フォト

-天気予報コム-
2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

友人のページ

こんなページを見つけました。

無料ブログはココログ

2011年10月24日 (月)

川崎と仙台(2)

Img_3721_800x600_2 Jリーグでは、1シーズンのうちに、同じチームとホームとアウェイそれぞれ1回ずつ対戦します。前述の4月23日は、フロンターレのホームゲームとして開催されました。あれからちょうど半年。10月22日、今度はベガルタ・ホームゲームの川崎戦が、仙台のユアテック・スタジアムで行われました。最初の写真は試合に先だって披露された女川潮騒太鼓です。

開始時刻が近づいた頃、あのフラッグが運び出されてきました。4月23日、川崎フロンターレ・サポーターが被災地激励のメッセージを書き込み、仙台サポーターに渡したビッグ・フラッグです。

Img_3725_800x600 ベガルタ・サポーターから、「川崎フロンターレ!」のエールが湧き起こりました。フロンターレ・サポーター席に「お~!」という大きなどよめきが起きます。すぐに唱和。そして「ベガルタ仙台!」のエールを返します。フラッグはベガルタサポーターのゾーンに運ばれ、広げられました。

川崎のマスコット、ふろん太君も来ていたのね。合羽着てるのが可笑しいよ。

Img_3732_800x600_2











試合は、両チームとも攻撃的に展開して、ノーガードの打ち合いのような様相を呈しましたが、どちらも決めきれず、結局0-0のスコアレス・ドロー。しかし、気持ちの入った良い試合でした。

川崎の選手たちがサポーターゾーン前に来て挨拶。エールをおくって、選手は退場。普通だったら、これで帰り仕度を始めるところです。ところが、ドラマはその後起こりました。

川崎サポーターたちが、突然「ツイステッド」を歌い始めたのです。とてもとても力強く。

「ベガルタ仙台 GO!行くぞ仙台 俺たちとともにREADY GO!」

相手チームのチャントを歌うことは、滅多にありません。4月23日のビッグフラッグにこめられた思いが、再び仙台に対して受け渡されたのです。場内を回っていたベガルタの選手たちは、フロンターレ・サポーターの前まで挨拶に来てくれました。これも滅多にないことです。そしてフロンターレ・サポは、自分たちの選手に対するのと同じように力強いエールをおくりました。ベガルタ側からも大きな拍手とともに「お~!フロンターレ!」のチャントが起こりました。本当にスタジアムがひとつになりました。

写真を撮る余裕がなかったので、こちらを見てください。

http://twitter.com/#!/yunbara/status/127687037544443904/photo/1

この日は、タオルマフラーを2本持つ人が多く見られました。川崎サポが仙台のタオルマフラーを、仙台サポが川崎のタオルマフラーを、自分のチームのものとともに巻いているのです。私もそうしていました。

ベガルタのDJの方が「川崎サポーターの皆さん、応援ありがとうございました。川崎サポーター、最高です!」と放送してくださいましたが、その声は感極まっている感じでした。夜になってから、Twitterやmixのコミュニティには、ベガルタサポーターからフロンターレ・サポーターに向けた謝辞が並びました。

フロンターレというチーム、そしてそのサポーターはそういう人たちです。
前節新潟戦の前日には、陸前高田から子どもたち40数人を含む70人あまりを「川崎修学旅行」へ招待。春日山部屋で塩ちゃんこを御馳走になり、かわさきエコ暮らし未来館でちょっとお勉強、藤子・F・不二雄ミュージアムで遊んで、新潟戦を観戦しました。

http://www.frontale.co.jp/diary/2011/1019.html

こんなふうに書いているとどうも自慢げで、何だか親バカみたいになってしまうのですが、サッカーというスポーツの中にも、震災をめぐって心の交流のドラマがあることを書き留めておきたいと思うのです。川崎と仙台は、私の生活の二つの拠点です。その二つの都市をサッカーが結ぶことになったのは、まったくの偶然とはいえ、とても嬉しいことです。

Img_3728_800x600 今日のベガッ太さんとふろん太君は手をつないでいました。

最後の写真は、川崎サポ前に挨拶に来たベガッ太さんです。いつものふてぶてしい(?)態度とは違って素直だったなぁ。

Img_3736_800x599

 

川崎と仙台(1)

