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2008年4月28日 (月)

マイルス本の耐えられない(?)厚さ

現代芸術論Aという授業、今年は半期をかけて「マイルス・ディヴィス」だけを聴いてもらうというプランを立てた。以前から一度やってみたかったのだ。

おぉ、何という偏った内容!大学の授業たるもの、独断偏見を排除してもっと多角的総花的になるよう内容を精査すべきである・・・な~んて言われそうだな。

バカ言うんじゃない、な~にが、ふぁかるてぃ・でぃべろなんとかだ。少なくともジャズというフィールドを見渡そうとしたら、結局マイルスにたどり着くのだし、ジャズのみならず、フュージョンやロック、レゲエやラップ、ヒップホップサウンドに至るまで、非クラシック音楽の多様な面に接近できる可能性を、マイルスは持っているのだ。もっとも、結果的にはマイルス以外のミュージシャンに焦点を当てる時間も多いと思うけれど。

そんなわけで調べてみたら、家にはマイルスのCD、レコードが50枚くらいあることがわかった。とりわけマイルス狂いというつもりもなかったのに、いつの間にかそんなことになっていたのか・・・。でも、マイルスのディスクはブート盤などを含めると300とか400とかいう数字になるそうだから、大したことはない。

そして、授業の準備には多少本を読んだりもしなければならぬ。いや、ならぬことはないが、やはり興味深いミュージシャンなのだから、読んでみたいと思う本が多いのだ。

ところが、ここに立ちふさがる問題。マイルス本は、どうしてこんなに厚いのだろう。

新書の2冊、『マイルス・ディヴィス ジャズを超えて』(中山康樹著、講談社現代新書)の228ページ、『マイルス・デイヴィス完全入門』(中山康樹著、ベスト新書)219ページや地球音楽ライブラリー『マイルス・デイヴィス』(TOKYO FM出版)221ページは、ごく手頃なページ数だ。

マイルス語録である『マイルスに訊け』(中山康樹著、イーストプレス)167ページ、『マイルスからはじめるJAZZ入門』(後藤雅洋著、彩流社)190ページ、『定本マイルス・デイヴィス』(ジャズ批評ブックス)267ページ、恐れることはない。

『マイルス・デヴィスの芸術』(平岡正明著、毎日新聞社)397ページは、できればじっくり読んでおきたいし、『マイルス』(ビル・コール著、諸岡敏行訳、晶文社)は本文197ページに逆側から開く資料109ページがついて、しかしこの2冊とも見た目にはごく普通のハードカバーの体裁。

『マイルス・デイビス自叙伝』(マイルス・デイビス、クインシー・トロープ著、中山康樹訳、宝島社文庫)は、とても面白いし真っ先に読むべき本だが、Ⅰ、Ⅱの2冊に分かれていて、それぞれが350ページ以上ある。

ちょっとびっくりするのは、最近出た『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』(菊地成孔、大谷能生著、エスクァイア・マガジン・ジャパン)770ページ。小ぶりの版なので、本屋に並んでいると厚みが際立つ。厚いわりにはそれほど重くない(内容がではなく、目方が)のがせめてもの救い。

そして、極め付きは『マイルスを聴け』(中山康樹著)である。1992年に径書房から出た『マイルスを聴け!!』は340ページのハードカバーで瀟洒な装丁。初版を手に入れてからずっと愛読・・・というか参考にさせてもらっていた。

その後ヴァージョンアップを重ね、現行版は『マイルスを聴け!version7 』。なぜか「!」がひとつになり、双葉社文庫で975ページ!文庫で1,000ページに迫ろうかという厚さは京極夏彦と双璧。天晴れというかなんというか。

ここに挙げた以外にも、マイルス本はたくさん出版されている。その内容は入門書から伝記、研究書まで様々だ。ともすると、マイルス本が肥大する傾向があるのは、やはりマイルスの音楽にそれだけ論じるべき内容が多いということだろう。それは理解できる。しかし、新幹線移動の多い私などにとって、厚い本を何冊も持ち歩くのは、なかなか辛いものがあるのである。

2007年7月 9日 (月)

青葉山にシャンソンが流れる、夕暮れ近い五時間目

授業記録記事の更新がすっかり遅れてしまい、申し訳ないです。現在、3週間くらい遅れ中。

現代芸術論第9回(6月19日分)。テキストに、シャルル・トレネとエディット・ピアフが載っているので、まとめてシャンソン特集。

授業の最初、学生くんたちに「シャンソン知ってる?」と尋ねてみた。ある程度予想していたことだが、「枯葉」はかなりの人数が知っていると手を上げた。「愛の讃歌」で3分の2くらいに減った。「パリの屋根の下」「サン・トワ・マミー」は数人、「モン・パパ」「パリ祭」に至っては、20数人のクラスの誰も手が上がらない。

もはや年寄りの戯言にしか聞こえないかもしれないが、私が子どもの頃、これらの歌は当たり前のようにそこいらから、たぶんテレビから聞こえてきて、誰に教えられなくても知っていた。今でも現役の石井好子氏はもとより、越路吹雪、岸洋子、芦野宏、高英男といった日本のシャンソン歌手たちが、わかりやすい日本語で盛んに歌っていたからだろう。NHKの「みんなのうた」でも、取り上げられていたと思う。

さて、この日の音楽メニューに添って、少しずつコメントを付けていこう。

シャルル・トレネ
1. ドゥース・フランス[優しきフランス](シャルル・トレネ詞・曲)
2. ラ・メール(シャルル・トレネ詞・曲)
3. ブン(シャルル・トレネ詞・曲)

トレネは知らなくても「ラ・メール」は知っている。いや、「ラ・メール」というタイトルは知らなくても、大抵どこかで聴いたことがあるだろう。先ほども、テレビで車のCMに使われていた。トレネのレパートリーは明るい。人生の機微は、ここではほんの小匙一杯の苦味でしかない。「ドゥース・フランス」も、ナチ占領下で密かに歌われていたという愛国歌だが、そういうエピソードは、トレネの明るさにはあまり似合わない。だが、こういう歌手がいたこと自体が、シャンソンの草分けという功績以上に、何となくホッとさせられる。

イヴ・モンタン
◎ 枯葉(ジャック・プレヴェール詞、ジョセフ・コスマ曲)

シャンソンの定番だからと言って馬鹿にすべきではない。授業で大きなスピーカーでかけたら、耳タコのはずなのに、あらためて名歌、名唱であることがわかる。

ジョルジュ・ミントン
◎ モン・パパ(ルネ・プジョール、シャルル・ボッチエ詞、カジミール・オベルフェルド曲)
榎本健一
◎ モン・パパ(白井鐵造訳詞)

原語と邦訳との聴き比べ。これはもう、訳詞の見事さに恐れ入るばかり。原詞の意味を正確に押さえながら、メロディーに無理なく乗る日本語、それもとびきり面白い言葉を選んだ白井鐵造の仕事はすごい。「ウチのパパの大きいのは、靴下の破れ穴」など、それこそ昔から知っている訳詞だが、あらためて感服する。

ジョルジュ・ブラッサンス
1. 修道女の伝説(ヴィクトル・ユゴー詩、ジョルジュ・ブラッサンス曲)
2. ゴリラ(ジョルジュ・ブラッサンス詞・曲)
3. ポルノグラフィー思考(ジョルジュ・ブラッサンス詞・曲)

ブラッサンスは、いつからかわからないが、私の大好きな歌手になっていた。誰かが教えてくれたのかも知れない。自由を阻むものを憎み、からかい、どん底の生業をする人たちへ暖かい眼差しを向ける。その結果、しばしば反体制的な姿勢を取ることにもなるが、それは私たちが学生だった時代の空気とも合っていたのだろう。当時は、何枚ものLPレコードが販売されていたけれど、現在国内盤はベスト盤のかたちをとった3枚だけという、残念な状況である。自らギターを持って、サブ・ギターとベースを従えただけの楽器編成。その反骨さ加減も含めて吟遊詩人の伝統を引き継いでいるこの渋い男の歌は、今でも決して古びていない。

エディット・ピアフ
1. パダン・パダン(アンリ・コンテ詞、ノルベール・グランズベール曲)
2. 谷間に三つの鐘が鳴る(ジャン・ヴィヤール詞・曲)
3. 群集(エンリケ・ビセオ、ミシェル・リヴゴーシュ詞、アンヘル・カブラル曲)
4. 愛の讃歌(エディット・ピアフ詞、マルグリット・モノー曲)
5. アコーディオン弾き(ミシェル・エメール詞・曲)

芸術的歌曲と呼ぶべき名唱「谷間に三つの・・・」、映画のワンシーンのような「群集」、そして、トレネでは一匙の苦味でしかなかった人生模様は、ここに来て身を切り裂く痛みとなる。「パダン・パダン」も「愛の讃歌」も「アコーディオン弾き」も、崖っぷちに立ちながらあえかな希望を見出そうともがく姿を、残酷なまでにリアルに映し出す。歌とは、何と恐ろしいものなのだろう。

最後は、シャンソンの精神でたくさんの美しい歌曲を作曲したプーランクの即興曲第15番ハ短調。 「エディット・ピアフに捧げる」という副題が付けられた、小品ながら印象的な1曲。

シャンソンのCDを入手するのは、今では思いのほか楽ではない。それぞれの歌手のアルバムは少ししか見つけられず、ベスト盤のようなものに頼るしかない。その中では、4枚組のシャンソン・ベスト100(EMIミュージック・ジャパン TOCP-67881)は、全曲の解説・対訳が整ったとても良いものだ。

しかし、今の若い人たちにとって、シャンソンはナツメロに近いものとして映るのだろうか。現在の音楽産業での扱いもそれに近いし、シャンソンの代替となるような新しい歌のジャンルも見当たらない。

すぐれた歌の歌詞やメロディーは、人間について、社会についてのさまざまなことを教えてくれる。だが、今の若い人たちが、そのようにして歌から学ぶ機会がないとすれば、彼らは一体どうやって大人になっていくのだろう。

2007年6月18日 (月)

映像のショスタコーヴィチ

現代芸術論第8回(6月12日分

音楽記録映画「ショスタコーヴィチ」を観る。ずいぶん昔に市販されていたVHSテープで、1967年ソ連「中央科学映画」製作、A. ゲンデルシテイン監督。DVD化されている様子はないようだ。

この映像は、いわゆる「冷戦」の時代に作られた。そういった社会的背景を背負っているためだろうが、久しぶりに見直してみると、「偉大な国民的作曲家ショスタコーヴィチ」の仕事に焦点を当てたソ連の国策的映画という感は残る。

第7交響曲を作曲しているショスタコーヴィチの部屋の外では、第二次世界大戦空襲のすさまじい爆撃音がしている。戦争にひるむことなく作曲を続けたと訴えたいのだろうけれど、現実にはあり得ないシーンだ。

「ショスタコーヴィチの証言」という本が1980年に出た時には大きな話題になったし、読んでみると驚くことがいっぱいで、とても面白かったのだが、現在ではこれはほぼ偽書であるということになったらしい。しかし、内容のすべてがデタラメというわけでもないように思う。ショスタコーヴィチの交響曲が身にまとっている悲劇性は、作曲者自身の言葉を待たずとも、戦争のみならずスターリン独裁政権下の恐怖と無縁だとは言えないだろう。

ソ連共産党第一書記フルシチョフによるスターリン批判が発表されたのは1956年。この映画は、それからさらに11年が経ってから作られているわけだが、ショスタコーヴィチとスターリンとの暗闘について、映画ではほとんど何も語られない。あるいはショスタコーヴィチ本人が、口をつぐんでいたからかも知れない。しかし、第8交響曲第3楽章から第4楽章にかけての緊迫した音楽が、ショスタコーヴィチが心臓疾患で運ばれることを象徴する救急車の映像に重ねられるのは、作曲者としては苦々しい思いだったに違いない。そんな映像のために書いた音楽ではないからである。ちなみに、この映画が作られた時は、ショスタコーヴィチはまだ存命中だった。

そんなわけで、記録としてショスタコーヴィチを正しく捉えているかという点ではやや疑問が残るのだが、それにも関わらずこの映像が一見に価すると思うのは、当時のソ連の最高の音楽家たちの演奏風景をも、同時に観ることができるからだ。ムラヴィンスキー、コーガン、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤ、オイストラフ・・・。そして、何よりもショスタコーヴィチ自身の姿がたくさん映っているのが大変貴重である。

近年、「ショスタコーヴィチの反抗 戦争交響曲」というDVDが発売された(ラリー・ワインスティーン監督)。ゲルギエフが音楽監修の立場で、ロッテルダム・フィルを指揮するだけでなくインタビュー出演もしている。こちらは、ショスタコーヴィチとスターリンとの暗闘、ショスタコーヴィチの音楽に戦争が落とした影を描いている。当然ながら画質も音質も良い。歴史的解釈も新しいものかも知れないが、「証言」に寄り添うような内容になっているのが少し気になる。思わず目をそむけてしまう実写映像も含まれている。そして、テーマを限っているために、扱われる音楽も交響曲の第4番から第9番までが中心となっている。ソ連の巨匠たち総動員で、協奏曲や室内楽や映画音楽も聴こえてくる67年版VHSの方が、音楽的には多様だ。さらにDVDの方は、ショスタコーヴィチ自身の映像がとても少ない。

67年版VHSと90年代DVDのどちらも、隔靴掻痒の感は残る。一人の作曲家の人生がたかだか2時間の映像におさめられてたまるかということはともかくとしても、ショスタコーヴィチという作曲家が生きた時代の特殊性が、彼に独特の複雑さを背負わせているためでもあるだろう。

2007年6月11日 (月)

