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ブログ:ココログ

2008年7月20日 (日)

ご無沙汰のお詫び

最近は更新が滞っていて、せっかく訪ねて頂いているのに新しい記事が少なくて申し訳ありません。学期末が近づいているために、学校の諸々の用事がとても混みあっていて、平日の更新はなかなかできないのです。

更新がないと言っても、本人は、体調を崩しているなどというようなことはなく、相変わらずでおりますので、どうぞご安心のほどを。学期末の用事など落ち着きましたら、また少しずつ更新して参ります。

6月20日の記事で、仙台フィルの演奏会について触れていますが、これからしばらく定期演奏会のレヴューを執筆することになりました。7月17日付け讀賣新聞宮城版に掲載されています。宮城近辺の方は、機会があったら図書館などで探してみてくださいね。

2008年7月13日 (日)

本間先生の告別式

6月21日に亡くなられた作曲家・本間雅夫先生の告別式が、仙台斎苑別館で行なわれた。音楽家仲間が実行委員会を組んでの音楽葬である。作曲家であり僧侶である片岡良和先生による伽陀、表白文から始まり、作品の演奏や弔辞が続く。

本間作品は、無調を基本とした厳しい書法によるものが多いけれど、比較的近作であるフルートとピアノによる「かなたへ」は、とても抒情的に聴こえたのが少し意外だった。作曲のお弟子さんに対して、「雰囲気で書いてはいけない。仕掛けで書きなさい。」と、常々言っておられたからだ。

また、故郷に贈った「深浦讃歌」は、調性を持った優しく穏やかな歌。このような書法では、滲み出る人柄は隠せない。

眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情で小言をおっしゃり、そんな表情のまま、こちらが崩れ落ちそうになるような駄洒落を言われた。そして、仙台圏を中心とする東北の作曲家の束ね役となって、創作活動を刺激し続けた。自ら推進役となった多くの創造と啓蒙の運動のほとんどは手弁当だっただろう。そして、若い人たちを世に送ることにも熱心だった。

指導は厳しかったが学生たちは慕っていた。先生が、仙台でいかに大きな存在だったか、会葬者が500名近かったことにも現われている。

私は、今勤めている大学で、本間先生の直接の後任者ではないが、先生が受け持っておられた授業の大半を引き継いでいる。大学の「同僚」としてご一緒したのは1年半だけだったが、その後も作曲家仲間としてお付き合いさせていただいた。

当時、先生が作られた音楽理論についてのカリキュラムは、完璧なものだった。私は、それをそのまま踏襲しようとしたけれど、何度かの大学改革によって、このカリキュラムを維持するのが困難になり、崩さざるを得なくなった。それは、今でも私にとっては痛恨事だ。

弔辞も演奏も、そして弟さんが語る先生の青年時代の話も、胸にしみるものだった。義弟であるジャズ・ピアニスト、ケイ赤城さんのために書かれた曲も、アメリカから一時帰国したケイさん自身によって演奏された。ケイさんは、日本人で唯一マイルス・ディヴィスと共演したミュージシャンである。

最後に、モーツァルト「レクイエム」の「ラクリモーザ」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が献奏された。遺影の中の先生は、モーツァルトの美しい音楽を聴きながら微笑んでおられるように思えた。

Photo 写真は、準備中の式場。この式で、私は司会を任ぜられた。大役だったが、本間先生へほんの僅かだけれどご恩返しができたかなと思う。

先生のホームページ→ http://www.masao-homma.com/ ご逝去の告知と石川浩さんによる追悼文が載っているが、作品データベースなどは、現在もそのまま。

2008年6月28日 (土)

蒸し寒い話

梅雨だから蒸し暑いかというと必ずしもそうでもなく、むしろ「蒸し寒い」と言った方が良い日が多い。あ、それを「梅雨寒」というのか・・・。特に仙台では、夜などまだ長袖が手放せない。学生くんたちも私たち教師も、少々疲れ気味。5月の連休以降夏休みまでの期間は、一年で最も長く、梅雨のうっとうしさも重なって、一番くたびれる時期なのだ。

そういう季節だから、この際、もっと具合が悪くなりそうな話をしよう。どちらも学校現場にまつわる話である。

私の大学の卒業生某さんは、今年の4月から某県の学校に新任の先生として勤めることになった。着任の日、初めて学校に行って、教頭先生といろいろ打ち合わせをする。

話もひととおり終わる頃、教頭先生曰く、「あなたは初任だからわからないかも知れないが、こういう日は菓子折りを持ってくるものだよ。」

気が利かない奴め・・・とまではっきり言われないまでも、そう言いたげな空気が漂ったそうだ。

実は某さんは、こういう場合どうなのかと迷いながら、菓子折りを用意していた。けれども、タイミングを逸して出しそびれていたのだった。慌てて持参の品を差し出すと、教頭先生は、こともなげに菓子箱に「某先生より頂きました」と書いた付箋をつけて、回覧に回したという。

菓子折りを持って挨拶に行くというのは、この国独特の礼儀だろう。某さんが持参したのは、「挨拶の気持ち」というべきもので、そういう習慣が悪いとは、私は思わない。

だけど、受け取る立場から督促するものなのか?たとえ持参しなかったとしても、「気持ち」が足りないとして、非難されるべきことなのだろうか。それが「この業界の常識」なのだから、今後恥をかかないようにとご指導くださったのだとしても、釈然としない。

もうひとつ。

別の卒業生某さんも、やはり学校の先生だ。その日は、教育委員会から指導主事先生が来訪されて研究授業があった。御前授業はうまくいって、検討会も和やか、指導主事先生は機嫌良くお帰りになったそうだ。よかったよかった。

しかし。

某さんは、信じ難い光景を目のあたりにすることになる。

某さんが見たのは、教頭先生が、指導主事先生のお履物を磨いているところだった!驚きを通り越して引いてしまった某さんは、先輩の先生にこっそり尋ねてみる。すると、あぁ・・・最近はあんまりやらないけどねぇ~という、これまた何とも奇妙な返事。ということは、以前は当たり前のようにやっていたのか?以前というのは江戸時代か、それとも明治時代か?一体、今は何時代なんだ?

