刀魚の刺身、脂がのっていて美味しかったなぁ。本格的な秋刀魚の季節が楽しみ。

2008年8月 5日 (火)

クマゲラ!?

8月1日(金) 朝早く学校に行ったら、看護師のAさんが、誰かと話しながら木を見上げている。

「何かいるんですか?」と尋ねてみたら、「クマゲラ!」という返事。え、クマゲラ?どこに?「ほら、あそこ。穴からヒナが顔出しているでしょ。昨日あたりから、もう巣立ちそうなんだけど。」

クマゲラ。北海道と東北の主に北部に生息する大キツツキ。天然記念物で絶滅危惧種。

Photo こんな、すぐそばを車が通るようなところに、よく巣作りしたものだねなどと感心しながら、しばらく眺める。望遠レンズを持っていないので、写真を撮ってみたもののぼやけてしまった。でも、良かったらクリックして大きくして見てください。真ん中あたりに、穴から顔を出しているクマゲラの子が見えます。何ともきれいに丸く穴をあけたものだな。さすがキツツキ!

ずっと眺めていたかったが、授業の時間が迫ってきたので教室へ向かう。キィーッという甲高い大きな声がずっと聞こえていた。その後ろでは、ヒグラシの大合唱。ヒグラシ、つまりカナカナ蝉は、高原で夕方に啼くというイメージを持っていたのだけれど、学校の朝っぱらでも盛大に啼くものらしい。まぁ、山には違いないですけれど。

この日で、ようやく私の担当する授業は終わった。

2008年8月 4日 (月)

7月のいろいろなこと(6)

7月30日(水) 午前、広報誌の編集打ち合わせ。午後、入試実施の会議。夕方は、授業群の打ち合わせ会議。他には何もする暇もなく、一日が暮れる。

大学教師という種族は、授業以外はのんきに遊んでいると思われているとしたら大変な誤解である。こういう一瞬の隙もない日は決して珍しくないのだ。昨日(29日)だって、10時半から始まって、3つのコマの授業が終わると18時。そのあとちょっとした勉強会があったので、終了20時。午後のはじめこそ空き時間だったけれど、授業の準備をしたり書類を書いたりしているうちに終わる。

夜は、28日の大発表会の打ち上げ。明日朝が早いので、酒量は控え目。というより、最近はもうあまりたくさんは飲めなくなった。

7月31日(木) オープンキャンパス。毎年、来場者が増えて、今年は2600人近い数だったそうだ。朝9時過ぎから、大教室で30分間の概要説明を2回、その隙間をぬって入試相談のブースで対応。13時30分過ぎまで、ほとんど喋りっぱなしでいたら、さすがに気分が悪くなってきた。研究室の冷房をガンガンかけて、買ってきたお弁当を少しずつ食べたら、少し元気が戻ってきたので、14時過ぎからまた相談ブース。15時半まで。

しみじみと疲れたから、夕方、アイスクリームを食べる。食べることしか疲労回復の手段はないのかい。

このままずっと研究室でヘタレているのもいかがなものかと思い、招待券を頂いていた「パンパシフィック・ユースオーケストラ仙台公演」というものに出かける。仙台・電力ホール。

アメリカ在住の台湾人作曲家、温隆信氏が率いるグループなど4団体の合同ということだが、メンバーのほとんどは台湾系の人たち。オーケストラと銘うっているが、フル・オーケストラではなくて弦楽オーケストラ。ピアソラのヴァイオリン協奏曲という告知があったので期待して行ったら、何のことはない「ブエノスアイレスの四季」をヴァイオリン協奏曲仕立てに編曲したものだった。他に、ドヴォルザークの弦楽セレナードやバルトークのディヴェルティメントの一部、温氏の作品などが演奏される。それにしてもお客が少ないし、残響が皆無のホールだから、演奏者たちには気の毒だ。青年たちの未来に栄あれ!

気分転換にはなったけれど、もう一押し何かが必要と思ったので、スーパー銭湯に寄って帰り、爆睡。

7月のいろいろなこと(5)

7月28日(月) 学校で「作曲 夏の大発表会」。大発表会って意味不明だが、何となくこの方が威勢がいいかなと思って。

作曲の授業を取っていたり、覗きに来たりしている9人の11曲と、別の授業の3人も加えて、12人の曲が世界で初めて音になった。

本当に生まれて初めて作曲したという短い作品もあるし、ずっと続けてきた4年生ともなると本格的なソナタやソナチネを書いている。いくら短くても、それは世界にふたつとない数小節なのだから、大切にしてほしいな。

「へぇ~・・・見かけによらない曲だよね」というのもあるし、いかにもその人の曲だよなぁ・・・というものもある。プロの作曲家と違って、技術でごまかせない分、作曲者の地が出てしまうのだ。これまでどういった音楽人生を歩んできていて、実はどんな性格なのかも、ある程度は推測できるかも知れない。

私自身は、レッスンと言っても何もしないし、何も言ってないようなものだ。みんなそれぞれ、自分で何とかして続きを考えてきて、いつかは完成する。もちろん、私自身の好き嫌いはあるけれど、そういうことは一切言わないことにしているので、結構みんなやりたいようにやっているのではないかな。

通年でこの授業を開くのも、もしかしたら今年が最後かも知れない。残る後期も楽しくやってもらいたいものだ。

2008年8月 3日 (日)

7月のいろいろなこと(3)

7月26日(土) 仙台フィル第230回定期演奏会を聴く。仙台市青年文化センター・コンサートホール。

指揮は山下一史氏で、ブラームス「悲劇的序曲」、ハイドンのチェロ協奏曲ニ長調(チェロ=横坂源)、シューマンの交響曲第2番。

今回も、讀賣新聞の「仕事で」聴きに行っているので、感想の詳細は省略。今回は、シューマンの2番を少し勉強できたことが良かった。いろいろなリズムがやんちゃに跳ね回り、力ずくでコントロールしないとバラバラになってしまいそうな曲だが、力業で押さえすぎるとつまらなくなる。指揮者の思い入れの強さが、空回りすることなく全体のエネルギーとなった。白熱した演奏だった。

7月のいろいろなこと(2)

7月25日(金) 板橋健独唱会を聴く。仙台市戦災復興記念館ホール。

私たちの大学の先輩先生である板ちゃん先生、間もなく古希を迎えられるそうだが、毎年1回、独唱会を催されていて、今回は第27回。その尽きない意欲には頭の下がる思いだ。しかも、今年の曲目は、シューベルト「冬の旅」全曲。休憩なし。

「1時間20分立ってるだけでも大変よぉ!」とおっしゃるが、もちろんただ立っていたわけではない。リートと日本語の語り物的歌曲に力を入れてこられた先生だが、最近の中で最も印象的な会となった。近年、音楽的パートナーにピアノの倉戸テルさんを得てから、表現がますますのびやかになられたのではないだろうか。もちろん、大学を退官して自由になったという要因もあるだろうけれど。

後でテルさんが、「『冬の旅』をコンサートできっちり(勉強)できて良かった!」と言っていたけれど、どちらかといえば器楽奏者のパートナーが多い彼のようなピアニストにとっては、そうだろうなぁ。友人の器楽奏者に、「ねぇ、このソナタ、一緒にやらない?」というのはあるだろうけれど、たとえ友人でも、声楽家に「ねぇ、『冬の旅』一緒にやろうよぉ・・・」とは、軽々しく言えないからだ。

お二人の共演は、来年の予定もすでに決まっているようで、楽しみだ。

7月のいろいろなこと(1)

7月は、すっかり更新が滞ってしまったので、書き落としていることをいくつかメモしておきたいと思う。

7月10日(木) ルツェルン交響楽団演奏会を聴く。東京エレクトロンホール宮城。東京エレクトロンホール宮城とは、どこにあるのかわかりにくいが、宮城県民会館のこと。ネーミングライツで、最近はこの名称になっている。

プログラムは、ウェーバー「魔弾の射手」序曲、グリークのピアノ協奏曲、ブラームスの交響曲第1番。指揮=オラリー・エルツ、ピアノ=ニコライ・トカレフ。

ウェーバーを聴きながら、すでに嫌な予感がしたのだが、この指揮者の表情過多ぶりには、最後までついていけなかった。小枝ばかりを見せることに腐心していて、森が見えない。トカレフが、音色のすばらしい変化と音の切れで表現しようとしているのに、見当違いにロマンチックなニュアンスばかり付けてダラダラする。そんなわけだから、グリークの謎は未だに解けない。トカレフのソロだから、今回は解けるかと期待していたのだけれどな。

ブラームスに至っては、落ち着かないことこの上なし。重厚で「ドイツ的」な演奏ばかりが良いとは思わないけれど、これはあんまりではないか。どっしりと構築された音楽に向き合った充実感も高揚感もなく、ただただ慌しいだけで終わってしまった。アンコール、シベリウス「悲しきワルツ」とブラームス「ハンガリー舞曲第6番」の、意味のない小賢しいニュアンス付けには、腹が立った。オケは、良くも悪くもヨーロッパの地方都市の音がする。日本のオケの音との違いは面白いが、もっと違う指揮者で聴いてみたい。

2008年7月20日 (日)

ご無沙汰のお詫び

最近は更新が滞っていて、せっかく訪ねて頂いているのに新しい記事が少なくて申し訳ありません。学期末が近づいているために、学校の諸々の用事がとても混みあっていて、平日の更新はなかなかできないのです。

更新がないと言っても、本人は、体調を崩しているなどというようなことはなく、相変わらずでおりますので、どうぞご安心のほどを。学期末の用事など落ち着きましたら、また少しずつ更新して参ります。

6月20日の記事で、仙台フィルの演奏会について触れていますが、これからしばらく定期演奏会のレヴューを執筆することになりました。7月17日付け讀賣新聞宮城版に掲載されています。宮城近辺の方は、機会があったら図書館などで探してみてくださいね。

2008年7月13日 (日)

本間先生の告別式

6月21日に亡くなられた作曲家・本間雅夫先生の告別式が、仙台斎苑別館で行なわれた。音楽家仲間が実行委員会を組んでの音楽葬である。作曲家であり僧侶である片岡良和先生による伽陀、表白文から始まり、作品の演奏や弔辞が続く。

本間作品は、無調を基本とした厳しい書法によるものが多いけれど、比較的近作であるフルートとピアノによる「かなたへ」は、とても抒情的に聴こえたのが少し意外だった。作曲のお弟子さんに対して、「雰囲気で書いてはいけない。仕掛けで書きなさい。」と、常々言っておられたからだ。

また、故郷に贈った「深浦讃歌」は、調性を持った優しく穏やかな歌。このような書法では、滲み出る人柄は隠せない。

眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情で小言をおっしゃり、そんな表情のまま、こちらが崩れ落ちそうになるような駄洒落を言われた。そして、仙台圏を中心とする東北の作曲家の束ね役となって、創作活動を刺激し続けた。自ら推進役となった多くの創造と啓蒙の運動のほとんどは手弁当だっただろう。そして、若い人たちを世に送ることにも熱心だった。

指導は厳しかったが学生たちは慕っていた。先生が、仙台でいかに大きな存在だったか、会葬者が500名近かったことにも現われている。

私は、今勤めている大学で、本間先生の直接の後任者ではないが、先生が受け持っておられた授業の大半を引き継いでいる。大学の「同僚」としてご一緒したのは1年半だけだったが、その後も作曲家仲間としてお付き合いさせていただいた。

当時、先生が作られた音楽理論についてのカリキュラムは、完璧なものだった。私は、それをそのまま踏襲しようとしたけれど、何度かの大学改革によって、このカリキュラムを維持するのが困難になり、崩さざるを得なくなった。それは、今でも私にとっては痛恨事だ。

弔辞も演奏も、そして弟さんが語る先生の青年時代の話も、胸にしみるものだった。義弟であるジャズ・ピアニスト、ケイ赤城さんのために書かれた曲も、アメリカから一時帰国したケイさん自身によって演奏された。ケイさんは、日本人で唯一マイルス・ディヴィスと共演したミュージシャンである。

最後に、モーツァルト「レクイエム」の「ラクリモーザ」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が献奏された。遺影の中の先生は、モーツァルトの美しい音楽を聴きながら微笑んでおられるように思えた。

Photo 写真は、準備中の式場。この式で、私は司会を任ぜられた。大役だったが、本間先生へほんの僅かだけれどご恩返しができたかなと思う。

先生のホームページ→ http://www.masao-homma.com/ ご逝去の告知と石川浩さんによる追悼文が載っているが、作品データベースなどは、現在もそのまま。

2008年6月28日 (土)

蒸し寒い話

梅雨だから蒸し暑いかというと必ずしもそうでもなく、むしろ「蒸し寒い」と言った方が良い日が多い。あ、それを「梅雨寒」というのか・・・。特に仙台では、夜などまだ長袖が手放せない。学生くんたちも私たち教師も、少々疲れ気味。5月の連休以降夏休みまでの期間は、一年で最も長く、梅雨のうっとうしさも重なって、一番くたびれる時期なのだ。

そういう季節だから、この際、もっと具合が悪くなりそうな話をしよう。どちらも学校現場にまつわる話である。

私の大学の卒業生某さんは、今年の4月から某県の学校に新任の先生として勤めることになった。着任の日、初めて学校に行って、教頭先生といろいろ打ち合わせをする。

話もひととおり終わる頃、教頭先生曰く、「あなたは初任だからわからないかも知れないが、こういう日は菓子折りを持ってくるものだよ。」

気が利かない奴め・・・とまではっきり言われないまでも、そう言いたげな空気が漂ったそうだ。

実は某さんは、こういう場合どうなのかと迷いながら、菓子折りを用意していた。けれども、タイミングを逸して出しそびれていたのだった。慌てて持参の品を差し出すと、教頭先生は、こともなげに菓子箱に「某先生より頂きました」と書いた付箋をつけて、回覧に回したという。

菓子折りを持って挨拶に行くというのは、この国独特の礼儀だろう。某さんが持参したのは、「挨拶の気持ち」というべきもので、そういう習慣が悪いとは、私は思わない。

だけど、受け取る立場から督促するものなのか?たとえ持参しなかったとしても、「気持ち」が足りないとして、非難されるべきことなのだろうか。それが「この業界の常識」なのだから、今後恥をかかないようにとご指導くださったのだとしても、釈然としない。

もうひとつ。

別の卒業生某さんも、やはり学校の先生だ。その日は、教育委員会から指導主事先生が来訪されて研究授業があった。御前授業はうまくいって、検討会も和やか、指導主事先生は機嫌良くお帰りになったそうだ。よかったよかった。

しかし。

某さんは、信じ難い光景を目のあたりにすることになる。

某さんが見たのは、教頭先生が、指導主事先生のお履物を磨いているところだった!驚きを通り越して引いてしまった某さんは、先輩の先生にこっそり尋ねてみる。すると、あぁ・・・最近はあんまりやらないけどねぇ~という、これまた何とも奇妙な返事。ということは、以前は当たり前のようにやっていたのか?以前というのは江戸時代か、それとも明治時代か?一体、今は何時代なんだ?

私は、基本的に学校現場に同情的である。教諭の不祥事が出るとひどいバッシングが巻き起こるが、中には少数のエキセントリックな者がいたとしても、ほとんどの先生たちは真面目に誠実に仕事していることを知っている。卒業生たちが活躍しているのも嬉しく思う。一部の保護者をモンスターと呼ばなければならないほど傷ついた現場で、教壇に立つこと以外の雑用に追われている先生たちのご苦労を思う。

だが、こんな話を聞くと、ちょっとぐらぐらしてしまう。さらに、念のために言えば、この二人の某さんが勤めるのは、それぞれ別の地方なのである。特定の地域に妙な「常識」が残っているらしいというわけではないのだ。

本当に大切なことには無策なのに、どうでもいいような細かいことにやたらと潔癖で、はみだす者を受け流す度量がない。嫌な時代だ。懐古趣味に陥りたくはないが、インターネットもブログも携帯電話もなくて不便だったけれど、昭和の社会はもっと大人で、大らかだった。だからこそ、せめて学校現場だけでも、妙な「常識」を温存しないで、「良識」が通じるところであってほしいと思う。将来教職に就く若者たちへ心構えとして、偉い方がお見えになったら、お履物は磨いておくものだぞなどと指導するのなんか真っ平である。

指導主事先生が機嫌よくお帰りになったのは、お履物が磨かれていたからではなかったと信じたい。

2008年6月18日 (水)

地震お見舞い御礼

6月14日土曜日の朝に起きた岩手・宮城内陸地震に際して、何人かの方から、お見舞いの電話やメールを頂きました。

13日金曜日の夜、神奈川の家に戻り、地震が起きた時間は、まだ惰眠むさぼり中でした。私は、夜中の地震は爆睡していて気がつかないことが多く、よく呆れられるのです。でも、今回の地震は神奈川でもふらふら揺れて、しかも結構長い時間だったので、さすがの私でも目を覚ましました。

数分後、西日本に住んでいる友人から、携帯にメール。「青葉区震度5って言ってるけど、大丈夫?」

え~?今のは震度5もないだろう、せいぜい2くらいじゃないの?・・・寝ぼけ頭は、青葉区と聞いて、神奈川の家に近い「横浜市青葉区」のことかと思ってしまったのです。

「そんなにひどくなかったよ」とメールを返しながら、・・・え?もしかして「仙台市青葉区」?と思い、慌ててテレビを見ました。

はじめのうちは、どうしたって大きな都市の放送局からのレポートということになりますから、まずは、揺れる仙台の街をとらえた定点カメラの映像が映し出されました。慌てて、会員制掲示板に書き込みをしたり、何人かの学生くんたちに連絡を取ったりしてみましたが、いずれも、大きな揺れだったけれど特別な被害はないという返事で安心しました。しかし、都市部よりも山間部が大変なことになっているらしいということが、次第にわかってきます。一報を聞いた時よりも、時間を追うごとにだんだん恐ろしさが増してきたのは、私だけではないでしょう。

昨日(17日)、仙台に戻りました。仙台の家の中はどうなっているかと、恐る恐る入りましたが、まったく何ともなっていませんでした。強いて言えば、よく見ると、一列にきちんと並んでいたはずのCDが前後ギザギザになっていて、おや?君たち動いたね?と思わされただけでした。大学の研究室も、薄めの本が数冊落ちているのを発見しましたが、ほぼ何事もありませんでした。地盤の強さや建物の方向や、いろいろ関係するのでしょう。

今日(18日)夕方、大学にいたら、ミシッ・・・という音が聞こえました。余震です。しかし、ほとんど揺れは感じませんでした。同じ仙台圏でも、震度3くらいに感じた地域もあったらしいのですが。

そんなわけで、私自身はミシッ・・・という小さな音を聞いたという程度ですし、直接間接の知り合いが被害に遭ったという話も聞こえてきていませんが、揺れのひどかった地域では、不自由な避難生活を余儀なくされている方々がたくさんおられる報道を見ると、同じ地方に関わりを持っている者として、他人事とは思えません。

皆さまからご心配いただいたことに感謝を申し上げますとともに、被災された方々が、一日も早く元の生活に戻られるよう、祈るばかりです。

2008年6月11日 (水)

仙台×横浜FC

久しぶりで、ユアテックスタジアムに参戦。横浜FC戦。

Photo ユア・スタ前。こんな石像、前からあったっけ?

Photo_2 このスタジアムは、ピッチが近く、とても見やすくて楽しい。広くはないが、全面屋根付きだから一体感がある。ベガルタ・サポの大きな声援が響く。地下鉄駅から近いのもありがたい。

前半は、ベガルタが圧倒した。24分、平瀬選手が打ったシュートがウツクシク決まり先制!横浜FCは、後半から"カズ"三浦和良選手と難波選手が入って流れが変わったが、68分、田村選手がヘディングを決めて2-0、そのままベガルタの勝利。失点なしですっきり勝つのは良いことだ。

川崎フロンターレから来た西山選手、飛騨選手がベンチスタートながら、ともに途中出場。フロンターレ・ファンである私に気を使ってくれていますか?と言いたくなるような采配。どちらの選手も良い動きだった。

"カズ"選手、今までも何度か見ているが、客席とピッチとの距離が近い分、素晴らしい足捌きがよく見えて面白かった。さすがです。41歳?まだまだいけます。とことんやってください。

2008年5月 2日 (金)

青葉の頃

大学の構内も、いつの間にか青葉に覆われるようになりました。

1 しかし、関東や中部地方に比べると、まだまだこれから。木々の緑が本格的に生い茂るのは、今月下旬くらいにかけてでしょうか。

2 それでも、大型連休はざまの平日は気温も高く、昼間は少し汗ばむ感じでした。

1_2 音符くんが、音楽棟前に植えて育てたチューリップも、見事に満開。たださ、ちょっと密集し過ぎでないかい?

Photo 青葉通りも青々としてきました。「杜の都」は、こうでなくちゃね。

ただ、残念なこともあります。地下鉄工事が始まっていて、一部のケヤキが伐られ、別の場所に移植されたのです。場所を変えてもちゃんと根づくのかなぁ・・・。

そのため、この付近はなんだかがらんとしてしまいました。歩道と中央分離帯にあったケヤキがなくなったためです。

Photo_2 空が広くなったとも言えるけれど、何だか仙台らしくない・・・。そう、この一角だけは、どこにもある地方都市のありふれた空の景色です。地下鉄ができると大学方面も便利になるだろうと思われますが、それと引き換えにがらんとしてしまったのはとても残念です。

2008年4月26日 (土)

なごやのなぞ

その1 あんかけスパゲッティ

Photo なごやの異形の食べ物といえば「みそかつ」と言われます。でも、この「あんかけスパゲッティ」の方が、知名度は低いけれど、異形度は高いような気がします。

ここでの材料はナス、ピーマン、キャベツ、ベーコン、ソーセージなど、とり立てて珍しいものではありません。太めの麺は炒めてあります。そして、まわりのソースは、デミグラスソースのように見えるかも知れませんが、そんなはずはない。そう!赤味噌ソースなのです!