レクオーナとキューバの音楽

現代芸術論第7回(6月5日分

エルネスト・レクオーナ(1895~1963)は、クラシックを学んだのち、作曲家、ピアニスト、バンドマスターとして活躍した。クラシックとキューバ音楽とを繋ぐ仕事をしたということから、「キューバのガーシュイン」と書かれているのを読んだことがある。クラシックと民衆音楽を繋いだという点では、6月4日に訃報が伝えられた羽田健太郎さんのことを思い出す

自作自演のディスクを聴く限り、レクオーナが作曲した作品は、隙間なく音を埋めるような技巧的なものが多い。分厚いテクスチュアやオクターブ重複がメロディーを飾る。即興風に聴こえるけれど、おそらくすべての音は書き込まれているのだろう。アルベニスのピアニズムを思い出させる音のアラベスク。

スペイン組曲「アンダルーサ」は、タイトルどおりスペイン音楽の風味が濃厚で、キューバの作曲家の作品という感じは、あまりしない。その中の「アンダルーサ」という曲は、アメリカで英語の歌詞がつけられて、「そよ風と私」というタイトルのスタンダード・ナンバーになった。「マラゲーニャ」も、よく耳にする曲である。他には、この組曲ではないが、「シボネイ」もラテンのナンバーとして知られている。

「アフロ-キューバン舞曲集」は、スペイン組曲と違う素材を扱っているとはいえ、基本的な音楽のつくりは似ている。西洋音楽の技術、方法を身につけた作曲家が、西洋音楽の視点を通してまとめたアフロ-キューバン音楽である。

中村とうよう氏選曲・解説による「キューバ音楽の真実」というCDが面白い(ライスレコードより発売)。

中村氏は、キューバ音楽は「聞けば聞くほど奥深さを感じる」と、ライナーノートに書いておられるが、解説を読みながら聴いていると、いつの間にかはまりそうになっていることに気づく。スペイン風な和音進行、アフリカ風の複雑なリズムやコール&レスポンス、ジャズの楽器編成やアラビアから来た楽器までが加わる豪華な世界音楽。キューバ音楽は、レコード店のジャンル分けでは「ワールド・ミュージック」だろうが、キューバ音楽自体がすでに「ワールドミュージック」に近いクレオールなのである。

「ボレーロ」「ルンバ」「クリオージャ」「グァグァンコー」「ダンソーン」「ソン」「プレゴーン」「モントゥーノ」「グァラーチャ」など、さまざまに音楽を類別する用語を、私はまだきちんと説明できないが、どうやら「ソン」がキューバ音楽の「肝」のようなものであるらしいことはわかってきた。

昭和のムード歌謡には、ラテン音楽からの影響を受けているものが少なくない。キューバ音楽を聴いていると、「コモエスタ赤坂」「夜の銀狐」などを思い出すことがある。若い方々は、この手の曲をご存知ないだろうと思うけれど、コード進行がかなり似ているのだ。スペインからラテンを経て、影響を受けたのだろうと思われる。ただ、キューバの歌は、後半にメジャーに転調したりする場合もあって、昭和ムード歌謡とはずいぶん湿度が違う。キューバの方が音楽的には高温低湿、日本は低温高湿である。

そもそも、キューバ音楽を聴くことになったきっかけは、映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」だった。2000年の封切のとき、評判を聞いて渋谷のどこだったかこじんまりした映画館で観て以来、何度か観ている。

6月5日には、Miyakyo Fine Arts Club (M-Fac)なる集まりの立ち上げに参加したので、その第1回として、この映画を話題にした。封切の印象と大きくは変わらないが、イブラヒム・フェレールやコンパイ・セグンド、ルーベン・ゴンザレスら、出演している魅力的な音楽家たちがすでに世を去ってしまったことに、時の流れを感じる。そして、カーネギーホール公演のためにニューヨークを訪れたキューバの音楽家たちが、エンパイア・ステートビルの展望台から景色を見ているシーンでは、貿易センターのツインタワーがはっきりと映っていることにドキッとされられた。

そんなわけで、この日は午後4時半くらいから8時前まで、キューバ音楽を聴き続けていたことになるけれども、もう当分はご馳走様・・・という気分にならないのは、やはりキューバ音楽が実に多種多様だからだろう。

2007年6月 9日 (土)

デューク・エリントン

現代芸術論第6回(5月29日分

DVD「エリントン・ミュージック」Vol.1を観る。1920年代のニューヨークに始まって、コットン・クラブでの演奏風景、ハリウッド映画出演での演奏と続き、3人のスタープレイヤーたち(ジミー・ハミルトン、ジョニー・ホッジス、ベン・ウェブスター)のピックアップ、作曲家やバンドリーダー、ピアニストとしてのエリントンに焦点を当てるパートなど、演奏映像と関係者へのインタビューを中心に構成されている。丁寧に作られたDVDで、エリントン入門としても適しているだろう。

授業では、当初「ジャズ創生」の歴史を辿ろうかと思ったのだが、やめた。結局「ジャズ」は、エリントンとマイルス・ディヴィスを中心に聴けば良いと、最近は考えるようになったからだ。エリントンやマイルスを聴けば、その周囲にいたミュージシャンたちも同時に聴くことになる。もちろん、他にもたくさんの魅力的なジャズメンたちがいるけれど、それらの演奏や、まして創生の歴史なんぞは、「ジャズ」が面白くなった後からでも遅くはない。

A Duke Named Ellington というのがDVDのオリジナル・タイトル。彼の本名は、エドワード・ケネディ・”デューク”・エリントンといい、父はホワイトハウスの執事だったというから、良家の出と想像できる。「デューク」つまり公爵というのは、言わば呼び名。しかし、彼の仕事の重要性を考えると、決して大げさなものではない。

DVDを観て気づくのは、初期の、つまりコットンクラブやハリウッド時代のプレイヤーたちはともかく、ビックバンド・スタイルを確立した後の、さまざまなスター・プレイヤーたちの表情は、みな「楽隊屋」のそれではなく、実に毅然と、「芸術家然」としているということだ。エリントン自身がそうであることはいうまでもない。

彼は、バンド・マスターとして単に興行の取りまとめをしただけではなく、非常に厳しい音楽監督だった。また、自身は苦労しながらも、メンバーにはプライドに見合う額の給金を配ったという。さらには、「世の中の音楽には二つしかない。いい音楽とそうでない音楽だ。」という有名な発言は、彼にとって「ジャズ」というジャンルの枠がまったく無用なものだったことを示唆している。こうしたことが、彼のプレイヤーたちをして「芸術家然とした」表情をさせるに至ったのだろう。

余談だが、2004年にワシントンD.C.へ行った時のことを思い出した。

時間の空いた午後、私は、スミソニアン協会運営の博物館地区を、ナショナル・ギャラリー(国立絵画館)目指して一人で歩いていた。ふと道端を見ると、ポスターがある。ディジー・ガレスピーのトランペットの写真だった。途中でグニャリと曲がったトランペットだから、すぐわかる。国立アメリカ歴史博物館に展示してあるよ・・・というこのポスターに惹かれて、行ってみることにした。

国立アメリカ歴史博物館は、17世紀の新大陸入植以来のアメリカの歴史と文化を展示した巨大な博物館だ。子どもでも楽しめるように展示は工夫され、文化やスポーツ、エンターテインメントにも焦点が当てられている。

中があまりにも広いので、「文化」のフロアだけを見ることにしたが、展示品の「一点豪華主義」はなかなか愉快で、「映画『オズの魔法使い』でジュディー・ガーランド扮するドロシーが履いたルビーの靴」だの、「ベーブルースのサイン入りボール」、「モハメド・アリのグローブ」や「マイケル・ジョーダンのユニホーム」だのの「お宝」が、それぞれガラスケースの中におさまっている。たしかに、ディジー・ガレスピーの曲がったトランペットもあった。

それ以上に私の目を惹いたのは、「お宝展示」よりもう少し広いスペースを取って設けられていたエリントンとエラ・フィッツジェラルドのコーナーだった。

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エリントンのコーナーでは「ムード・インディゴ」の自筆楽譜が展示されていて嬉しくなった。複雑な譜面ではないが、きれいに見易く書かれた楽譜は、紛れもなくプロフェッショナルの手仕事だとわかる。Photo_35

エラ・フィッツジェラルドのコーナーでは、展示されていたビデオを見て、エラの歌声を聴いて、とても幸せなゆったりした時間を過ごすことができた。Photo_36

(写真はクリックすると大きく表示できます。ちなみに、多くの博物館では写真撮影は自由。また、スミソニアンの博物館、美術館は入場無料です。)

2007年6月 4日 (月)

カザルスとセゴビア

現代芸術論第5回(5月22日分まず、この日の視聴曲目を示そう。

バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007 [パブロ・カザルス(チェロ)]

バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007より 1. プレリュード

バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV1009より 3. クーラント[アンドレス・セゴビア(ギター) ]

ポンセ:ソナタ第3番(1927)[セゴビアに献呈]より カンシオン ポストリュード

タレガ:アルハンブラの思い出(1896)

ロドリーゴ:ある貴紳のための幻想曲[セゴビアに献呈](1954)より カナリオ[アンドレス・セゴビア(ギター) ]

シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70(1849)

カタロニア民謡(カザルス編曲):鳥の歌[パブロ・カザルス(チェロ) ミエチスラフ・ホルショフスキー(ピアノ) 1961年11月13日 ホワイトハウス・コンサート]

カザルスとセゴビアには、いくつかの共通点がある。二人ともスペインの人であること。カザルスは1876年生まれ、セゴビアは1893年生まれと、カザルスが17くらい年上だが、ともに世紀をまたぎ20世紀後半まで活躍したのだから、同時代人と言って差し支えない。

そして、最大の共通点はそれぞれの楽器の「巨匠」であることだが、単なる「大演奏家」というだけではないところも共通している。

ためしに、チェリストに「あなたにとってカザルスは、『偉大なお父さん』のような存在だと思いませんか」と尋ねてみよう。否定するチェリストがいるだろうか?

同じように、ギタリストに「あなたにとって、セゴビアは『偉大なお父さん』のような存在だと思いませんか」と尋ねてみたい。好きか嫌いか個人的な好みはあるかも知れないが、カザルスがチェロに、セゴビアがギターに果たした功績の大きさに対して異論を唱える人はいないだろう。ロストロポーヴィッチが凄いとか、イエペスが好きとかいうのは、その後の話になるだろう。

これが、ピアノだったらどうか。「あなたにとって『偉大な父』は誰ですか」と尋ねたなら、実に様々な答えが返ってくるに違いない。ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、リヒテル、ゼルキン・・・いやいや、グレン・グールドさと言う人もいるかも知れない(「父」という感じではないけれど)。

ヴァイオリンしかり。シゲティだ、いやティボーだクライスラーだ、いやいやハイフェッツだ、メニューイン、オイストラフ、ミルシテイン、スターン・・・。ちょっと思い起こすだけでも際限がない。

この空想は、カザルスとセゴビアの、それぞれの楽器における存在の大きさを表している。

カザルスは、それまでの奇妙な慣習を破棄して(彼以前には、練習中、右腕の腋の下に本を一冊はさんだまま弾かなければならなかったという)現代の奏法を確立したし、最もよく知られているのはバッハ無伴奏組曲を「発見」したことだ。カザルス以前には、いくつかの曲だけを弾くことはあっても、誰もこの組曲を通して弾こうとしなかったとは、現代ではむしろ想像できにくい。

セゴビアもまた、指の使い方などの工夫で美しい音色を響かせ、作曲家たちに新しいレパートリーを生もうとする霊感を与えた。それは、タレガによって確立された近代的奏法をさらに展開させるものになった。ポンセのソナタ、カステルヌオーヴォ=テデスコの「プラテーロと私」(ヒメーネスの美しい物語詩への付曲)などなど。それにセゴビア自身の編曲によるバッハの諸作品。

中でもロドリーゴ「ある貴紳のための幻想曲」は、最も優れた成果のひとつだろう。G.サンスという17世紀のギタリストがまとめたリュート曲を材料に、新古典的に構成したもので、レスピーギ「リュートのための古風なアリアと舞曲」やストラヴィンスキー「プルチネルラ」などと共通する手法である。古風な曲想が、爽やかな風に舞い上げられて空を翔る。「ある貴紳」とは、サンスとセゴビアの二人に向けられた讃であるという。

チェロもギターも古い伝統を持つ楽器だが、これらの存在価値を大きく発展させた「偉大な父」を持てたことは、何と幸せだろう。そして、「父」たちが持つ音楽に対する熱い心が、ディスクを通してさえ強く伝わってくる。これも大きな共通点だ。

今さら言うまでもないが、1961年のホワイトハウス・コンサートにおけるシューマンと「鳥の歌」は、世紀の大名演。そして、有名かと思うが、「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」は大変面白く、また素敵な本だ(アルバート・E・カーン編 吉田秀和・郷司敬吾訳 朝日新聞社 朝日選書439)。

2007年5月22日 (火)

シェーンベルクとガーシュイン

現代芸術論第4回(5月15日分

シェーンベルクと・・・と言ったらウェーベルンかベルクか、つまり「新ウィーン楽派」と続くのが普通だが、ガーシュインと続けてみるのが、この授業のひねくれているところ。

シェーンベルク「ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)」は、20世紀最大の問題作であり傑作のひとつだが、しばらくぶりに引っ張り出してみて、あらためてその感を強くした。だが、今の若い人たちはこの曲をどう聴くのだろう。