大震災の衝撃から少しずつ日常が戻り始めた4月23日、中断していたJリーグが再開されました。川崎フロンターレの再開初戦は、延期されていたベガルタ仙台戦でした。

あいにくの雨、風も強く吹いていました。東北の交通はまだまだ正常ではありませんでしたが、たくさんのベガルタ・サポーターが等々力へやってきました。「被災地」仙台のチームがどんな戦いを見せるのか、川崎・仙台戦はこの日一番の注目を集めていたと思います。仙台の壱弐参横丁では、パブリックビューイングも行われました。(なぜ壱弐参横丁だったのかは謎です。)

電力節約のためにキックオフは14時に変更。前座試合が終わり、出場者たち(サッカー経験のある芸能人や川崎・仙台に縁のある選手たち)が「LOVE 日本 今こそ心ひとつに」と書かれたフラッグを持って場内を一周します。

Img_32211_4 列が川崎サポーターが陣取る、いわゆるGゾーンに近づいた時、突然川崎サポーターから、ベガルタのチャントである「ツイステッド」が湧き起こりました。そして「FORZA SENDAI がんばれ!仙台・宮城」と書かれたビッグフラッグが下りてきました。


 

反対側に陣取るベガルタ・サポーターたちは、一瞬不意を打たれたように見えましたが、すぐに「ツイステッド」を唱和。スタジアム全体に仙台応援の声が響き渡ります。

「ベガルタ仙台 GO!行くぞ仙台 俺たちとともにREADY GO!」

相手チームのチャントをこんなにも本気で歌うことは、普通はまずありません。
ビッグフラッグには、サポーターたちからの寄せ書きがびっしり書かれています。
歌いながら、私は涙がとまりませんでした。

http://www.youtube.com/watch?v=S5xwHidCLl0


Img_32252 引退を表明したばかりの仙台・千葉直樹選手を讃えるフラッグも用意されていました。受け取った千葉選手は川崎サポーター席に向かって深々と頭を下げます。

ビッグフラッグは、バックスタンドを通ってベガルタ・サポーターのゾーンに運ばれ、サポーター席に広がりました。そして、ベガルタ側から湧き起こる「川崎フロンターレ!」の力強いコール・・・。
この15分間にも満たない出来事は、強く心に刻まれることになりました。

この日、もうひとつ強く印象づけられたのは、スターティングメンバー発表時に流れたVTRです。ホームである川崎寄りの作りになっていますが、川島選手、岡山選手のメッセージは、応援チームのいかんに関わらず、胸に響くものだったでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=ZGkDAnvqGjY&feature=related

試合は、激戦の末1-2で仙台の勝ち。
フロンターレ・サポとしては、そこまでサービスとなくても・・・と思いましたけどね。

http://www.frontale.co.jp/goto_game/2011/j_league1/07.html

しかし、この時見せた仙台の粘り強さが、今シーズンずっと続いているように感じます。

2011年10月14日 (金)

「壊滅」した町並み、未だに。

学校訪問を終え、学生くんたちと別れたあと、同僚のO先生と塩竃の町を歩いてみました。
マリンゲートの脇の広場は、まだ津波の傷跡が生々しく残っています。
1

衝撃的だったのは、乗降客の多い本塩釜駅付近、本来なら賑わっているはずの駅前商店街が「壊滅」状態であることでした。有名なお寿司屋さんなど、営業している店は数えるほどで、多くはシャッターなどが壊れたままなのです。

2












この古い商店は取り壊しが決まっているようで、未だに放置されたままです。
3

大資本による量販店の影響もあるのでしょう。しかし、この荒廃の様子は尋常ではないと感じます。塩竃のことはほとんど報道されませんが、復興とかがんばろうというような美しく力強いスローガンからは完全に取り残されています。これも、震災の現実なのです。

4

その日

この学校は、特認という制度を利用して学区外である島外(塩竃方面)から、毎朝汽船で通ってくる児童・生徒が大半です。その日の島の学校の様子を、校長先生から伺いました。

3月11日は、ちょうど中学校の卒業式。児童・生徒の多くは早い時間の船に乗って帰っていた。残る生徒たちは14時21分発の船で塩竃へ向かっており、もう間もなく港に到着という時に地震が発生した。