1960年代から始まった料理だそうですが、すみません、私はこのたび初めて食べました。しかも、某有名シティホテルのカフェレストランだったので、発祥の店を標榜しているところとは、だいぶ違うんだろうなと思います。

なんだそりゃぁ~と言うあなた。あんかけスパゲティは、ウィキペディアにも記事があるのです。

『野菜トッピングは「カントリー」、ソーセージ、ベーコン等の肉類トッピングは「ミラネーゼ」と呼び肉と野菜の両方盛りは「ミラネーゼ」と「カントリー」の頭文字を足して「ミラカン」と呼ぶ店が多い。』(ウィキペディア「あんかけスパゲティ」より)

・・・なんだそりゃあ~・・・。

ちなみに、この某有名シティホテルのカフェレストランにはなごや料理のメニューがいくつかあります。また、このホテルにあったかどうか忘れましたが、なごやには「スパゲッティ イタリアン」というなぞのメニューがあります。玉子焼きが敷いてある上に、いわゆるナポリタンスパゲティが乗っているのです。皿は鉄板で玉子がじゅうじゅういってたりします。

ちなみに、某老舗みそかつ屋さんの「鉄板とんかつ」は鉄板の上でキャベツがじゅうじゅういってるし、某老舗味噌煮込みうどん屋さんでは、ぐつぐつ煮立っているので、皿に取り分けなければ、とてもじゃないが熱くて食べられません。

なごや料理にじゅうじゅうぐつぐつが多いのはなぜだろう?

ちなみに、「スパゲティ」ではなく「スパゲッティ」と書くべきという気がしますね。なごや料理では。

その2 ミュー

なごや市街と中部国際空港セントレア(思わず、訛って「せんとりゃぁ」と言いたくなる)を結ぶ名鉄電車のアクセス鉄道には、ミューという特別車があります。この、疲れてダメダメな猫の鳴き声みたいな名前の列車は、ちょうど成田エクスプレスのような感じで、なかなか快適ではあります。

Photo_2座席前のテーブルの上には、「チケットホルダー↑」と書かれた切れ込みが。この写真のようにチケットを挟んでくださいということなんでしょう。チケットをポケットとかに入れて失くすなよということなのかも知れませんね。ご親切に。

せっかくだから挟んでみましたが、何となく落っこちそうだし、かえっていずい(注:仙台ことばで居心地の悪いこと)ので、すぐポケットにしまいました。降りるとき忘れそうだし。使う人いるのかなぁ・・・。

1 その3 なぞの旅人

「なぞの旅人フー」と書かれた幟が、中部国際空港構内のあちらこちらで見られます。

それだけしか書いてないから、かなりなぞです。動物なのか植物なのかもよくわからない。なんだろねと思いながら、ショップのフロアに行ってみたら・・・いましたね。

2 デカイのが。

でも、デカくなっただけで、相変わらず何なのかはよくわかりません。この空港のキャラクターであることはわかりましたが。そして、ホームページを見ると、他にも犬や猫や鳥や雲などのキャラクターがあることもわかりました。でもやっぱりよくわかりません。フーさんが何なのか。

なぞの多い街の入り口ですから、なぞのままで構わないですけれどね。

2008年4月20日 (日)

納骨の日

晴天。

09:50 父のお骨やお供えなどを乗せた車で、名古屋の自宅を出発。母は、親戚の人たちと一緒に新幹線で行くと言い張る。私の運転が信用できないのだろう。

10:20 名古屋インターから東名高速へ。新緑がとても美しい。仙台の、まだ春になりきっていない空を見慣れていると、この緑は眩しい。一ヶ月くらい季節を先取りしている感じだ。

11:30 走行は順調、浜名湖PAに立ち寄る。

Pa まだ連休には間があるものの、よく晴れた日曜日、PAは混雑している。

Photo_2 うなぎ串350円、きも串250円。屋台で焼く匂いにつられる。肉厚で柔らかく美味しい。

Photo_3

浜名湖は穏やかで、初夏のたたずまい。

12:10 目的のお寺に到着。荷物を降ろして一段落ついたころ、最寄り駅に着いた母たちから、タクシーが来ないと連絡が入る。この街の地理はよくわからないが、地図を片手に、車で迎えに行く。今日はこのお寺の近くにあるスタジアムで、Jリーグの試合が行なわれる。サポーターがスタジアムに向かっているのを見かけるが、関東などに比べると出足が遅いように思う。

13:00 会食を取りながら、親戚のHさんが、自分で書いた詳細な家系図を示しながら、わが家の祖先の人々について話してくれる。高齢のHさんがいなくなったら、誰にもわからなくなるだろう。

13:50 スタジアムからは、放送が一段と大きく響いてくる。何を言っているかは聴き取れないが、キックオフ直前のムードは盛り上がっている。

14:20 お坊様の読経が始まる。ナムアミダブツの間に、スタジアムの歓声が聞こえてくる。

15:10 墓所。昨日私が戒名を書いておいた白いサラシの袋に、父のお骨を移す。石屋さんが目地を切っておいてくれているので、墓石はすぐに動いて、袋はお墓の中に納まった。

お骨箱は、燃えるものと燃えないものとに分けて、墓地の中のゴミ箱に捨てておいてください、できれば壷は小さく割って捨ててもらえるとありがたいそうです・・・と、お坊様は言う。惜しげもなく単なるゴミとして扱われることにとまどっている私を尻目に、伯母は、木箱を壊し、壷をつつんであった布に入れて、コンクリの側溝に打ち付けて割る。壷は破片となって、不燃ゴミ入れのかごの中に落ちる。誰もが結局感謝する伯母のこの如才なさは、気の毒にも時として眉をひそめられたりもする。

15:15 墓石を清めるための水をもう少し汲んでこようとした時、嵐のような雷のような轟音が響く。ゴールが決まったな。何かが爆発したようなこの大歓声は、ホームチームの得点に違いない。始まりかけた母の嘆き節も、応援の太鼓と歌にかき消される。

15:15 後半9分、ジュビロ磐田・萬代選手が、先制した大分に対して同点ゴールを決める。

15:50 お寺を出発。試合はまもなく終わるだろう。

16:30 再び浜名湖PA。今度は同乗した母は、スターバックスでキャラメル・マキアートを飲む。

17:20 おや?と思っているうちに、三ケ日あたりから渋滞が始まった。岡崎付近、豊田付近と自然渋滞は断続的に続き、延々とのろのろ運転になる。往路は順調だったのに、今度は思いのほか時間がかかる。

18:30 ようやく名古屋インターを通過。途中の地下鉄駅で、同乗していた父の従妹であるWさんが降りる。お疲れの表情。車に乗っていきませんかと声をかけたのが、こんなに時間がかかってしまっては、かえって申し訳なかったかな。

19:00 名古屋の家に到着。仏間代わりの座敷は、何だかがらんとしている。

Img_0527

翌日夕方の中部国際空港展望デッキから見た伊勢湾と夕日。

父は、写真と記憶の中だけの人となった。

2008年4月19日 (土)

一目千本桜

仙台から東北本線で南へ30分ほど、船岡駅の手前あたりから、桜並木が見えてきます。この季節、付近を走る列車は、景色を楽しめるようにと、速度を落として運行します。

白石川に沿ったこの桜並木は「一目千本桜」と呼ばれ、「日本の桜100選」にも選ばれているそうです。ひとつ先の大河原駅で降りて、船岡方面に戻りながら、川の堤を歩いてみることにしました。

大正12年、高山開治郎という人が、一千本のソメイヨシノを植樹したのがはじまりとのこと。現在桜並木は7キロにわたり、二千本以上が一斉に花を咲かせています。程近い船岡城址公園の桜もよく知られています。

1_2 大河原駅近くの河川敷には、屋台やちょうちんがならんで、お決まりの「さくら祭り」風景。(写真はクリックすると大きく表示できます。)

しかし、少し歩いていくと、宴会客の姿はなくなり、そぞろ歩く人たちと行き違うだけで、ざわついた感じはまったくなくなります。2 目の前は、どこまでも続いていくソメイヨシノの花トンネル。

大河原から船岡までは約3.5キロ。歩くと50分くらい。川をはさんで対岸も見事な桜並木、そして振り返るとまだ雪をかぶっている蔵王連峰が見えます。この日は薄曇りだったので、写真でははっきり見えないのがちょっと残念。

4 3 韮神堰というのだそうです。左奥に薄っすらと見えるのが蔵王。撮影ポイントとなっています。

ちょっと息抜きに・・・と、ひとりでぶらりと出かけたのですが、ちょうど一番の満開の日だったようです。何とも贅沢な散歩でした。おそらく、この週末の雨と風で散ってしまうでしょう。

5 停車?

2008年4月 5日 (土)

等々力今期初参戦

J1第5節、川崎フロンターレ対京都サンガ戦。

1 等々力の桜はもうだいぶ散っている。フロンターレは開幕ダッシュに失敗して、初戦引き分けの後、第2節とナビスコカップ予選2試合を落とし、第3節で初勝利、第4節も勝って、ようやく調子が上がってきた気配。

2フロンターレのサポーターは概ね紳士的だ。負けが続いても、よほどのことがないとブーイングしない。他所のチームには、罵詈雑言を浴びせかけることが応援であり愛情であると考えるサポーターもいるようだが、フロンターレサポの多くはそんなふうには考えないようだし、そういうことは滅多に起こらない。

放送で、「(相手チーム)サポーターの皆さん、今日は遠くから等々力まで、ようこそいらっしゃいました」などと流れると、盛大な拍手が起こる。移籍でチームを出て行った選手に対しても同様。柏戦で石崎監督が紹介されたときの大拍手は、ちょっと感動的だった。かつてこのチームは石崎監督に大きく育ててもらったことに敬意を表しているのである。

試合前のイベントでは、「川崎市民の歌」を歌うようになっていた。この歌のメロディー、川崎市民の多くは知っている。ゴミ収集車がこの曲をオルゴールで鳴らしながらやってくるからだ。歌詞は一般公募とのことで、作曲は山本直純さん。

初めのうち、市民の歌と知らなかったから、なんだか暗い不思議な音楽を流してるなぁと思っていた。短調なんですよ。そして、途中から同主長調に転調する。昭和初期の流行歌とかにあるかたちですね。「東京ラプソディ」とか。歌ってみると、歌詞に対してメロディーがとてもうまく作られていることがわかる。さすがプロの職人仕事だなぁ。

フロンターレの試合を観に来る人、フロンターレサポーターは川崎市民だけではないのだから、市民の歌を歌うのはいかがなものかという議論もあるらしい。いいじゃないの、覚えてもらって一緒に歌えば。いい歌なんだから。歌いたくない人は歌わなければいい。歌うときに起立させられるわけでもないし、起立しなかったからといって処罰されるわけでもないんだから。

3 夕方の試合。風があって、途中からはずいぶん寒くなった。試合は、1-0で惜敗。終始押し込んで、何度もチャンスがあったのだけれども、点を奪うところで決めきれなかった。うーん・・・残念。でも、憲剛選手や大橋選手を中心に、ボールはよく回り、迫力のある攻めが見られて楽しかった。

試合中、大きな声で野次っていた人たちも、最後はバックスタンドまで挨拶に来た選手たちに向かって、大きな拍手をおくっている。さぁ、次は勝とう!

2008年4月 3日 (木)

火曜日と木曜日の晩ごはん

4月1日、ふとしたはずみで、ブラジル料理を食べに行くことになった。神保町のこじんまりしたお店。

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シュラスコという、ブラジル風バーベキュー。 牛ランプ肉、豚スペアリブ、鶏のハツなど、いろいろな肉を焼いたものの盛り合わせ。ソーセージはスパイシーでしっかりした味付けがしてある。

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フェイジョアーダ。黒豆のシチューで、ライスにかけて食べるのが美味しい。 ただ、運ばれてきたときはギョッとする。見た目は完全にぜんざいなのです。でも、肉も入っているし、塩味がついている。

ノバスキンというブラジルビールは、意外に普通。ふだん飲んでいるものと違和感はない。ブラジルのお酒ピンガも飲む。ピンガはさとうきびから作った蒸留酒。カシャッサともいうそうだ。ラム酒のような泡盛のような、とても口当たりの良い、危険なお酒だ。

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4月3日は、ふとしたはずみではなく、計画的に新筍の炭火焼きを食べに行った。仙台は稲荷小路のお店。

この時期しか食べられないメニュー。皮をむきながら削ぐように食べる。春らしい渋みと甘みがうれしい。

2008年3月31日 (月)

東京の桜

1 神奈川の家に戻ってきた頃、桜がちょうど満開だった。

2_3 1枚目はあざみ野付近、2枚目は高井戸の神田川。

3 4 神奈川の自宅の北側にある木も、いつの間にかずいぶん立派になっている(よかったら、写真をクリックしてご覧ください)。

桜の木って、ずいぶん短い期間のうちに大きくなるんじゃないかな。高井戸には、学生の頃住んでいたけれど、こんなに見事な桜の林があった記憶がない。

そう思っていたら、物知りのミーさんによれば、桜の木の寿命は50~60年、だから次々と新しい苗木を植えていかなければいけないのだそうだ。

寿命50年かぁ・・・。私が桜だったら、そろそろダメだ。

よかった、桜でなくて。

2008年3月29日 (土)

移ろうもの、動かぬもの

3月26日、仙台から名古屋に飛ぶ。父が遺したものの整理のためである。しばらくの間、まだ春の気配薄い仙台に閉じこもっていたために、季節はもう春なのだということを忘れていた。

Photo_8 実家の周囲でも、桜やハクモクレンが咲きそろっている。

同じことを経験した人は誰もが言うのだけれども、遺されたものの整理はとても大変だ。父には借金も財産もなかったが、わずかばかりの貯金を解除することひとつ取っても、複雑な手続きが必要なのである。

27日、父の出生から死去まですべての戸籍謄本が必要ということで、午後急遽静岡県の磐田に向かう。磐田市役所へ行って、古い戸籍を発行してもらうためである。もちろん今どきは郵便でも送ってもらえるけれど、これがないと28日までの名古屋滞在中に何も進められないので、実家でボーっとしているより行ってきた方がいいという判断だ。

磐田には、浜松まで新幹線で行って在来線に乗り換える。ここには墓所があるので、今までも何度か訪れている。用件は簡単に終わって、すぐには判読できないほど劣化している手書きの古い戸籍謄本が出てきた。

戸籍に「衝撃の新事実」などあろうはずもなく、しかし知らなかったこともあったりして、古い戸籍を見るのはなかなか面白かったが、内容は省略。

Photo_9 磐田という地名、誰も知らないような時代もあったけれど、ジュビロ磐田ですっかり知られるようになった。駅の近くには、こんなシンボルがある。

Photo_10 また、舗道には、ジュビロの選手やスタッフの足型や手型がはめこまれている。これはオフト監督の足型だから、1994年頃のものかな?

Photo_2 ちょっと心配になってしまうのは、駅前にまったく活気がないことだ。商店街はシャッター通りになってしまっているし、人がほとんど歩いていない。郊外型のスーパーができてから駅前は寂れてしまいました・・・と、当地に住む親戚から聞いたのは、もうずいぶん前のことだ。ヤマハスタジアムに向かって、アウェイチームも含め、たくさんのサポーターが駅前を通っていくだろうに。

2_2 駅前の大きなクスノキ。樹齢は推定700年で、静岡県指定天然記念物になっている。かつてここはお寺の境内だったが、再開発によってお寺は郊外に移転してしまい、木だけがとどまった。子どもの時から、お墓参りに来るたびに眺めていたから、よく覚えている。祖父の妹たちがまだ子どもだった頃に、この木を囲んで写したという写真がどこかに残っているらしい。700年もの間ここに立っているのだから、様々な人々や物事の往来を見てきたことだろう。そして、これからも見続けていくことだろう。

祖父はもちろん、その妹たちも天寿をまっとうして、今は鬼籍に入っている。

2008年3月25日 (火)

卒業式

私たちの大学では、正式には学位記授与式と呼ぶ。

今年の会場は、大学の講堂ではなく、市内の国際会議場を借りきって行なわれた。大学講堂は収容人数が限られているから、父兄の方々が入れない。別室で中継画面を観てもらうことになっていたのが、何とかならないものかと申し入れがあったのだそうだ。この国際会議場ならば、父兄にも会場内で式に立ち会っていただけるというわけだ。

私などは、Photo_3 入学式も卒業式も、両親同伴の方がむしろ珍しかった時代の育ちだから、隔世の感がある。

Photo_4 入学式はともかく、卒業式は長年通った校舎から見送ってあげたいという心情が残るし、式の後、音楽棟の前で、それぞれ写真を撮って・・・というようなことはできなくなった。そのかわり、音楽を専攻した卒業生さんたちと式に出席した先生たちとで、舞台を占領して記念写真を撮る。Photo_6

そんなわけで、教師側は会場変更については賛否両論あるけれども、専攻やサークルの後輩たちが会場の外で待っていて、出てきた卒業生を囲み、寄せ書きやプレゼントを渡したり、胴上げしたりという光景が今年も見られたのは良かった。Photo_5

夜は、ホテルのレストランでの謝恩会。今年の二つの専攻の卒業生たちは、とてもいい感じのスタンスで繋がっている。そんな学年色が、最後の楽しい時間にも表れていた。Photo_7

それぞれ分かれて二次会に行く。深夜も近い頃、夜行バスで東京へ発つI美さんを見送るために、専攻が再びみんな集まった。秋田出身のI美さんは、4月から横浜で小学校教員になるのである。私たちが流れていた二次会会場は、大人っぽい雰囲気のバー。卒業したら連れて行こうと決めているお店だ。話が弾んで店を出るのがちょっと遅れたために、バス時間が迫ってしまい、みんなで仙台駅構内を爆走する。湿っぽい別れを交わす暇もなく、I美さんはバスに乗り込み、みんな車窓の閉じられたカーテンに向かって手を振る。

深夜1時過ぎ、家に戻った私の携帯にメールが入ってきた。I美さんだった。

「ありがとうございました。・・・バスに乗ってからずっと泣いています。涙がなかなかとまってくれません・・・仲間って本当に大切なのですね!横浜での新生活も頑張っていきたいと思います。」

それぞれの新しい生活が明日から始まる。安堵と綯い交ぜの寂しさを感じる一日。

2008年3月11日 (火)

日曜日のおやつと火曜日のお昼ごはん

ベアケーキっていうから、何かと思ったら。

Photo クマさんの形をした人形焼じゃないか。中にあんこは入ってないけれど。

でも、こうやって並んでると、まるで兵馬俑みたいだよね。

そして、またまた火曜日のお昼ごはん。お持ち帰りタイ料理。

Photo_2 ガパオというものです。東京駅のエキナカで。

挽肉と玉葱を香辛料で炒めたもの。ピリ辛。お約束のように目玉焼きが乗っている。

二層になっていて、下に入っているご飯と混ぜて食べる。

近頃は、新幹線の中でも、いろいろなものが食べられるようになりましたねぇ。

2008年2月24日 (日)

50,000ヒット御礼

このブログを開設してから、間もなく2年になります。

2月22日、50,000ヒットを突破しました。50,001を踏んだのは、卒業生のNさんだったそうですが、50,000はどなただったでしょうか。

過去に一度引越しをして、その際に、10,000を超えていたカウンターがリセットされました。ですから、正確にはこのカウンターの数字に約10,000を足した数が、開設以来の総合計ヒット数ということになります。

更新も怠けているし、面白いことも書いてないのに、いつも訪れてくださってありがとうございます。今は、学年末の雑用などでかなり慌しくしていますが、もう少ししたら落ち着くかなと思うので、また少しずつ更新していきます。

これからも、長い目でお付き合いいただけたら嬉しいです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

2008年2月16日 (土)

春を供える

Photo 父の七七日法要。

七七日とは、四十九日のこと。亡くなって七週間目、正確には2月20日がこれに当たる。

この日までは、中陰もしくは中有といって、次の世界に生まれ変わるのを待つために、蓮の花の中にいる。そして、本人の生前の徳が高く、残った者たちの祈りの声が届けば、七七日が過ぎると蓮の花弁が開き、阿弥陀様の声が聞こえ、次の生へと導かれる。四十九日は、中陰の期間が満つるというわけで「満中陰」という。

もちろん、これはお坊様のお話の概要を書き留めただけのものだ。宗派が違えば、考え方に違いがあるのだろう。

まだ寒い、というより一年で一番寒い時期だが、お供えに飾られた花には早咲きの桜までが混ざり、春がそれほど遠くないことも感じさせられる。いつの間にか日も長くなり、午後5時半くらい頃になっても、まださほど暗いとは感じなくなった。

お供えにいただいたお干菓子。緑や黄色が近づく春を思わせる。

Photo_7

2008年2月 5日 (火)

火曜日のお昼ごはん

昼過ぎに仙台に着くように移動。お昼ごはんは、東京駅に最近出来たエキナカのお店で調達。

Photo 新宿アカシアのロールキャベツシチュー弁当!