感想を聞いてみると、意外に想像を裏切るものではなくて、あの歌い方、シュプレッヒシュティンメが醸し出す雰囲気に対する不安、不気味さといったものが真っ先に出てくる。それは、私などが学生の頃に初めて聴いてびっくりしたこととほぼ同じで、つまりシェーンベルクが1912年に取ったこの表現主義的な書法が、今なお有効に鮮度を保ち続けているということの証なのだろう。

では、十二音技法はどうか。これまた久しぶりに聴き直す「ピアノ組曲 作品25」も、やはり色褪せたとは思えない。和声的進行に依存する代わり、対位法的書法で変幻自在に操られたリズムは、古典組曲を模した確信犯的構成とあいまって、この曲を活気づかせている。この後、凡百の追従作品が現われては消えていった1世紀だったが、「元祖」は強いぞ。

今こそシェーンベルクを、20世紀後半の頭の痛くなるような「現代音楽」の始祖としてではなく、文芸キャバレーの出し物のように、もっと気楽に愉快に楽しむことはできないだろうか。カフカの作品が、仲間内では爆笑しながら読まれていたように。作品24「セレナード」の冒頭楽章など、相当にぶっ飛んでいて面白いと思うのだが。

シェーンベルクが、初めて完全な十二音技法で「ピアノ組曲 作品25」を書くべく苦闘していたのは1923~25年。ちょうど同じ頃、1924年、アメリカではガーシュインが「ラプソディ・イン・ブルー」のオリジナル(ポール・ホワイトマン・オーケストラ)版を作曲していた。ピアノの「3つの前奏曲」が1926年。

ほとんど同時期に、これほど違うことがウィーンとニューヨークで起こっていたというのが面白い。当時は、まだお互いのことを知る由もない。だがこの二人の仕事は、クラシック音楽の語法、領域を大きく広げることになった。シェーンベルクは音を組織化するための新しい方法によって。同時に、対位法を磨くことで生みだされる斬新なリズムによって。ガーシュインは、こちらもリズム、だがシェーンベルクとは出自のまったく違うリズムが音楽を推進させる、その音楽的スタイルによって。同時代の音楽語法の変革者は、彼らのほかには、古代旋法を持ち込んだドビュッシーと、民衆音楽を解体、再構成したストラヴィンスキー、バルトークの名前を挙げておけば良いだろう。

本来ならば出会うはずのなかった二人の作曲家が、実際に出会うという奇跡が起こる。いや、奇跡というよりアクシデントと言うべきかも知れない。少なくともシェーンベルクにとって、二人が出会うことになった経緯は不本意なことだったのだから。

ナチスに追われた亡命ユダヤ人シェーンベルクは、カリフォルニアでガーシュインと出会う。対するロシア系ユダヤ人の移民の息子は、その頃ハリウッドの仕事をしていたのだった。

二人がテニス友だちだったことは、割合よく知られている。テニスの腕前はガーシュインの方が上手だったようだが、24歳若い分だけ当然かも知れない。だが、彼らの交友はテニスだけにとどまるものではなかった。シェーンベルクはガーシュインの音楽を認め、ガーシュインはシェーンベルクの音楽を一生懸命勉強していたという。

交友は長くは続かなかった。ガーシュインの早世によって断ち切られてしまったからだ。短い生涯の中では到底活かしきることのできなかった優れた才能について、シェーンベルクは哀惜に満ちた小論を発表している。

「多くの音楽家はジョージ・ガーシュインを芸術作曲家と見なさなかった。しかしわれわれは、彼が、芸術か否かにかかわらず作曲家つまり音楽の人間であり、芸術か否かにかかわらずあるいは深遠か浅薄かにかかわらず、音楽を通してすべてを表現したということ、そしてそれは音楽が彼の母国語だったからだということを理解しなくてはならない。(中略)・・・私は、彼が芸術家であり作曲家であることを知っている。彼は音楽の観念を表現した。そしてその観念は、表現した方法と同様、斬新であった。」(「もうひとつのラプソディ~ガーシュインの光と影」ジョーン・ペイザー著、小藤隆志訳、青土社)

シェーンベルクとガーシュインを並べて語るのは奇異に思われるかも知れない。だが、それによって、ある時代の諸相が見えてくるのもまた確かなことだと思う。

2007年5月13日 (日)

ディアギレフとロシアバレエ団 1911~12

現代芸術論第3回(5月1日分。5月8日は、健康診断のため休講)

ディアギレフ率いるロシアバレエ団[バレエ・リュス]が1911~12年に行なった公演を、パリオペラ座バレエ団が1980年に復元した映像を見る。演出、美術、振付が当時の記録をもとに復元されている興味深い映像である(使用ディスクはLDで、この作品はまだDVDにはなっていない模様)。

今回視聴したのは以下の演目。ディスクには、この他に  《結婚》(ストラヴィンスキー)が収録されている。

     《ばらの精》(1場)[1912.5.15 初演,パリ・シャトレ劇場]

音楽=カール・マリア・フォン・ウェーバー(<舞踏への勧誘>ベルリオーズ編曲)

振付=ミハイル・フォーキン

装置・衣裳オリジナルデザイン=レオン・バクスト

     《牧神の午後》(1場)[1912.5.29 初演,パリ・シャトレ劇場

音楽=クロード・ドビュッシー(<牧神の午後への前奏曲>)

振付=ワツラフ・ニジンスキー

装置・衣裳オリジナルデザイン=レオン・バクスト

     《ペトルーシュカ》(4場)[1911.6.3 初演,パリ・シャトレ劇場〕

音楽=イーゴリ・ストラヴィンスキー

振付=ミハイル・フォーキン

装置・衣裳オリジナルデザイン=アレキサンドル・ブノワ

    《ばらの精》の初演は、ニジンスキーが踊った。この伝説の天才ダンサーの妙技はさすがに復元できないが、驚くべき跳躍力を持っていたというニジンスキーをもってすれば、この演目が観衆を大いに喜ばせたであろうことは想像に難くない。娘とばらの精との二人だけが出演するバレエだが、娘はほとんど最初から最後まで眠っているから、事実上「ばらの精を見せる」出し物なのである。バクストの美術、衣裳は奇をてらっているとは言えないが、よく見るとなかなか異形である。

  《牧神の午後》は、その初演がスキャンダルになったことが伝えられている。ニジンスキーが振付し自ら踊った意欲的な実験作だが、《ばらの精》のように華やかな跳躍技による見せ場などは皆無で、そのことも観衆の不興を買ったのだろう。

モダンバレエやモダンダンスを知る私たちにとっては、もはやそれほど奇抜には思えない。むしろ、ギリシャ彫刻やレリーフが動いているような視覚効果には様式的な美しさを感じる。だが、当時としては異様な作品として受け止められたことも理解できないわけではない。(スキャンダルの要因となった終結の部分での牧神のエロティックなしぐさを見ると、田山花袋「蒲団」を思わず連想してしまう私は変だろうか?)

《ペトルーシュカ》は、 《火の鳥》や《春の祭典》と並んで、ロシア習俗をパリの観衆に面白く観せた作品で。中でも 《ペトルーシュカ》は、ロシアの謝肉祭が舞台となり、人形芝居のアイドルが主人公になので、舞台装置も抽象的ではなく、大がかりな書割り道具が使われている。( 《春の祭典》の美術プランを見ると、作品全体が抽象的な設定であるにも関わらず、これもロシア色の強い衣裳、装置だったことに、少し意外な気がしたことがある)。

異国情緒に溢れ、異国の音楽(民謡)がふんだんに聴こえてくる 《ペトルーシュカ》は、意地悪く言えば「輸出用の」ロシア習俗であっただろう。そのことにパリの観衆は喝采をした。だが、ありきたりの民謡バレエにしないで、作曲上の数々の実験が(非難を受けなくてすむやり方で)できたおかげで、ストラヴィンスキーは、20世紀最大の傑作 《春の祭典》に辿り着けたのだと思う。

ディアギレフは、作曲家ではストラヴィンスキーやドビュッシーの他にも、ラヴェル、サティ、ファリャ、レスピーギ、ミヨー、プーランク、プロコフィエフらに、画家・美術家ではピカソ、マティス、ブラック、ルオー、ローランサン、シャネルらに、すなわち当時まだ駆け出しだった気鋭の芸術家たちに、舞台実現のプランを次々と託した。ディアギレフに対する毀誉褒貶はいろいろあるにせよ、彼の才能を発掘する目の確かさは比類がない。

もしタイムマシンがあったら行ってみたい時代がいくつかある。その一つが1910年代のパリだ。

2007年4月29日 (日)

マーラーの交響曲についてのごく些細なメモ

現代芸術論第2回(4月17日分) マーラーの交響曲を聴く。

「聴く」と言っても、マーラーの交響曲はいずれも演奏時間が長いから、ひとコマの授業では完全に聴くことはできない。そこで、第1番第3楽章と第8番の第1部をCDとDVDで。

マーラーについて、語りたがる人はたくさんいる。私はマーラーの熱心な聴き手であるとは言えないから、本当はこのテーマは私の任ではない。だが、そんなことばかり言っていては授業にならない。学生の頃から少しずつは聴いていたのだから、学生くんたちに紹介するのも無駄ではないだろうと思って、久しぶりにいろいろ聴き直している。

目新しい話ではないが、マーラーの交響曲の特徴を簡単にメモしてみよう。

・聖と俗(神聖なものと世俗的なもの)が併置される。民謡、軍楽行進曲などがコラージュのように突然差し挟まれたりする。 マーラー自身がフロイトに言ったとされる言葉によれば、「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」。

・楽器編成に、しばしば声楽が加わる(2、3、4、8番 と「大地の歌」)。例えば、「千人の交響曲」と称される第8番は、交響曲なのか?カンタータではないのか?と考えてしまうけれど、第1部の形式や主題労作を見てみると、紛れもなく「交響曲」であることがわかる。

・楽器編成に特殊楽器が加わる(第6番のハンマー、第7番のギター、マンドリン、第8番のオルガンやバンダ[別働隊]など)。独特のオーケストレーション。室内楽的な音色から大伽藍のような響きまで、幅広い表現のために、通常オーケストラの楽器とは見なされないものが加えられる。また、「音色旋律」(ひとつの旋律をいくつもの楽器が受け渡していく)も見て取れる。

・神経質なまでのテンポやディナーミク などの詳細な指示。他の指揮者を信頼していなかったのか?そもそもこの人は、他人を信頼するということがあったのだろうか?

・演奏時間が長い。最短が第1番の約55分、次が第4番で約60分。最長の第3番は約1時間40分かかる。東北新幹線「はやて・こまち」に乗って、仙台から東京まで行ってもまだ終わらない。だが、大構築物であるためには、また聴き終えた時に何かが天から降りてきたような達成感をもたらすためには、このくらいの長さは必要だったのかも知れない。

・アイロニー。例えば第1番の第3楽章は、「昔の童話の本にあるパロディ的な絵『狩人の葬送』」に由来していて、「森の獣たちが(おどけた様子で)死んだ狩人の棺に付き添って行進していく」というような説明が初演には付いていたそうだ。しかし、そんなふうに聴こえるだろうか?聴こえないとすれば、それは作者の思い込みか?演奏が的を外しているからか?

・最も重要に思われるのは、交響曲は、いずれもマーラー自身の世界観、宇宙観を披瀝したものであること。

・ごくごく簡単に言ってしまうなら、ドミナント-トニックという古典和声進行の効能を信じて書かれている。ドビュッシーは1894年までに「牧神の午後への前奏曲」を作曲し、時代は調性構造に拠らない音楽を生み始めているけれど、少なくとも第8番までは、ドミナント(にあたる部分)が延長され緊張感が強調されて、トニックに解決することで快感を得ようとしている音楽である。

「大地の歌」や第9番などでは、よく「死への想念、畏れ」との関連が言われる。マーラーが抽象的な「死」について考えていたことは確かだろう。だが、「死」に怯えるあまり実生活に支障をきたしていたというようなことは、あり得ない。なぜだと言うならば、どれでも良いが、例えば第9番の第3楽章の後半とかのスコアを、書き写してみてください。単に左から右へ書き写すだけだって、ものすごいエネルギーが必要だとわかるだろう。「死」に怯えて震えている人が、こんなスコアを200ページにもわたって書けるわけがない。作曲という営為には、体力も精神力も必要なのだ。

マーラーを今よりは聴いていた学生の頃、この作曲家はものすごく年配の人のように思えていた。だが、ふと考えると今の私は、すでにマーラーが死んだ年齢を通し越しているのだった。

昨年出版された村井翔氏の「作曲家◎人と作品シリーズ マーラー」(音楽之友社)は、読み物としてもなかなか面白く、また参考になった。柴田南雄著「マーラー 現代音楽への道」(岩波新書)は手頃だが、今は版元で品切れとのこと。

2007年4月14日 (土)

1900年 ミラノ パリ セントルイス

昨年度に引き続き、今年度も「芸術・文化(授業の余滴)」というカテゴリーに、「現代芸術論A」のメモを書き込みます。授業をまとめるために考えたこと、言い足りなかったことなど。

今年度は、小沼純一さんが編集したユニークな20世紀音楽入門書「あたらしい教科書8 『音楽』」(プチグラパブリッシング)を教科書にして、20世紀のさまざまな音楽シーンを切りとってみたい。第1回は、「1900年 ミラノ パリ セントルイス」。

まずは、カルーソーが歌うプッチーニから。

昨今「泣ける」音楽や文学が世間を賑わしているが、19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパでも「泣ける」音楽・文学が、崩壊寸前の調性音楽の上に咲いた。プッチーニ「ラ・ボエーム」はその典型。