私は、基本的に学校現場に同情的である。教諭の不祥事が出るとひどいバッシングが巻き起こるが、中には少数のエキセントリックな者がいたとしても、ほとんどの先生たちは真面目に誠実に仕事していることを知っている。卒業生たちが活躍しているのも嬉しく思う。一部の保護者をモンスターと呼ばなければならないほど傷ついた現場で、教壇に立つこと以外の雑用に追われている先生たちのご苦労を思う。

だが、こんな話を聞くと、ちょっとぐらぐらしてしまう。さらに、念のために言えば、この二人の某さんが勤めるのは、それぞれ別の地方なのである。特定の地域に妙な「常識」が残っているらしいというわけではないのだ。

本当に大切なことには無策なのに、どうでもいいような細かいことにやたらと潔癖で、はみだす者を受け流す度量がない。嫌な時代だ。懐古趣味に陥りたくはないが、インターネットもブログも携帯電話もなくて不便だったけれど、昭和の社会はもっと大人で、大らかだった。だからこそ、せめて学校現場だけでも、妙な「常識」を温存しないで、「良識」が通じるところであってほしいと思う。将来教職に就く若者たちへ心構えとして、偉い方がお見えになったら、お履物は磨いておくものだぞなどと指導するのなんか真っ平である。

指導主事先生が機嫌よくお帰りになったのは、お履物が磨かれていたからではなかったと信じたい。

2008年6月18日 (水)

地震お見舞い御礼

6月14日土曜日の朝に起きた岩手・宮城内陸地震に際して、何人かの方から、お見舞いの電話やメールを頂きました。

13日金曜日の夜、神奈川の家に戻り、地震が起きた時間は、まだ惰眠むさぼり中でした。私は、夜中の地震は爆睡していて気がつかないことが多く、よく呆れられるのです。でも、今回の地震は神奈川でもふらふら揺れて、しかも結構長い時間だったので、さすがの私でも目を覚ましました。

数分後、西日本に住んでいる友人から、携帯にメール。「青葉区震度5って言ってるけど、大丈夫?」

え~?今のは震度5もないだろう、せいぜい2くらいじゃないの?・・・寝ぼけ頭は、青葉区と聞いて、神奈川の家に近い「横浜市青葉区」のことかと思ってしまったのです。

「そんなにひどくなかったよ」とメールを返しながら、・・・え?もしかして「仙台市青葉区」?と思い、慌ててテレビを見ました。

はじめのうちは、どうしたって大きな都市の放送局からのレポートということになりますから、まずは、揺れる仙台の街をとらえた定点カメラの映像が映し出されました。慌てて、会員制掲示板に書き込みをしたり、何人かの学生くんたちに連絡を取ったりしてみましたが、いずれも、大きな揺れだったけれど特別な被害はないという返事で安心しました。しかし、都市部よりも山間部が大変なことになっているらしいということが、次第にわかってきます。一報を聞いた時よりも、時間を追うごとにだんだん恐ろしさが増してきたのは、私だけではないでしょう。

昨日(17日)、仙台に戻りました。仙台の家の中はどうなっているかと、恐る恐る入りましたが、まったく何ともなっていませんでした。強いて言えば、よく見ると、一列にきちんと並んでいたはずのCDが前後ギザギザになっていて、おや?君たち動いたね?と思わされただけでした。大学の研究室も、薄めの本が数冊落ちているのを発見しましたが、ほぼ何事もありませんでした。地盤の強さや建物の方向や、いろいろ関係するのでしょう。

今日(18日)夕方、大学にいたら、ミシッ・・・という音が聞こえました。余震です。しかし、ほとんど揺れは感じませんでした。同じ仙台圏でも、震度3くらいに感じた地域もあったらしいのですが。

そんなわけで、私自身はミシッ・・・という小さな音を聞いたという程度ですし、直接間接の知り合いが被害に遭ったという話も聞こえてきていませんが、揺れのひどかった地域では、不自由な避難生活を余儀なくされている方々がたくさんおられる報道を見ると、同じ地方に関わりを持っている者として、他人事とは思えません。

皆さまからご心配いただいたことに感謝を申し上げますとともに、被災された方々が、一日も早く元の生活に戻られるよう、祈るばかりです。

2008年6月11日 (水)

仙台×横浜FC

久しぶりで、ユアテックスタジアムに参戦。横浜FC戦。

Photo ユア・スタ前。こんな石像、前からあったっけ?

Photo_2 このスタジアムは、ピッチが近く、とても見やすくて楽しい。広くはないが、全面屋根付きだから一体感がある。ベガルタ・サポの大きな声援が響く。地下鉄駅から近いのもありがたい。

前半は、ベガルタが圧倒した。24分、平瀬選手が打ったシュートがウツクシク決まり先制!横浜FCは、後半から"カズ"三浦和良選手と難波選手が入って流れが変わったが、68分、田村選手がヘディングを決めて2-0、そのままベガルタの勝利。失点なしですっきり勝つのは良いことだ。

川崎フロンターレから来た西山選手、飛騨選手がベンチスタートながら、ともに途中出場。フロンターレ・ファンである私に気を使ってくれていますか?と言いたくなるような采配。どちらの選手も良い動きだった。

"カズ"選手、今までも何度か見ているが、客席とピッチとの距離が近い分、素晴らしい足捌きがよく見えて面白かった。さすがです。41歳?まだまだいけます。とことんやってください。

2008年5月 2日 (金)

青葉の頃

大学の構内も、いつの間にか青葉に覆われるようになりました。

1 しかし、関東や中部地方に比べると、まだまだこれから。木々の緑が本格的に生い茂るのは、今月下旬くらいにかけてでしょうか。

2 それでも、大型連休はざまの平日は気温も高く、昼間は少し汗ばむ感じでした。

1_2 音符くんが、音楽棟前に植えて育てたチューリップも、見事に満開。たださ、ちょっと密集し過ぎでないかい?