注文すると、温かいのをよそってくれる。もっとも車内に持ち込んで食べる頃には冷めてしまうけれど。

学生時代にはよくお世話になったお店。安くてボリュームもあって美味しいから。こんなところで再会するとはねぇ。

なんか懐かしくて美味しかった。

ちなみに、東京駅のエキナカは、銀の鈴と呼ばれていたあたりが新装されたもの。いろいろなお弁当を売っていて楽しい。少し前には、沖縄惣菜屋さんのゴーヤチャンプルー弁当を買った。美味しかったけれど、ちょっと量が少ないかな。

2008年1月29日 (火)

ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいで

Photo 1月27日、山形の合唱団「じゃがいも」の、初めての仙台公演は無事終わりました。

仙台公演の話が持ち上がったのは、2005年に一緒に作った合唱劇「ポラーノの広場」の頃だったでしょう。あの、ちょっとわけがわからないけど楽しい「ポラーノ」を仙台で紹介できたらいいなぁと思いました。その後、話が急展開して「銀河鉄道の夜」を・・・ということになります。

きっきぃさん、シアターホールは客席が600もあるんだよ、山形側では仙台でそれだけのお客さんを集められる自信ないよ・・・とかいう話をしていたのがウソのよう!

年が明けた頃、すでにチケットがかなり出ている、もうこれからはあんまり売っちゃだめ!・・・という、何とも普通ではあり得ない指令が伝わってきました。

でも、話を聞いていると、こちらもだんだん不安になってきます。数年前に、某演奏団体がチケットを売りすぎて、当日入場をお断りすることになったという話など聞こえてきていましたから。そんな事態は避けなければ。

内輪の方々や、ごく近くなってチケットを買いたいと言ってくださった方々には事情をお話して、当日のリハーサルを観ていただくことにしました。

そして午前11時。リハーサルに立ち会う人数とは思えない、100人近くの方々が来てくださっていました。もちろん、リハーサルといっても、完全に本番と同様にやりました。出来は、本番と比べてもまったく遜色なかったと思います。

そして公演本番。14時30分の開場時間前から長い列ができていて、14時35分には客席が見た目かなり埋まった感じ。この勢いが開演時間まで続いたら・・・と考えるとちょっと恐ろしくなりましたが、溢れることなく、客席はほぼ満員で出発。チケットを買ってくださったお客さまをお帰しするようにことにならなくて、本当に良かった。

そして何よりも、こんなステキなことをやっている人たちがいるということを、仙台の皆さまに知っていただけたのが嬉しいです。そして、東京からもたくさんの方がわざわざ来てくださいました。

いろいろ寄せてくださったご感想や、私自身見聞きしたことなど、追々書きとめておきたいと思っていますが、まずはご来場いただいた皆さまに、厚く御礼申しあげます。

2008年1月26日 (土)

やっぱり冬

24日、昼過ぎにパラパラと降り始めた雪は、あっという間に積もって、暴風雪警報が出るまでになりました。

夜、山形に、じゃがいもの練習を聴きに行く予定だったのだけれど、Sさんからの「やめといた方がいいんでない?」という電話を受けて取りやめ。自分で運転して行くつもりは初めからなかったのですが、高速道路も一部不通ということで、バスの便がどうなっているかわからないし、そもそも大学のある山から仙台駅まで下りられるのか?・・・っていう話で。

夜8時過ぎ、強風が吹いて地吹雪みたいになっていたのが少しおさまったのを見計らって、恐る恐る車で山を下りました。まだ降り続いているところだから、かえって気温はそれほど低く感じないし、路面も凍ってはいませんでしたから、案外大丈夫でした。それでも一番急な坂のあたりは、のろのろ運転の車が数珠つなぎ。坂の途中では、何台もの原付が放置されてころがっているのを見ました。そこまで来て力尽きて諦めたのね。後で聞いたら、家に帰るまで通常の3倍以上とかの時間がかかった学生くんたちが多かったようです。

あ、私が帰る頃、きゃっきゃっ言いながら雪だるまだかかまくらだか作っていたやつらは、ちゃんと帰れたのか?

25日は、きれいに晴れたので、夜は山形に行きました。

この季節、この地域を自分で運転するのはおっかないので、高速バスで移動です。東北道から山形道に入って、県境の笹谷-関山峠に近づくと、やはり半端ではありません。しかも、マイナス6度の表示。わだちのできている高速道路って、見たの初めてかも知れない。

山形市内も、昨日の仙台の雪がどうのって言っているのがバカみたいというか、さすがというか、雪の量が違います。

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自動車からも信号機からも、つららが下がっています。雪の上や半分溶けて凍っているところ、黒光りするところなど、この季節の地面の歩き方、だいぶ慣れましたけれど。

今日の仙台、もう雪は溶けて、まったく見られません。・・・あ、大学のある山の雪は全然溶けてないけどね。

2008年1月22日 (火)

およそ2年に一度くらいのユウウツな日

19日と20日はセンター入試の監督。およそ2年に一度当番が回ってきて、他に比べるものがないくらいユウウツな日々である。

入試だから間違いがあってはいけない、慎重の上にも慎重を期して・・・というのは当然だ。それは一般入試だって同じこと。試験官が気難しいように見えるのは、受験生と同じくらいとは言わないが、それなりに緊張しているからなのである。

センター入試は全国統一テストだから、不平等があってはいけないことになっている。だから統一したマニュアルに添って進められる。私たちには百数十ページに及ぶマニュアルが渡され、何時何分にはこの「台詞」を言うようにと厳密に決められている。つまりこれは、試験官のための「台本」でもある。

マニュアルには、試験中に起こり得る出来事への対応方法も事細かに書かれていて、それに基づいて対処せよ、そのためにはマニュアルを熟読玩味して、咄嗟に正しい対応ができるようにせよと申し伝えられる。

試験中に地震が起きたら・・・などはまぁ良いとして、事細かな事例を、日常の仕事に忙殺されている中で完全に覚えるなんていうことは、到底出来っこない。例えば、「合格祈願 ○○天満宮」と書かれた鉛筆を使用しているのを発見した時はどうすれば良いかわかりますか?正解は、「使用させて良い。ただし、鉛筆に格言や和歌が書かれているものは使用不可」。ちなみに、机の上に「○○天満宮」のお守りを置くのはNG。

そんな調子で、どんな事例が起きても対応できるように、マニュアルはますます複雑化する。だが、思いもかけないことは起きるものであって、「近くの受験生の体臭が気になるから席を換えてほしい」という申し出があったらどうしたら良いかなど、これは実際私が数年前に言われたことだけれど、もちろんどこにも書かれていない。

水も漏らさぬ態勢を作ろうとしているのだろう、きっと。けれども「台本」には、英語リスニング試験の前、携帯電話を一度わざわざ机の上に置かせ、アラームを解除して電源を切るようにしつこく指示する「台詞」を発しているにも関わらず、伝えられているように、某大学では着信音のロックが鳴り響いたそうだ。こうなると「台本」は、「わたしは事前にちゃんと説明したもんね」という「保険」でしかない。

それにしても、どんなにしたってどこかで必ず何かが起こる英語リスニングが加わったことで、試験監督の負担感は倍増どころか三倍にも四倍にも増えた。水も漏らさぬようにしたから安心してくれと言っていたICプレーヤーは、私の隣の試験室でも不具合が出た。もうこれはお隣の災難で、当たらなくて良かったと思うしかない。

全国で百数十台の不具合が報告されたそうだけれど、五十数万人とかが受けているうちの百数十台なのだから、「こんなに低い確率だ、技術力の素晴らしさの勝利だ」くらいのことを言ったらどうだ。機械だから不具合ゼロというわけにはいくまい。原因究明して不具合ゼロにするなどと言うのは、最後の一人まで解明しますなどと「約束」した年金役所の言い方と同じじゃないか。

今年の、私たちの試験室の受験生くんたちは、本当に真剣な様子だった。病気や身体の不自由と戦いながら受験する人たちもいる。彼らの真剣な様子には頭が下がる思いだ。

だが、以前には、試験開始のブザーが鳴った途端に寝てしまう奴とか、すんませーん筆記用具持ってこなかったんスけどーなどと言ってのける、ハナからやる気のない輩どもがいたこともあった。受験率を上げるために、学校から無理矢理受けさせられているのである。

とにかくこの仕事をしていると、気になることや心配になることが山ほどある。

鉛筆を持ちなさい、置きなさい、次にこれをやりなさい、まだこれをしてはいけません、はい、では次にこれをやりなさい・・・と、読まれる「台本」に忠実に、言われたことにだけ手を動かす。その様子は、ある意味不気味だ。

国語に漱石の「彼岸過迄」から取られた問題がある。試験監督は暇だから、ゆっくり読む。その間、受験生くんたちはバラバラバラバラとせわしなくページを前後にめくっている。漱石の文体を味わう余裕などなく、ただ「名状しがたい」とはどういう意味かだけを考えるために、ポイントだけを押さえようとしているのだろう。そういう読み方も日常的に訓練されているのだろう。だが、せっかく感受性の高い青年たちが、文学作品をこういう読み方でいいのか?こういう読み方を強いていて、本離れだ文学離れだと嘆いてもはじまらないのではないか?

受験人数が減る科目もある。けれども、問題冊子と解答用紙は十分な予備を含めて用意される。かくして、受験人数と同じくらいの数の冊子が余ることもある。私たちの試験室だけでこんなに余っている、ウチの大学全体ではどのくらい余っただろう、全国では一体どのくらい・・・と考えると眩暈がしそうになる。間違ってもエコロジーの必要性を説く問題とか出すなよ。

叱られるかも知れないが(誰に?)、自分のところではこういう学生に入学してもらいたい、だからこういう試験問題を出す・・・というあたりまえのことを、ほとんどの大学が放棄してしまっている理由が、私はどうしてもわからないのである。たしかに統一テストは合理的だし、自前の試験をやるよりも公平性が保たれる(ような気がする)し、労力も少なくて済むだろう。しかしそれは結局、大学の「手抜き」ではないのか?

2008年1月14日 (月)

完売近し(?)・・・チケットの最終(?)ご案内

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いろいろなところでお知らせしていますが、合唱団「じゃがいも」のために書いた合唱劇『銀河鉄道の夜』の仙台公演が、1月27日にあります。

チケットは、主催者側からもうかなり出回っているそうで、もうあんまり無理して売らないでくださいと言われてしまいました。このままだと、完売ということもあり得そうです。

すでに予約してくださっている方には、今週お渡しします。まだ申し込んでいない方はお早めに、できれば今週中に声をかけてください。ここへのメッセージ、メール、私を直接つかまえるなどどんな方法でも構いません。今週は明日火曜日午後以降、毎日学校に行きます。

合唱団「じゃがいも」公演
合唱劇『銀河鉄道の夜』
1月27日(日)15時開演 
仙台市青年文化センター・シアターホール

じゃがいものホームページ

http://homepage2.nifty.com/jagaimo/

2008年1月12日 (土)

それから

Photo 父が逝ってから10日が経った。

7日間の忌引きの間は、さまざまな手続きのために奔走する。けれども、まだ少しも片づいた感じがしない。財産はないけれど借金もあるわけではないから、話はかなり単純なはずだが、やはり生きていくための多くの配線を複雑に身にからませながら、一人の人間として存在していたのだと思い知らされる。隠居の身とはいえ「一家の主」だったのだから尚更である。

できれば、生きているうちに身のまわりの配線をすべてきれいに外して旅立てれば良いのだろうけれど、なかなかそんなことはできない。後始末は、遺された者たちに委ねられることになる。

昔のように、いちいち御用聞きが集金に回ってくる時代ではないから、ライフラインの使用料などはすべて銀行引き落としで、ふだんは実に便利に暮らしているわけだけれど、ひとたびその根幹となる口座の立場が怪しくなると、その配線をひとつひとつ外して付け替えていかなければならない。その手間暇だけでも相当なものだ。この新聞の料金は、引き落としではなくて毎月集金に来ているよと聞いただけで、ほっとしたりする。しなければならない手続きがひとつ減るからである。

8日目から大学に出る。翌日には授業も再開した。ひと通り挨拶も終えて、溜まっている大学の仕事を片づけなければならないなぁと思うのだけれど、調子が出ない。

私より少しだけ年上のYさんが電話で、「頭で了解していても、身体がついていくまでには少し時間がかかるよ。」と言ってくれた。どうもそのとおりらしい。

食欲はあるし睡眠もやや不足気味ながら取れている。体調は悪くない。情緒不安定ということもない。けれども私の中に、やはりどこか言うことを聞かない器官があるかのようだ。これはきっと同様の経験をした誰でもが感じることなのだろう。私にとっては、暇ではないけれど超多忙というわけでもない時期だったということが、救いかも知れない。みんなが集まりやすい正月三が日の最後が命日になったことといい、「子孝行」な父だなぁと思う。

2008年1月 7日 (月)

父のこと~告別

父は、1月3日の朝、息を引き取った。

父の病気のことは、昨年10月から時々書いてきた。昨年6月ごろから体調を崩し、夏の猛烈な暑さにもやられて、10月初めにT病院に入院。そして、10月下旬からは徐々に徐々に弱っていった。その下降線のゆるやかなことは、私たちが父と一緒にいられる時間を少し作るから、いずれやってくる告別の時のことを覚悟しておきなさいよと言っているようだった。

根っからの仕事人間で、ギャンブルはおろか酒も煙草もやらず、趣味らしい趣味もなかったが、好奇心は旺盛で、退職してからは母と二人で海外旅行へ何度も出かけていった。70歳を過ぎてからパソコンをいじり始め、難しいことはできなかったけれど、楽しんでいる様子だった。

私が音楽を仕事にするようになってからは、クラシック音楽を熱心に聴くようになった。中でもお気に入りはベートーヴェンの交響曲で、とりわけ第九は、家の棚に少なくとも22種類のCDが並んでいる。私が子どもの頃にヴァイオリンを習っていた影響があるのか、ヴァイオリンの音楽も好きだったようだ。前橋汀子やムター、ムローヴァなどのディスクが目につく。そんなわけで、1月4日の通夜の前にはベートーヴェン「田園」(ワルター指揮)を、翌日の告別式の前には前橋さんのヴァイオリン小品集を、会場に流してもらった。また、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのテレビ中継を楽しみにしていたことも思い出す。

近年父は、元旦の朝、お雑煮を食べてから、私たちと大須観音へお参りに出かけるのが習慣になっていた。信心からというよりも、正月の街に出てみたかったのだろう。観音様に参拝して、門前の商店街の電気店などを冷やかして、お汁粉を食べて帰るのが正月の楽しみだった。

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今年の元旦も、私たちだけでいつもどおり大須に行った。そして、「病気平癒」のお守りをもらい受けた。

夕方、そのお守りを持って病院に行く。回診の担当は若いK先生で、日を追うごとに脈が弱くなっていて厳しい状況ですと、気の毒そうな表情で告げた。翌1月2日、お見舞いに来てくれた医師であるS叔父は、呼吸が良くない、そろそろ覚悟しないといけないだろうと、私に耳打ちをした。父は、顎を上下させながら呼吸していて、それが尋常でないことは私にも了解できた。

1月3日、私たちが朝ごはんを食べ終えた頃、容態が悪いと病院から電話が入る。急いで駆けつけたが、9時23分、K先生と主治医のI先生によって臨終が確認された。実の父に向かうように、親身にお世話してくださっていたTさんに最期を看取ってもらった。Tさんは、新人の頃から先生にはすっかりお世話になりましたと言ってくださっているベテラン看護師さんだ。

入院が3ヶ月を越えると病院にはあまり都合が良くないという昨今の状況で、転院の話も聞こえてきていたが、入院してからちょうど3ヶ月目の最後の日だった。何て律儀な人だろう。

満87歳だが、数え年だと年を越したので89歳になるのだそうだ。何だか、急に二つも余計に歳をとってしまったみたいで、ちょっとかわいそうなような気がする。

正確な年数は聞いていないが、父は30年以上の間、このT病院に医師として勤めた。父の医師としての人生は、T病院一筋だった。産婦人科だから、時間を問わず、病院からの呼び出しがくる。夜中や明け方に、父が家を出て行ったり帰ってきたりした足音を、私は今でもよく覚えている。

晩年はいくつか病気をして、何箇所かの病院にお世話になったが、最後には、父のホームグラウンドであるT病院で、第二の家族のように思い信頼していたお医者様方、看護師の方々、事務スタッフの皆さんに大切にして頂き、見守られながら旅立つことができたのは、父にとって本望だったのではないかなと思う。

裏表のない人だったから、誰に対してもそうだっただろうと思うが、私たち家族にとっても、常に穏やかで優しい父だった。

どうもありがとう。さようなら。

(この稿は、告別式で行った喪主挨拶に手を入れて、書き留めておくものです。)

2008年1月 1日 (火)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

旧年中はいろいろとお世話になり、ありがとうございました。いろいろ至らないことやうまくいかなかったことも多々ありながら、皆さまのおかげで、何とかつつがなく(?)暮らしております。

それにしても、身の回りの方々の体調不具合を聞くごとに、健康の大切さをしみじみと感じるこの頃。あ、私は元気ですけどね。ホント、昔から言われるように、「命あってのモノダネ」ですから、無理、無茶を続けないようにしたいものです。

このブログを訪ねてきてくださっている皆さまのご健康をご多幸を、心よりお祈りいたます。

本年も、このブログともども、どうぞよろしくお願いいたします。

2008.元旦

きっきぃ@吉川和夫

2007年12月31日 (月)

名句

もはや若い方はご存知ないかもしれませんが、中村伸郎さんという舞台の名優がおられました。

洒脱な俳句というか川柳というか、詠んでおられる中に、こういう句があります。

「大晦日 俺のことならほっといて」

大晦日の夜になると思いだす。名句だよなぁ・・・。

・・・皆さま、どうぞ良いお年を。

2007年12月 6日 (木)

予期せぬ出来事

予期せぬ出来事って、起きるものだな・・・。

昨日、学校の某部屋の鍵を開けて中に入り、ふと手に持った自分の鍵を見て仰天、目を疑った。

Photo 先端から中ほどまで、引きちぎられたように折れている。

げっ!・・・もしかして・・・と思ったとおり、折れた先端は鍵穴の中に残ってしまった。

たしかに、前からちょっと開けにくい扉だった・・・と、同僚たちは言う。私の持っていた鍵が、やや曲がっていたこともわかっている。でも、無理にこじ開けたわけではなくて、力はほとんど入れなくても、抵抗なく回ったのに。

主任は、「カギ食い虫いるんだよ~、穴の中にぃ~。」とか言うし、Tルせんせは怯えて叫ぶ。日曜大工得意だったら直してもらおうと思ったのに。一緒にいたさとうやまなんか、mixiに記事書いてるし。

すぐに来てくれた施設課の人も苦笑。「このタイプのシリンダー、今はもう使ってないんですよね~。ピッキングとかにやられるから。」などとノンキなことを言われ、それを聞いたさとTせんせは、「んなこと言って威張ってないで、だったらさっさと取り替えろ~!」と怒っている。最近、忙しいものだから少々機嫌が悪いのである。

呆れて見とれてしまうほど、あまりにも見事な折れ方なので、写真撮ってみた。鍵穴に挿して回すと、ちゃんと鍵は動く。だから、この鍵でならば開閉できます。なお、防犯上、どこの部屋であるかは内緒。

2007年12月 3日 (月)

はらこ飯のふるさと

先月はコンサートのことなど、いろいろ書いておきたいことがあるのですが、あとから少しずつ書きます。

昨日、ひょんなことから、はらこ飯を食べに行くことになりました。いろいろ謎の多かった(?)はらこ飯ですが、何とその起こりは、仙台の南にある亘理というところの郷土料理なのだそうです。

そして、あのウィキペディアに詳しく書いてあったので、びっくりしました。「はらこ飯」で検索してみてください。

それによると、亘理は阿武隈川の河口の地域ですが、ここでは鮭の地引網漁が盛んで、大漁の祝いに振舞ったのだとか。知らなかった。

Photo この地域には何軒か郷土料理のお店があるようですね。私が行ったのは、「田園亘理店」。日本食のファミリーレストラン風ですが、とても美味しかった!駅弁の「はらこ飯」もそれなりに美味しいと思うけど、やっぱりご飯が温かいのは嬉しい。ノリの味噌汁も美味でした。

もう少し後の季節になると、「ほっき飯」が始まるんだそうです。仙台から高速を使えば40~50分くらい。また行きたくなりそうです。

2007年11月20日 (火)

父のこと~夢の国の住人

週末、約二週間ぶりくらいに、父を見舞う。

父は、驚異的な(?)体力、免疫力で、どうやら肺炎を乗りきったようだ。二週間前、大きな音を立てていた酸素吸入器は小さなものに代えられ、音もしない。咳もしなくなったし、痰がからんで辛そうなこともなくなった。時折熱を出したりするのが気がかりだが、病室は、概ねとても静かになった。

それにしても、よく眠る。見舞いに行っても、寝顔を眺めているだけのこともある。

一体何を考えているのか、時折何か気がかりらしいことを口にする。

「・・・しておいてくれんかね。」「うん、わかった。心配しないでいいよ。」

が、何が気がかりなのか、私たちにはまったくわからない。もはやほとんどの時間を、夢の国の住人として過ごしているらしい。

名古屋駅には、もうクリスマスのイルミネーションが輝いていた。

Photo

2007年11月17日 (土)

火曜日の昼ご飯

火曜日の午前中に移動するときは、東京駅でお弁当を買って新幹線に乗り込むことが多い。

少し前、東京駅のコンコースに、各地の駅弁を売っているお店ができたので、何か珍しくて美味しそうなものはないかなと覗いてみる。

お弁当「銀河鉄道の夜」。大胆不敵なネーミングだなぁ・・・。

1ジョバンニ「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう。」

カンパネルラ「ああきっと行くよ。」

・・・と包装紙に書いてある。いいけど、どうしてこの部分?

炊き込みご飯に、半分はいくら、半分は鮭のフレークがかかっていて、ホタテやエビなどが乗っている。いくらが星座、鮭フレークが銀河だとでも言う?