現代では「三大テノール」のCDが世界的なヒットになったりしたが、カルーソーは、録音技術の発達によってその演奏が世界中に伝播した最初の大スターといって良いだろう。存在感溢れる美しいテノールの歌声は、今聴いてもまったく色褪せることなく、当時厖大な枚数のレコードを売り上げたことも納得させられる。

ついでながら、「ラ・ボエーム」の二重唱を共演しているネリー・メルバの美声も忘れ難い。メルバは、オーストラリア出身のソプラノ歌手だが、その活躍ぶりは、母国の紙幣に肖像が飾られていることからも知ることができる。余談だが、「ピーチ・メルバ」というデザートは、ネリー・メルバのために作られたことからその名がついたのだそうだ。

プッチーニは、演劇として上演された「蝶々夫人」に心を動かされ、オペラの作曲に没頭した。1900年から1903年にかけてのことだ。その際、彼がどのような資料を見て「日本の音楽」についての情報を得たのか、興味深い。オペラ「蝶々夫人」の中には、「お江戸日本橋」「さくらさくら」などの旋律が、歌詞の本来の文脈とは無関係に引用され、音楽におけるジャポニスムの代表例としてもよく知られる作品となった。有名なアリア「ある晴れた日に」の直後の場面では、「宮さん宮さん」の旋律が聴こえてくる。

1900年、パリでは万国博覧会が催された。エミール・ガレのガラス工芸やアルフォンス・ミュシャのポスターや装飾などアール・ヌーヴォーで知られるこの万博は、会場の動力はすべて電力であったことや、開発されて間もない映画が公開されるなど、20世紀の生活、芸術を予告するものだった。夏目漱石も、ロンドン留学の途中立ち寄ったとされる。

反政府自由党の壮士・川上音二郎は、妻の貞奴とともに川上一座を率いて、サンフランシスコ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、そしてロンドンと興行の旅を経て、1900年パリにやってくる。一座は、「日本帝國演劇集団」としてパリ万博会場内の劇場に5ヶ月にわたって出演、ヨーロッパで公演した最初の日本人劇団となった。

驚くべきことに川上一座は、その際パリでレコード録音をしていたのである。一般には知られることなくイギリスのEMI社で眠り続けていたその録音は、1990年代になって発見されCD化された(「甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座」東芝EMI)。音二郎や貞奴その人の声は録音されていないが、彼ら一座のレパートリーや芸の一端を知ることができる。

授業を聞きに来ていたさとてぃ先生が、貴重な指摘をしてくださった。録音で聴くことのできる「オッペケペー節」は、飴売りなどのフシによく似ているそうだ。

「オッペケペー」は命がけの世相風刺ソングだが、まったく新しいフシが作られたのではなく、物売りの唄の一種の「替え歌」だったというのは、とても興味深い。一般庶民は、耳馴染んでいるフシに強烈な世相風刺の歌詞がついているのだから、面白がって喝采を送っただろう。

さて、川上一座の演目には、長唄、新内、三味線曲弾き、詩吟、歌舞伎役者の声色模写などさまざまなものが含まれる。

「ニューヨークの演劇学校で見た『笑い』の練習風景を真似てみます」という「笑いの試験」。西洋演劇の笑い方を真似る後ろには三味線の伴奏が付いて、ちゃんとひとつの「芸」にしているのが面白い。また、「才六 人肉質入裁判 白洲之場」という愉快な出し物は、見ての通りシェイクスピア「ヴェニスの商人」裁判の場面の翻案。「才六」はユダヤ人の金貸し「シャイロック」である。

そして、「こちゃ江婦志」という出し物では、「お江戸日本橋」そして「宮さん宮さん」が歌われる。プッチーニが川上一座を観たかどうかはわからない。だが、ジャポニスムが1900年代初頭のヨーロッパにおけるトレンドだったことは窺い知ることができよう。

川上一座は、アメリカで何を聴いただろうか。その頃セントルイスでは、スコット・ジョプリンが多くのラグタイムを作り始めていて、ピアノロール録音も残している。ジャズと呼ばれることになる音楽はまだ生まれていないが、黒人の音楽と西洋音楽は入り混じり、ジャズの萌芽が生まれ始めている。

川上一座も、歌や芝居を生業とした人たちである。異国の音楽にまったく興味を示さなかったとは思えない。スコット・ジョプリンそのものではないかも知れないが、彼らはアメリカのどこかでこのような音楽を耳にしたに違いないと、私は思う。

根拠のないことだが、そんなふうに考えていくと、同じ時代にいろいろな人たちが、別の場所で全然違うことをやっていながら、どこか繋がっていくように思えて楽しい。

追記:左サイドバー下の方「このブログで話題になった本」に、「あたらしい教科書8 『音楽』」を追加しておきました。

2006年8月14日 (月)

私は誰?ここはどこ?そして何をうたうのか?・・・

現代芸術論第15回(8月3日最終回分)

4月から15回にわたって、「現代芸術論A」という授業で「日本の作曲家」を取り上げてきた。授業概要と授業計画は以下のとおり。これらは、大学のホームページ掲載の電子シラバスでも見ることができる。

●授業概要
現代の音楽の展開を、様々なトピックに基づき考察する。社会情勢が激動し、価値観が多様化し続けた時代にあって、作曲家・演奏家たちは何を考え、自らの作品・演奏に何を託そうとしたのか、そしてそこで何が実現でき、また何が実現し得なかったか等について、ディスクを聴きながら考えていく。
●授業計画
今年度のトピックは日本の作曲家。音楽スタイルの変遷を追いながら、瀧廉太郎や山田耕筰以降の日本の作曲家たちが目指してきたものについて考察する。

このブログでは要点の他に、授業で言い残したこと、うまく言えなかったことなどをまとめてきた。左側下の方の「カテゴリー」で「芸術・文化(授業の余滴)」を選ぶと、この関係の記事だけを表示することができる。

15回の授業では、約30人の日本人作曲家の作品、70曲余りを聴いてもらってきたことになる。もとより「日本現代音楽小史」ではない。歴史的視点から日本人作曲家の仕事を網羅するには、特に戦後の作曲家の作品傾向は偏りすぎている。林光、三善晃、松村禎三、一柳慧、湯浅譲二、高橋悠治といった作曲家について話すことができなかったのは残念だし、武満徹にしても、没後10年というメモリアルイベントもあいまって、これだけ世界的名声を誇っているのに、取り上げたのは「秋庭歌」だけとはいかがなものかと非難を受けそうだ。だが開き直るようだが、限られた時間の中で聴ける作品は限度がある。そのためには、ともすると見逃しがちな作品を優先したい。武満は他にいくらでも聴く機会があるから、ここで取り上げるのは1曲にとどまった。

15回をゆるやかなテーマで括るとすれば、「日本の作曲家は、どのように『(自分が)日本人(作曲家)であること』と向き合ってきたか」ということになろう。その格闘ぶりは、現代の作曲家たちに比べ、戦前、戦中の作曲家たちの方がより熾烈だったように思える。「どのように日本人(作曲家)であることと向き合ったか」といっても、その姿は千差万別、集約することなどは不可能だから、それぞれの作品から聴きとっていくしかないだろう。だが言えることは、どのような作風であるにせよ「自分が日本人であること」から完全にフリーになっている作曲家は皆無ということだ。海外暮らしが長ければコスモポリタンになるかといえば決してそうではなくて、かえって強烈な愛国主義者になったりする。振りかぶって言えば、「日本人作曲家であること」との格闘の諸相を見ることは、作曲家たちが「日本とは何か」「日本人とは何か」について考えてきた精神史を辿ることになるだろう。

しかし、それはちょっと振りかぶり過ぎで、要は日本の作曲家たちの作品に興味を持ってもらいたい、その切っ掛けになればということなのである。音楽を専門的に学ぶ人たちが、何世紀も前の、遠い異国の、なかなか想像しがたい階級と生活環境の、測り知れない才能を持った天才たちが作った音楽以外には一切目が向かないというのは、やはり異様なことだと思うのだ。
ただ日本の作曲家たちの作品、特に戦前・戦中の仕事は、故秋山邦晴氏の労作「昭和の作曲家たち」(みすず書房)などをわずかな例外として、十分に検証、紹介されてきたとは言えない。最近になって、NAXOSからシリーズで出ているCD「日本作曲家選輯」や音楽評論家・片山杜秀さんの仕事、紀尾井ホールでの演奏会シリーズ「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」や、芥川也寸志氏の遺志を継いだオーケストラ・ニッポニカの活動などが、戦前から戦中の創作状況をようやく少しずつ伝えてくれるようになった。これらのディスク、演奏会でいくつもの作品が甦ったのはとても喜ばしいことだ。

最終回の2つの作品は、吉川和夫「遠野民譚抄」~歌と十七絃のために (2003/平成15)~よりと、「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」(2002/平成14)。
バリトン歌手谷篤さんの「柳田国男『遠野物語』を歌いたい」という念願を叶えるべく作曲された「遠野民譚抄」は、当然のことながら、いわゆる「歌曲」にはならず「語り物」に近いものになった。「遠野物語」の中から選ばれた7話の文章そのままにフシ付けがされているが、そのフシは、聲明や平曲などからたくさんのエッセンスを得ている。新作聲明「論義ビヂテリアン大祭」で取った方法を、ここでは僧侶ではない歌手が歌うことを前提で行なったということになるだろう。
「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」でも、聲明から敷衍した旋律が曲をリードしていく。2つのヴァイオリンは、どちらかが優位になるということはほとんどなく、双子の姉妹のように、ひとつの性格の2つの分身のような鏡像をなす。
いずれの作品も瑕があり、完璧な出来栄えとはとても言えないし、簡単には再演できそうにない作品だが、自分なりに集中できた仕事であるとは思うので、この授業の(ゆるやかな)テーマの延長にある表現として聴いてもらうことにした。

2006年8月11日 (金)

日本の謡・歌・唄

現代芸術論第14回(7月27日分)

日本の民謡や民俗芸能を素材にした作品。
間宮芳生「日本民謡集」は1955(昭和30)年に始まり、今なお書き継がれている作品集。作曲者自身、この曲集は「私の作曲の仕事の中心の核のようなもの」と述べているとおり、アルト歌手内田るり子氏との「共同研究」でもあった初期作から最近作に至るまで、間宮作品のエッセンスが凝縮された曲集であると言えるだろう。民謡からの作曲といえば、ブラームス「ドイツ民謡集」、バルトークとコダーイによる「ハンガリー民謡集」、そしてファリャ「7つのスペイン民謡」を思い出す。さらに、歌のパートに対するピアノ・パートの楽しい意外性という意味で、ストラヴィンスキー「4つのロシアの歌」や初期のいくつかの歌曲を加えても良い。間宮「日本民謡集」は、これらの仕事を意識した上で書かれながら、これらのどれよりも端正な居ずまいを誇る。素材となった唄は、「とのさ」や「まいまい」「南部牛追い歌」のようなスタンダードな民謡の他にも、東京・青ヶ島の呪術的な「でいらほん」、八戸神楽による「翁舞の唄と囃子」のような民俗芸能の唄が含まれていて大変多彩。秋田の「杓子売唄」のようにしばしば単独で演奏される作品もある。そして、ピアノパートは単なる「伴奏」ではなく、歌のパートと常に拮抗するように書かれており、そこからは日本の伝統楽器やジャズからのエコーを聴き取ることもできよう。
CDの時代に入ってから長らくディスクで聴くことができなかったが、フォンテックからCDが出て、最新作を含めた全曲を聴くことができるようになった。ルネサンスやバロックの名歌手である波多野睦美、東京混声合唱団時代からの表現者である森一夫による歌唱は、それぞれの曲のキャラクターを的確に表現していて、この作品の決定盤と言うべきディスクになっている。野平一郎、寺嶋陸也のピアノによる優れたサポートも特筆すべきだろう。

今なお書き継がれている間宮作品ということでは、合唱のためのコンポジションを忘れるわけにはいかない。現在第16番まで発表されているこの連作は、ゆるやかに繋がったシリーズを成しながらも、それぞれが強烈な個性を放っている。第5番「鳥獣戯画」は1966(昭和41)年の作品だから40年前ということになる。この作品は、他の多くの「コンポジション」シリーズのように、ノンセンス・シラブルだけで構成されている。この作品を形作る音楽語法は、決して「保守的」ではなく、むしろかなり大胆なものだが、いわゆる「前衛」のそれとはまったく違っていて、聴く者を疎外させるようなことはない。哄笑をたっぷり含んだ大らかな風刺の表現は、鳥羽僧正の筆と伝えられている「鳥獣戯画巻」同様みずみずしく、色褪せることがない。

日本の民謡や民俗芸能を素材にした作品ということで、柴田南雄の仕事にもひとこと触れておきたい。1973(昭和48)年の「追分節考」を皮切りに多くのシアターピースが作られたが、やはり「追分節考」が現われた時の新鮮さは記憶に残る。ここには合唱と演劇と音楽学が融合された面白さ、楽しさがある。そしてこれは、伝承と前衛とをひとつの作品の中で共存させるという実験的な「場」でもあるけれど、単なる試みの範疇だけにとどまったものではない。本来はコンサートホールでの生演奏に立ち会って、音の空間性や重層性を受け取らなければ作曲者の意図が完全に伝えられたとは言えないけれど、ディスクを聴くだけでは致命的に不十分とまでは言えないと思う。シアターピースであるとはいえ、その根幹はさまざまなヴァリエーションを持つ「追分節」が生き生きと構成された美しい音楽で、聴き終わったあとにはほのかな郷愁のようなものが残る。視覚的、空間的要素を取り払って単なる合唱曲としてディスクで聴いたとしても、一定の充実感を味わうことができるのである。

2006年7月25日 (火)

国立劇場の冒険(2)