Photo 青葉通りも青々としてきました。「杜の都」は、こうでなくちゃね。

ただ、残念なこともあります。地下鉄工事が始まっていて、一部のケヤキが伐られ、別の場所に移植されたのです。場所を変えてもちゃんと根づくのかなぁ・・・。

そのため、この付近はなんだかがらんとしてしまいました。歩道と中央分離帯にあったケヤキがなくなったためです。

Photo_2 空が広くなったとも言えるけれど、何だか仙台らしくない・・・。そう、この一角だけは、どこにもある地方都市のありふれた空の景色です。地下鉄ができると大学方面も便利になるだろうと思われますが、それと引き換えにがらんとしてしまったのはとても残念です。

2008年4月26日 (土)

なごやのなぞ

その1 あんかけスパゲッティ

Photo なごやの異形の食べ物といえば「みそかつ」と言われます。でも、この「あんかけスパゲッティ」の方が、知名度は低いけれど、異形度は高いような気がします。

ここでの材料はナス、ピーマン、キャベツ、ベーコン、ソーセージなど、とり立てて珍しいものではありません。太めの麺は炒めてあります。そして、まわりのソースは、デミグラスソースのように見えるかも知れませんが、そんなはずはない。そう!赤味噌ソースなのです!

1960年代から始まった料理だそうですが、すみません、私はこのたび初めて食べました。しかも、某有名シティホテルのカフェレストランだったので、発祥の店を標榜しているところとは、だいぶ違うんだろうなと思います。

なんだそりゃぁ~と言うあなた。あんかけスパゲティは、ウィキペディアにも記事があるのです。

『野菜トッピングは「カントリー」、ソーセージ、ベーコン等の肉類トッピングは「ミラネーゼ」と呼び肉と野菜の両方盛りは「ミラネーゼ」と「カントリー」の頭文字を足して「ミラカン」と呼ぶ店が多い。』(ウィキペディア「あんかけスパゲティ」より)

・・・なんだそりゃあ~・・・。

ちなみに、この某有名シティホテルのカフェレストランにはなごや料理のメニューがいくつかあります。また、このホテルにあったかどうか忘れましたが、なごやには「スパゲッティ イタリアン」というなぞのメニューがあります。玉子焼きが敷いてある上に、いわゆるナポリタンスパゲティが乗っているのです。皿は鉄板で玉子がじゅうじゅういってたりします。

ちなみに、某老舗みそかつ屋さんの「鉄板とんかつ」は鉄板の上でキャベツがじゅうじゅういってるし、某老舗味噌煮込みうどん屋さんでは、ぐつぐつ煮立っているので、皿に取り分けなければ、とてもじゃないが熱くて食べられません。

なごや料理にじゅうじゅうぐつぐつが多いのはなぜだろう?

ちなみに、「スパゲティ」ではなく「スパゲッティ」と書くべきという気がしますね。なごや料理では。

その2 ミュー

なごや市街と中部国際空港セントレア(思わず、訛って「せんとりゃぁ」と言いたくなる)を結ぶ名鉄電車のアクセス鉄道には、ミューという特別車があります。この、疲れてダメダメな猫の鳴き声みたいな名前の列車は、ちょうど成田エクスプレスのような感じで、なかなか快適ではあります。

Photo_2座席前のテーブルの上には、「チケットホルダー↑」と書かれた切れ込みが。この写真のようにチケットを挟んでくださいということなんでしょう。チケットをポケットとかに入れて失くすなよということなのかも知れませんね。ご親切に。

せっかくだから挟んでみましたが、何となく落っこちそうだし、かえっていずい(注:仙台ことばで居心地の悪いこと)ので、すぐポケットにしまいました。降りるとき忘れそうだし。使う人いるのかなぁ・・・。

1 その3 なぞの旅人

「なぞの旅人フー」と書かれた幟が、中部国際空港構内のあちらこちらで見られます。

それだけしか書いてないから、かなりなぞです。動物なのか植物なのかもよくわからない。なんだろねと思いながら、ショップのフロアに行ってみたら・・・いましたね。

2 デカイのが。

でも、デカくなっただけで、相変わらず何なのかはよくわかりません。この空港のキャラクターであることはわかりましたが。そして、ホームページを見ると、他にも犬や猫や鳥や雲などのキャラクターがあることもわかりました。でもやっぱりよくわかりません。フーさんが何なのか。

なぞの多い街の入り口ですから、なぞのままで構わないですけれどね。

2008年4月20日 (日)

納骨の日

晴天。

09:50 父のお骨やお供えなどを乗せた車で、名古屋の自宅を出発。母は、親戚の人たちと一緒に新幹線で行くと言い張る。私の運転が信用できないのだろう。

10:20 名古屋インターから東名高速へ。新緑がとても美しい。仙台の、まだ春になりきっていない空を見慣れていると、この緑は眩しい。一ヶ月くらい季節を先取りしている感じだ。

11:30 走行は順調、浜名湖PAに立ち寄る。

Pa まだ連休には間があるものの、よく晴れた日曜日、PAは混雑している。

Photo_2 うなぎ串350円、きも串250円。屋台で焼く匂いにつられる。肉厚で柔らかく美味しい。

Photo_3

浜名湖は穏やかで、初夏のたたずまい。

12:10 目的のお寺に到着。荷物を降ろして一段落ついたころ、最寄り駅に着いた母たちから、タクシーが来ないと連絡が入る。この街の地理はよくわからないが、地図を片手に、車で迎えに行く。今日はこのお寺の近くにあるスタジアムで、Jリーグの試合が行なわれる。サポーターがスタジアムに向かっているのを見かけるが、関東などに比べると出足が遅いように思う。

13:00 会食を取りながら、親戚のHさんが、自分で書いた詳細な家系図を示しながら、わが家の祖先の人々について話してくれる。高齢のHさんがいなくなったら、誰にもわからなくなるだろう。

13:50 スタジアムからは、放送が一段と大きく響いてくる。何を言っているかは聴き取れないが、キックオフ直前のムードは盛り上がっている。

14:20 お坊様の読経が始まる。ナムアミダブツの間に、スタジアムの歓声が聞こえてくる。

15:10 墓所。昨日私が戒名を書いておいた白いサラシの袋に、父のお骨を移す。石屋さんが目地を切っておいてくれているので、墓石はすぐに動いて、袋はお墓の中に納まった。