2 あ、つまりこれは「はらこ飯」なのだな・・・と、食べ始めてから気がつきました。いくらの醤油漬けと鮭の身をほぐしたものを、炊き込みご飯または白飯に乗せて食べる。駅弁の「はらこ飯」は、仙台駅の定番です。たしかに、東北を代表するご飯のひとつではありますね。でも、それと「銀河鉄道」はどう関係が・・・?

ところで、「はらこ飯」って、宮城や岩手以外にもあるのかなぁ・・・。

2007年11月10日 (土)

こどもたちへ メッセージ2007

Photo作曲家協議会主催、カワイ出版とタイアップ企画の「こどもたちへ」。

毎年、作曲家協議会の会員が子ども用のピアノ小品を書き、曲集として出版し、自作自演のコンサートを催す。もう23回目、今年は37名の作曲家が参加。あと2回くらいで、総計1,000曲になるという。

今年もお話をいただいたので、「ドミレソ」というタイトルの曲を書いた。「ドミレソ」というフレーズが、2小節(後には1小節になったりもする)ごとに繰り返される。パッサカリアとかシャコンヌとか、そんな大それたものではないけれど、そういう仕掛け。

去年は連弾で「ミミファラ」というタイトルの曲を書いた。曲の冒頭の音をそのままタイトルにしてしまうというのは、知る人ぞ知る北村大沢楽隊のやり方を真似たもの。この方法が良いのは、ヘンテコな嘘臭いタイトルを考えなくて済むことだ。子ども向けだからといって、子ども騙しのようなタイトルは付けたくない。

自作自演というのが厄介で、ピアノが上手い作曲家の方々は良いけれど、私のように、ピアノを弾くっていうだけで珍しがられるような手合いにとっては、大変ユウウツである。でも、紀尾井ホールの舞台に立ってみると、少しだけ楽しかったりもする。11月10日にあった今年の演奏会では、ちょっと間違えてしまったけれど、人にはあまりわからなかったみたい。所詮実力がないのだから、まぁこんなものだ。

Photo_3 今年出版された楽譜は2冊。私のは「その1」に入っているが、「その2」には、羽田健太郎さんの遺作が収められている。「ゆびずもう」というタイトルのその作品を、演奏会では寺嶋陸也さんが初演した。ムードに流れることなく、鍵盤上での指の遊びを展開した良い曲だ。それまでの羽田作品とずいぶん趣が異なっている感じがする。

左下のリストからも、この楽譜の情報を見ることができます。

2007年11月 9日 (金)

秋も深まり

「せんせ、実習校に御礼の手紙書くんですが、時候の挨拶って何て書けばいいですか」

「えっと・・・『秋も深まり、こんにちは』でどうだい。」

アドバイスにも何にもなってやしない。でも、親しくお世話になった先生たちに出す御礼状ならば、手紙の書き方事典に載っているような紋切り型の文言でなくても、書きたいと思うイントロで始めれば良いのではないかな。それとも、どこかから写してきたような時候の挨拶でなければ、礼をわきまえない奴だと思われたりするかしら。

01 02 ふと気がつくと、青葉山は本当に秋が深まり・・・というより、ほとんど冬に近い景色になっています。

03 04

教材開発や小学校免許のための授業で植えられた花々がきれいに咲いています。

ところで、秋とは関係ありませんが、今日新宿から乗った電車で、前に立っていた女子高校生さんが、ずっとルービックキューブをやっていました。最近、また流行っているのだそうですね。

ものすごく慣れた手つき。すばやく回しながら、時々止まって考え、またすばやく回していく。

始めてから5分くらいして6面の色が揃った、わぁすごい!・・・と思う間もなく、一瞬おいてまたバラバラにして・・・。

結局、私が電車から下りるまで20分くらいの間に、彼女は6面を4回(!)揃えました。面白いから、ずっとその手元を見ていました。

凝っている人にとっては、それほどのことではないのかも知れないけど、私にはその高校生さんがすごい天才に思えます。

2007年11月 1日 (木)

40,000ヒット

ふと気がついたら、カウンターが40,000ヒットを突破していました。どうやら、今日の昼間に大台に乗ったようです。

過去に一度、ここのURLの引越しをしたのですが、その時すでに10,000ヒットを超えていましたから、設置から累計すると、50,000以上になると思います。

こんなに更新を怠けているつまらないブログなのに、多くの方に来ていただいてありがたいことです。今後ともよろしくお願いいたします。

父の様子を聞くために母に電話したら、ひと言目が「勝ったねぇ!」でした。

おめでとう!中日ドラゴンズ。53年ぶりの日本一!

つまり、私の歳と同じだけ、日本一になれなかったというわけですね。当時母は、私を産むために実家にいて、その近くで優勝パレードを見たそうです。集まっている人も少なく、さびしいパレードだったとか。今年はそんなことはないでしょう。中村紀のシリーズMVPは良かったなぁ。

日本ハム・ファイターズも、東京ドーム時代に時々観に行っていたし、ダルビッシュは仙台出身だから、対戦相手としては、個人的には興味深かったです。去年のリベンジ、しちゃいましたね。

父は、あいかわらずのおとぼけぶりのようですが、肺の中がずいぶんきれいになってきましたと、先生に言われたそうです。このまましばらく落ち着いてくれることを祈るばかりです。

2007年10月27日 (土)

父のこと~こんにゃく問答

私が駆けつけてからの数日、父の容態は一進一退だった。厳しい状況を伝えられた翌日は妙に機嫌が良く、このまま快方に向かってくれないかと思っていると、その翌日にはまたひどく咳き込み、熱も下がらなかった。

父は、主治医の先生から話しかけられると医学者の口調になり、看護師さんからの呼びかけには、「はーーい」と、小学生の男の子のような返事をする。熱が少しおさまっている時には、自分から饒舌に話しかけてくる。しかし、私たち家族との会話では、大抵の場合主語がなく、内容はトリップしている。父との会話は、ほとんど「こんにゃく問答」になった。

父「慌ててねぇ。」

私「慌てて?」

父「雪の中を。」

私「そりゃ危ないねぇ。」

父「うん、うん。」

私「滑っちゃって危ないわ。」

父「うん、うん!」

父は、言おうとしていることが通じたと思うと、とても大きな声でうなずく。だが、私が答えている言葉は、あてずっぽうなのである。私も、次第にこのこんにゃく問答を楽しむようになっている。

父「急いでかきこんだんでしょう。」

私「そりゃいかんね。」

父「うん、うん。」

これらの言葉に前後はない。突然、こういうことだけを話し出すのだ。誰が何をかきこんだのか皆目わからない。

父「6月くらいまで、おじいさんがおらっせたけど」

私「おじいさん?どこのおじいさん?」

父「栃木県!」

私「栃木県?」

父「うん、栃木県!」

栃木県におじいさんの知り合いはいないはずなのだが・・・。

かと思うと、「アメリカ人は、栄養過多だなあ」と、えらくまともに直球を投げてくることもあれば、「もう少ししっかりしたものが出んと売れんなあ」と嘆いてみたり、「いかんなあ、こういう食べ方は。しっかり食べにゃ」と諭してみたりする。「なぁにやっとる。いい気なもんだ。ははは」などと笑う時は、かなりご機嫌なのだろう。

言葉がはっきりしないことも多い。

父「・・・・・・だ。」

私「え?」

父「・・・・・・・・・だ。」

私「そうか、大変だね。」

父「何がぁ?」

何がぁとか、いきなりマジに問い返さないでほしい。私はあてずっぽうを言ってるだけなのだから。

それにしても、この人は今、一体どんな夢を見て生きているのだろう。そして、なぜこんなに饒舌なのか。元気な時は、自らしゃしゃり出て座を仕切るというようなことは一切なく、みんなが話しているのを聞きながらにこにこしている、どちらかといえば口数は多くない人だったのに。

私自身は、ボケるのは嫌だ、ボケるくらいなら、さっさといなくなってしまった方がいい・・・と思っていた。だが、それは命の危機を間近にしたことのない無邪気な言い様だと思い知らされる。頭がはっきりしていて身体が辛そうなのと、多少ボケていても元気なのと比べたら、家族としては、少しくらいボケていてもいい、一日でも長く生きてほしいと切実に思うのだ。

2007年10月24日 (水)

父のこと~診断

朝、父は一人で病室にいた私に気づいた。

「来たんかね。」

「うん、どう?」

「あぁ…変わらんねぇ。」

この言い方は、ふだんの父と全く変わりなく、自分から私に気づいてくれたことが嬉しかった。

痰がからむのでしきりに咳をする。何回かに一度、まとまった出てきた痰を拭きとってやらなければならない。だが、胸のあたりにつっかえたまま、なかなか思ったようには出てこないので、苦しそうである。

「どう?出る?口の中に溜まってる?」

「いや。」

「焦って咳こむとくたびれちゃうから…。」

「あぁ。」

しばらくして、父が言う。

「にょうをね。」

「ん?」

「にょうをね、だす。」

「尿?導尿してあるよ。」

「尿…出たいのに…。」

「あぁ、尿を出したいのに出ないみたいな感じ?」

「うんうん。」

苦しみながら吐いた痰について、「今のは右側(の肺)から出た」「肺炎の時の痰みたいだな」などと、「診察」している。眠ってばかりいるが、主治医の先生から状態を話しかけられると、○○という薬打ってもらったから、もうちょっとこうなるはずだがなぁ…と、うわ言のように言う。

父は医者だった。今入院しているのも、若い頃から定年まで、勤務医として勤め上げた公立病院だ。リタイアしてから、もうずいぶんになるが、まだこの病院には、父に世話になったと言ってくださるお医者さんや看護師さんがいらして、「先生、お加減どうですか」などと話しかけてもらっている。

しばらくして、父は言った。

「…に送るようなことはないかね。」

「え?」

「せんもん」

「専門?」

「専門に送るようなことはないかね」

「うん…。」

「熱のある人もおらんかね」

「うん…。」

私は「うん」と答えているが、あてずっぽうなのだ。父が、何について話そうとしているのか、わからなかった。

「それは…じゃないの」

「え?」

「それはいいじゃないの」

どうやら、この、かつての名古屋T病院産婦人科部長は、夢の中で勤務中らしいのだ。患者さんたちの様子を婦長さんに訊いている会話と思えば、説明がつきそうな気がする。

この日、主治医のI先生が、病歴と現状を、私一人に丁寧に説明してくださった。「私も先生にお世話になりました」とおっしゃるI先生は、最後に、「こうなると・・・厳しいです。2~3日目あたりで新しい局面を迎えるかも知れません。」と、絞り出すように言われた。

厳しいことを言われるのも覚悟していたつもりだったが、足が震えた。

2007年10月23日 (火)

父のこと~呼び出し

10月23日(火)、授業を終えて研究室に戻ってくると、携帯に何件もの着信記録。嫌な感じがして、すぐに連絡を取る。

父は、6月頃から体調が良くなかったようだが、暑かった夏が過ぎても回復せず、10月4日から念のためにということで入院していた。ところが、嘔吐したものが肺に入ったことが原因で誤嚥性肺炎を起こし、厳しい状態だという。

事態の急変に、とまどった。電話の先で、母は来なくてもいいと言うが、話の内容とはまったくかみあっていない。しばらくして、母から再び着信。「やっぱり来てもらおうかなぁ」と、母としては異例の言い方が、事態の重さを伝えた。

身内が緊急事態にある中、平常心で授業をするのは難しい。次は少人数の授業だったことを幸いに、学生くんたちには申し訳なかったが、課題を出すだけで打ち切らせてもらう。
仙台を18時26分に発ち、名古屋に着いたのは22時前だった。病院へ直行する。

父は、眠っていた。その身体は、老いて一回り小さくなり、点滴のチューブや酸素吸入などで機械に繋がれた様子は哀れに思わずにはいられない。頭の中を冷たい風が吹き過ぎるような気分だった。

2007年9月 7日 (金)

台風

台風9号は、小田原付近に上陸、関東を直撃したのち、日本列島に沿って東北へと上がっていきました。東北は大丈夫だったのかな・・・。

これほどストレートに関東を襲うのも珍しいし、上陸した後も「台風」のままで東北へ向かってくるのも珍しいことです。仙台で、「関東に台風が来た、もうすぐこちらへ来るぞ!」と待ち構えていても、大抵は「台風」ではなくなっているし、長旅の疲れからか衰えていて、激しい風雨をもたらすことはあまりないようです。

4日の夜仙台に移動、あ、それは台風ではなくて私の話です。5日、6日は大学の仕事が次々とあって、嵐のような二日間でした。特に6日は、午前中附属中学校へ教育実習の参観に行き、午後は委員会、卒業研究のお付き合い、作曲の授業発表会の打ち合わせ、そして、その合間には二人の学生くんが相談に来たり。夜は某ピアノコンクールの実行委員会の会議。

仙台では、空を見上げると、今日は傘は持って出なければ・・・という空模様でしたが、ほとんど降らず、午後などは晴れ間も覗いていました。ただ、とても蒸し暑かった。

夜の会議が終わってから、最終のこまちで神奈川に戻ることにしていたのですが、台風は一刻一刻近づいていて、関東はかなり影響が出てきているらしい。

こまちはちゃんと東京まで行くかしら。また、東京まで行けたとしても、自宅までの電車がちゃんと動いているかなぁ・・・。最悪なのは、途中で運転見合わせになって、車内に閉じ込められてしまうことです。今夜は仙台に泊まって、明日戻ろうかとも思ったけれども、明日は台風がこっちへ来てしまう。それに、戻らないと明日仕事ができない。

相変わらず蒸し暑いのと、ちょっと変な風が吹いている以外は何事もなし。傘は、結局今日一日、持ち歩いただけ。こまち号は、仙台駅を定刻21時26分に発車しました。

福島を過ぎた頃、雨がぽつぽつ降り始めました。那須塩原あたりからは、雨が窓に激しく打ち付けられるようになりました。嵐のような一日が終わって、本当の嵐の中へ突入です。快調だったこまち号も、さすがに徐行運転。在来線の運転状況を知らせる車内放送が流れるたびに、不通路線が増えていきます。

ところが、大宮に着く頃には、雨がひどく降った跡は見てとれるけれど、まったく静かになっていました。ありゃ?もしかして、もう台風の眼に入っちゃったんだろうか。結局10分程度の遅れで東京駅に着いたときも、時折突風が吹き抜けるほかは、拍子抜けするくらい静かでした。一時不通になっていた中央線は運転再開しているというので、中央線快速ホームへ。

まもなく発車しますので、ご乗車になってお待ちくださいと言うのだけれど、なかなか発車しない。後続の列車が遅れているから、運転間隔が離れ過ぎるのを回避するため時間調整中・・・ただいま後続の電車は国分寺付近を走っております。まもなく発車しますので・・・って、おいおい、国分寺から来る後続を待つのじゃ、「まもなく」じゃないだろう。「まもなく」の目安がどのくらいの時間なのか、説明してほしいよね、もう深夜なんだから。

別のルートを取ろうかと、腰を浮かしかけたとき、慌てたように発車のベルが鳴った。快速の予定でしたが、各駅停車として運転します・・・。

新宿でも、ホームに雨が降りこむこともなく静かで、不気味にガラガラの私鉄準急に乗る。いつもこの時間は、酔客で満員なんだけどね。まともな人たちは、もうとっくに家に帰ってしまったのでしょう。

世田谷を過ぎるあたりで突風。同じ車両に乗っている人たち、それぞれ本を読んでいたり、携帯をいじっていたりするのが一斉に顔をあげる。多摩川を渡る頃には、だんだんひどくなって、最寄り駅に着いたら、傘も飛ばされそうな暴風雨。しかし、どうにか午前1時前には、自宅に辿り着きました。その後、風雨はさらに強まり、午前2時くらいに上陸した模様です。

今日のニュースによれば、酒匂川の橋が折れたり、西湘バイパスが崩落したりして、かなり被害があったようです。多摩川を濁流が走る映像を見て、30年前の台風を思い出しました。

1974年9月1日、後に山田太一が「岸辺のアルバム」というドラマに描くことになる多摩川堤防決壊をもたらした台風の日、私は、その狛江大水害の地のすぐ上流に住んでいました。大学1年でした。川からは少し離れていたので被害はなかったのですが、ひっきりなしにサイレンが鳴って、異様な雰囲気だったことはよく覚えています。その日、川岸の、新築を含む19棟の住宅が、濁流に飲み込まれたのです。

あの頃と何が変わったのでしょうか。河川は整備されたし、情報伝達手段も格段に増えたから、被害を最小限に食い止められるようにはなった。でも、それとともに、少し畏れを失っているようにも思います。橋が折れたり、濁流に家が流されたりする映像は、人間の油断と手抜かりを語っているように思えてなりません。

2007年8月29日 (水)

近況

またまた更新が滞っていて、せっかく訪れてくださっているのに申し訳ないです。

前の記事「還燈会」前後、何をやっていたかというと、何もやっていないんですよね。特別に書いておこうというようなことは。

いえ、もう少し正確に書けば、15日には、以前の同僚である友人のAせんせと、等々力のフロンターレ vs Fマリノスに行きました。ナイトゲームですが、17時半くらいから座っていました。西日が直撃で暑かった。

Fマリノスは、以前は贔屓のチームだったけれど、いろいろあって今は応援するのをやめています。結果は1-2でフロンターレの敗戦。うーん・・・内容は決して悪くなかったんだけど・・・。こういうのって、今の彼女が元カノにいじめられてるみたいで、他のチームに負けたより悔しいなぁ。

某日は、近くのスポーツクラブにビジターとして行って、プールで歩いてきました。生まれて初めて(!)減量を命じられているのです。もう少し頻繁に行けたらいいのだけれど。

そしてまた、別の某日には指圧の先生のところへ行って、毎月1回の身体のメンテナンスをしました。

26日の夕方から28日までは、会議など学校の用事で仙台でしたが、8月上旬以降、ここに挙げた以外の時間は、ほとんど自宅で自己軟禁状態。作曲する器械と化しています。外は猛暑だから、家の中にいるのが賢明とはいえ、どこやらの横綱みたいに、一歩も外に出ない日が続くと足腰が弱らないものか、ちょっと心配になったりもする。

今日も、そして明日からも基本的にはこういう生活が続きます。

いずれ詳細なお知らせを書きますが、現在、抱えている作品が三つあるのです。先週末まで二つを平行してやっていましたが、ようやく一つは一応手放しました。9月の下旬に初演予定です。

一つは、ものすごく大変な合唱劇。公演は10月ですが、まだ全然道半ば。9月一杯はかかるでしょう。あと一つは、まだほとんど手付かずです。初演予定は11月、そろそろ考え始めなければ・・・。

そんなわけで、書きたいことはいろいろあるものの、なかなか手が回らなかったりしています。どうぞお許しを。

Photoだから、目新しい写真もないんだな。私の仕事部屋から見える景色でもお目にかけましょう。ここには、お墓は写っていません。

2007年8月19日 (日)

還燈会

神奈川の家のすぐ北側には、墓地が見えます。

墓地といっても、ひとつの丘陵をまるごと拓いた公園墓地ですから、総面積は20万平方メートル、大変広大です。ここは著名人のお墓も多く、文学者に限って言えば、柳田國男のほか、尾崎士郎、坪田譲治、横溝正史といった人たちも眠っているそうです。柳田國男氏の墓所はわかりやすいので、散歩の途中にお参りしたりします。

宗教・宗派不問の墓地ですが、運営母体は浄土真宗のお寺で、毎年この時期になると法会が営まれます。 場内には、ささやかながら、ワタ飴売りや金魚すくいなどの屋台が並びます。夜8時からの野外の法要の前には、献灯(送り火)、ゲストの演奏や芸能の舞台などもあったようでした。この後催される花火大会がお目当てですが、ちょっと覗きに行ってみました。

Photo_4法要は、小規模ながら雅楽が生演奏され、僧侶によって唱えられる聲明が流れる厳粛な雰囲気。だけどね、時折、そう、ちょうど雅楽の太鼓がドウと打つタイミングで、大音響とともに、スピーカーの上に置かれたバズーカ砲のような筒から、会衆に向かって花吹雪が飛び出すのですよ。ものすごくびっくりしました。

もしかして、これって散華の代わり?散華というのは、諸仏を供養するために、僧侶が聲明を唱えながら、花、もしくは蓮の花をかたどった色紙を撒く静かな儀式なのですが。うーん・・・。

法要の後は、花火大会。

15分か20分間くらいの量ですが、何しろ目の前の真上に上がるので、かなりの迫力です。この行事が済むと、あぁ夏もそろそろ終わりに向かっているなぁと思います。・・・いやいや、まだ夏が終わっては困る!夏休みの作曲が、まだまだたくさん残っているのだから(焦)。

1 2 3 5 花火の写真を撮るのは難しいですね。どうしても火事か爆撃みたいになっちゃうんだな。

2007年8月 8日 (水)

バルサ!バルサ!バールサ!

昨日(8月7日)、アジアツアー中のFCバルセロナと横浜Fマリノスの親善試合を観に、横浜の日産スタジアムへ行く。

同じ組み合わせの試合は2005年以来のこと。なぜかその年、FCバルセロナは2度来日。横浜Fマリノスと2度対戦して、2度とも観に行った。1度目はロナウジーニョは来日せず、ちょっとがっかりだったけれど、デコの技術に目を瞠った。2度目は、後半からロナウジーニョが登場して、目にも止まらぬ足捌きに魅了された。

このたびの来日には、新たにチームに加わったフランス代表・アンリも参加。スタメンが発表されると、ボルテージが一気に上がる。

GK バルデス  DF ザンブロッタ、テュラム、シウビーニョ、オリゲール
MF シャビ、イニエスタ、ロナウジーニョ、トゥーレ・ヤヤ
FW エトー、アンリ

デコがいないのが残念だなぁ、メッシも見たかったなぁ・・・とかあるけれど、しかし何と、ロナウジーニョ、エトー、アンリが揃ってスタメンだ!