承前

昭和59(1984)年、石井眞木作曲による新作声明「蛙の声明」の誕生は、プロデューサー・木戸敏郎と国立劇場による三つ目の冒険と言えよう。舞台に登場するのは本職の僧侶たちであり、日々のお勤めの場でのみ唄われていた声明の声に、仏典ではない言葉、伝統的ではないフシ回しが作曲された。日本語の言葉と芸術的な音楽表現との関係は、瀧廉太郎以降様々に試みられてきたことだが、表現者としての僧侶の登場は、日本語の作曲にとって大事件と言えるだろう。またここでは、宗派の異なる声明が同じ舞台に立つという画期的な試みが成功している。
「蛙の声明」は、草野心平の詩と石井眞木の音楽的資質が、幸福に結びついた例である。ただし、草野心平の詩にある破天荒とも言えるスケールの大きさに対峙する石井眞木の音楽的設計は、ダイナミックでありながらも予定調和的であり、全体としてはお行儀良く感じられる。それだけ、草野心平の世界が型破りなものなのだと言えそうだが。

「蛙の声明」の成果は、平成3(1991)年初演の吉川和夫「論義ビヂテリアン大祭」に繋がっている。石井眞木が演者任せにして、細部についてはやや放置した感のある論義風の部分の言葉ひとつひとつについて、この作品では丹念にフシが付けされている。日本語にどのような音を付し、どのようにテンポを伸縮させ、どのような声で歌われることによって、語りと歌との間(あわい)なるものが現出できるか、作曲者がかつてオペラ「金壷親父恋達引」で試みて以来のテーマを、別の面から考える作品となった。声明と狂言の語り、そして唄には、日本語を歌うということの原点があるはずだ。だが、現代の日本の歌、歌曲のほとんどは、そういうところを出発点にするなど眼中にないといった様子である。
「論義ビヂテリアン大祭」は、宮澤賢治の原作の面白さ、田村博巳による優れた構成・演出もあいまって、「秋庭歌」を除けば国立劇場委嘱作品としては異例と言ってもよいほどに再演を重ねている。

国立劇場の作品委嘱活動は、木戸が取り組んだ雅楽、復元楽器、声明以外にも、筝や尺八、打ち物など日本の楽器のためにたくさんの作品が書かれてきた。この活動は、木戸の定年退職後、後輩のプロデューサー田村博巳らに受け継がれるが、1999年第94作を最後にリストは途絶えてしまう。理由はわからない。しかし、そもそも国立劇場というところは、廃絶した作品の復活や普通に上演されているレパートリーの確認が本分であって、新しい作品を作曲家に委嘱する必要などないという、全盛期当時から洩れ聞こえてきていた上層部の声が反映したものでないことを祈るばかりだ。創作のエネルギーを失った劇場は、生きた現場とは言えないからである。

国立劇場の冒険(1)

現代芸術論第13回(7月20日分)

東京・隼町にある国立劇場は、数々の特筆すべき「冒険」を積み上げてきた。ここでは、雅楽や声明に限って記してみる。そのためには、まずこの劇場のプロデューサー・木戸敏郎の大いなる功績を辿ることになるだろう。

昭和45(1970)年に初演された黛敏郎作曲による「昭和天平楽」が、国立劇場委嘱による最初の作品となった。現在この記念すべき第1作は、古いLPレコードでしか聴くことができない。残念なことだ。

「昭和天平楽」に続くのが、昭和48(1973)年に書かれた武満徹「秋庭歌」で、この委嘱作品シリーズは、第2作にして歴史的な名作を世に送り出すことになった。6年後の昭和54(1979)年には、「秋庭歌」を第4曲目に置いた「秋庭歌一具」がまとめられ、全6曲、演奏時間1時間近くを要する大曲となる。
「秋庭歌」という曲名は、雅楽本来の抽象性からはずれることなく、なおかつファンタジーを喚起する、実に的を得たタイトルだと思う。そして、そのタイトルから連想されるファンタジーを裏切ることのない美しい音楽である。これほどに、タイトルと内容が補完し合うタイトルは、なかなかあるものではない。
私は、「秋庭歌一具」の演奏者のひとりとして、初演と最初のレコーディングに参加するという得がたい経験をした。当時、この作品に対する演奏者たちの理解は、全体としては決して高かったとは言えず、武満さんも練習に立ち会いながら首をひねる場面が多かったように思う。だが、初演者である東京楽所のメンバーは協力的であったし、この作品が美しいものであることは理解していたから、真剣に取り組んでいたことは間違いない。近年では、芝祐靖氏率いる伶楽舎がこの作品を重要なレパートリーとして磨きあげ、世界各地で演奏し続けている。その演奏は整然としていて見事なものだが、反面、かつての東京楽所による、やや雑な部分がありながらも大らかなたたずまいを漂わせていた演奏を懐かしく思うこともある。

「秋庭歌」は、初演時から好評をもって迎えられたが、すべての委嘱作品がそうだったわけではない。昭和52(1977)年、シュトックハウゼン「LICHT - HIKARI - LIGHT」の初演では、この国ではあまり例を見ないブーイングが鳴り響いた。しかし、プロデューサー・木戸敏郎は、「賛否両論」というよりはほとんどが「否」の包囲の中で、かえって戦闘意欲を燃やしたようだった。例えば、ある舞楽面を指して、あんなふざけた面をつけて舞を舞わせるとはけしからん!というような批評が載る。「ふざけた」デザインに見えたとしても、それは舞楽の伝統的な面のひとつだったのであり、批評者の無知を晒したというわけで、木戸のその後のアグレッシブなプロデュース活動は、柔軟な思考ができなくなり、根拠に乏しい「伝統」を金科玉条のように掲げ依存する知識人たちへの挑戦という面も、大きくなっていく。シュトックハウゼンのこの作品が良い作品であったかどうかはともかくとして、雅楽創作史上、重要で刺激的な出来事であったことは間違いない。シュトックハウゼンは楽箏の弾き方を誤解しており、ハープのように両手で絃を弾くものとしてこのパートを作曲して演奏者を困らせたが、このことは、かつて楽箏も両手で絃を弾いていた時代があったことを思い出させ、現代では雅楽が日本の中ですら異文化であることを思い知らせることになった。

木戸と国立劇場の冒険の二つ目は、古代楽器の復元である。正倉院の御物に含まれる残欠を基に、推理と試行錯誤を繰り返して、箜篌(くご)や倭琴(やまとごと)、方響(ほうきょう)をはじめとする多くの楽器が復元された。そしてそれらの楽器のための新しい作品委嘱が始まった。一柳慧や石井眞木の作品をもって嚆矢とするが、ここでは最も若い世代の作曲家による優れた成果として、寺嶋陸也「大陸・半島・島」(平成10年、1998)を挙げておきたい。題名は、文字通り中国大陸、朝鮮半島、そして島国・日本を象徴し、古代楽器の伝来と隆盛、そして衰退のドラマを見はるかしている。

2006年7月20日 (木)

雅楽の窯変

現代芸術論第12回(7月6日分)

「窯変」とは、「陶磁器の焼成中、火焔の性質その他の原因によって、素地や釉(うわぐすり)に変化が生じて変色し、または形のゆがみ変わること。」(広辞苑電子辞書版より)

雅楽、舞楽は、特定の情緒や感情をそこはかとなくかもし出すといった芸能ではない。
ある時、宮内庁の某楽人氏に、「舞楽の舞って、難しいんですか?」と尋ねたことがあった。難しいに決まってるのに、なぜそんな愚問を発したのかは、若気の至りと言うしかない。ところが、楽人氏は「いやぁ、ラジオ体操と一緒ですよ」とのたもうた。
ラジオ体操と一緒・・・というのは、もちろんふざけた物言いだが、ポイントを突いた言い方でもあるかも知れない。例えば、この授業で例として挙げた舞楽「還城楽」は、「蛇を見つけて喜んでいる西域の人」というシチュエーション以上に、何か秘められた抒情を表現したりするものではない。「蛇を見つけて喜ぶ」さまを、舞いは躍動感溢れるダイナミックな「型」で表現する。「1、2、3、4・・・」という動きがキレ味良く、また優美に様式化される。
同様に、雅楽も「絶対音楽」であり、標題的内容や喜怒哀楽を表現したりするものではない。

現在伝承されている雅楽は、伝来した当時に比べれば、時間の窯の中で「窯変」していることだろう。そして、舞楽・雅楽を素材に作られた現代作品ともなれば、当然ながら「窯変」ぶりはさらに顕著である。
黛敏郎のバレエ音楽「BUGAKU」(1962、昭和37年)は、エモーショナルであり、時にはデモーニッシュでさえある。そういうことは、古来の舞楽・雅楽ではあり得ないことだろう。そもそもこれは、「舞楽を素材に作られた」と言って良いのだろうか。確かに、舞楽と同じ笛のパッセージや打ち物のリズムが聴こえたりするけれども、本質的には古来の舞楽とはほとんど接点を持っていないようにさえ思える。むしろ、古来の舞楽に思いを馳せながら、まったく新しいBUGAKU~舞踊音楽を創りあげたと考えた方が良いだろう。そしてこのBUGAKUは、このように伝統とゆるやかに繋がりながらも、実験的手法、完璧に施されたオーケストレーションに加え、ハリウッド映画的と言えるくらい通俗的な愛想の良さを併せ持っている。「涅槃交響曲」以降の黛敏郎の作品としては、最大級に腕によりをかけたものであることは間違いない。

松平頼則「左舞」(1958、昭和33年)は驚くべき作品で、手元に楽譜がないので詳細な検討はできないが、おそらくはトータルセリエルの手法で書かれていながら、完全に舞楽に聴こえるという離れ業を成功させている。伝統と前衛をこれほどまでに融合させた作品は、それほど多くはない。全体にはスタティックであり、渋いというより晦渋で、容易に近寄らせてもらえないような印象もあるが、中心楽章である第4曲が、それとはわからないうちに次第に熱を帯びていくのを感じていると、いつの間にかわが身はこの音響に快く浸っていることに気づく。松平作品は、演奏される機会が少ないのがとても残念だ。1950年代の前衛手法を用いていながら、現代でも決して古びた印象はないのである。

黛敏郎「BUGAKU」のディスクを久しぶりに聴き直してみると、これが実に熱のこもった名演であることがわかる。
岩城宏之指揮のNHK交響楽団が、日本の作曲家の作品を精力的に取り上げていた時期の録音。私は残念ながら、岩城氏と直接にはほとんど接点がなかったが、彼が指揮したたくさんの邦人作品の録音を聴いて学んだことは多い。
岩城宏之氏、平成18年6月13日逝去。心よりご冥福をお祈りする。

2006年6月29日 (木)

伝統と前衛~黛敏郎の音楽

現代芸術論第11回

黛敏郎の初期作品、「シンフォニック・ムード」(1950、昭和25年)が naxos レーベルによって初録音され、ディスクで聴くことができるようになった。9分ほどの楽章二つからなる野心作。第1曲では、ドビュッシーやラヴェルに基礎をおく曲想から導かれて、ガムランからヒントを得たに違いないテクスチュアと時間構築によって頂点を作ると、チャールズ・アイヴスやエドガー・ヴァレーズを思わせるような音響的カオスに突入する。第2曲では、ガムランの代わりにラテン音楽のリズムが響き渡る。この作品を21歳で書いたという黛敏郎の早熟ぶりには瞠目すべきだろう。

現代音楽の技法を駆使した音響とガムラン、あるいはラテン音楽との一種の「チャンプルー」という作り方は、「饗宴」(1954、昭和29年)でも基本的には変わらない。そこでは、現代的音響に点描的な鋭角さが加わり、ガムランやラテンに代えてビッグバンド・ジャズが「チャンプルー」される。「饗宴」の後半、ダンス音楽のようなビッグバンド的な部分は、片山杜秀氏の解説によればバーンスタイン「ウエストサイド・ストーリー」のシンフォニック・ダンスからヒントを得たものだという。「饗宴」はずいぶん前から聴いてきたが、その指摘はとても頷けるものだ。

「涅槃交響曲」」(1958、昭和33年)は、日本の梵鐘の音を音響分析してオーケストラ上に再構築したという「カンパノロジー」と名づけられたクラスターばかりが取沙汰されるが、久しぶりに聴き直してみると、カンパノロジーを遠景に、点描的な音色旋律を近景に配した立体的な造形を意図していることがわかる。
「涅槃交響曲」の合唱を、本職の僧侶の唱える聲明・読経によって演奏したらどうかという提案に、黛敏郎は頑として承諾しなかったという話を聞いたことがある。本職の僧侶たちが、「新作聲明」という未知のジャンルに理解を示し、創作に積極的に協力するようになるのは、「涅槃交響曲」が書かれてから25年くらい後のことだが、黛のそのこだわりは、当時協力者がいなかったからという理由ではない。ニューヨークシティバレエのための舞踊音楽「BUGAKU」、あるいは独奏チェロのための「BUNRAKU」や男声合唱「始段唄・散華」にも共通することかも知れないが、本職の声明ではなく、合唱団によって歌われるというのはイミテーションに他ならない。だが、確信犯的にイミテーション状態を作り出すこと、良質のイミテーションを構築し、「舞楽」や「文楽」、「聲明」をコスモポリタンなものにするところにこそ、黛敏郎の目論見があったのではないだろうか。