お骨箱は、燃えるものと燃えないものとに分けて、墓地の中のゴミ箱に捨てておいてください、できれば壷は小さく割って捨ててもらえるとありがたいそうです・・・と、お坊様は言う。惜しげもなく単なるゴミとして扱われることにとまどっている私を尻目に、伯母は、木箱を壊し、壷をつつんであった布に入れて、コンクリの側溝に打ち付けて割る。壷は破片となって、不燃ゴミ入れのかごの中に落ちる。誰もが結局感謝する伯母のこの如才なさは、気の毒にも時として眉をひそめられたりもする。

15:15 墓石を清めるための水をもう少し汲んでこようとした時、嵐のような雷のような轟音が響く。ゴールが決まったな。何かが爆発したようなこの大歓声は、ホームチームの得点に違いない。始まりかけた母の嘆き節も、応援の太鼓と歌にかき消される。

15:15 後半9分、ジュビロ磐田・萬代選手が、先制した大分に対して同点ゴールを決める。

15:50 お寺を出発。試合はまもなく終わるだろう。

16:30 再び浜名湖PA。今度は同乗した母は、スターバックスでキャラメル・マキアートを飲む。

17:20 おや?と思っているうちに、三ケ日あたりから渋滞が始まった。岡崎付近、豊田付近と自然渋滞は断続的に続き、延々とのろのろ運転になる。往路は順調だったのに、今度は思いのほか時間がかかる。

18:30 ようやく名古屋インターを通過。途中の地下鉄駅で、同乗していた父の従妹であるWさんが降りる。お疲れの表情。車に乗っていきませんかと声をかけたのが、こんなに時間がかかってしまっては、かえって申し訳なかったかな。

19:00 名古屋の家に到着。仏間代わりの座敷は、何だかがらんとしている。

Img_0527

翌日夕方の中部国際空港展望デッキから見た伊勢湾と夕日。

父は、写真と記憶の中だけの人となった。

2008年4月19日 (土)

一目千本桜

仙台から東北本線で南へ30分ほど、船岡駅の手前あたりから、桜並木が見えてきます。この季節、付近を走る列車は、景色を楽しめるようにと、速度を落として運行します。

白石川に沿ったこの桜並木は「一目千本桜」と呼ばれ、「日本の桜100選」にも選ばれているそうです。ひとつ先の大河原駅で降りて、船岡方面に戻りながら、川の堤を歩いてみることにしました。

大正12年、高山開治郎という人が、一千本のソメイヨシノを植樹したのがはじまりとのこと。現在桜並木は7キロにわたり、二千本以上が一斉に花を咲かせています。程近い船岡城址公園の桜もよく知られています。

1_2 大河原駅近くの河川敷には、屋台やちょうちんがならんで、お決まりの「さくら祭り」風景。(写真はクリックすると大きく表示できます。)

しかし、少し歩いていくと、宴会客の姿はなくなり、そぞろ歩く人たちと行き違うだけで、ざわついた感じはまったくなくなります。2 目の前は、どこまでも続いていくソメイヨシノの花トンネル。

大河原から船岡までは約3.5キロ。歩くと50分くらい。川をはさんで対岸も見事な桜並木、そして振り返るとまだ雪をかぶっている蔵王連峰が見えます。この日は薄曇りだったので、写真でははっきり見えないのがちょっと残念。

4 3 韮神堰というのだそうです。左奥に薄っすらと見えるのが蔵王。撮影ポイントとなっています。

ちょっと息抜きに・・・と、ひとりでぶらりと出かけたのですが、ちょうど一番の満開の日だったようです。何とも贅沢な散歩でした。おそらく、この週末の雨と風で散ってしまうでしょう。

5 停車?

2008年4月 5日 (土)

等々力今期初参戦

J1第5節、川崎フロンターレ対京都サンガ戦。

1 等々力の桜はもうだいぶ散っている。フロンターレは開幕ダッシュに失敗して、初戦引き分けの後、第2節とナビスコカップ予選2試合を落とし、第3節で初勝利、第4節も勝って、ようやく調子が上がってきた気配。

2フロンターレのサポーターは概ね紳士的だ。負けが続いても、よほどのことがないとブーイングしない。他所のチームには、罵詈雑言を浴びせかけることが応援であり愛情であると考えるサポーターもいるようだが、フロンターレサポの多くはそんなふうには考えないようだし、そういうことは滅多に起こらない。

放送で、「(相手チーム)サポーターの皆さん、今日は遠くから等々力まで、ようこそいらっしゃいました」などと流れると、盛大な拍手が起こる。移籍でチームを出て行った選手に対しても同様。柏戦で石崎監督が紹介されたときの大拍手は、ちょっと感動的だった。かつてこのチームは石崎監督に大きく育ててもらったことに敬意を表しているのである。

試合前のイベントでは、「川崎市民の歌」を歌うようになっていた。この歌のメロディー、川崎市民の多くは知っている。ゴミ収集車がこの曲をオルゴールで鳴らしながらやってくるからだ。歌詞は一般公募とのことで、作曲は山本直純さん。

初めのうち、市民の歌と知らなかったから、なんだか暗い不思議な音楽を流してるなぁと思っていた。短調なんですよ。そして、途中から同主長調に転調する。昭和初期の流行歌とかにあるかたちですね。「東京ラプソディ」とか。歌ってみると、歌詞に対してメロディーがとてもうまく作られていることがわかる。さすがプロの職人仕事だなぁ。

フロンターレの試合を観に来る人、フロンターレサポーターは川崎市民だけではないのだから、市民の歌を歌うのはいかがなものかという議論もあるらしい。いいじゃないの、覚えてもらって一緒に歌えば。いい歌なんだから。歌いたくない人は歌わなければいい。歌うときに起立させられるわけでもないし、起立しなかったからといって処罰されるわけでもないんだから。

3 夕方の試合。風があって、途中からはずいぶん寒くなった。試合は、1-0で惜敗。終始押し込んで、何度もチャンスがあったのだけれども、点を奪うところで決めきれなかった。うーん・・・残念。でも、憲剛選手や大橋選手を中心に、ボールはよく回り、迫力のある攻めが見られて楽しかった。

試合中、大きな声で野次っていた人たちも、最後はバックスタンドまで挨拶に来た選手たちに向かって、大きな拍手をおくっている。さぁ、次は勝とう!