Photo開始直前のセレモニー。

クリックすると大きく表示されますが、スーパースターたち、見えますか?見えませんね、残念ですねぇ。

もちろん親善試合だから、本来のスピードではないはずだけれど、攻撃が速い。本当に速い!ワン・タッチ、ツー・タッチでどんどんパスが流れていって、お?意外なところにパスが出たなと思った瞬間、そこへ思わぬところから猛然と走りこんでくる選手(例えばアンリ、ある時はエトー)がいて、ゴール前は一気にピンチになる。ロナウジーニョは、ノールック・パスなんて、いつでも普通にやるんだねぇ・・・。

マリノスのディフェンスはよく凌いでいたけれど、ロナウジーニョ、エトーと回ったパスを、後半、アンリに代わって途中出場した18歳、ジョバニ・ドス・サントスが決めた。美しいすばらしいゴールだった。このメキシコ出身の新鋭の潜在能力は、ロナウジーニョ並み・・・と言われているそうだ。

結局、ロナウジーニョは88分までプレイ。スタジアムが割れそうな大歓声に送られてピッチをあとにした。

2 結果は1-0でバルサの勝利。中央でインタビューで受けているのはロナウジーニョ。見えない?そうだよねぇ・・・。望遠のカメラではないから、悪しからずお許しを。せめて、モニターテレビの画像だけでもお目にかけましょう。

Photo_2 美しくテンポの良い、世界一流のサッカーを堪能しました。

2007年8月 7日 (火)

暑中お見舞い申し上げます

Photo ほぼ一ヶ月ぶりの更新になってしまいました。

あまりにも放置され続けているので、どうかしちゃったんじゃないかと、何人もの方からご心配いただいてしまいました。どうもすみません!

病気でも旅行中でもなかったのですが、7月は、新しい譜面を待ってくださっている方が複数おられるのに加えて、学校の仕事がメチャクチャに忙しく、夜遅く帰ってくるとすぐにベッドにヘタレこんでしまうような生活でした。

今年の春まで、現職教諭の身分のまま大学院の学生として来ておられたSさんが私の様子を見て、「ダイガクのせんせって、こんなに忙しいとは思いませんでした」と目を丸くしていました。

週8コマもの授業を持っていましたから、そのすべてとは言わないまでも、いくつかの授業については事前の準備が必要で、それだけでも一週間がフルになるのに十分ですが、加えて二つの委員会、特にひとつは大学の広報を受け持つ委員会の実働隊長を命じられています。

このほぼ一ヶ月の間に、「大学案内」と「大学院案内」の二つの冊子を発行し、秋に刊行する広報誌のプランを立てて原稿を依頼し、駅前のスクリーンで流れているオーロラビジョンCM番組更新を手配し、大学のホームページと大学案内DVDのリニューアル計画を進め・・・と、これらの仕事を期限に追われながら、リーダーである副学長先生と4人の委員の先生、2人の事務官とでこなすのですから、頭の中がメモリー不足でフリーズ寸前でした。

私が卒業した某大学のように、(今はどうかわかりませんが、当時は)7月になると授業もまばらになって、なし崩しに長い夏休みに突入というのと違って、7月の最後まで授業はあるし、その後もオープンキャンパス、成績提出と、やるべきことがテンコ盛りです。

ようやく二つの冊子は出来上がり、夏休み前に手配すべきことはすべて済ませました(たぶん)。8月1日からは1泊2日の人間ドック、4日からは認定講習。

認定講習というのは、現職の小中学校の先生が免許の種類をグレードアップするために、教育委員会から依頼されて開く講座です。3日間で10コマ、指定されている科目は、「音楽理論、作曲法(編曲法を含む)及び音楽史(日本の伝統音楽および諸民族の音楽を含む)」です。こんな長ったらしい免許科目名の求めるすべてができるわけはありません。ざけんなよ。

10人の受講者の方々には、最終的には三部形式の作曲をしてもらい、それぞれとてもいい曲を作ってくれて楽しかったけれど、仙台では珍しく、最高気温34度なんていうのが続く中、冷房のない教室で(!)勉強するのは楽ではないです。

二週間仙台に居続けましたが、昨晩神奈川に戻ってきました。これからしばらくは、まだまだ譜面を待っている方々のために、作曲優先の生活を送るつもりです。

仙台では、昨日から「仙台七夕」が始まりました。仙台市民は、この期間はジッと家にとじこもって、できるだけ街には出ないようにすると言います。道路は観光バスで渋滞するし、ものすごい人出だし。

そうはいうものの、仙台が一年で一番活気溢れる日ですから、帰りがけにちょっと街に出て写真を撮ってきました。

5 仙台駅コンコースの竹飾りは、一週間くらい前から飾られています。

1 3

4 仙台七夕は8日まで。http://www.sendaitanabata.com/

ちなみに、この記事トップの写真は秋保大滝です。幅6m、高さ55m。「日本の滝 百選」のひとつです。少しだけ涼しげな気配をお届けできたら幸いです。

2007年7月 3日 (火)

ざわざわする風景

6月27日の記事に、nanakoさんが付けてくださったコメント。ご本人の許可を得て再掲し、ここにお返事を書きます。

きっきぃさま、ご無沙汰しております!お元気そうでなによりです。もう10年近く前になるのかな、友達と二人で青森を旅しました。最初の宿だけとって、それ以降はだいたいのコースを決めて詳細はいきあたりばったり。田沢湖のほとりにある、湖畔荘というところから出発しました。途中では六カ所村にもたちよりましたよ。あそこは原発のための大型トラックと自衛隊の車輌が走る、東京生まれ東京育ちの私には、とってもとっても胸がざわざわする、現実の生活がそこにあるとはなかなか思えない村でした。民宿というか、原発で働く人たちが泊まるような宿しかなく(事前に予約したのですが到着すると、二人とも女性とは思わなかった、女性二人では本当は泊められないんだ、と言われました)、なんだか自然と無口になってしまう村でした。でも貴重な時間だったと思っています。
うーん、またあんなふらり旅にいきたいものです!

nanakoさん、ご無沙汰しました!お変わりありませんか。お仲間の皆さんの奮闘ぶりは、いつも座日記で楽しく読ませていただいています。

さて、コメントをありがとうございます。10年前(?)の旅、ロードムービーのようにいろいろ想像しながら、読ませていただきました。行き当たりばったりに旅するには、東北は最適かも知れませんね。どの県にも見どころがあり、美味しい食べ物や温泉にも出会えます。行き当たりバッタリだと、駅に行ってみたら、次の列車まで1時間半待ちなんていう楽しいこともあるかも知れません(笑)。どうぞまた、ふらり旅にいらしてくださいね。

ところで、さすがに六ケ所村には行ったことはありませんが、東京都心を離れると、たちまち原発やら自衛隊駐屯地やらにぶつかります。今回も、青森駅から美術館へ行くタクシーは、駐屯地の敷地を避けて迂回していきました。仙台駅からローカル線で4つ目の駅前にも駐屯地があります。どちらも、その都市の中央駅からさほど離れていない、市民生活圏の真っ只中です。

東京近郊にも駐屯地や基地はあり、親戚の家に行くと、厚木基地に離着陸する飛行機のものすごい爆音が聞こえたりします。でも、都心やその周辺だけで生活していると、そんな現実社会があることを忘れてしまいます。

仙台の学校に勤め始めて間もないある日、朝から遠い地鳴りのような音が聞こえていました。何だろうな・・・と、時折不気味に響く低い音を気にしていましたら、今日は王城寺原演習場で演習をやっているんですよと、事務官の人から教えられて、びっくりしました。こんなところまで聞こえるの!?演習場から大学までどのくらいあるでしょう。少なくとも泉ヶ岳という山の向こうです。同じ県内とはいえ、かなり距離はあるはずです。

私はかつて、一度だけ仙台の駐屯地の中に入ったことがあります。入隊を志願したのではありません。宮城で開かれる国体のために、ファンファーレのひとつを作曲したのですが、北部方面音楽隊がその模範演奏録音をしたのです。

敷地の中に入ると別世界。何やらとても静かで、当然かも知れませんがゴミひとつ落ちていない。そして道はまっすぐに整備され、同じ規格の建物がずっと並んでいる。少し古い団地か学校に迷い込んだ感じですが、もちろん子どもの声も聞こえないし、井戸端会議をする奥さんたちの姿もありません。つまり生活感がないのです。どこかで見た景色だな・・・と思って考えてみると、それは中国でした。長春かハルピンの郊外の団地だか学校だか。共産主義国家とここの景色が共通しているって、何だか微妙です。

音楽隊の人たちは、練習とはいえ制服を着て演奏します。指揮者は、巷のオーケストラなどと違って、絶対的地位にいることがわかります。私などには、にこやかでとてもフレンドリーでしたが、演奏者たちには部下に接するような感じでした。休憩になっても、演奏者たちは冗談を言うでもなく、喫煙所に集まる人たちも黙々と煙を吹いているだけで、話しかけてみても必要最小限の答えを返してくれるだけですから、こちらも思わず無口になりました。

おっと・・・話がそれてしまいましたね。災害救助に出動してくれる自衛隊には感謝しなければならない。でも、その存在の仕方には、時として少なからず胸をざわざわさせられると言わざるを得ません。そして、同様に胸をざわめかせる原発も米軍基地も都心にはなく、地方が危険と隣り合わせで引き受けているのです。那覇空港に降り立つ飛行機の窓から、米軍や自衛隊のトラックが並ぶ空港の様子を見て、ざわざわしない人がいるでしょうか。私が学校で聞いた不気味な低い音、あれは実弾訓練だったのかどうかわかりませんが、現実に実弾訓練をしている演習場もあるのです。

都心の空き地に、小じゃれた何とかヒルズなんていうものばかり作らないで、六本木だかお台場だかに、原発でも駐屯地でも基地でも作って実弾訓練でもすれば、ざわざわする人がもっと増えてこの国も少しは変わるのではないか。暴言の謗りを承知で、そんなことを思ったりします。

長話になってごめんなさい。湿度の高い日が続きます。どうぞご自愛ください。

2007年6月27日 (水)

あおもり犬とフォトアルバム公開のお知らせ

「あおもり犬」、面白いからここにもリンクを貼っておこう。

http://www.pref.aomori.lg.jp/plan/koukoku/aomoriken.htm

美術館が三内丸山遺跡の隣であるということを意識して作られた、と何かで読んだ。地面を掘り起こしていたらこんなの出てきちゃったよ!・・・というような構え。高さ8.5メートル。デカイのだ。残念ながら、今回はそのエリアが工事中で、実物を見ることが出来なかった。

「あおもり犬」という名前は、実は仮称で、もっとふさわしい名前をと公募したら、「そのままでいい」という意見が多かったので正式な名前になったのだとか。私も、そのままでいいと思う。

弘前、青森関係の写真、少しですがアルバムにして公開します。左サイドバーのカレンダーの下、「最近の記事」の上にある「弘前・青森(2007.6)」をクリックしてください。サムネイル(縮小画像)が並んでいますから、クリックするとアルバムのように表示されます。時間のある時にでも、ご覧になっていただけたらと思います。

2007年6月26日 (火)

青森へ

23日お昼前に弘前を発つ。八戸までの直通特急と時間が合わなかったので、青森行きに乗る。それならばと、下車したことのない青森で降りてみることにした。

弘前は駅舎が新しい。それに、駅と繁華街が少し離れている。公園の周囲は静かだ。城下町であり、洋館が並び、老舗の和菓子屋さんが多いという、品格のある街である。

青森は対照的。駅舎はいささか歴史を感じさせるし、改札を出た途端に生活者たちのエネルギーが伝わってくる。青森がニューヨークならば、弘前はワシントンD.C.か。青森駅に入線する列車の窓から、ストリップ劇場と思しき小屋や、いかにも場末然としたスナックのシャッター閉じたままという景色が見える。かように、侘しくも猥雑な光景は弘前では見られなかった。だが、こういう光景、私は決して嫌いではない。

人々は活発に行き来する。だが、東京の人々のように、足が地面から浮いた軽々しい慌しさではない。駅前の通りには居酒屋や食堂が並ぶ。小ぎれいではないが、素朴に美味しいのではないかと想像してしまう。道を歩く高校生たちの津軽弁はやわらかく、愛らしくさえ思える。

Photo_43 駅前のファッションビルの地階、「新鮮市場」と書いてあったので下りてみたら、いきなりこういう市場が、広いフロアにぎっしり軒を並べていて、外観とのギャップにびっくりした。私は、普通のデパ地下を想像して階段を下りてきたのだ(パルコやロフトの地階がこうだったらびっくりすると思うぞ)。那覇・牧志の公設市場に飛び込んだみたい。鮮魚、乾物、青果、酒・・・何でもある。ホタテ、ハタハタ、シマホッケ・・・もちろん売られている魚の種類は沖縄とは違う。

2_19 市場の中に何軒か食堂があって、その名も「市場食堂」という、おばさんが二人くらいでやっている食堂に入ってみる。入るといってもカウンターだけで、のれんもないけれど。

注文をしてぼんやりしていたら、隣でざるそばを食べていたおじさんがつっと立って、セルフサービス機からお茶を淹れ、何も言わず私の分も差し出してくれた。慌ててお礼を言う。よく見ると、「お茶はセルフサービスです」と書いてある。ざるそばなどメニューにないのだから、お店の人だったのだろうか。だが、食べ終わると食器をおばさんに渡し、どこかへ行ってしまった。

ホタテ、ウニ、イクラの三色丼。小鉢と香の物、味噌汁がついて1,800円。新鮮なホタテの美味しさ、甘さに驚嘆!都会モンにとって、この味でこの値段は決して高くない。

Photo_44 腹ごしらえをした後は、青森県立美術館に行ってみる。青森駅から車で15~20分、タクシーで1,500円ほど。三内丸山遺跡に隣接する総合公園のだだっ広い敷地の中にある。雪の塊のように真っ白の建物で、内装も真っ白。「かまくら」に入っていくような感じだ。昨年7月にオープンしたばかりとのこと。

青森県立美術館→ http://www.aomori-museum.jp/ja/

圧巻なのはアレコホールという4層吹き抜けの巨大空間。ここに、シャガールがバレエ「アレコ」のために作った4枚の舞台背景幕のうち3枚が常時展示されている。幅15m、高さは9m。

「アレコ」という作品はラフマニノフのオペラがあるけれど、こちらはアメリカン・バレエ・シアターのもので、音楽はチャイコフスキーのイ短調ピアノトリオを編曲したものだという。実に見事な美しい3枚の背景幕に囲まれ、用意された椅子に座ってぼんやりするのは、とても贅沢な時間だ。ここに座るためだけでも、この美術館を訪れる価値はある。

企画展は特にやっていなかったが、常設展が二つ、弘前大学の先生でもあった村上善男の個展と、「都市の空気、故郷の土」と題して、青森に縁のある10人の作家の展示。

「都市の・・・」では、塗装工事中のために奈良美智と寺山修司の展示室が見られなかったのはとても残念だった。ただ、奈良美智はいくつかの小さな作品と「フラフラガーデン」を見ることができたけれど。

10人の中には、棟方志功はもちろん、成田亨も含まれている。ウルトラマンや怪獣のデザインを手がけたこの人の両親は青森の人で、彼は元々彫刻家だったということを、今回初めて知った。

小島一郎という写真家のことも初めて知る。1924年生まれ、64年に39歳の若さで没した。津軽と東京を撮った白黒画面はいずれも暗く幻想的だが、かえってそのために強烈なリアリティを放っている。もっと作品を見てみたいのだが、その機会がほとんどないのが残念。

三内丸山遺跡は美術館から歩いて10分くらいだから帰りに寄ってみたらいいと、タクシーの運転手さんが勧めてくれた。だが、夏でもこんなに暑くないと運転手氏が言うほど暑い日で、朝から歩き回って疲れたし、東京まで移動することを考えるとそろそろ限度かな・・・ということで、三内丸山遺跡はまたの機会に。

Photo_46 そのかわり(?)、こんな子を連れて帰ってきた。奈良美智のデザイン。

追記。この美術館には奈良氏製作の「あおもり犬」という傑作がある。→ http://www.pref.aomori.lg.jp/plan/koukoku/aomoriken.htm

2007年6月25日 (月)

弘前へ(2)

23日(土)、青森県に足を踏み入れる機会は滅多にないのだから、ひとりで気ままに散歩しながら帰ることにする。

Photo_40 弘前公園の近くには、明治期に建てられた洋館が多く残っている。キリスト教布教が盛んに行なわれた影響だそうだ。

青森銀行記念館(重要文化財)は、外観も中も、とてもすばらしい。元は第五十九国立銀行として建設されたもので、ここでも貨幣を作っていたらしい。中には、この建物と銀行の歴史を物語る資料が展示されている。

Photo_41 この八角形3階建てのツインタワーは、旧弘前市立図書館。小ぶりの机と椅子が並ぶ婦人閲覧室や、司書さんが座っていたのであろう受付などを見ていると、昔の人々の気配が感じられるような気がする。小さな建物だから、現代の図書館としては役に立たないだろうが、この落ち着いた佇まいは安堵感がある。知識が身につきそうな図書館なのだ。

Photo_42 弘前公園はとても広いので、少しだけ歩くことにした。弘前城は、東北で唯一、天守台が当時のまま残っているというお城。桜が有名だけれど、この時期、公園全体を覆っている緑も大変美しい。

2007年6月24日 (日)

弘前へ(1)

最近、記事の更新が滞りがちになっています。何か書いているんじゃないかと訪れてくださっている方々には申し訳ないです。元気なのですが、仙台にいる平日は、何しろ8コマ(!)もの授業をかかえていて、準備が必要なものもあるし、それ以外にも委員会の仕事などもあって、夜にはすっかりくたびれてしまうのです。少しずつ更新しますので、どうぞご寛恕ください。

さて、6月22日(金)は授業を休講にさせてもらって弘前へ。昨年も6月23日付けの記事で秋田に行ったことを書いているけれど、今回もその時と同じ用件。東北六県の教員養成系大学の音楽教員が集まっての会議。

仙台から東北新幹線はやてに乗って、八戸で特急に乗り換え。

Photo_39 あれ?海が見えるぞと思ったら、陸奥湾だった。浅虫温泉はこの湾沿いにある。

2_16 停車駅の少ないタイプの特急に乗ったから、途中停車駅は青森だけ。ここで列車の進行方向が変わるから、各自座席をひっくり返しなさいと放送がある。

仙台を発ってから2時間50分ほどで弘前に着いた。前に弘前に行ったのは12年前だと思うが、盛岡からバスだった。何だかやたらと遠かった印象があるのだけれど、今回はそれほどでもないように感じる。でも、2時間50分ほどというのは最短で、八戸と弘前を結ぶ特急の本数が多くないから、時間を選べない。

さて、弘前と言えば、ねぷたとリンゴ。

2_17 これは弘前駅前で見かけた郵便ポストです。「りんごのまち弘前」だそうです。こんなところにまでリンゴ置かなくてもいいのに。

午後に始まった会議は、夕方、無事終了。微妙な雰囲気とも言えるけれど、かつて連帯していた旧国立大学「東北六県の教員養成系大学」は、今はお互いにライバルになってしまったのだから、仕方のないことかも知れない。弘前の、微妙に暮れゆく空。

Photo_38

2007年6月14日 (木)

観世榮夫さんを悼む

6月8日の夕刊で観世榮夫さんの訃報を知って驚いた。先月、大きな交通事故で重傷を負われたと報じられていたので、心配していたのだが・・・。

1999年、オペラシアターこんにゃく座のために私が作曲していたオペラの演出を、「観世さんにお願いしたら」と提案してくださったのは林光さんだった。演目は、いずれも宮澤賢治原作「フランドン農学校の豚」「虔十公園林」の2本立て。観世さんがこんにゃく座の演出を手がけるのは1977年以来とのことだった。座としては、親しい位置にいながら、一緒に仕事をすることのなかった演出、作曲で、刺激を期待したという面もあっただろう。

音楽稽古の時には、よく手で膝を打ちながら聴いておられた。張り扇で拍子を取りながら謡を稽古する時のようで、おそらくそうやって音楽を覚えようとしてくださっていたのだろう。ただ、張り扇の拍子はしばしば音楽のテンポとずれていたから、ちょっと厄介だったけれど。

およそ細かい指示を出さない演出だった。こんにゃく座が、自分たちだけで芝居を作っていける力を持っているカンパニーだからということもあっただろう。「こうなるのは良くないね」という限界を示されるだけで、「このようにさえならなければ、あとはどのようなのも有り」で許容範囲が大変広く、お釈迦様ならぬ観世さんの、半端ではなく広大な掌の上で遊ばせてもらっていたようだった。しかし、もう少し細かくアドバイスしてほしいと思ったメンバーもいたに違いない。

そんなわけで、立ち稽古でも歩き回り怒鳴りまくるようなことはなく、演出席に座って黙ってじっと観ておられた。ただ、あの風貌である。ぎょろりとした目の怖い顔が座っていると、それだけで場は引き締まる。決して怖い人ではなかったが。

稽古が終わって、最寄の駅に向かってみんなでぞろぞろ歩いていく。どこにも寄らずに帰るのか?と直接言われたわけではないが、「ちょっと寄っていきませんか」と誰かが声をかけないではいられない空気が漂った。「そうだねぇ」と飲み屋の戸をくぐるのは嬉しそうだった。

酒席におさまって、「あの場面、どう考えたらいいですかねぇ」と誰かが問う。「そうなんだよな、あそこ難しいんだよな・・・」とおっしゃる。・・・それを考えてくれるのが演出家なのでは?と思わないわけではないが、つまり徹頭徹尾、強権的な演出家ではなく、みんなで作り上げていくチームの、自分もその仲間のひとりというスタンスだったのではないかと思う。だからこそ、一度は能楽の世界を飛び出して、小劇場や映画で目覚しい活躍ができたのだろう。