子どもたちは、塩竃到着と同時に大津波警報が出ていることを知らされ、そのまま船着き場である塩竃マリンゲートの3階に避難し、難を逃れた。たまたま出張のために早く学校を出た先生や保護者の方も同じ船に乗っておられたために、速やかに避難できた。

「船の到着は、絶妙のタイミングでした。」と校長先生は話されましたが、もう少し早く着いて、保護者の迎えの車に乗っていたら津波に巻き込まれたかも知れません。もう少し遅かったら沖合で津波に襲われることになったでしょう。船着き場付近に停めてあった車は、ことごとく「洗濯機に揉まれるように」流されていった。島外から通う先生方の車もすべて流され、その中の1台は遂に行方がわからなかったそうです。

You Tubeでは、マリンゲートから見た津波の映像を見ることができます。

http://www.youtube.com/watch?v=wl1VMkZma50&feature=related

学校に残っていたのは、校長先生をはじめとする先生方のみ。学校はすぐに避難所となり、校長先生がようやく出た臨時便の船に乗って東松島のご自宅に戻られたのは4日後だったそうです。

野々島

浦戸諸島のおかげで、松島や塩竃あたりの被害は少なかったという話を聞いたことがあります。では、松島や塩竃を守った(?)島はどんな様子なのでしょうか。

桟橋からは仮設の道路が、本来の土地より一段高く作られています。私がここに来たのは2年前ですが、景色が変わっていて、方角がよくわからなくなりました。もちろんこの島にも津波は襲い、家屋を破壊していきましたが、幸い亡くなられた方はいらっしゃらなかったとのこと。学校は高台で、小さな島ですからすばやく避難できたのでしょう。今でもところどころに瓦礫の大きな山が築かれ、防災無線用の電柱が曲がったままになっています。そして、思わぬところに水が溜まっています。

Photo_3

学校は、幸い大きな損傷は受けず、7月まで避難所になっていたそうです。4月21日から学校が始まって、3カ月ほどは学校と避難所が併設されていたわけです。
普段から、島に住む方々と学校の方々は深い交流をもっているのですが、避難所を運営したことで一層絆が深まったと、校長先生は話してくださいました。

「ちょうど帰りの頃は大潮です。」と言われましたが、帰りの船着き場では地盤沈下の影響を実感しました。
Photo_4

海のように見えますが、右側は海ではありません。本当は埠頭なのですが、大潮の時にはこんなふうに完全に水没してしまいます。仮設の道路が一段高く作られているのも、水が溢れてきて水溜りになるのを避けるためだと思います。石巻などでは、普通に家屋があるところで、こういう状態が起きているのでしょう。

島の学校

松島湾に浮かぶ浦戸諸島・野々島の学校に行きました。
小学校・中学校併設で、全部で26名という小さな学校。塩竃から汽船で約30分です。
毎年私たちの大学の音楽の1年生が伺って、授業研究をさせて頂いています。
今年は震災の影響で実施が危ぶみましたが、学校のご厚意により、例年通り実施させて頂くことができました。

楽器紹介をしたあと、歌を歌ったりして楽しく過ごし、子どもたちと一緒に給食を頂きました。
短い時間でしたが、名残を惜しみながら無事戻ってきました。

Img_3688_800x600

2011年10月13日 (木)

震災から7カ月

昨日、石巻のN先生から伺った話。

津波に襲われながら無事だった建物も、壁の中の断熱材が水を吸っていて、夏の暑さでカビが生え、使い物にならなくなっていることがわかってきた。そこで、壁を壊して修理している家屋が増えているとのこと。

ちなみにN先生は、震災発生から狭い一室に閉じ込められ、3日目に奥さまはボートで救出、ご自身はゴミ袋をつないでウエットスーツのようなものを作り、これを着て、胸まで水に浸かりながら脱出された。しかし、足元が見えないために途中で転んで水を飲んでしまった。「やっぱりしょっぱいんですよね、海水だから。」と苦笑して話されたが、そのご苦労たるや想像するに余りある。よくぞご無事で…と心から申し上げたくなった。

2011年10月12日 (水)

うどん投入

今年も、同僚のO先生のはからいによる恒例の芋煮会。今年も、仙台風(味噌味、豚肉入り)
と山形風(しょうゆ味、牛肉入り)を作ってもらいました。どちらも美味でした。写真は、山形風にうどんとカレー・ルーを投入するT君。こういうシメ方があるんですね。美味しかったです!
Photo_2