2008年4月 3日 (木)

火曜日と木曜日の晩ごはん

4月1日、ふとしたはずみで、ブラジル料理を食べに行くことになった。神保町のこじんまりしたお店。

Photo_3

シュラスコという、ブラジル風バーベキュー。 牛ランプ肉、豚スペアリブ、鶏のハツなど、いろいろな肉を焼いたものの盛り合わせ。ソーセージはスパイシーでしっかりした味付けがしてある。

Photo_4

フェイジョアーダ。黒豆のシチューで、ライスにかけて食べるのが美味しい。 ただ、運ばれてきたときはギョッとする。見た目は完全にぜんざいなのです。でも、肉も入っているし、塩味がついている。

ノバスキンというブラジルビールは、意外に普通。ふだん飲んでいるものと違和感はない。ブラジルのお酒ピンガも飲む。ピンガはさとうきびから作った蒸留酒。カシャッサともいうそうだ。ラム酒のような泡盛のような、とても口当たりの良い、危険なお酒だ。

Photo_5

4月3日は、ふとしたはずみではなく、計画的に新筍の炭火焼きを食べに行った。仙台は稲荷小路のお店。

この時期しか食べられないメニュー。皮をむきながら削ぐように食べる。春らしい渋みと甘みがうれしい。

2008年3月31日 (月)

東京の桜

1 神奈川の家に戻ってきた頃、桜がちょうど満開だった。

2_3 1枚目はあざみ野付近、2枚目は高井戸の神田川。

3 4 神奈川の自宅の北側にある木も、いつの間にかずいぶん立派になっている(よかったら、写真をクリックしてご覧ください)。

桜の木って、ずいぶん短い期間のうちに大きくなるんじゃないかな。高井戸には、学生の頃住んでいたけれど、こんなに見事な桜の林があった記憶がない。

そう思っていたら、物知りのミーさんによれば、桜の木の寿命は50~60年、だから次々と新しい苗木を植えていかなければいけないのだそうだ。

寿命50年かぁ・・・。私が桜だったら、そろそろダメだ。

よかった、桜でなくて。

2008年3月29日 (土)

移ろうもの、動かぬもの

3月26日、仙台から名古屋に飛ぶ。父が遺したものの整理のためである。しばらくの間、まだ春の気配薄い仙台に閉じこもっていたために、季節はもう春なのだということを忘れていた。

Photo_8 実家の周囲でも、桜やハクモクレンが咲きそろっている。

同じことを経験した人は誰もが言うのだけれども、遺されたものの整理はとても大変だ。父には借金も財産もなかったが、わずかばかりの貯金を解除することひとつ取っても、複雑な手続きが必要なのである。

27日、父の出生から死去まですべての戸籍謄本が必要ということで、午後急遽静岡県の磐田に向かう。磐田市役所へ行って、古い戸籍を発行してもらうためである。もちろん今どきは郵便でも送ってもらえるけれど、これがないと28日までの名古屋滞在中に何も進められないので、実家でボーっとしているより行ってきた方がいいという判断だ。

磐田には、浜松まで新幹線で行って在来線に乗り換える。ここには墓所があるので、今までも何度か訪れている。用件は簡単に終わって、すぐには判読できないほど劣化している手書きの古い戸籍謄本が出てきた。

戸籍に「衝撃の新事実」などあろうはずもなく、しかし知らなかったこともあったりして、古い戸籍を見るのはなかなか面白かったが、内容は省略。

Photo_9 磐田という地名、誰も知らないような時代もあったけれど、ジュビロ磐田ですっかり知られるようになった。駅の近くには、こんなシンボルがある。

Photo_10 また、舗道には、ジュビロの選手やスタッフの足型や手型がはめこまれている。これはオフト監督の足型だから、1994年頃のものかな?

Photo_2 ちょっと心配になってしまうのは、駅前にまったく活気がないことだ。商店街はシャッター通りになってしまっているし、人がほとんど歩いていない。郊外型のスーパーができてから駅前は寂れてしまいました・・・と、当地に住む親戚から聞いたのは、もうずいぶん前のことだ。ヤマハスタジアムに向かって、アウェイチームも含め、たくさんのサポーターが駅前を通っていくだろうに。

2_2 駅前の大きなクスノキ。樹齢は推定700年で、静岡県指定天然記念物になっている。かつてここはお寺の境内だったが、再開発によってお寺は郊外に移転してしまい、木だけがとどまった。子どもの時から、お墓参りに来るたびに眺めていたから、よく覚えている。祖父の妹たちがまだ子どもだった頃に、この木を囲んで写したという写真がどこかに残っているらしい。700年もの間ここに立っているのだから、様々な人々や物事の往来を見てきたことだろう。そして、これからも見続けていくことだろう。

祖父はもちろん、その妹たちも天寿をまっとうして、今は鬼籍に入っている。

2008年3月25日 (火)

卒業式

私たちの大学では、正式には学位記授与式と呼ぶ。

今年の会場は、大学の講堂ではなく、市内の国際会議場を借りきって行なわれた。大学講堂は収容人数が限られているから、父兄の方々が入れない。別室で中継画面を観てもらうことになっていたのが、何とかならないものかと申し入れがあったのだそうだ。この国際会議場ならば、父兄にも会場内で式に立ち会っていただけるというわけだ。

私などは、Photo_3 入学式も卒業式も、両親同伴の方がむしろ珍しかった時代の育ちだから、隔世の感がある。

Photo_4 入学式はともかく、卒業式は長年通った校舎から見送ってあげたいという心情が残るし、式の後、音楽棟の前で、それぞれ写真を撮って・・・というようなことはできなくなった。そのかわり、音楽を専攻した卒業生さんたちと式に出席した先生たちとで、舞台を占領して記念写真を撮る。Photo_6