とてもリアリティのある音楽だと褒めてくださった。そして、顔は怖いままだったけれど、この仕事が楽しそうだった。稽古を観ながら寝てしまわれたこともある。役者が演技をしながらわざとらしく近寄って、大きな声を出したりしたが起きない。くすくす笑ったり呆れたりするメンバーの中には、そんな様子が父のように愛しいと言って慕うスタッフもいた。

私は、観世さんの本職である能の舞台を、ほとんど観る機会がなかったが、「子午線の祀り」をはじめとする舞台や新藤兼人監督作品の映画などは学生の頃からいろいろ観てきたから、私が作曲したオペラを演出してくださったのは、とても嬉しいことだった。

享年79歳。残念でならない。心からご冥福をお祈りする。

2007年6月 2日 (土)

キヨトのこと

Photo_34 久しぶりに精養軒に行こうとしたら、道に迷ってしまった。

毎日この公園を、自分の庭のように思って歩いていたのに情けない次第だが、考えてみれば、あの頃上野の学生にとって精養軒は高級なレストランだから、食事に行ったりすることはほとんどんなかったのだ。それに、長い年月の間に木々が育ち、葉が鬱蒼と繁って、建物や昔風の看板が見えにくくなった。

精養軒に向かったのは、旧友規世人の27回忌に出席するためである。

友人以外で、高木規世人の名前を知る人はほとんどいないだろう。学生の頃から、アマチュアのオーケストラや合唱団などの指揮はしていたものの、卒業後まもなく、H. リリンク氏を慕ってドイツに留学。まだまだ修行中の身だったからだ。しかしあの日がなければ、今頃はベテラン指揮者として世界的に名の知れた存在になっていただろうと、彼を知る誰もが思っている。26年前のあの日さえなければ・・・。

1981年6月2日、シュトゥットガルトからフランクフルトへ向かうアウトバーンで、事故は起こった。突然左後輪が外れ、車は道路から飛び出して横転。2人の楽友とともに、規世人は帰らぬ人となった。享年27歳。同乗していた楽友のひとりは、有名なチェリストとなったミッシャ・マイスキーのお兄さんだったと、最近になって知った。

ご両親や兄上、姉上の心遣いで、区切りごとに規世人を偲ぶ集いが催されてきた。23回忌の集まりの後で話が盛り上がって、3年前にはメモリアルコンサートと銘打って、有志による演奏会が開かれた。学年オーケストラの復元(?)もあり、卒業後初めて会う懐かしい顔がたくさん集まってきた。会場は、旧奏楽堂。旧と言っても私たちが学生だった頃には現役の音楽ホールだった。その日は、7月に入ったばかりだというのに真夏を思わせる暑さで、冷房のない奏楽堂は蒸し風呂のよう。汗で肌に張りついたシャツを脱ぐのが一苦労だった。でも、こういう中でオレたち授業受けてたんだよな・・・と誰かがポツンと言った。

そして今日、27回忌にも、同級生を中心に25名ほどが集まった。久しぶりに会う顔ばかりで、この集まりでしか会えない人も多い。

規世人が初めて指揮をしたのは大学の芸術祭。トロンボーン4人が会場のあちらこちらに散らばって演奏するという私の作品もあって、規世人は客席の中央で指揮をした。今日は、当時トロンボーンを吹いてくれた一人であるヨシダ君とも再会した。あんなことがあったから、こうやって(専攻を超えて)集まれるんだよねぇ・・・と、ヨシダ君は言う。

よくさぁ、ソルフェージュ教室の後でキヨトに飲みに誘われたよ・・・と、ユキカズが言う。鮨屋で飲もうとかって。おい、勉強帰りに鮨屋で飲む受験生ってどうなのよ・・・。キヨトとユキカズには、二人でビールをワンケースとウィスキー1本半、一晩で空にしたという武勇伝がある。

不思議なことだが、規世人と実際に付き合ったのはたかだか6~7年に過ぎない。彼がいなくなってからは26年、つまり彼がいなくなってからの方がずっと長いわけだが、その間の時間は凍結してしまったように、思い出は未だに鮮明だ。私一人がそうなのではなく、おそらく友人たちみな同じように思っているだろう。

もし彼が元気だったら、今のように彼のご家族と親しくさせていただくことはなかっただろう。同級生が集まる機会もなかったかも知れない。オレはいないけど、みんな仲良くやれよな!と言ってくれているような気がして仕方がない。

だが、50歳も過ぎた面々が集まると、老眼が進んだだの血糖値がどうだの、話題が爺臭くていけない。

規世人はどうなっていたかな?あいつは人が良かったから、指揮者としては大成しなかったかも・・・。わからんぞ、大成するような嫌な奴になっていたかも知れないじゃないか。太ったと思う、うん、それに禿げてたね、絶対。一人だけ若いまま、毅然とした表情をしているのはずるい・・・と、それぞれ規世人の写真に向かって毒づいている。

2_13 上野駅はずいぶん変わって、小ぎれいな店もたくさんできた。だが、ガード下に無理やり設けたようなオープンカフェから、道の向こう側を見上げると、古いビルがあの頃のまま残っている。真ん中の枠にあった、ピンク映画の毒々しい看板はなくなっているけれど・・・(「ピンク映画」という言葉自体、すでに死語だな)。

2007年5月26日 (土)

日本フィル仙台演奏会2007(2) リキちゃんのこと

ある時、ナオさんから不思議なことを聞かされた。

ナオさんは私たちの大学の卒業生。今は公共ホールで働いているのだが、そこに私の親戚がいるというのだ。

え~!?・・・なんだそれ?

「せんせの親戚なんだ~って言ってましたよ」と言うナオさんがあげた名前は、確かに知っている人。でも、どうして仙台に?

1973年の初夏、大学受験に失敗した私は、浪人して作曲の勉強をするために東京に出た。その時住み込んだのは、大家さんが父の従妹である四畳半一間のアパートだった。大家さんの住んでいる母屋は茅葺屋根の面影を残す日本家屋で、アパートは同じ敷地に立っていた。

当時は、大家さんのお母さん(私の父の叔母さんにあたる)も90近い歳だったと思うが元気で、母屋でお風呂を借りて上がってくると、家族麻雀をしていたり、「一服どうぞ」とタバコをすすめてくれたりした。

リキちゃんは小学生だった。大家さんの孫、大家さんの母親から見れば曾孫だから、弟のジンちゃんとよく遊びに来ていたのである。私もまじって何をして遊んだか、あまり記憶がないけれど、一度映画を観に行ったのではなかったっけ・・・。元気で明るい子どもたちだった。だが、大学に進んで間もなく私は引越しをして、彼らの一家とは疎遠になってしまった。

そのリキちゃんが、突然目の前に現われたのである。日本フィルを聴きに行った会場がナオさんが働いているホールだった。休憩時間に、私が来ていることを見つけたナオさんが、舞台裏にいたリキちゃんを呼んでくれたのだ。ナオさん、ありがとう!

30数年ぶり(?)に現われたリキちゃんがあまりにも大きかったので、まずそのことに私はびっくりしてしまった。いつまでも小学生でいるわけはないが、見上げるように背の高い立派な男性になっているとは思いもよらなかったのだ。いや、リキちゃんだって、私が太ってオヤジになっていて驚いただろうけど。

みんな元気?という問いに、どこどこのおじさんとおばさんは・・・などと答えてくれるのを聞いているうちに、立ちのぼるように当時のことが甦ってくる。どうしていつから仙台にいるの?大学で仙台に来て、結婚してそのまま・・・今は奥さまと中学生のお子さんと三人暮らし・・・。あのリキちゃんがねぇ・・・と感慨にふけるのはこちらが歳をとった証拠だが、仕方のないことだろう。しかし、案外近いところにいながら今まで会えなかったことも不思議だし、こうして再会できたことも、ナオさんのおかげとはいえ、縁の面白さというべきかも知れない。

開演のブザーが鳴る。慌しく私は客席へ、リキちゃんは持ち場に戻る。近いうちにまたゆっくり話そうねと手を振る。「お酒飲みましょうね!」と言いながら急ぎ足で舞台裏へ向かう彼の笑顔は、少年の時のままだった。

2007年5月21日 (月)

青葉の山

先週、大学構内で撮った写真。あまりにも緑がきれいだったから。

1_8 O先生が授業で育てている花壇。きれいに咲き揃っています。

2_10 構内は、一年で一番美しい季節を迎えています。

卒業生の諸兄姉にとっては懐かしい風景?

3_4 4_3

(写真はクリックすると大きく表示されます。)

2007年5月10日 (木)

フロンターレ、おめでとう!

昨日は、卒業生のtomoちゃんが学校に来たついでに研究室に寄ってくれた。お馴染みの人たちとお喋りしていたらすっかりお腹が減ったので、書きかけの原稿の宿題を放置して、その勢いでみんなでファミレスに繰り出した。

その勢いで飲みに繰り出した・・・のではないところが、つつましいというか何というか。車で学校に来ているからね、そういう勢いになりにくいのだよ。

昨日はアジア・チャンピオン・リーグ(ACL)に出場している川崎フロンターレが、予選突破をかけて、インドネシアのアレマ・マランというチームと等々力で戦っていた。

日本で、このACLの予選を突破したチームは未だない。

ACLについては、3月21日の記事にも書いているけれど、アジアのクラブチームは、決して侮れない。ホーム・アンド・アウェイだから、インドネシアやらタイやら韓国やらに出かけて行かなければならない。アウェイで試合をするというのは、川崎から横浜に乗り込みましたというのとはワケが違う。各国への長距離移動があるうえに、ピッチ・コンディションも良いとは限らない。審判も外国の人だから、国内の感覚とは違ってくる。

Jリーグの試合の合間に行なわれるから、超ハードスケジュールになる。週末Jリーグの試合をして、すぐに外国に移動、水曜に試合をしてただちに帰国、次の週末にまたJリーグの試合・・・というような具合だ。

かつて、磐田も横浜Fマリノスもガンバ大阪も、予選を突破できなかったうえ、チームとしての本来の調子を崩してしまうケースも多かった。同じく今年ACLに出場しているレッズも、別の予選グループだが、ちょっと手こずっていてなかなか勝ちきれない様子。

昨日は、負けても1点差以上でなければフロンターレの予選突破が決定という、条件としては有利な状況だったのだけれど、何が起きるかわかりませんからね、サッカーは。

ファミレスのココスでメニューを広げていると携帯に速報メールが届く。やったぁ~!・・・ハーフタイムコメント、うむうむ・・・おっしゃぁ~!・・・おっし!・・・やった~!!決まった~!!・・・と、すみません、うるさい奴でした。フロンターレは3-0で勝利して、日本のクラブチーム初となる歴史的な予選突破を果たした。

このところ、我那覇選手のドーピング問題やら中村憲剛選手の首痛やらで、少し落ち着かない気分だったのが、どちらも解決して良かった。先週のFC東京戦での大橋選手の活躍には目を瞠ったし、控えの選手たちもピッチに立つととても良いパフォーマンスを見せてくれる。そして、ようやく少しずつフロンターレの試合運びの面白さや個性的な選手たちの実力を知ってもらえるようになったのも嬉しいことだ。オシムさん、また森選手も呼んでね。

これからも川崎フロンターレをよろしくお願いします。ちなみに、昨日放置した原稿の宿題は本日無事依頼主に送信しました。

2007年5月 4日 (金)

神奈川ダービー

とうとう行ってしまいました「神奈川ダービー」。横浜Fマリノス vs 川崎フロンターレ、日産スタジアム。

昨年の岡田監督辞任後は、Fマリノスにやや距離を置いていて、というよりフロンターレのサッカーが面白いし強いので、どちらかといえばフロンターレのファンと自称しています。

Photo_31 いつも等々力では、バックスタンド2階に座るので、選手入場の時にバックスタンド1階に掲げられるビックフラッグを見たことがありませんでした。アウェイに来て初めて見ることになるとはね。

今回は、バックスタンドの中央よりややビジター側。「アウェイ席」ということでチケットを買ったのですが、両方のファンが入り混じっています。どうしてこういうチケットの売り方になるのかなぁ。まぁ、このあたりの席は、ゴール裏でずっと飛んでいるようなサポーターたちではなくて、割合静かに見ている人々が多いから構わないけれど。

Photo_32 ちなみにFマリノス側のサポーター席は、2階席も解放しています。

さて、試合は最初からFマリノス のペース。あれぇ、どうしたんだろう・・・と思うくらい、フロンターレの動きが鈍い。ACLも含めて連戦の疲れだろうか?

前半4分、ディフェンスのミスで、ほとんどオウンゴールのような失点。先制したことでますます勢いづいてしまったFマリノスに振り回される格好で、フロンターレはボールが納まらない。中村憲剛選手が首を痛めたとかで欠場していることも、やっぱり響いていると思います。

後半は、やや繋がりを取り戻したものの、66分、山瀬功治に目の覚めるようなフリーキックを直接決められて2-0。77分に、マギヌンのゴールでようやく1点返しますが、結局それ以上の加点はなりませんでした。坂田をはじめFマリノスの何人かの選手がシュートを何本か打ち損なってくれたから、何とか2点の失点で食いとめたという感じ。相手も決して憎いチームじゃない、それどころか応援したいチームなんだけど、負けると悔しいなぁ。

Fマリノスは、今売り出し中の山瀬幸宏がキレキレだし、大勝続きで波に乗っています。フロンターレでは、森の可能性を感じさせるドリブルと、若い久木野を見ることができたのが収穫でした。それにしても、ここのところ私が観に行った試合は、なかなか勝てないなぁ・・・。

2007年5月 3日 (木)

季節の変わり目

何気なくしゃがんだ途端、腰に痛みが走った。

毎日研究室へ大量に押し寄せてくる不要な書類を資源回収に出すために、ヒモで括ろうとした瞬間だった。金曜日の朝のことだ。重い束を持ち上げたわけでもなく、力を入れたわけでもないのに、まったく情けない。ただ、実は数日前から腰に違和感があったのだ。やはり年度初めは、仕事、主に授業のサイクルに身体がついていかないらしい。

幸いひどく傷めたわけではなさそうなので、翌々日くらいからはほとんど平常通りにしている。しかし、まだ背中から腰にかけて筋肉が突っ張っていて不快感がある。そこで、仙台で時々お世話になる接骨院に行くことにした。曇り空だった。

出かけようとして車にエンジンをかけたら、雨が落ちてきた。ありゃ、降ってきたなと思う間もなく、大雨になった。傘を持たずに道を歩いている人が、びしょ濡れになっている。車で15分ほど走って接骨院に着いた時には、小降りになっていた。

「気温上がってきたねぇ・・・。あぁ、蒸すと思ったら湿度66パーセントもあるよ。」院長先生が、誰かと話しているのが聞こえる。私は、背中と腰に刺さった鍼に電気を通されているので、うつ伏せのまま顔を上げることもできない。昨日は寒くて石油ストーブを焚き続けていたのに、今日は仙台でも20℃を超える予報なのである。

1時間半ほどして接骨院を出た時には、空は晴れあがっていた。気温も湿度も、本当に上がってきたらしい。だが、車を中島丁の家に置き、駅に向かうバスに乗ったら、また降りだした。今日の天気は一体何がしたいのだろう。

駅で、食事をするために店に入ったら、向こうの方の席で本を読みながら注文した品を待っているのは、同じ大学の先生じゃないのか。だがこの人とは、まったく話をしたこともなければ挨拶さえしたこともないのだ。親しい相手ならば、おやおやこんなところで!と声をかけようものだが、何とも微妙である。意味もなく気恥ずかしく、こちらに気づいてくれなければいいと思ってしまう。大学の食堂だったら何とも思わないのに、おかしなことだ。

新幹線で、前から気になっていながら読んだことのない作家を読み始める。ちくま文庫の「石川淳短編小説選」。まずは「マルスの歌」。

従妹の帯子が「ねえさん、死んだんです」と泣き崩れた。何も見ていないけれど死んだに違いないと言う。ところが、本当に姉は死んでいた。自殺の真似をしているうちに、本当に死んでしまったらしい。悲嘆に暮れる姉の夫・三治の元に、「ザラ紙のような薄い赤色の紙切れ」が届けられる。「硝煙のにおいがするはるか遠方の原野へ狩り立てるところの運命的な紙切れ」だ。葬儀の翌日、三治と帯子が伊豆の長岡へ発った。その知らせを受け様子を見に出かけていく「わたし」を包囲するように聞こえてくる、軍神マルスを称える歌・・・。

昭和13年、この作品の掲載誌は発禁になったそうだ。くねくねと長く続く文章、どこまでが現実なのか、どこからが幻想なのか判然としない風景。新幹線では、時折睡魔に襲われて眠ったり、目を覚まして読んだり、また眠ったりしたものだから、ますますこの奇妙な世界が沁み込んだ。読み終えた時には、東京に着いていた。

東京駅のホームは、いつになく混雑している。連休の合間だから、子ども連れが多い。東京駅の駅員は、こう言ったはずだ。「23番線に停車中のやまびこ号は、すぐにはご乗車になれません。」

折り返し運転する車両はこれから車内清掃しますよと知らせる、聞き慣れた放送である。しかし私には、確かにこう聞こえたのだった。

「23番線に停車中のやまねこ号は、すぐにはご乗車になれません。」

大丈夫かしらん、自分。35ページほどなのに、この小説の破壊力はすごいな。

寄り道をするために山手線に乗ったら、冷房が入っていた。昨日セーターを着て震えていたのは外国だったのか?

用を足すために歩き回って疲れたし、無性に珈琲が飲みたくなったので、喫茶店に入ろうと思った。大げさな店でなくても、タリーズかドトールでいいのだが、その手の店は探そうとすると見つからないものだ。汗ばみながらさらに歩き回り、ようやく1軒の専門店を見つける。

蝶ネクタイをした中年男が慇懃にお辞儀をしたので、少し面倒な予感がしたのだが、やっぱりそうだったか。メニューを見ると、ブレンド珈琲1,050円である。昨日の夕食も今日の昼も外食をしたが、勘定は1,000円未満だった。ほっけ炭火焼き定食よりも珈琲が高いのは、怪しからんとまでは言わないが釈然としない思いは残る。美味しかったさ、そりゃ。

とりあえず静かな店だったので、13ページほどの「黄金伝説」を読む。

焼跡で、三つの探し物をする「わたし」。一つ目は、狂ってしまった時計を直す職人。二つ目は帽子を売っている店。愛用の帽子は焼いてしまい、手元には戦闘帽しか残ってないのだ。三つ目は、空襲で生き別れになってしまった隣家の未亡人。「わたし」は彼女に、ひそかに恋をしていたのだった。夫人の消息についての手がかりは一向につかめない。だが、恋の思いも薄れてきた頃、思わぬかたちでその人は現われた・・・。

江戸の戯作者から野坂昭如に至る戯作的な文体、安部公房に引き継がれる不条理なシチュエーション。そして、どうやら漢籍にも通じていたらしい。まだ2作を読んだだけだが、この人はとてつもない作家なのではないか。

横浜のバラック店の、コーヒーとたばこのけむりの中に、探し求めていた夫人は現われる。だが、現実の私の前には誰も現われるはずもなく、向こうのテーブルでは中年の男女が静かに珈琲を飲んでいるだけだ。彼らが如何なる関係なのか知ったことではない。私は1,050円払って店を出る。蝶ネクタイがまた慇懃にお辞儀をした。人形のようだった。

2007年4月21日 (土)

ひつじのえさのやり方

1_7 H君一家とハイキングに出かけた。一緒に出かけるのは、去年の6月彼らが仙台にやってきて以来かな。

2_9 神奈川県の北部、丹沢や大山といった山に近いこの愛川という町は、住みたくなるくらいいいところだよ、とH君は言う。彼らは、毎週のように来ているらしい。たしかに自然に囲まれていて、ゆったりした気分に浸ることができる。

新緑の美しい中津川の河原でバーベキュー。時折突風が吹いたけれど、まずまずの天気。戸外にいると、少し汗ばむほどだった。

座間の市街地から40分ほど。米軍座間キャンプも遠くないところ。釣りやソフトボールやゲートボールをしている人たちもいるが、ごったがえしているというほどではなくて、それぞれ穏やかな休日を楽しんでいる。

帰りに、H君の運転で服部牧場に寄る。こちらは、だいぶ賑やかな観光牧場。

3_3 動物のエサを売っていて、ウシやヒツジに自由に与えることができる。今年から幼稚園に行っているIkki くんも、ヒツジさんたちにエサをあげたいのだけれど、あまりにも積極的に寄ってくるものだから、ちょっと腰が引けている。

4_2 上手に葉っぱをあげている女の子がいた。

5_1 いちめんの菜の花がまぶしい。

2007年4月18日 (水)

桜満開そして獲物多数

4181_1仙台は、桜が満開です。でもねぇ・・・寒いんですよ。

マー君初勝利おめでとう。しかし、今夜はナイトゲームだったなんて信じられないな。足元が深々と冷える寒さなのだもの。

4182_1 外出したので、学校に戻る前にちょっとだけ寄り道をして、宮城県美術館付近の桜の写真を撮ったりしました。

ところで、市街地からここに至る道路は、ほとんど定置網のように「ネズミ捕り」が仕掛けてあります。割合交通量の多い交差点を抜け、こちらへ向かう車がぐっと減る橋の上、やれやれ・・・と思ってアクセルを踏まこまないドライバーはいないでしょう。ここが「定置網」の常置場所だと知っている人でなければね。

ゆるやかなカーブ。獲物を狙って潜む姿は見えません。途中に脇道がなく、対向車線との間には自動車専用道路へ向かう分岐があるので、まったく逃げ道がありません。対向車の姿が見えないようになっているから、対向車が「危険」を察知して警告してあげたりすることもできない。まるで、「ネズミ捕り」のために作られているような道路です。

常に大量捕獲が保障されていることに味をしめたからかどうかわかりませんが、とにかく頻繁に捕獲作戦が繰り広げられます。だから、知っているドライバーは不自然なくらい徐行運転をします。それを横目に見て、何のろのろしてんだ!・・・とばかり追い抜いていくと、「止まれ」の旗に息をのむことになる。

4183_1 私の車を第二車線から抜いていった他県ナンバーも捕らえられましたし、近くの合法的な場所に車を停めて、歩いて桜の写真を撮っていたほんの数分の間にも、哀れなネズミたちが5台くらい捕まっていました。あれは、やっている方は面白いだろうなぁ・・・。

仲の瀬橋を渡る時は、絶対スピード上げちゃだめですよ~!