だとすれば、これらの作品は、「輸出用の」日本文化ということになる。本来あるべき「真正な」日本文化とは質が違うのではないかという議論に発展するだろう。しかし、彼の音楽を聴いていると、コスモポリタンを目指すための切っ掛けとしてイミテーションを作って何が悪い?と問われているような気になってくる。黛敏郎の音楽は、エネルギッシュでダイナミック、そしてすっぱりと割り切っているように迷いがなく陽性だ。通俗性も持ち合わせている。最も意欲的な実験作「涅槃交響曲」でさえ、第6楽章「フィナーレ」の、楽天的とも言いたくなるような現状肯定的クライマックスなどその例外ではない。彼が備えていた完璧な作曲技術は、とりあえず衆目を集めるには十分なものだった。

黛敏郎は、その職人技を駆使して、文芸映画からやくざ映画に至るまで200作品に及ぶ映画の音楽を書き、30年以上に亘ってテレビ「題名のない音楽会」の構成・司会を勤め、ベジャールやバランシンと仕事をしたり、ベルリンドイツオペラやハリウッド映画から委嘱されたりした。また、ミュージック・コンクレートや電子音楽、プリペアド・ピアノの実験者、現代では最初の創作雅楽曲「昭和天平楽」の作曲者としても記憶されるべきだろう。

ストラヴィンスキー「春の祭典」は、彼の生涯にとっては早く書かれ過ぎてしまったために、その後の仕事は心なしか色褪せて見える。同様に、黛敏郎にとっての「涅槃交響曲」も早く書かれ過ぎた傑作だった。その後の演奏会用作品は、どうしても小粒に思えてしまう。
黛敏郎は、おそらく壮年期以降だろうと思われるが、右翼の論客となった。そのことは、彼の音楽を広く普及させることには結びつかず、逆にその音楽までもが色眼鏡で見られてしまうことになった。だが、彼が真正の音楽家・作曲家であったことは、疑い得ない。戦後日本の作曲界の風雲児としての黛敏郎の仕事は、今後も正当に論じられるべきだと思う。

2006年6月22日 (木)

「東洋」の視点(2)

承前(現代芸術論第10回 6月22日の記事の続き)

1941~42(昭和16~17)年に書かれた早坂文雄「室内のためのピアノ小品集」は、楽譜のごく一部分だけ目にふれることはあったが、最近全音楽譜出版社から楽譜が、カメラータから高橋アキさんの演奏でCDが出て、その全貌を知ることができるようになった。

早坂文雄は、この作品の作曲ノートに次のように書く。
 

(前略)室内で誰に聴かせるのでもなく弾いて自らがたのしむといつたもの、このやうなありかたは至極日本的だと思ふのである。
 日本には芸術を生活化するといふ特性があり、生活的現実を離れた芸術といふものはなかつた。西洋のやうな芸術を抽象化して受取ることは東洋人はかつてして来なかつた。
 日常生活における深い静かなそして短くとも芸術味に富んだピアノ曲がほしいと思ふ。さういふもののためにこのピアノ曲を役立てたいと思ふ。(後略)

芸術を生活化すること。例えば、俳句や短歌を詠む。それは生活の中の些細な事象を見つめ、自己と対話することが第一義的な目的であって、句会や投稿というのは二次的な目的だろう。水差しや花瓶や器は、生活用品であると同時に芸術的な陶芸品であり得たし、庭木や盆栽に鋏を入れ念入りに手入れするのは、生活環境を調えると同時に、最も身近な場所に美を演出することであった。そして、そのようなたしなみとして、早坂文雄は17曲のピアノ小品を書いた。これを第一輯として、「第二輯、第三輯とつゞけていく」という構想は実現できなかったが、東洋人としての芸術のあり方についての深い意識を表明したものとなった。20世紀後半では「資本主義社会と社会主義社会」が、また現代では「キリスト教とイスラム教」が世界を二分する対立概念であるように、西洋の芸術に相対する東洋の芸術について探究することは、早坂にとっては創作における心棒のようなものだった。

書籍に「奇書」というものがあるように、もしも音楽に「奇曲」という言い方があるとしたら、交響組曲「ユーカラ」はぜひともそのリストに加えるべきだろう。アイヌの叙事詩「ユーカラ」に基づいたプロローグを含む6楽章からなるこの作品は、それぞれの楽章に元になった物語を持つが、音楽は完全に抽象的で、その筆致のユニークさは比類を見ない。第5楽章「ノーペー」のよるべない静けさは、武満徹「弦楽のためのレクイエム」への繋がりを示唆する。ストラヴィンスキーやメシアンからの影響を指摘するのは容易だが、それをあげつらったところでこの作品の存在意義が揺るぐことはない。瀧廉太郎以降の日本の西洋音楽系作曲家たちが、「西洋に対する日本(そして東洋)」という構図の中でアイデンティティを探り歩んできた道筋のひとつの道標のように、この作品は屹立している。
1955(昭和30)年、早坂文雄は交響組曲「ユーカラ」を遺言のように遺して、その生涯を閉じる。享年41歳。年齢で言えば壮年期真っ只中といったところだが、この音楽は老境の作曲家が辿り着いた境地を見晴るかしているかのように思える。

「東洋」の視点(1)

現代芸術論第10回

今回は、早坂文雄の音楽を聴くことにしたが、どのような選曲にしたら良いか散々迷った。結局取り上げなかったのだが、「序曲ニ調」という1939(昭和14)年の作品から始めるのも面白いかも知れないと思った。「皇紀2600年奉祝管弦楽曲懸賞」で受賞した10分弱の作品だが、奉祝気分の厳かさとはおよそかけ離れたダイナミックな音楽で、後に早坂が担当した映画音楽「七人の侍」を思い起こさせる。だが、曲全体の完成度という点では、やはり「左方の舞と右方の舞」に一歩道を譲ることになるだろう。

1941(昭和16)年の管弦楽曲「左方の舞と右方の舞」は、早坂の代表作と言って良い。「左方の舞・右方の舞」は、舞楽でいう「唐楽・高麗楽」にあたるが、この作品では舞楽の形式や音楽的特徴をなぞってはいない。絵巻物のように、開いていくとひとつの場面が見え、雲か霞かによって隔てられて別の場面が見えてくる、さらに開いていくとまた雲か霞かによる中断があって別の場面が・・・という具合に、次々と抽象化された「舞」が現れる。求心的なクライマックスに向かって進むのではなく、また聴き手に特定の感情を喚起するような音楽でもない。作曲者は、茫洋たるスケールの音楽によって祭祀の場、抽象的な舞が舞われるみやびな場を設けることに腐心しているように思える。

早坂文雄によって、映画において音楽が果たす役割の重さ、映画音楽作曲家の市民権が、はじめて広く認識されるようになったと言っても良いだろう。「酔いどれ天使」「白痴」「生きる」「七人の侍」などの黒澤明監督作品や「雨月物語」「近松物語」をはじめとする溝口健二監督作品などで、早坂は歴史的名画を支える重要な仕事をした。映画音楽が、単なる伴奏ではなく映画を構成する主張を持ったひとつの部分であり、映画音楽を書くことが作曲家にとって大きな表現手段になり得ると示したことは、後に続く作曲家たち、芥川也寸志、黛敏郎、とりわけ武満徹に大きな影響を与えた。
「羅生門」の「タイトルバック」は、笙の合竹(和音)から始まる。コントラバスとティンパニとピアノ(?)によるアクセントに導かれてオーボエが旋律を奏で、金管楽器が和音をはさみ、筝のアルペジオが区切りをつける。今でこそ、このような雅楽器と西洋楽器との混交は珍しいことではないが、1950(昭和25)年あたりまでに西洋音楽系の作曲家によって書かれた作品に、そういった編成のものがあったかのどうか寡聞にして知らない。映画音楽だからこそ、このような編成による作曲も容易だったのかも知れないが、こうした和洋楽器が混交する響きの実験は、武満徹の数々の映画音楽や「ノヴェンバーステップス」などの作品に引き継がれていくことになる。
「真砂の証言の場面のボレロ」は、あまりにもラヴェルの「ボレロ」に酷似しているということで、当時は物議をかもしたと伝えられる。昨今も、日本の画家の作品がイタリアの画家の作品を盗作した疑いがあるとかで、文部科学省まで巻き込んだ大きな騒ぎになっているが、昨今の騒ぎと決定的に違うのは、「羅生門」のこの音楽を聴いたすべての人は、下敷きがラヴェルだとわかるようになっているということだ。また、模写に近い方法を取っていることは確かだが、ラヴェル「ボレロ」の持つエクスタシーに向かうような幸福な高揚感はここにはなく、心理的に追いつめられていくような切迫感が取って代わっている。リズムと音色が似かよっていても、旋律や和音が違うことで、結果的にはまったく逆方向の音楽を目指すことができるのである。(続く)

2006年6月15日 (木)

戦後社会の息吹き

現代芸術論第9回

1947(昭和22)年から1950(昭和25)年までに書かれた作品から。

平尾貴四男「ヴァイオリンソナタ」は、軍隊から復員した直後から着想され、1947(昭和22)年に完成された。モデラート~アレグロ、アンダンテ、ヴィヴァーチッシモという3楽章構成は、いうまでもなく古典的なフォルムであり、このソナタが志向するフォルムも、そこから逸脱しようとするものではない。日本的な旋法や旋律とフランス風の澄んだ音色感が、安定した構造の中でごく自然に融合される。それにしても、復員して間もない時期に、こんなに充実した音楽の作曲に取り組めるものなのだろうか、敗戦を経験した虚無感に苛まれるようなことはなかったのだろうか・・・。私は、まずそのこと、平尾貴四男が音楽に傾けた気概の強さに驚く。戦争が終わって、これからは自由に音楽を書けるという解放感が、この作品の「ひたむきさ」に反映している。「ひたむきさ」、そして作曲家がこの作品に賭けた気概は、特に両端の楽章で熱く伝わってくるが、しかしそのことが過剰になりすぎて、フランスに学んだこの音楽家の、教養人としての気品を崩してしまうようなことはない。上質のロマン(フランス語の小説)を読んでいるような印象がある。さらに言えば、それは原語でではなく、優れた翻訳で読んでいるようなということになる。

昨年の秋、外山雄三指揮の仙台フィルが、尾高尚忠「交響曲第1番」を蘇演したので聴きに行った。単一楽章ながら、リヒャルト・シュトラウスの洗礼を存分に浴びたとおぼしき大交響曲のたたずまいで、充実した構成、オーケストラを知り尽くした書法には大変感銘を受けた。敗戦直後の日本に、こんな立派な交響曲が生まれていたのだ。さらに驚くべきは、この作品は単一楽章であると誰しもが考えていたのに、実は作曲者には、続く楽章の構想があったということだ。全楽章が完成していたらマーラーばりの巨大交響曲になっていたかも知れない。1948(昭和23)年に書かれた「フルート協奏曲」は、同年の「交響曲第1番」の厳しい仕事の余滴から成されたと言われ、全曲でも約15分、決して規模の大きな作品ではないが、尾高尚忠の代表作であると同時に、日本の作曲家による協奏曲を代表する作品であると言っても過言ではないだろう。後期ロマン派風色彩の中に、日本的な旋律が見事にブレンドされ、その意味では平尾貴四男の前出作品との共通点がありそうだ。熟達したオーケストレーションにも注目すべきだろう。そして、第2楽章の異国風(スペイン風?)な、時に増音程を含んだカンティレーナは一体何だろう・・・久々に聴いてみると、今まで気がつかなかったそんなことが気になった。

1950(昭和25)年に書かれた名高い芥川也寸志「交響管弦楽のための音楽」については、あらためて論ずるまでもあるまい。戦後社会を象徴し、来るべき高度成長期を予告するかのような活気に溢れた音楽。10分に満たない作品だが、ひとつの時代の終わりを告げるには十分なものだっただろう。同時に、日本の作曲家たちにとっての「アイドル」が、ドイツやオーストリアやフランスの作曲家ではなく、ソヴィエト連邦の作曲家たちに変わっていったことをも象徴している。

2006年6月 8日 (木)

敗戦から戦後へ

現代芸術論第8回

1944(昭和19年)に作曲された守田正義「バラード」と深井史郎「三つの歌~戦死せる彼等のために」は、ともに同年12月に初演される予定だったのが、当日空襲警報が発令されたため演奏会が中止となり、初演は「戦後」にずれ込んだ。また、安部幸明「クラリネット五重奏曲」は1943(昭和18)年の作だが、初演されたのは「戦後」だった。

守田正義は、プロレタリア音楽運動の担い手として知られているが、ピアノ曲「バラード」は、そういったイメージとは少し違っている。「プロレタリア音楽」が何を意味するかを明らかにしないといけないだろうが、少なくともこの「バラード」は、ショパンから始まる同名の曲の歴史を受け継いだ音楽で、その根ざすところは内面的であり、体制に対してプロテストするといった表情よりも、むしろロマンティックな思索の記録のように思える。

深井史郎の歌曲「三つの歌~戦死せる彼等のために」は、副題が示すように戦死した者たちへの哀悼の曲である。死は美化されることなく、ごく普通の生活者の視線で、残された者の悲しみを描く。戦死をテーマにしながら、軍歌でもなく戦意高揚歌でもないこのような芸術的歌曲が、戦局真っ只中の時期に作曲されていたことは驚きだ。深井史郎の現実認識の確かさを示したものと言っても過言ではないだろう。

安部幸明「クラリネット五重奏曲」は、浮世離れしていると言えばそれまでだが、率直でけれん味のない清潔な音楽。昭和18年に書かれたということは、知らされなければ想像できないに違いない。しかし、このようなのびのびした音楽がこの年代に書かれていたことを知って、何かほっとする。