そんなわけで、教師側は会場変更については賛否両論あるけれども、専攻やサークルの後輩たちが会場の外で待っていて、出てきた卒業生を囲み、寄せ書きやプレゼントを渡したり、胴上げしたりという光景が今年も見られたのは良かった。Photo_5

夜は、ホテルのレストランでの謝恩会。今年の二つの専攻の卒業生たちは、とてもいい感じのスタンスで繋がっている。そんな学年色が、最後の楽しい時間にも表れていた。Photo_7

それぞれ分かれて二次会に行く。深夜も近い頃、夜行バスで東京へ発つI美さんを見送るために、専攻が再びみんな集まった。秋田出身のI美さんは、4月から横浜で小学校教員になるのである。私たちが流れていた二次会会場は、大人っぽい雰囲気のバー。卒業したら連れて行こうと決めているお店だ。話が弾んで店を出るのがちょっと遅れたために、バス時間が迫ってしまい、みんなで仙台駅構内を爆走する。湿っぽい別れを交わす暇もなく、I美さんはバスに乗り込み、みんな車窓の閉じられたカーテンに向かって手を振る。

深夜1時過ぎ、家に戻った私の携帯にメールが入ってきた。I美さんだった。

「ありがとうございました。・・・バスに乗ってからずっと泣いています。涙がなかなかとまってくれません・・・仲間って本当に大切なのですね!横浜での新生活も頑張っていきたいと思います。」

それぞれの新しい生活が明日から始まる。安堵と綯い交ぜの寂しさを感じる一日。

2008年3月11日 (火)

日曜日のおやつと火曜日のお昼ごはん

ベアケーキっていうから、何かと思ったら。

Photo クマさんの形をした人形焼じゃないか。中にあんこは入ってないけれど。

でも、こうやって並んでると、まるで兵馬俑みたいだよね。

そして、またまた火曜日のお昼ごはん。お持ち帰りタイ料理。

Photo_2 ガパオというものです。東京駅のエキナカで。

挽肉と玉葱を香辛料で炒めたもの。ピリ辛。お約束のように目玉焼きが乗っている。

二層になっていて、下に入っているご飯と混ぜて食べる。

近頃は、新幹線の中でも、いろいろなものが食べられるようになりましたねぇ。

2008年2月24日 (日)

50,000ヒット御礼

このブログを開設してから、間もなく2年になります。

2月22日、50,000ヒットを突破しました。50,001を踏んだのは、卒業生のNさんだったそうですが、50,000はどなただったでしょうか。

過去に一度引越しをして、その際に、10,000を超えていたカウンターがリセットされました。ですから、正確にはこのカウンターの数字に約10,000を足した数が、開設以来の総合計ヒット数ということになります。

更新も怠けているし、面白いことも書いてないのに、いつも訪れてくださってありがとうございます。今は、学年末の雑用などでかなり慌しくしていますが、もう少ししたら落ち着くかなと思うので、また少しずつ更新していきます。

これからも、長い目でお付き合いいただけたら嬉しいです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

2008年2月16日 (土)

春を供える

Photo 父の七七日法要。

七七日とは、四十九日のこと。亡くなって七週間目、正確には2月20日がこれに当たる。

この日までは、中陰もしくは中有といって、次の世界に生まれ変わるのを待つために、蓮の花の中にいる。そして、本人の生前の徳が高く、残った者たちの祈りの声が届けば、七七日が過ぎると蓮の花弁が開き、阿弥陀様の声が聞こえ、次の生へと導かれる。四十九日は、中陰の期間が満つるというわけで「満中陰」という。

もちろん、これはお坊様のお話の概要を書き留めただけのものだ。宗派が違えば、考え方に違いがあるのだろう。

まだ寒い、というより一年で一番寒い時期だが、お供えに飾られた花には早咲きの桜までが混ざり、春がそれほど遠くないことも感じさせられる。いつの間にか日も長くなり、午後5時半くらい頃になっても、まださほど暗いとは感じなくなった。

お供えにいただいたお干菓子。緑や黄色が近づく春を思わせる。

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2008年2月 5日 (火)

火曜日のお昼ごはん

昼過ぎに仙台に着くように移動。お昼ごはんは、東京駅に最近出来たエキナカのお店で調達。

Photo 新宿アカシアのロールキャベツシチュー弁当!

注文すると、温かいのをよそってくれる。もっとも車内に持ち込んで食べる頃には冷めてしまうけれど。

学生時代にはよくお世話になったお店。安くてボリュームもあって美味しいから。こんなところで再会するとはねぇ。

なんか懐かしくて美味しかった。

ちなみに、東京駅のエキナカは、銀の鈴と呼ばれていたあたりが新装されたもの。いろいろなお弁当を売っていて楽しい。少し前には、沖縄惣菜屋さんのゴーヤチャンプルー弁当を買った。美味しかったけれど、ちょっと量が少ないかな。

2008年1月29日 (火)

ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいで

Photo 1月27日、山形の合唱団「じゃがいも」の、初めての仙台公演は無事終わりました。

仙台公演の話が持ち上がったのは、2005年に一緒に作った合唱劇「ポラーノの広場」の頃だったでしょう。あの、ちょっとわけがわからないけど楽しい「ポラーノ」を仙台で紹介できたらいいなぁと思いました。その後、話が急展開して「銀河鉄道の夜」を・・・ということになります。

きっきぃさん、シアターホールは客席が600もあるんだよ、山形側では仙台でそれだけのお客さんを集められる自信ないよ・・・とかいう話をしていたのがウソのよう!