(ちなみに、私は捕まったことはありません。冬の夜に同じ場所で、飲酒運転を捕まえる一斉検問で止められたことはありましたが。もちろんシラフでした。)

 

2007年4月15日 (日)

更新情報

お気づきかと思いますが、左側サイドバーをちょっと変えてみました。

すでに携帯からアクセスしてくださっている方も多くいらっしゃるようですが、アクセスカウンターの上にあるQRコードには、このブログを携帯で読むためのURLが書き込まれています。携帯に装備されているバーコードリーダーなどで読み取ってご利用ください。

カレンダーの上には、天気予報のブログパーツを置いてみました。クリックすると「天気予報コム」のページに飛ぶことができます。

今後ともStudio Mu-Vanti をよろしくお願いいたします。

2007年4月11日 (水)

桜開花中間報告

仙台から、桜の開花中間報告をします。

Photo_28 このように、ほぼ満開になっている木もありますが、全体にはあともう一息といったところでしょうか。昼間はともかく、夜はまだとても寒いです。でも、今週末か来週初めくらいには満開になるでしょう。

この季節になると、桜だけでなく、ハクモクレンやユキヤナギなどいろいろな花が一斉に咲き揃います。北国の春らしい風景です(写真はクリックすると大きく表示できます)。

2007年4月 8日 (日)

ピアノレスナーたちの嘆き

小中学生対象であるピアノ・コンクールの実行委員になっている。

前年度の本選が終わったので、先日反省会を兼ねた打ち上げがあった。集まったのは、子どもにピアノを教えている先生たち。

運営に関して、こちらでは想定できなかった申し立てが参加者の親からあり、トラブルにはならなかったけれど、そういった場合の対処についてなど話し合っているうちに、ピアノを習いに来る子どもの「保護者」たちに対するグチで盛り上がってしまう。

レッスンの約束日時をそちらの都合で変更したのに、それをまた変えてくれと、いとも簡単に言ってくる(たくさんの生徒を抱えている先生は、時間調整がひと苦労なのに)。

子どもがレッスンを受けている間じゅう、携帯をいじっている親。レッスン中に先生がペットボトルのお茶を飲んだとクレームをつけてくる親(レッスン中、子どもは飲めないのに先生だけ飲むのは不公平だと言いたいらしい)。

学校で行なわれる合唱コンクールの伴奏の座を自分の子どもに得させたいために、ライバルの子の家庭にいじわるの電話をする。ウチの子はもう弾けるようになりましたよ・・・とか言ってプレッシャーをかけるのだそうだ。

月謝というものは、できるだけきれいなお札を準備して月謝袋や封筒に入れて、ありがとうございましたと渡すのがモノを教わる側の礼儀であり良識である・・・と、少なくとも私たちは思っている。だが、ついぞ見たこともないほどクシャクシャのお札を出す、お釣をくださいと言う、財布から直に出して渡す・・・そんな親は多いのだという。

某先生、レッスンは1時間という約束だが、いつも1時間半くらい熱心にやっている。ある時どうしても用事があって、ごめんね今日は少し早く終わらせてねと50分くらいでやめたら、親は後ろを向いて、封筒から短縮時間分のお金を抜いたそうだ。1時間の約束を30分延長しても、もちろん超過分を払うはずはない。

この手の話は枚挙にいとまがないと思われるが、学校現場の先生たちから聞こえてくる話は、もっと深刻である。

勉強が少し遅れている子どもに、放課後に勉強を見てあげていると、授業時間の中で教えられないお前が悪い、帰らせろとねじこんでくる。何時間も引き止めているのならばともかく、たかだか15分程度のことなのだが。

授業参観では、授業中の教室なのに、親同士がグチャグチャしゃべってうるさい。これはもはや特別珍しい話ではないようだ。そういう場所でも、つまり授業中であるのと同じ合唱祭の演奏中に、携帯をカチャカチャやっている母親を私は目撃したことがある。

友だちをちょっといじめてしまうようなことがありましたと連絡すると、ひとこと目に、ウチの子は今までそんなことを言われたことはないと突き放して、話をまともに聞こうとしない。今までどうだったかではなくて、今日あったことを親に知らせておくべきだろうと判断して連絡しているのに。

学校を見下ろせるマンションから監視していて、何かというと電話をしてくる。子どもがうるさいとか、あの叱り方は何だ・・・とか。「地域とともに育て」ているつもりだろうか?給食費払わないという「保護者」が増えていることは、ニュースでも取り上げられているから広く知られてきた。

放課後の先生は忙しい。教材の準備をする、プリントの添削をする、クラスの便りを書く、職員会議もあるし、研究授業や行事の準備や打ち合わせはひっきりなしだ。学外での出張や研修も少なくない。通信表を書く時期には、とりわけナーバスになる。

そんな中で、埒もないクレームにも対応しなければならない。義務・責任と権利はセットになっているのに、権利だけを主張する「保護者」。相手が「保護者」ゆえに、先生たちは強いことを言えない。この時代、学校の教諭がいかにストレスフルな仕事であるか、容易に想像できる。

「教え子を戦場に送るな」という言い方がある。もちろん、これは戦争忌避のスローガンだ。だが、「将来の先生を育てる」大学に勤め、たくさんの学生や卒業生たちと接している一方でこういう話を聞くと、彼らをそんな現場に送り出して良いのかと、思わず首を傾げてしまう。未来を育てる仕事だよと、希望に満ちていそうな言葉をかけて送り出す先は、実は精神を消耗させる凄惨な戦場ではないのか。「先生に育て」てしまったために、彼らを不幸な人生に落としてはいないのか。

先般、某アンケートの結果で、「教育は悪い方向に行っている」と感じる人が多いと報じられていた。そして今、大きな流れは、学校現場が悪いことになっている。指導力のない教員の多いことが、現場が荒れる原因だと。

本当にそうなのか?「保護者」だって、ここに書いたような人ばかりではない。大半は常識人だ。同様に、大半の学校教諭は真面目に懸命に仕事をしている。

アンケート結果に異議を申し立てるつもりはないし、基本的には私も同感だが、悪い方向に向いている原因が何なのか、教育行政、学校現場、保護者そして教員養成機関がそれぞれの立場で振り返る必要がある。悪いのはそちらだ…と他人のせいにして、他人事のような教育論をぶちあげ、偉そうに珍妙な提案をするばかりでは、教育の再生など決してあり得ない。

2007年4月 6日 (金)

春は近い?

Photo_27 県議会、市議会議員の期日前投票を済ませた帰り、お昼少し前の定禅寺通り。

仙台のシンボル、ケヤキ並木にまだ新芽は見えない。桜はまだつぼみ。だが、枝全体が赤くなり始めたところもある。今日、仙台でソメイヨシノの開花宣言があった。

お花見スポットの西公園は、提灯が吊り下げられて、もう酔客を迎える用意は整っている。だが、まだ花は咲かないし、桜が満開になったとしても夜はものすごく冷え込むのだから、あんな寒いところでお花見する気にならないよ。昨日なんかみぞれが落ちてきていたし。

でも、来週の半ばくらいには、街のあちこちに開花した桜が見られるかな。今年二度目。二重生活ならではの楽しみのひとつ。

2007年4月 3日 (火)

メンテナンスのお知らせ

左サイドバーの下の方「ココログからのお知らせ」にもありますように、本日午後から、かなり大がかりなメンテナンスが行なわれる予定だそうです。

4月3日(火)15:00~4月4日(水)15:00の約24時間で、その間新規記事のアップやコメントの書き込みもできなくなります。

詳しくはこちら→ http://info.cocolog-nifty.com/info/2007/03/43_8437.html

閲覧は通常通り可能です。

東北では、まだ桜は開花する気配すらないかと(?)思いますが、首都圏はすでに満開になりました。先週末神奈川の家の近くで撮った写真を飾っておきましょう。メンテナンス中の退屈しのぎにご覧になってください(写真はクリックすると大きく表示できます)。

1_2 2_5 3_1

2007年4月 2日 (月)

「招き猫」の寺

30分かけて歯科医院に行ったら、治療はものの5分ほどで終わってしまった。

薬を塗るだけで複雑な治療をしていないからだが、いいけどあっけないなぁと思いながら医院を出て、ハタと思い立った。この近くに「招き猫」のお寺があるはず、ちょっと行ってみよう。

Photo_26 大谿山豪徳寺。小田急線の駅名にもなっている曹洞宗のお寺。駅から10分ほど歩いただろうか、思いのほかと言ったら失礼千万だが、大変立派なお寺に行き当たった。立派なはずだ、安政の大獄や桜田門外の変で知られた井伊直弼の墓所がある名刹なのである。世田谷のど真ん中とは思えない静けさが心地良い。

で、それが一体なぜ「招き猫」なの?それには、こんな話があるらしい。

昔は貧しい寺だった。時の和尚は、自分の食べ物を分け与え可愛がっている猫に「お前、こんなに可愛がっているのだから、恩を知るなら何か果報を持って来いよ」と言い聞かせていた。

数ヵ月後の夏の昼下がり、鷹狩りの帰りと思しきお侍が寺に入ってきて、和尚に言った。

2_4 「今、そこを通りがかったら、門前で猫が手招きしおったぞ。何か様子が変だったから立ち寄ってみた。ちょっと休ませてもらおう。」

渋茶でもてなしていると、一天にわかにかき曇り、激しい雷雨になった。和尚は、静かに三世因果を説く。お侍は大いに喜んだ。夕立をしのぎ、貴僧のありがたいお話を聞くことができたのは猫の手招きのおかげ、これひとえに仏の因果である。我こそは彦根城主、井伊掃部頭直孝。これよりさらに心安くお願いしたい。

これをきっかけに井伊家の菩提寺となって、伽藍も立派になり、発展を遂げた・・・というわけだ。

猫、顔を洗ってただけじゃないの?・・・そういうツッコミはやめておこうね。

1_1 仏殿の横に招福観音を奉る「招猫堂」があり、その脇の棚に大小さまざま、たくさんの招き猫が奉納されている。幸福を願う人々から奉納された役目を終えた招き猫たちだ。(写真はクリックすると大きく表示されます。)

そもそもこの場所に果報者の猫の墓があり、片手を上げた像を作って奉ったところ、縁起物として人気を呼んだのだという。ほとんどが右手を上げているけれど、左利きの猫もいるみたいだな。右手を上げる猫は金運を招き、左手を上げる猫は人を招くのだそうだ。両手を上げるのは欲張りすぎで、「お手上げ」につながるから嫌われがちだとか。(ただし、「招き猫」の起源には別の説もあるようだ。)

都心であることを忘れる清閑としたたたずまい、歴史を刻む名刹の広い境内の片隅に、こんな愛すべき一角があるのは何ともほほえましい。だが同時に、さまざまな思いをこれらの無数の猫たちに託してきた人々の心情を思うと、ユーモラスなしぐさとは裏腹に、厳粛な気持ちにもさせられるのである。

2007年3月29日 (木)

Studio-MuVanti 開設1周年

このブログを開設してから1年が経ちました。

記事をひそかに書き始めたのが2006年2月21日、外から読めるように設定して何人かの親しい方々へお知らせしたのが3月22日でした。この1年、特別面白いことを書いているわけでもなく、可愛い赤ちゃんや動物の写真が載っているわけでもないのに、毎日たくさんの方がアクセスしてくださっています。ありがたいことです。

「常連」の方々以外にも、口伝えで噂を聞いて来られたり、検索サイトから飛んで来てくださったり、思いがけない方から「読んでますよ~」と言われると少し狼狽しますが、どなたでも見られる設定にしているのですから逃げられませんね。アクセスしてくださっている皆さまに、心より感謝申し上げます。

このココログというサイトでは、ブログを本にまとめてくれるというサービスがあります。開設1周年を自分ひとりで勝手に記念して、06年2月21日から07年2月28日までの記事を本にしてもらいました。

329 新書版より少し大きいサイズ。というよりも、私たちのような仕事をしている者にとっては、実はとても親しみのある大きさです。なぜかというと、これは楽譜のポケットスコアとほぼ同じサイズなのですね。全部で281ページになりました。第九のスコアくらいの厚さです。

3292 皆さまからいただいたコメントが載らないのは残念です。写真はクリックしても大きくならないし(あたりまえだ。

もちろん、Web 上で読むために書いてきたわけだし、皆さまからコメントをいただけるという「双方向性」が面白いわけですから、紙媒体にしてしまうと、まぁ要するに発表の当てのないつまらないエッセイ集を勝手に自費出版したというだけなわけで、そう考えると我ながらちょっと痛いのですが、それでも面白がって(?)日々アクセスする方々がいてくださるというのが、大きな励みです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

そんなモノズキな方はいらっしゃらないと思いますが、この冊子を手元に置きたいとお思いになる方はメールください。数冊しか作っていないので、万一増刷する場合は少しお待たせすることになるかも知れませんが。

329_2 神奈川の家の近くです。ここ数日で急に咲き始めています。

2007年3月25日 (日)

「ゴイェスカス」とピノのこと

Y一さんとピノちゃんが結婚することになり、披露宴に出席した。

ピノはちょうど1年前に卒業して、今は市内の小学校の先生。卒業論文をお付き合いした関係で、テーブルスピーチをするようにお頼まれしたので、彼女が研究した「ゴイェスカス」のことなど、その頃のことをいろいろ思い出した。

「ゴイェスカス」は、スペインの作曲家グラナドスが作曲したピアノ組曲。はじめにこのピアノ組曲が作曲され、後にこれをもとにオペラが書かれたのだそうだ。逆ならわかるけれど、ピアノ曲からオペラが書かれるというのは、他に例を聞いたことがない。ピアノ曲の音楽のほとんどがオペラの中に組み込まれている・・・というのは、ピノの研究成果。

作品に惚れてこれを研究楽曲とした彼女が、おそらく最も悩まされたのは楽譜の問題だっただろうと思う。

出版されている楽譜は、完璧なものと思われがちだ。例えば、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンといった、何百年にもわたって多くの人々が校訂作業をしてきたものはともかく、それほど研究の進んでいない作曲家や作品には、ありとあらゆるレベルの楽譜上のミスや不明な部分があったりする。例えば、臨時記号やナチュラル記号の付け忘れ、スラーやスタッカートといった標語の不統一などなど。前後関係から見て明らかにわかることも多いが、複雑な和音になると、理論から音を判断することが困難な場合も多い。同じような曲想が何度も出てくるのに、そのたびにニュアンスが違ったりするのは、作曲者がわざと変えているのか、校正ミスなのかわからない。

グラナドスの作品にも、ひとつひとつ音を調べていくうちに、特定できなくて迷ってしまうような音がたくさんあった。研究を進めて行く中で、彼女は近年校訂された楽譜(アリシア・デ・ラローチャ校訂)が海外で出版されたという情報を得て、すぐにそれを取り寄せ、ひとつひとつの音を再度緻密に検討した。それでもなお、いくつかの音は不明なまま残ったが、その多くを解決まで導いた根気強さは大したものだった。

もうひとつ印象に残ったことがある。

「ゴイェスカス」は、画家のゴヤの作品と関連があるのだが、堀田善衛著の「ゴヤ」という本、かなり厚い、全部で4冊からなる評伝をたまたま私が持っていたので、夏休みの前に「とりあえず1冊貸すから、続きも読みたかったら連絡して。でも無理しなくていいよ」と渡しておいた。実は、私も読み通していなかったのである。すると間もなく「続きも貸してください!」とメールが来たのだった。

すぐに残りの3冊を宅急便で送ったが、これはある意味、とてもピノらしいことだったなぁと思う。彼女が4冊を読破できたのかどうか聞いていないけれども、読破したならばもちろん、全部は読めなかったとしても、少しでも関係のある資料は手元に引き寄せておきたいという気持ちの表れで、そういう積極的な姿勢は、研究をする上で大切なことだ。

難曲であること、そして資料の乏しさを克服して、とても良い論文を書き、情感に満ちた演奏をした。卒業演奏は、組曲の中の「愛と死(バラード)」という曲だけだったが、披露宴で配られたカードの自己紹介に「好きな作曲家=グラナドス」と書き、私へのメッセージカードにも「ゴイェスカスを全曲弾きたいです!」と書いてくれていた。本当に好きなんだねぇ。見かけによらず(?)ラテンな女性なのかも知れないな。

Photo_25 Y一さんは学生オケの先輩で、誠実にして軽妙な人間味溢れる好青年。明るく芯の強いピノと、ふたりの人柄の表れた気持ちの良い披露宴だった。これから仕事と家庭の両立は大変だろうと思うけれど、それに加えていつか全曲演奏に挑む機会が来るのを楽しみに待とうと思っている。

2007年3月23日 (金)

卒業式

晴れやかさと安堵感と寂しさが入り混じる。大学の一年で一番大切な日。

1 式を終えて、講堂から出てくる新しい卒業生たちを出迎え祝う後輩たち。写真を撮りあったり、胴上げをしたり、寄せ書きやプレゼントを渡したり・・・。歓声や笑い声は涙声に変わり、またすぐに笑い声が戻ってくる。

音楽を専門にしてきた卒業生は、今年は大学院を含めても20人ほど。だから、私たち教師とも、みんなお互いに気心知れた仲間たちだ。

2_2 まだ卒業しない奴が何人か写っているな。まぁ、いいか。

学校の先生になることが決まった人、音楽の勉強を続ける人、福祉の資格を取る勉強を始める人、会社に勤める人など、4月からはそれぞれの道を歩き始めることになる。

教師にとって、卒業生たちは宝物だ。みんな、これからも健康で、たくさんの経験をして、ますます光り輝いてほしいな。

夜は、謝恩会。お開きになっても離れがたく、夜更けまで立ち話が続く。さようなら。だけど、これから本当の付き合いが始まる。彼ら同士も、彼らと私たちも。これからは、学生と教師ではなくて、若い友人たちと私になるのだと、私は思っている。

とりあえず、また会う日まで、元気でね。

2007年3月21日 (水)

ACL チャンピオンズリーグ第2節

Acl2_1 アジアのクラブチーム・チャンピオンを決めるACL、日本からは浦和レッズと川崎フロンターレが出場している。

今日はバンコク・ユニバーシティを相手に、フロンターレのホームで予選リーグ第2節があったので、久しぶりに等々力へ行ってきた。

Acl1_1 大学のチーム?と思ったけれど、名前こそユニバーシティだが、大学生と社会人が混ざったチームで、このグループの中では難敵と評判の全南(韓国)と引き分けているのだから、なかなか侮れない。

ドン引きで守って隙あらばカウンターという相手の戦術に、フロンターレは大苦戦。前半の早い時間帯に先制されてしまった。17分くらいからボールは回るようになったけれど、シュートはことごとく浮いてしまう。

相手は攻守の切り替えが速い。背が高い選手はあまりいないが、何人かはものすごく足が速い。ゴールキーパーもファインセーブを連発。

後半は、フロンターレらしい猛攻撃のシーンも何度かあったけれど、結局相手のオウンゴールだけで、1-1のドロー。向こうは退場者もいたのに、明らかに格下なのに勝てなかったから、サポーターも欲求不満。このチームではあまりないことだが、終了後には、選手に向かってフロンターレ・サポーターからブーイングも飛んだ。

しかし、往々にしてそういうことあるんだよね、サッカーって。強いチームが絶対勝つとは限らない。だから、モチベーションということが言われる。前半に関しては、バンコクチームの方がモチベーション高かったと思う。

Acl4そんな中で、中村憲剛選手はとても良かった。縦横に走り回って、ひとりで必死に試合を組み立てていた。少し遅れてサポーターゾーンに挨拶(勝てなくてごめんなさい・・・という謝罪のお辞儀だった)に来た憲剛選手には大きな拍手。ブーイングはない。愛されているんだよなぁ。

昨年はリーグ2位という成績、ケンゴやガナや川島が日本代表に呼ばれるようにもなって、フロンターレの知名度は上がっただろう。観客も増えたと思う。帰りがけ、等々力緑地の中に、こんなオブジェがあるのを発見。リーグ準優勝を記念したもの。Acl3_1

わたし的には、準優勝は上出来と思っているけれど、これからのリーグ戦も、スピードに乗り流れるように上がってシュートを放つフロンターレの攻撃サッカーを見せてほしいなと思う。

Acl5

2007年3月15日 (木)

更新情報

左サイドバー、バックナンバーの下にあるカテゴリー欄を整理して、新たに「日本の作曲家」というカテゴリーを設けました。

それぞれの記事には、それがどのようなカテゴリーに属するか指定してあり、カテゴリー名をクリックすると、それにあてはまる記事だけが抽出されるのです。例えば、「書籍・雑誌」というカテゴリー名をクリックすると、書籍・雑誌について書かれた記事だけを並べて見ることができます。