指揮者として知られる山田一雄の組詩「祖師ケ谷より」は、何よりも作曲者自身の言葉が、この作品を作ろうとした気分を示している。「その八月といえば日本じゅうの誰もがおなじこと、このわたしにもどうにもならない虚無が宿っておりました・・・」そんな時に、深尾須磨子の詩が山田一雄の作曲家心を揺さぶった。「小さな小さな地球の襞/私は祖師ケ谷をつまみあげる/そして裏返したり/はたいたり/蛇や蜥蜴を追いだしたりして/やがて私はもとどおり/盆景をならべる」「祖師ケ谷」という足元の土地、その自然、そこに住まう人々を見つめ、美しい盆景を描くこと、それこそが戦争からの解放感を歌うことだった。

伊福部昭「土俗的三連画」は1937(昭和12)年の作品だから、この回のテーマにはそぐわない。だが、昭和20年8月28日に、敗戦後初めて放送された管弦楽曲の一つがこの作品だったということから取り上げることにした。敗戦直後の人々にとって、この作品はどんなふうに聴こえたのだろう。古風とモダン、懐旧と未来、スケールの大きさと音色の繊細さ、民衆的であり尚且つ孤高・・・相反する(かに思える)これらの概念の両方が伊福部昭の音楽にはある。そんなアンビヴァレンスな魅力が再発見されて、近年若い人たちの間に大ブレイクを引き起こした。作曲家として最高に幸福な晩年だっただろうと思う。

2006年6月 1日 (木)

封印された音楽~信時潔をめぐって

現代芸術論第7回

ピアニスト・花岡千春さんの演奏による「木の葉集~信時潔ピアノ曲全集」(Bellwood Record)というCDが出て、信時潔の作品の多くを聴けるようになった。1928(昭和3)年に書かれたピアノのための組曲「野花と少女」は、作曲者曰く「愛好するシューマンのピアノ小曲にならって」書かれたという、3曲からなる小品連作。シューマンからの影響とともに、シューマンが聴いたであろうドイツ民謡からも、多くのインスピレーションを受けているように聴こえる。そして、ところどころには日本音階がこだまする。
15曲からなる組曲「木の葉集」は、さらにキャラクターの強い小品が並ぶ。ドイツ民謡調だったりロシアの田舎の踊りのイメージだったり。全15曲まとまって一つのことを訴えかけようするというよりは、1曲ごとの意匠を楽しんでもらいたいという趣旨であるように思える。

1936(昭和11)年の「沙羅」は、信時潔の代表作と言って差し支えない。簡素な造りで整えられた8曲の連作歌曲。実直なこの作曲家の性格を映してか、派手さはないが同時にあざとさなど微塵もない潔癖な作品だ。現在入手できるCDは、柳兼子83歳の歌唱によるもののみ。西洋音楽の発声で日本語を歌う技術において草分け的存在であるアルト歌手柳兼子の歌唱は、年齢によると思われる声の震えは多少あるものの、その表現力には目を瞠らされる。時に伝統的な日本音楽の歌唱のように聴こえたりするのは、彼女が小さい頃から長唄に親しんでいたことと無関係ではないだろう。

ここまで挙げたような作品は、これからも無条件で演奏されていくだろう。問題は、「海ゆかば」と「海道東征」である。

「海ゆかばのすべて」というCDがある(キングレコード)。さまざまな編成の「海ゆかば」が、録音の新旧や別の作曲家による異曲もとりまぜて25種類収録されている。中には、林光編曲による弦楽四重奏版(映画「東京100年」挿入曲)や、寺嶋陸也演奏によるグルリット作曲「『海ゆかば』変奏曲」抜粋のような珍品もあるが、やはり海軍軍楽隊の演奏によるものや、出陣学徒壮行会実況録音などは、この歌が背負った不幸な歴史を如実に語っている。私の母親は昭和4年生まれだが、「海ゆかば」は、事あるごとに聞かされたし歌わされたと言い、今でも詞章がスラスラと口をついて出る。この世代の人たちは皆そうなのだろう。戦後は、テレビのワンシーンでの効果音としてか、街宣車の大音響でしか聴くことはできない。いい曲なのに・・・と多くの人は言う。実際、曲の半ばで借用和音(ハ長調に対してイ短調からの)が大変効果的に使われ、曲を引き締めている。そして、歌詞を外して、例えば弦楽四重奏版などで聴くと、ほとんど賛美歌のようにも聴こえる。

おそらく日本で最初の交声曲(カンタータ)である「海道東征」1940(昭和15)も、皇紀2600年奉祝行事のために、戦争協力機関からの委嘱によって書かれたという出自を持つのでなかったら、封印される必要はなかっただろう。北原白秋による詞章は、目で読むとかなり晦渋に感じられるが、信時潔は随所に美しい旋律を付している。大らかで剛直、そしてここでもエキセントリックな夾雑物のまったくない潔癖さで、作品はすっくと立っている。この国の「天地創造」の物語を歌うカンタータは、元になった伝説とともに長く健康的に受け入れられて良いはずだった。

天平12年、建立された大仏を覆う金の発見に関わる大伴家持の言立てが、太平洋戦争兵士の殉死を美化する歌にすりかえられたことで、「海ゆかば」の生みの親・信時潔は国民的作曲家になったが、戦後は、葬り去るべきものとして「海道東征」とともに封印されてしまった。彼の保守的な作風が、戦後日本のモダニズムからは受け入れにくいものであったことも大きく関係しただろう。
だが、あらためて作品を聴いてみると、その精神は瀧廉太郎に象徴される唱歌、さらに遡って賛美歌や民謡にまで、まっすぐ繋がっていることがわかってくる。信時潔の音楽は、同じく賛美歌から出発した山田耕筰流の、マニエリスムとも言えそうなレトリックとは対極にあって、朴訥な農民のように邪気がなく率直である。「海ゆかば」や「海道東征」のメロディーやハーモニーからは、「会衆による祈りの歌」とでもいうような穏やかなこころが聴こえてくる。玉砕を強いるような暴虐な思想は、ここにはない。
音楽に染みついてしまった血を、きれいさっぱりと洗い落とすことができたら、どんなに良いだろう!

2006年5月25日 (木)

戦争と交響曲 1940年を軸に

現代芸術論第6回

1940(昭和15年)、歴史的根拠のない「皇紀2600年」のために、多くの音楽家が動員された。中でも最大のトピックは、各国の5人の作曲家が「皇紀2600年を奉祝するための作品」の作曲要請に応じたことである。リヒャルト・シュトラウス、ピツェッティ、イベール、ヴェレシュ、そしてブリテン。ドイツ、イタリア、フランス、ハンガリー、イギリスの代表として、彼らの作品は国際親善と国威高揚のシンボルとなった。あるいは、なるはずだった。

リヒャルト・シュトラウス「皇紀2600年奉祝音楽」は、5つの部分からなる交響詩仕立て。元々はそれぞれの部分に標題があり、「海の風景」「桜の祭り」「火山の噴火」「侍の攻撃」「天皇賛歌」というものだったという。この音楽には、リヒャルト・シュトラウスの様々な名高い交響詩のようなキレはなく、たしかにリヒャルト・シュトラウスの音楽的な特徴は聴き取れるけれども、深みのある作品とは到底思われない。最終部分など、「1812年」も裸足で逃げ出す滑稽なほどのクライマックス。しかし、だからと言っても、リヒャルト・シュトラウスにはニッポン国の馬鹿げたマツリゴトを戯画化する意図はなかっただろう。

ブリテン「鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)」は、皇紀2600年奉祝音楽会では演奏されなかった。おめでたい祝典にレクイエムとは何ごとだというわけである。演奏が易しくないことも、初演が見送られた一因かも知れない。第2楽章は「ディエス・イレ」と記されているが、おなじみの「怒りの日」のグレゴリオ聖歌の旋律は聴き取れない。けれども、機関銃が連射されるような激しく攻撃的な曲想で魔神が跳梁跋扈する、これはまぎれもなく「死の舞踏」である。そして第3楽章は「レクイエム・エテルナム」。このようなキリスト教的昇華が「皇紀2600年奉祝」にそぐわないと指摘した関係者がいたのだろうか。

諸井三郎「交響曲第3番作品25」は、1943年から44年(昭和18年~19年)にかけて作曲された。第1楽章「静かなる序曲~精神の誕生とその発展」は、この部分だけで15分、この楽章だけでも、完結した内容を持った大交響曲の風格がある。第2楽章「諧謔について」は、ショスタコヴィッチを思わせるグロテスクに歪められたスケルツォ。最後から15秒ほど前、トランペットが突然悲鳴のような叫び声を上げ、小太鼓が応える。これが軍隊ラッパの狂気の象徴でなくて何であろう。第3楽章のタイトルは「死についての諸観念」。ここでいう「死」は自然死を意味するものではないはずだ。強いられた死、志願した死、理不尽に身近に迫る死。おそらくは「様々の不自然な死についての様々な観念」だ。死を賛美するのではなく、またいたずらに怯えたり悲嘆にくれたりするのでもなく、真正面に見据えて想念する厳粛な音楽。諸井三郎は、この曲を遺書のつもりで書いたのだろう。演奏時間33分を要する全曲の、どこを取っても緩みのない、大変に思いつめた音楽である。だが、思いつめてはいるが、決して戦争賛美的、大政翼賛的ではなく、また同時に反戦・厭戦的でもない。具体的に知らされなかったとしても、戦局の厳しさは感じられていただろう。悲壮な覚悟が号令され、国全体が冷静さを失っていたであろう時代に、これほどまでに思索的な作品が作られていたということをぜひ知っておいてほしいと思い、あえて全曲を聴いてもらった。

ブリテンと諸井三郎のこれらの交響曲は、直接的に戦争を描いた交響曲ではない。だが、その誕生が戦時という時局と無縁だったとはとても思えない。ブリテンは肉親へのレクイエムのかたちを、諸井は一般的概念としての「死」への想念の姿をとりながら、戦争という現実を抽象化して、交響曲という彫塑の中に刻みこんだ。どれほど現実が醜く戦争が悲惨でも、刻み込まれた音楽は美しい。そして、この美しさに伴うやりきれなさは、人間という哀れな存在への愛惜なのかも知れない。

2006年5月18日 (木)

1936年~1938年の管弦楽曲

現代芸術論第5回

ナクソスレーベルから日本作曲家選輯なるシリーズが次々と発売されて、日本人作曲家の、特に戦前の作品に俄然光があたるようになった。定価1,000円のこのシリーズは、発売されるたびに大手CD店のクラシック部門売り上げ上位となり、日本人作曲家に多少とも興味がある人たち、それも結構若い人たちの間で話題を呼んでいるようだ。毎回、片山杜秀さんの詳細極まる解説がついていて大変有り難いのだが、そのためにブックレットはぶ厚くなり、活字は細かくなり、老眼が進みつつある眼を悩ます。

カンタータ「人間をかえせ」などで知られる作曲家大木正夫に、「日本狂詩曲」(1938)なる作品があることを知ったのは、ごく最近のことである。交響曲第5番「ヒロシマ」(1953)を収録したナクソスCDの余白に収められたかたちの「日本狂詩曲」は、異様ともいえるほどの活気を帯びて、同名の題を持つ伊福部昭のデビュー作(1935)と対照をなす。福島県の盆踊り唄と「木曾節」が素材となっているとのことだが、元唄から連想できるようなそんなのどかさはどこにもない。まるで狂乱のカーニバル、ということはつまり「狂詩曲」本来の意味を踏まえているというわけか。

深井史郎「パロディ的な四楽章」(1936)は、日本的な素材とはおよそ無縁で、その無縁ぶりが興味深い。そして各楽章には、パロディの元になったとされる作曲家の名前がつけられていて、作曲者はご丁寧にそれぞれの作曲家に宛てた手紙のような文体でプログラムノートさえ残している。しかし、聴き手がそれに振り回されるのは、どうも考えものであるようだ。第1楽章は「ファリャ」と記され、確かに「スペインの庭の夜」を思わせる響きはする。けれども、だからこれはファリャのパロディであると言い切ってみても、この曲に近づいたことにはならない。第4楽章「ルーセル」などは、初期稿では「バルトーク」だったのだ。作曲者は、謎解きをするようなふりをして、実はさらなる謎を積み上げてほくそ笑んでいるかのようだ。であるならば、こちらもその謎解きは斜に眺めて、音楽そのものを楽しませてもらうのが良かろう。
昭和11年。この曲が書かれたのは、若い人たちにとってはもちろんのこと、私にとってさえ時代劇のように古いむかしだ。だが、そんな時代に、これほどにもモダンで洒落た作品が書かれていたことに驚嘆してしまう。

驚嘆といえば、大澤壽人という、今ではほとんどその存在を忘れられている作曲家が、「ピアノ協奏曲第3番変イ長調」というタイトルの作品を戦前に書いていることを知ったときも、かなり驚いた。交響曲は、日本でも山田耕筰以来少しずつ書かれていたが、協奏曲、しかもピアノ協奏曲を昭和13年までに3曲も書いていたという作曲家は、他に思いつかないのだ。そして、当時の日本人作曲家の作品には標題音楽的な題名が多い中、この堂々たるネーミングである。オーケストラ・ニッポニカと野平一郎さんによる「おそらく初演以来65年ぶりの蘇演」の録音を聴いて、またぶっ飛んだ。3楽章から成り演奏時間は約25分、曲の構成、独奏とオーケストラとの関係、オーケストレーション、そして曲想から湧きあがるファンタジーなど、どれを取っても見事なコンチェルトで、こんな怪物のような作品を生んだ作曲家の存在が長い間忘れられていたことに、時が過ぎゆくことの酷薄さを思い知らされるのだ(大澤壽人を、昭和のファンタジスタと呼ぼうか)。どこかジャズ的な雰囲気が漂うこともありながら、やはり全体を振り返れば剛速球の直球勝負。さらに、この作品には、「糠味噌臭い」ようなところが微塵もない。作曲者の名前を伏せて聴けば、誰も日本人作曲家の作品だとは思わないだろう。近代フランスあたりの作曲家かしらと思うだろうか。あるいは、プロコフィエフにもう1曲ピアノ協奏曲があったのかと思われるだろうか。