年が明けた頃、すでにチケットがかなり出ている、もうこれからはあんまり売っちゃだめ!・・・という、何とも普通ではあり得ない指令が伝わってきました。

でも、話を聞いていると、こちらもだんだん不安になってきます。数年前に、某演奏団体がチケットを売りすぎて、当日入場をお断りすることになったという話など聞こえてきていましたから。そんな事態は避けなければ。

内輪の方々や、ごく近くなってチケットを買いたいと言ってくださった方々には事情をお話して、当日のリハーサルを観ていただくことにしました。

そして午前11時。リハーサルに立ち会う人数とは思えない、100人近くの方々が来てくださっていました。もちろん、リハーサルといっても、完全に本番と同様にやりました。出来は、本番と比べてもまったく遜色なかったと思います。

そして公演本番。14時30分の開場時間前から長い列ができていて、14時35分には客席が見た目かなり埋まった感じ。この勢いが開演時間まで続いたら・・・と考えるとちょっと恐ろしくなりましたが、溢れることなく、客席はほぼ満員で出発。チケットを買ってくださったお客さまをお帰しするようにことにならなくて、本当に良かった。

そして何よりも、こんなステキなことをやっている人たちがいるということを、仙台の皆さまに知っていただけたのが嬉しいです。そして、東京からもたくさんの方がわざわざ来てくださいました。

いろいろ寄せてくださったご感想や、私自身見聞きしたことなど、追々書きとめておきたいと思っていますが、まずはご来場いただいた皆さまに、厚く御礼申しあげます。

2008年1月26日 (土)

やっぱり冬

24日、昼過ぎにパラパラと降り始めた雪は、あっという間に積もって、暴風雪警報が出るまでになりました。

夜、山形に、じゃがいもの練習を聴きに行く予定だったのだけれど、Sさんからの「やめといた方がいいんでない?」という電話を受けて取りやめ。自分で運転して行くつもりは初めからなかったのですが、高速道路も一部不通ということで、バスの便がどうなっているかわからないし、そもそも大学のある山から仙台駅まで下りられるのか?・・・っていう話で。

夜8時過ぎ、強風が吹いて地吹雪みたいになっていたのが少しおさまったのを見計らって、恐る恐る車で山を下りました。まだ降り続いているところだから、かえって気温はそれほど低く感じないし、路面も凍ってはいませんでしたから、案外大丈夫でした。それでも一番急な坂のあたりは、のろのろ運転の車が数珠つなぎ。坂の途中では、何台もの原付が放置されてころがっているのを見ました。そこまで来て力尽きて諦めたのね。後で聞いたら、家に帰るまで通常の3倍以上とかの時間がかかった学生くんたちが多かったようです。

あ、私が帰る頃、きゃっきゃっ言いながら雪だるまだかかまくらだか作っていたやつらは、ちゃんと帰れたのか?

25日は、きれいに晴れたので、夜は山形に行きました。

この季節、この地域を自分で運転するのはおっかないので、高速バスで移動です。東北道から山形道に入って、県境の笹谷-関山峠に近づくと、やはり半端ではありません。しかも、マイナス6度の表示。わだちのできている高速道路って、見たの初めてかも知れない。

山形市内も、昨日の仙台の雪がどうのって言っているのがバカみたいというか、さすがというか、雪の量が違います。

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自動車からも信号機からも、つららが下がっています。雪の上や半分溶けて凍っているところ、黒光りするところなど、この季節の地面の歩き方、だいぶ慣れましたけれど。

今日の仙台、もう雪は溶けて、まったく見られません。・・・あ、大学のある山の雪は全然溶けてないけどね。

2008年1月22日 (火)

およそ2年に一度くらいのユウウツな日

19日と20日はセンター入試の監督。およそ2年に一度当番が回ってきて、他に比べるものがないくらいユウウツな日々である。

入試だから間違いがあってはいけない、慎重の上にも慎重を期して・・・というのは当然だ。それは一般入試だって同じこと。試験官が気難しいように見えるのは、受験生と同じくらいとは言わないが、それなりに緊張しているからなのである。

センター入試は全国統一テストだから、不平等があってはいけないことになっている。だから統一したマニュアルに添って進められる。私たちには百数十ページに及ぶマニュアルが渡され、何時何分にはこの「台詞」を言うようにと厳密に決められている。つまりこれは、試験官のための「台本」でもある。

マニュアルには、試験中に起こり得る出来事への対応方法も事細かに書かれていて、それに基づいて対処せよ、そのためにはマニュアルを熟読玩味して、咄嗟に正しい対応ができるようにせよと申し伝えられる。

試験中に地震が起きたら・・・などはまぁ良いとして、事細かな事例を、日常の仕事に忙殺されている中で完全に覚えるなんていうことは、到底出来っこない。例えば、「合格祈願 ○○天満宮」と書かれた鉛筆を使用しているのを発見した時はどうすれば良いかわかりますか?正解は、「使用させて良い。ただし、鉛筆に格言や和歌が書かれているものは使用不可」。ちなみに、机の上に「○○天満宮」のお守りを置くのはNG。

そんな調子で、どんな事例が起きても対応できるように、マニュアルはますます複雑化する。だが、思いもかけないことは起きるものであって、「近くの受験生の体臭が気になるから席を換えてほしい」という申し出があったらどうしたら良いかなど、これは実際私が数年前に言われたことだけれど、もちろんどこにも書かれていない。

水も漏らさぬ態勢を作ろうとしているのだろう、きっと。けれども「台本」には、英語リスニング試験の前、携帯電話を一度わざわざ机の上に置かせ、アラームを解除して電源を切るようにしつこく指示する「台詞」を発しているにも関わらず、伝えられているように、某大学では着信音のロックが鳴り響いたそうだ。こうなると「台本」は、「わたしは事前にちゃんと説明したもんね」という「保険」でしかない。

それにしても、どんなにしたってどこかで必ず何かが起こる英語リスニングが加わったことで、試験監督の負担感は倍増どころか三倍にも四倍にも増えた。水も漏らさぬようにしたから安心してくれと言っていたICプレーヤーは、私の隣の試験室でも不具合が出た。もうこれはお隣の災難で、当たらなくて良かったと思うしかない。

全国で百数十台の不具合が報告されたそうだけれど、五十数万人とかが受けているうちの百数十台なのだから、「こんなに低い確率だ、技術力の素晴らしさの勝利だ」くらいのことを言ったらどうだ。機械だから不具合ゼロというわけにはいくまい。原因究明して不具合ゼロにするなどと言うのは、最後の一人まで解明しますなどと「約束」した年金役所の言い方と同じじゃないか。