また、ひとつの記事に複数のカテゴリーを指定できるので、例えば昨年「現代芸術論」という授業で取り上げた日本の作曲家の作品についての記事は、「芸術・文化(授業の余滴)」「日本の作曲家」「音楽」の3つのカテゴリーが指定してあります。ですから、そのいずれのカテゴリー名をクリックしても抽出できるというわけです。

どうぞご活用ください。

ちなみに、この記事のカテゴリーは「日記・コラム・つぶやき」です。記事の下に小さく表示されます。

2007年3月13日 (火)

3月の雪

Photo_24 1枚目は、先週の神奈川。

紅梅が満開。季節は、もうこのまま春になだれこむのだろうと思われた。仙台で使っている車も、今年は早めに冬タイヤをはずしてもいいかな・・・と。

3 ところが、こちらは今朝の仙台。

一昨日の夜から昨日一日、雪が断続的に降り続いた。昨日は後期日程入試だったから、受験生たちは大変だっただろう。この冬、雪はほとんど降らなかったのに、入試の日に降らなくても・・・。

皮肉なことに、雪不足で前日に閉鎖されたスキー場にも大雪が降ったと、ニュースが伝えていた。しかし、大雪といってもやはり3月の雪、少なくとも仙台市内では、一夜明けて天気が回復したら、このようにたちまち溶けていった。1月2月に降る大雪だったら、こんなわけにはいかないだろう。今頃になっての、この冬一番の大雪にびっくりさせられたけれども、春が近いのは確かなことなのだ。

2007年3月10日 (土)

ドラリオン

何だって?ちょっとぉ、似合わないよぉ~・・・などというブーイングはご勘弁を。ふとしたことでチケットが舞い込んできたので、急に観に行くことになりました。ドラリオン。

Photo_23 会場は、代々木公園の一角に、このために設えられた巨大なテント劇場、新ビックトップ。2900人収容。

ドラリオンって何?という方(つい先日まで私もそうだった)のために、簡単に説明を。

1982年、カナダ・ケベック州で、ストリートパフォーマーたちによって設立されたカンパニー「シルク・ドゥ・ソレイユ」、その演目のひとつが「ドラリオン」。このカンパニーは、今までにも「ファシナシオン」「サルティンバンコ」「アレグリア」などという演目を持って来日していますが、アメリカにある常設公演会場をはじめとして、全13作品が世界中で上演されているそうです。

で、つまりそれは何?という方(つい先日まで私もそうだった)のために書くと、とっても簡単に言ってしまえば「サーカス」です。

ただし、単なるサーカスではなくて、サーカスや大道芸に、バレエ(ダンス)、ミュージカルを融合させたショーとでも言えばいいかな。パフォーマーは中国の人が多いけれど、他にも様々な国籍の人たちがいます。つまり、上海ならぬ「多国籍雑技団」というわけ。

アクロバットはたいへん高度に訓練され、緻密に演出されていますが、その基本は空中ブランコ、ジャグリング、トランポリン、輪くぐり、玉乗り、縄跳びなど、こう書き並べてみると意外に古典的な道具立てであると言えます。7人ほどによる生演奏、でも大音響の音楽、京劇や歌舞伎を思わせるメイク、無国籍的な衣裳。鋭く明滅する照明。

とにかく仕掛けが派手。そして、やたらと人が宙を飛んだり、浮いていたり、天井に吸い込まれていったり、壁をよじ登ったりします。歌舞伎の宙乗りのように様式的でなく、もっと軽やかで高さもずっと高い。何人もが同時に宙に浮いて止まっていると、吊るされたマリオネット人形のようにも見える。反自然、幻想的な人工楽園。「サーカスから人力飛行機へ」というと、何やら寺山修司めいていますが、人間にとって自由に空を飛ぶことは、いつの時代も永遠のあこがれなのかも知れないですね。

ショーの合間には、3人(正確には4人か?)のクラウン(道化師)が登場して笑いを誘います。息をのむアクロバットで緊張した雰囲気を、達者なパフォーマンスで緩めてくれる。ここらあたりも、サーカスの伝統を引き継いでいますね。

休憩を含めて2時間30分のステージ、堪能しました。5月からは仙台公演があるそうです。

2_1 詳しくはこちら→ http://www.dralion.jp/

2007年3月 6日 (火)

ウーパールーパー

3日ほど前、差し歯が取れた。

仕方がないので、いつもの歯科医院に行く。この歯科は、私が大学院生だった頃先輩の紹介で行って以来、お世話になっている。

W先生は団塊の世代か、もう少し上か。「すごく要領のいい歯医者さんだよ」という先輩の言葉どおり、その仕事ぶりはいつも実に手早くて、型を取るような時でも、ぐわしっ!と型をはめ込んだら、はい、しばらく動かないで~・・・うん、いいね、じゃまた来週!・・・という具合。無駄なおしゃべりはしないし、余計な治療もしない。

いつ行っても、他に患者が待っていることはほとんどない。診療が済むと、さっさと別室に行ってしまう。まるで、仕事は一刻でも早く終わらせてしまって、あとは好きなことをするのだとでも言いたげだ。以前は、たった今までタバコ吸ってたよという匂いを漂わせて診療台の横に立ったこともある。

そんな歯医者で大丈夫か?と思うのだが腕は確かなようで、私は子どもの時から歯には苦労させられてきたが、この歯科に行くようになってからは、明らかに歯の悪化するスピードが落ちた。いくつかの学校の校医でもあるようだし、この医院も知る限り30年近く続いているのだから、名医なのだろう。たぶん。

そして今日も。

「しばらくでした、どうしました?」

「差し歯が抜けました」

「そう。うん・・・どうやってくっつけるかな・・・スーパーボンド用意して!」

この先生でなければ気にもならないかも知れないが、いくらスーパーがついていても、ボンドというネーミングはいただけないなぁ。口の中に白い液体がはみ出しそうで、そんなものでくっつくのか?と疑いたくなる。

「えっと、他に気になるところは・・・ないね?」

「あひ」

気になるところはないから良いようなものだが、口を開けさせながら訊くなよ。

「歯並びっていうのはね、変わっていくんだよ。だから、噛み合わせが変わって摩擦が加わるから(差し歯が)取れたんだ。理由があるんだね。ちょっと当たるみたいだから、少し削っておこう」

「あひ」

ガリガリガリガリガリ・・・・うん、よし・・・・カラカラカラ・・・ありゃりゃ、拾って!(と、助手さんに指示する)・・・ちょっとぉ!人の歯を落とさないでよ!

かくして10分も経たないうちに、差し歯は無事私の口中に納まった。2日前、抜けた歯を失くしそうになったところを救ってくれたのはテルせんせだった。テルせんせ、ありがとう。

ところで、このW先生、若い頃にはジャズバンドだかカントリーバンドだかをやっていたらしい。待合室に古い写真が飾ってある。きっとイカレた若者だったのだろう。

だが、ジャズだかカントリーだかの火は若さとともに燃え尽きたのだろうか、歳をとるごとに、もっと内向的で、かつ現実的な趣味が先生を虜にしたようだった。

ある時、観葉植物が増えたなと思っていると、3台あった診療台のひとつが取り払われて、巨大な鉢植えの植物がいくつも持ち込まれた。診察室は、ジャングルのように植物で覆われた。

同時に、あちらこちらに水槽がおかれ、その中には熱帯魚のみならず、カメだのアフリカツメガエルだのがうごめくようになった。

Photo_22 水底にいる白いトカゲのような生きものは、ウーパールーパーである。この歯科に来たのは2年ぶりくらいになるけれど、以前よりもだいぶ大きくなったように見える。

ウーパールーパー、またの名アホロートルは、メキシコあたりに分布していて四つ足。形状としては大きなトカゲ、小さなサンショウウオである。和名はメキシコサンショウウオ。正面から見ると愛嬌のある顔をしているので、マスコミでも話題になったことがある。時々思い出したように、のそのそと動く。10年~15年も生きるらしい。

ずっと前からいますよね?という私の問いに、治療代を計算しながら助手さんは言う。「えぇ、この子は長いですね、元気です」

そうか、元気なのは結構なことだ。ただ残念なことに、私にはこの子は、ポカンと口を開け水底でボーっとしているだけにしか見えないから、元気かどうかよくわからないのだ。

はいずり回り系の同居人たちが増えた頃には、先生は以前より老け、鼻の下のヒゲも何やら怪しげな貫禄を放つようになった。同居人たちにエサをやるのは彼の仕事なのだろうか。アフリカツメガエルやウーパールーパーたちには名前がついているのだろうか。どんな顔をして夜行性の同居人たちの名前を呼び、どんな会話を交わしているのだろうか。

神秘的な彼のことを、私はひそかに「カエル医者」と呼んでいる。

2007年3月 3日 (土)

卒業演奏会

今日は市内のホールで、卒業演奏会。

多くの音楽大学などでも卒演は催されているけれど、学生数が多いから出演できる人は限られている。オーディションなのか、試験の成績なのか、方法は知らないけれど、いわば選抜された人たちだけが出演権を得る。

私たちの大学は小人数だから、音楽を勉強してきた学生は全員出演できる。また、演奏だけでなく、論文や作品を卒業研究として選んだ人たちにも発表の機会が与えられている。そして、こういった演奏会がもう31回、つまり31年も続いているというのだから、身内自慢になるが、なかなかのものではないのかな。

演奏試験が約1ヶ月前にあったが、その時から今日までの間に、みんな驚くほど上達している。1ヶ月前には、何とかがんばって弾きました・・・という感じだったのが、今日は堂々とした「演奏」になっている。

こんなに上手に弾けるのなら、試験のときにもっとがんばっておけばいいのに・・・などというボヤキはお門違いだろう。試験であれ演奏会であれ、人々の耳に数多く触れることで、音楽は育っていくのだから。それに、普段とは違うハレの場所、コンサートホールで発表できることも、良い緊張感に繋がっているだろう。

4年間の集大成は本当にみんな立派だった。だが間違ってもこの日が人生のピークであってほしくはない・・・と思う。そして、そういえば去年もそんなふうにブログに書いたなぁと思い出した。昨年の卒演は3月4~5日。その頃、このブログはまだ公開していなかったけれど、公開した時にいくらかでも読んでもらえるように、記事を書き溜めていた時期だった。つまり、それからもう一年が経つわけだ。早いなぁ・・・。

明日は、大学院の修了研究発表。論文、作品、演奏と、さまざまな研究発表が行なわれる。

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2007年2月14日 (水)

作曲日記って面白い?作曲はどう?

学校に行ったら、何人もの学生くんたちや同僚先生たちから、「おめでとうございます~」と言われる。このブログで、ようやく書き終えたことを読んでくれているのだ。完成までの道のりを読んでいると、「緊迫して固唾を呑むおもいでした」とメールをくださったのは、友人のM姐さん。ご心配かけてすみません!

作曲の過程をこういうかたちで人さまに読んでいただくことなど今までなかったし、読み手にとって面白いものなのかどうかもわからない。ただ今回は、残り4分の3をなす分身たちをはじめとして、協働する仲間がたくさんいるわけだから、どんな様子なのかを知らせる意味もあって、書いていた。けれども、残り4分の3の分身さんたちは、それぞれ全然違ったペースで作曲していたことだろう。だから、サッキョクカってこういうものなのかと、まっすぐ思われるのもちょっと困るかな。きっきぃせんせってこうなのか・・・ならば構わないけれど。

このブログの管理画面では、その日のアクセス数がわかる。わがブログ、普段は一日70とか80のアクセス数なのだけれど、昨日は328に跳ね上がり、ココログブログ「文化・芸術」カテゴリーのアクセス数ランキング31位に入ってしまった。こんにゃく座のページや mixi から来てくださった方も多かったのかも知れない。ご愛読深謝!

占拠していた演習室の前を通りがかると、しばらくは、昼間はヒーターが効き過ぎて暑く夜はしんしんと冷えるこの部屋に、自分で自分を軟禁しなくても良いのだと思いホッとする。試験は受けてきたぞ発表はまだだけどの受験生のような心境。次に何をしたら良いかわからないので、とりあえず、「まっぷたつの子爵」と同じ作者の小説「木のぼり男爵」を読み始める。以前に読もうとして、読みそびれていた本だ。詳しくはいずれ報告しよう。

明日から2日間、毎年恒例、学生くんたちの音楽祭(萩音祭)が始まる。私が担当する授業で作曲をしている6人も、明日新曲を発表する。今日の午後、リハーサルがあったので付き合った。

ようやくこの歳になって・・・というのも変だけど、ほとんどまったく経験のない学生くんたちに作曲をしてもらうのは、とても面白いことだなぁと思うようになった。そんな・・・面白がらないでください!って怒られるかも知れないけどね。何が面白いのかについては、また明日にでも書くことにしよう。

2007年1月26日 (金)

とうとうあの歌が・・・

昨年11月3日の記事にも書きましたが、仙台駅前ロフトの壁面「アオバビジョン」で、わが大学のCMが放映されています。

そして、今回が「第3弾」になるのですが、ついにあの歌が登場します。

・・・そう、知っている人は知っている、幻の第三の学生歌!名曲か、はたまた迷曲か、作曲家自らやけっぱちであることを認め、某教授から「自己点検評価ソング」とも呼ばれたあの歌です!虫になったり鳥になっちゃったりするアレです!

本日1月26日から2月6日までの期間限定、毎日8時~22時の毎時58分から。その時刻に駅前を歩いている場合は、十分気をつけてね。背後から突然ふりかかってくるかも知れないよ。しかも、「大学名」を歌うところからスタートですからね。気をつけていないとかなりの衝撃だよ、きっと。

仙台駅前を歩く予定のない方は、こちらで視聴できます。→http://prc.miyakyo-u.ac.jp/link/CM/

2007年1月19日 (金)

風邪っぴきのためのアイテム

今年はセンター入試のカントク当番に当たっていなくて、ほんとうに良かった!あれは、健康な時でも具合悪くなるもの。こんな風邪っぴきでは、とても務められない。ご同僚の先生方、ほんとうにほんとうにご苦労さまです!みなさまの担当試験室でトラブルが起こらないことだけを、切にお祈りしております!

相変わらず咳が出てマスクマンだけど、週の半ばよりは少しは楽になってきたかも知れない。この間、モノの本を読み、ヒトの話に聞くことなどを、いろいろやってみた。

[その1] 塩番茶でうがい

うがい薬でうがいしたり、トローチをなめたり、スプレーの薬を振りかけたり、蒸気を吸入したりいろいろしたが、荒れた咽喉には、意外にもこれが一番気持ち良かった。高級な煎茶よりも、無農薬の番茶が良いとのこと。塩をひとつまみ。そもそもお茶ですからね、うがい薬のように薬臭くないのが良い。

[その2] 生姜湯

何に効くのかよくわからないが、身体に良さそうというだけの理由で作ってみる。生姜をすりおろして熱湯を注ぎ、はちみつを溶かす。恐る恐る飲んでみると、何のことはない、普通に美味しいよ。これなら普段飲んでもいい。翌日は、調子に乗って生姜を多く入れてみたら、やはりちょっとツンとくる。それだけならば我慢できるが、繊維質がモソモソ残って飲み干せなかった。生姜の適量は、大きいカケラの3分の1くらいかな。欲張らない方が良さそうだ。

[その3] ぬれマスク

咽喉がヒリヒリするので、マスクをかけて寝る。そしたら「ぬれマスク 就寝用」というものをドラッグストアで発見した。使い捨てマスクの口の部分に小さなポケットがついていて、「のどぬーる」で湿らせたパットのようなものを入れておく。そうすると、朝まで口元に湿り気が維持されるというわけだ。なかなか良いアイテムだった。

神奈川の家に戻ってきたら、「大根蜂蜜」が作りかけてある。大根から染み出した滋養で蜂蜜が薄められ、最後には大根は皺くちゃになってしまうらしい。先ほど、お湯で薄めて試飲。大根と蜂蜜の味がする・・・って、そのままじゃん!味は悪くないです。ネットによれば咳に効くとのこと。期待が持てる。

他に、何か良い知恵があったら、ぜひ教えてください。

2007年1月10日 (水)

雑談~珍しいおまけ写真付き

火曜日の5時間目。今年最初の授業。

出席を取り終えると、深いため息が出た。うしろの方でtomoちゃんがクツクツ笑っている。なに?なにかおかしい?いえ・・・せんせ、面白いです。ん?そう?そうかな。ありがと。・・・って、お礼を言うところじゃないか・・・。

前日まで、学生くんのブログに押しかけて、学校が始まる~いやだよ~・・・などという書き込みを見つけては、いやだよ~え~ん・・・(泣)とか駄々こねまくりのコメントして回ったからかな。

暖冬かも知れないらしいが、さすがに1月に入って、仙台は寒くなった。夕方暖房が切れるので、夜に仕事をするときは、演習室に私物の石油ストーブを運び込まなければならない。

夜遅くまで学校にいると、帰る時には車のフロントガラスが凍りついていて、エンジンが温まるまでしばらく車を出せない。雪は少し舞う程度だが、それがまたクセ者で、濡れた路面が凍っているかも知れないから、たかだか10分くらいの道のりだけれど、運転に気を遣う。まったく、なんでこんな山の上に学校を作ったんだろう。

学食に行くと、Kすけくんが崩れている。だいぶお疲れみたいだね。そばに寄って、元気?と声をかけると、機械仕掛けのようにすばやく振り向いて、はいっ、元気です!とにっこり答える。さっきの様子はとても元気とは思えなかったぞ?一体どういう仕組みになっているんだろう。

愛超は、学内演奏会に備えて、ある日突然髪が長くなるらしい。会ったら髪伸びたねと言ってくださいと、自分のブログに書いていたから、髪伸びたねと言ったら、まだです!金曜日からって言ったでしょ!と叱られた。だよな、まだ短いもの。

アイみちゃんは、来年の和声の授業は何曜日ですか?と尋ねながらバスの時刻表を見ている。時間割の話をしながら時刻表を見て、わけがわからなくならないのだろうか。

センダードは冷える。だが、この星のワカモノたちはなかなか神秘的だ。ほとんど、気分は宇宙人ジョーンズさん。

閑話休題。

Renndann_1 1月8日のこんにゃく座パーティーで、ピアニストのきほこさんが珍しい写真を撮って、自分のブログに載せていたので、お許しをいただいて転載する。4人の作曲家が、2台4手、つまり片手ずつで連弾をしているの図(写真はクリックすると拡大できます)。

動画ではないので、光先生がノリノリでリズムを取っているのをご覧いただけなくて残念だ。

2007年1月 8日 (月)

オープニングパーティー

オペラシアターこんにゃく座が、新しい活動拠点を手に入れたことは、前にも書いた(12月26日記事)。今まで、事務所は東京都、稽古場は神奈川県、倉庫は千葉県と分散していたのを、神奈川県川崎市に集約できることになったのである。

今日は、関係者などを招いての「新事務所・稽古場オープニング・パーティー」。もちろん、このカンパニーのすることだから、ただ飲み食いして、誰も聴いていない中で来賓がスピーチしているようなパーティとは一味違う。200人ほどの来場者は、歌に迎えられ、歌に送られる。いくつかの組に分かれての事務所倉庫探検ツアーもあった。

0108_1 座員の皆さん、様々な服装をしていますが、コスプレではありません。いろいろな演目の舞台衣装を着ているのです。しかし、こうして勢揃いしてみると、大所帯になったものだよね。座員5人とかだった時期もあったから、それを思うと隔世の感があります。

稽古場はかなり広い。今日は仮の舞台を設えてのパーティーだったけれど、こんなに人が入れるのならば、アトリエ公演も夢ではないだろう。

「まっぷたつ」の作曲者4人(林、萩、寺嶋、吉川)による2台ピアノ4手連弾(つまり片手ずつ)という余興(お笑い企画?)などもあり、冷や汗かきました。あのさ・・・いいんだけど、やっぱ事前に練習というか、合わせしようよね、一度くらい・・・。

2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。

Photo_6 ここ数年、毎年恒例になっていますが、1月1日には名古屋の大須というところへ出かけることにしています。古い観音さまがあるので、初詣に行くのです。その前は何十年も初詣などしたことがなかったのに、ここ5~6年でしょうか、なぜかそんな習慣ができました。

今年も、1920年生まれ、今年「数え」で88になるぞと威張って(?)いる親父を引きずって、お参りに行ってきました。いや、引きずられているのは、私の方かも知れない。

大須というところはミニ秋葉原のようでもあり、ミニアメ横のようでもあり、つまりマニアックな電気店があり、また庶民的な商店が立ち並ぶ街です。特別信心深いわけでもない親父が、元旦ともなると大須にお参りに行きたがるのは、ついでに電気店などを覗く楽しみがあるからでしょう。秋葉原で見かけるような、無数の電気のコードやソケットなどの部品を雑然と並べた小さな店に、老店主が一癖も二癖もありそうな顔をして座っていたりします。

Photo_7 「だぎゃ」とか書かれている商店街の垂れ幕。こんな言葉で喋る人おれせんがや。

駐車場から観音さままでは、アーケード商店街を歩くこと約15分、そして、本殿までは階段を上る必要があります。帰り道には、饅頭屋さんでぜんざいを食べるというのも、お約束になりました。父は、その道のりを今年も無事制覇できたと喜んでいます。観音さまのご利益を頂いて、今年も元気に過ごしてもらいたいものです。

皆さまにおかれましても、どうぞ健康で良い一年でありますように。このブログともども、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2006年12月25日 (月)

大阪へ(4)~にっぽんばし・しんおおさか

日本橋に泊まっていたので、再び国立文楽劇場の前を通る。

1225 右下の看板にご注目(写真はクリックすると、大きく表示できます)。・・・うん、火は出したらあかん!ちなみにこの土地では、地下鉄駅などの案内表示な