2011年3月31日 (木)

2011.3.11 仙台(18) 

3/31(木)  晴れ

昨晩、同僚のTRさん運転の車に同乗させてもらって、仙台に入る。

東北道は、当初災害援助車両限定だったが、すでに解除されて一般車も走れるようになっている。SAは人も少なく、節電のために照明を落としているので寂しい感じがする。レストランはどこも営業していなくて、フードコートのみ営業。

那須高原を過ぎて福島県に入った途端、道路に傷みが目立つ。補修した跡を乗り越えるたびにガタガタするのだ。しかしそれも、国見あたりからは、つまり宮城県に入ったころからは無くなるというのも、ちょっと不思議。

夜の仙台市内は、車も人通りも少なくて、退避命令でも出てるの?と尋ねたくなるような雰囲気。

家に着いてから、少しだけ近所を歩いてみた。生協は20時まで。ずいぶん長くなったものだ。向かい側のSEIYUはまだ営業していて、この頃首都圏ではなぜか手に入らない納豆もたくさん売っている。牛乳は、残り数パックあったのが目の前で売れていった。ヨーグルトは無し。電池はたくさんある。そして、すでに24時間営業に戻っているという。ここには買い物客がそこそこ来ている。

それにしても、道路にしても、スーパーにしても、震災から間もなく3週間とはいえ、ここまでの復旧ぶりはすごいと思う。

商店街の心意気。東北の人たちは口数少なく、この状況に我慢強く耐えている。だがこの人たちは、とても強くて優しい。苦難に耐えるDNAを持っているかのようだ。

Photo_3   

2011年3月29日 (火)

2011.3.11 仙台(17) 

3/23(水) 晴れ

940分、県庁前バス停。10時発山形行きのバスに乗るために並んでいるのは約10人。私の後ろにも10数人並んだけれど混雑というほどではない。11時半前に山形着。いつものように静かで平和そうな山形の街を眺めて、車で1時間余りなのに、これほど違うものかなと不思議な感じがする。ただ、コンビニに物は少ないし、駅ビルのお土産屋さんでも仙台に本拠のある店舗だけは閉じている。

並ばずに入れるコンビニで、新聞を買う。気仙沼の中学校で卒業式が行われたという記事が1面にあり、写真に卒業生WTさんが写っているのだ。WTさんは、気仙沼の中学校の先生。消息がなかなかわからなくて、とても心配した何人かのうちのひとり。数日前に直接メールをくれて無事がわかったのだけれど、こうして写真で確認すると、本当に安心する。

昼食をとって、1240分発のバスで空港へ。13時過ぎに山形空港に着く。こぢんまりとした空港はかなり混雑していて、各都市の作業着を着た人も何人かまじっている。災害復旧の応援に来て、これから戻るところだろうか。1435分のフライトで羽田へ。18時過ぎ、川崎の家に到着。


mixiのマイミクさんたちに宛てた日記

明23日、仙台を離れます。

新幹線が不通になり、川崎との行き来が簡単ではなくなりました。

それにしても、もっと早く、無理やり仙台を脱出することもできただろうと思います。

けれども、そういう気にはなれませんでした。

まず、音楽科の学生の皆さんの安否が、一人でも確認できないうちは仙台から離れるまいと思っていました。

それに、年度末のすべての仕事を放り出すこともしたくなかった。

本当に不幸中の幸いというべきでしょうが、音楽専攻・コースのみんなは全員無事が確認できたし、卒業生の皆さんや、音楽以外のマイミクさんたちの無事も確認できました。

そして、22日に今年度最後の教授会が終わりました。
ここから少しの間、私の大学での仕事は空きます。

これ以上仙台にいると、仙台の人に渡るはずの食糧を消費する穀ツブシになってしまうだけだし、正直なところさすがに少々疲れてきたので、明日の朝、山形経由で川崎に向かいます。

大学からのいろいろな連絡はメールで来ますから、これからも今まで通り、日記に書き込んだり、必要ならばメーリスで回したりします。

また、ブログで震災日記を書いています。石巻や南三陸町、気仙沼のような甚大な被害に比べればかすり傷ですらないような環境にいましたが、私なりに、今日までの仙台の街の様子などを少しずつ足していきます。
いつも皆さんとともにいます。みんな体に気をつけてね! (3/22)



より以前の記事一覧