今年の、私たちの試験室の受験生くんたちは、本当に真剣な様子だった。病気や身体の不自由と戦いながら受験する人たちもいる。彼らの真剣な様子には頭が下がる思いだ。

だが、以前には、試験開始のブザーが鳴った途端に寝てしまう奴とか、すんませーん筆記用具持ってこなかったんスけどーなどと言ってのける、ハナからやる気のない輩どもがいたこともあった。受験率を上げるために、学校から無理矢理受けさせられているのである。

とにかくこの仕事をしていると、気になることや心配になることが山ほどある。

鉛筆を持ちなさい、置きなさい、次にこれをやりなさい、まだこれをしてはいけません、はい、では次にこれをやりなさい・・・と、読まれる「台本」に忠実に、言われたことにだけ手を動かす。その様子は、ある意味不気味だ。

国語に漱石の「彼岸過迄」から取られた問題がある。試験監督は暇だから、ゆっくり読む。その間、受験生くんたちはバラバラバラバラとせわしなくページを前後にめくっている。漱石の文体を味わう余裕などなく、ただ「名状しがたい」とはどういう意味かだけを考えるために、ポイントだけを押さえようとしているのだろう。そういう読み方も日常的に訓練されているのだろう。だが、せっかく感受性の高い青年たちが、文学作品をこういう読み方でいいのか?こういう読み方を強いていて、本離れだ文学離れだと嘆いてもはじまらないのではないか?

受験人数が減る科目もある。けれども、問題冊子と解答用紙は十分な予備を含めて用意される。かくして、受験人数と同じくらいの数の冊子が余ることもある。私たちの試験室だけでこんなに余っている、ウチの大学全体ではどのくらい余っただろう、全国では一体どのくらい・・・と考えると眩暈がしそうになる。間違ってもエコロジーの必要性を説く問題とか出すなよ。

叱られるかも知れないが(誰に?)、自分のところではこういう学生に入学してもらいたい、だからこういう試験問題を出す・・・というあたりまえのことを、ほとんどの大学が放棄してしまっている理由が、私はどうしてもわからないのである。たしかに統一テストは合理的だし、自前の試験をやるよりも公平性が保たれる(ような気がする)し、労力も少なくて済むだろう。しかしそれは結局、大学の「手抜き」ではないのか?

2008年1月14日 (月)

完売近し(?)・・・チケットの最終(?)ご案内

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いろいろなところでお知らせしていますが、合唱団「じゃがいも」のために書いた合唱劇『銀河鉄道の夜』の仙台公演が、1月27日にあります。

チケットは、主催者側からもうかなり出回っているそうで、もうあんまり無理して売らないでくださいと言われてしまいました。このままだと、完売ということもあり得そうです。

すでに予約してくださっている方には、今週お渡しします。まだ申し込んでいない方はお早めに、できれば今週中に声をかけてください。ここへのメッセージ、メール、私を直接つかまえるなどどんな方法でも構いません。今週は明日火曜日午後以降、毎日学校に行きます。

合唱団「じゃがいも」公演
合唱劇『銀河鉄道の夜』
1月27日(日)15時開演 
仙台市青年文化センター・シアターホール

じゃがいものホームページ

http://homepage2.nifty.com/jagaimo/

2008年1月12日 (土)

それから

Photo 父が逝ってから10日が経った。

7日間の忌引きの間は、さまざまな手続きのために奔走する。けれども、まだ少しも片づいた感じがしない。財産はないけれど借金もあるわけではないから、話はかなり単純なはずだが、やはり生きていくための多くの配線を複雑に身にからませながら、一人の人間として存在していたのだと思い知らされる。隠居の身とはいえ「一家の主」だったのだから尚更である。

できれば、生きているうちに身のまわりの配線をすべてきれいに外して旅立てれば良いのだろうけれど、なかなかそんなことはできない。後始末は、遺された者たちに委ねられることになる。

昔のように、いちいち御用聞きが集金に回ってくる時代ではないから、ライフラインの使用料などはすべて銀行引き落としで、ふだんは実に便利に暮らしているわけだけれど、ひとたびその根幹となる口座の立場が怪しくなると、その配線をひとつひとつ外して付け替えていかなければならない。その手間暇だけでも相当なものだ。この新聞の料金は、引き落としではなくて毎月集金に来ているよと聞いただけで、ほっとしたりする。しなければならない手続きがひとつ減るからである。

8日目から大学に出る。翌日には授業も再開した。ひと通り挨拶も終えて、溜まっている大学の仕事を片づけなければならないなぁと思うのだけれど、調子が出ない。

私より少しだけ年上のYさんが電話で、「頭で了解していても、身体がついていくまでには少し時間がかかるよ。」と言ってくれた。どうもそのとおりらしい。

食欲はあるし睡眠もやや不足気味ながら取れている。体調は悪くない。情緒不安定ということもない。けれども私の中に、やはりどこか言うことを聞かない器官があるかのようだ。これはきっと同様の経験をした誰でもが感じることなのだろう。私にとっては、暇ではないけれど超多忙というわけでもない時期だったということが、救いかも知れない。みんなが集まりやすい正月三が日の最後が命日になったことといい、「子孝行」な父だなぁと思う。

2008年1月 7日 (月)

父のこと~告別

父は、1月3日の朝、息を引き取った。

父の病気のことは、昨年10月から時々書いてきた。昨年6月ごろから体調を崩し、夏の猛烈な暑さにもやられて、10月初めにT病院に入院。そして、10月下旬からは徐々に徐々に弱っていった。その下降線のゆるやかなことは、私たちが父と一緒にいられる時間を少し作るから、いずれやってくる告別の時のことを覚悟しておきなさいよと言っているようだった。

根っからの仕事人間で、ギャンブルはおろか酒も煙草もやらず、趣味らしい趣味もなかったが、好奇心は旺盛で、退職してからは母と二人で海外旅行へ何度も出かけていった。70歳を過ぎてからパソコンをいじり始め、難しいことはできなかったけれど、楽しんでいる様子だった。

私が音楽を仕事にするようになってからは、クラシック音楽を熱心に聴くようになった。中でもお気に入りはベートーヴェンの交響曲で、とりわけ第九は、家の棚に少なくとも22種類のCDが並んでいる。私が子どもの頃にヴァイオリン