これらの3曲からは、上気して火照っているかのような熱気、熱風が共通して感じられる。それは単なる偶然だろうか。「皇道派青年将校が挙兵、閣僚らを殺害(すなわち2.26事件)」「蘆溝橋で日中軍が衝突」「日本軍が南京で大虐殺事件を起こす」「国境紛争が起こり、日ソ軍衝突」・・・1936年~1938年の年表を見ていると、こんなきな臭い事項が列挙されているのがわかる。音楽作品から感じる熱気と歴史的事件とを安易に結びつけることは慎まなければならない。だが、音楽の沸騰ぶりと政情の急傾斜ぶりが完全に無関係であるのかどうかもまた、わからない。

2006年5月11日 (木)

1930年代の器楽曲

現代芸術論第4回

たまたま音源が手元にあった3曲のヴァイオリンとピアノのための作品は、昭和6年から12年までの間に作られている。この3曲は、いずれもジャポニスムを強く意識している作品だが、そのアプローチの仕方はだいぶ違っている。

橋本國彦「侍女の舞」(舞踊劇「吉田御殿」より、昭和6年)は、舞踊劇の中の音楽ということもあるだろうが、まさに絵に描いたようなジャポニスムぶり。だが、よく聴いているとかなりモダンな和音によって彩られているのがわかる。日本情緒纏綿たる旋律はいわば食材であって、シェフたる作曲者は自在にそれを料理し操っていく。つまり、彼はこの音楽に主情的にのめりこんではいない。ラヴェルがそうであるように、旋律や和音や音色の意匠工夫が腕のふるいどころという橋本國彦の職人意識がうかがわれる。

それに対して、貴志康一「月/花見」(昭和9年?)は、濃厚なジャポニスムを吐きだしながらも、ドイツロマン派的なパッセージが突然姿を現したりする。若くしてドイツに渡り、カール・フレッシュにヴァイオリンを、フルトヴェングラーに指揮を、ヒンデミットに作曲を学び、ベルリンフィルを指揮した最初の日本人となった貴志康一にとっては、母国の音楽情緒とともに、ドイツ・ロマン派の、たとえばブルッフあたりのヴァイオリン作品に対しても強烈な憧れがあったに違いない。ジャポニスムとドイツ的ロマンティシズムがどちらの色も濃いままにないまぜになったこれらの作品はいささか奇妙な風情だが、実はそれは作曲家としてのアイデンティティーをひたむきに求めようとしたための軋みのようにも思える。

箕作秋吉「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」(昭和10年)は、たいそう落ち着いた大人の音楽で、第1楽章冒頭のピアノは明らかに筝の音色を模しているが、日本的な素材は咀嚼されており、いわゆるジャポニスムという呼称は似つかわしくないだろう。派手な音楽ではないが、名品として記憶されて良いものだと思う。

江文也については、まだ知られていないことがたくさんある。台湾に生まれ、日本に「内地」留学し、「日本の」作曲家として活動。昭和13年頃からは、日本と大陸中国とを行き来しながら、北京や上海の文化・芸術に自らのアイデンティティーを見いだす。だが一方、国策映画の音楽なども書いたために、戦後は北京で投獄されていた時期もあったという。その後復活するも、文化大革命では「ブルジョア的」の烙印を押されて下放。亡くなる数年前に「名誉回復」されたというのがせめてもの救いだが、まさに運命に翻弄されたこの作曲家の作品は、現在はほとんど演奏されていない。ジューイン・ソンの演奏によるCD「日本時代のピアノ作品集」におさめられている「三舞曲」(昭和10年)など、もっと普通に演奏されてしかるべき作品のように思う。

最後は、尾崎宗吉の「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番」(昭和14年)。緩・急の2つの楽章からなり、演奏時間は11分ほどだが、このような2楽章構成でヴァイオリンソナタを書く場合の模範とでも言えそうな安定感のある堂々とした作品である。師である諸井三郎仕込みの絶対音楽を、彼も目指していたのだろうか。尾崎宗吉は、このソナタを完成直後出征し、昭和20年に中国大陸で戦病死する。尾崎が戦後も生き永らえて作品を書き続けていたら、おそらくその後の作曲界に大きな影響を及ぼしただろう。

それにしても、江文也も尾崎宗吉も、そして貴志康一も、これらはみな24~25歳の時の作品なのである。何と早熟、何と大人だったことだろう!

2006年4月27日 (木)

作曲家の栄光と悲惨~橋本國彦の音楽

現代芸術論第3回

学生くんたちのほとんどが、瀧廉太郎や山田耕筰は知っていても、橋本國彦の名や作品を知らない。そんな彼らに、橋本作品のいくつかを聴いてもらうことができただけで、この授業は意義があっただろう。
古典舞曲<サラバンドの面影>の端正なたたずまい、歌曲「お菓子と娘」の清楚でおしゃれな美しさ、歌曲「薊の花」に聴こえる日本音階と西洋近代和声の融合・・・大正から昭和初期にかけてのこの国に、こんな音楽作品が生まれていたのは何と素敵なことか!だが、橋本國彦の才能はそこに留まるものではなかった。「班猫」「舞」と続く歌曲では、山田耕筰の流儀とはまったく違う作曲術でドビュッシー流の朗唱やシュプレッヒシュティンメが実験され、海外の最新の音楽的思潮が彼のすぐ隣にあったことが示される。かと思うと、新民謡「富士山見たら」やノーエ節のリミックスである「旅役者」からは、いささか浮薄にも見える曲想の中から一味効かせた伴奏が聴こえてくる。そして、彼の作品に見られるジャポニズムは、内側から滲み出たものというより、外側からの憧れ、エキゾチシズムとしてのジャポニズムに近いものであるように思える。
彼の音楽的才能は、求めに応じてところ厭わず振りまかれた。前衛的な手法を用いた純音楽から歌謡曲、CMソングやラジオ体操の音楽まで彼は作曲した。そしてまた、東京音楽学校の教官として戦争に巻き込まれていく。戦意高揚を目的とした音楽活動にまで、彼の才能は消費されることになる。

昭和15年に書かれた交響曲第1番ニ調は、皇紀2600年奉祝曲であるという出自に惑わされることなく評価されるべきだろう。マーラーのように、それまでとはまったく違う曲調が突然カットインされたりする第1楽章、琉球音階による主題がボレロ風に積み重ねられていく第2楽章、そして第3楽章は唱歌「紀元節」(伊沢修二作曲)を主題とする8つの変奏とフーガだが、彼はどの楽想をも、交響曲を構築するひとつひとつの素材として冷静な視点で扱っていく。主題は自在に変形される、たまたま主題が「紀元節」という曲だっただけのハナシ・・・作曲者には主題を変形し展開させていくのが面白くて仕方がない。フーガまでくると、こんな主題だが料理の仕方によってはこんな音楽が作れるんだぞと言わんばかりの腕の振るいようである。あくまでも作曲家の目は、この主題をどう展開させると音楽的に豊かな楽章が出来あがるか、その一点にしか感心がないように思える。皇紀2600年におもねって筆をすべらせている感じがほとんどしないのだ。

橋本には、戦時中の活動の責任を負う必要があったのだろうか。確かに多くの戦時歌謡を作っている。しかし、それは橋本ひとりのことではない。音楽家を束ねる役割を果たし、軍服を着て日本刀を下げて歩いたという山田耕筰に対して、戦争責任を追求する声が沸き起こっていた。しかし、その論争はほどなく霧散する。結局、山田はその後も音楽活動を続け、橋本は公職を辞した。戦後の橋本に残された時間は、ほとんどなかった。遺作「アカシアの花」は通俗的な歌曲だが、美しい旋律の上に漂う寂寥感は晩年の心境を映し出しているようだ。いや、そう感じるのは、思い込みが過ぎるだろうか。晩年といっても、没年44歳なのだが・・・。

2006年4月20日 (木)

山田耕筰

現代芸術論の第2回「山田耕筰再考」

史実に「たら」「れば」を問うことの愚かさを承知の上で、やはりこの作曲家、日本における西洋音楽受容と啓蒙、そして創作の道を拓いた山田耕筰の年譜を見ていると、どうしても様々な「もしも・・・」を考えてしまう。

1912(明治45)年、ベルリン留学中に作曲した「序曲ニ長調」、そして同年引き続き書かれた交響曲「かちどきと平和」は、それぞれ日本人が最初に作曲した管弦楽曲、交響曲となった。ドイツ古典派、もしくは前期ロマン派をお手本に書かれたこれらの作品は、青春の大作にふさわしい輝きとみずみずしさを持っている。そして、これは誰もが言うことだろうが、翌年の交響詩「暗い扉」「曼陀羅の華」は、様相がすっかり違っている。この曲で思い浮かぶのはベートーヴェンやシューベルトではなく、リヒャルト・シュトラウスなど後期ロマン派のスタイルだ。彼は1年間の間に、まるで100年を駆け抜けたような様式上の変化を遂げた。そしてそれは、単に彼にとってのアイドルが入れ替わったというだけではない。この疾走を経て、彼は作曲家としての個性を獲得したのだった。

一時帰国のつもりが、第一次大戦勃発のためドイツに戻ることができなくなる。もしも、ドイツに戻ることができたら、ドイツで作曲活動を続けることができたら、彼はどんな作曲家になっていただろうか・・・。おそらく、第二の、あるいは第三の交響曲が生まれただろう。もっと大規模な交響詩が何曲も構想されただろう。北原白秋をはじめとする様々な詩人とのたくさんの歌曲は生まれなかったかも知れないが、国際的に活躍する最初の日本人作曲家になったことは、間違いないように思う。帰国後の山田耕筰が作曲した管弦楽曲の多くは国粋主義的標題を持つもので、現代では顧みられる余地がない。美しい歌曲を次々と作曲しながらも、彼は戦争に向かってエスカレートしていく政局に歩調を合わせ過ぎてしまった。無論ドイツに留まったとしても、ナチスの台頭にもっともっとファナティックに反応したかも知れない。それとも、彼のナチスに対する傾倒は、留学によって国の事情を熟知していたドイツへの恋心ゆえか。もしもドイツに留まり続けていたら、全体主義に対して彼はどのような態度を取っただろうか。

道の開拓者として、山田耕筰がああしたからこうなった・・・ということが、先駆者に責任をなすりつけるようだが、現代の音楽界にも多くある。日本歌曲というジャンル、グランドオペラを志向するオペラ界、そして、戦争中音楽家の元締めとして果たした彼の立場も、先駆者ゆえの毀誉褒貶にまみれている。たくさんの名作歌曲を、これらの文脈と完全に切り離しては考え難いところに、山田耕筰理解の複雑さがある。

2006年4月13日 (木)

瀧 廉太郎

今日から始まった「現代芸術論A」の授業では、日本の作曲家による作品を扱うことにしている。第1回は瀧廉太郎。

「荒城の月」について。
あまり知られていないことかも知れないが、瀧廉太郎が遺した楽譜と、現在一般に普及し歌われている楽譜とでは、いくつかの点が大きく異なっている。実は、現在一般に普及し歌われている楽譜は、山田耕筰編曲によるものなのである。

相違点の一つ目は、どちらも4分の4拍子だが、瀧廉太郎が書いたオリジナルの基本単位が8分音符であるのに対して、山田版は4分音符であること。従って、8小節で収まっていた1コーラスが、16小節になる。二つ目は、調性。オリジナルのロ短調に対して、山田版はニ短調。三つ目は速度・曲想標語。オリジナルは「アンダンテ」と記されているだけだが、山田版では「レント・ドロローソ・エ・カンタービレ」(悲しげに歌うように)である。その結果、山田版の方が荘重で、情緒を強調した音楽になる。

しかし、最も注目すべきは、オリジナルでは、「春高楼の花の宴」・・・「花の宴」の「え」の音にシャープがついており、「の」と「え」が半音であることだろう。山田は、このシャープをはずして全音とした。

私は大学の作曲教師として、学生たちに和声学という音楽理論を教え、作曲のアドバイスをするなどして糊口を凌いでいる。考えてみれば、23歳と10ヶ月でこの世を去った瀧廉太郎の時間は、私の学生たちとほぼ同じ年代で止まっていることになる。だから、数々の美しい曲を作曲した瀧廉太郎が、学生時代にどんな勉強をしていたのか、とても興味が湧く。

有名な「花」は、組曲「四季」の第1曲として作曲された。「花」のあとに、「納涼」「月」「雪」という歌が続く。この連作をはじめとして遺された作品を見る限り、彼は和声学の知識や技術について、少なくとも基本的な部分については、ほぼ完璧にマスターしていたと言って差し支えない。「花」などでも、ドッペルドミナントと呼ばれる和音やその変化形としての減七の和音の使い方はまったく的確だ。的確であると同時に、結構好んでいたのではないかと思われるふしがある。

山田は、「荒城の月」の「編曲」について次のように書いている。

「・・・ただ原作には何か西洋臭をぬけきらぬ点があまりにも際立って見えるので先輩に対して非礼とは思いましたが旋律に一ヶ所筆を加えました。」

シャープがはずされることによって、「花の宴」の和音進行はⅠ-Ⅳ-Ⅰとなった。しかし、もしシャープがあったら、Ⅰ-ドッペルドミナント-Ⅴとなるだろう。これは、ある意味とても西洋音楽的な和音進行だ。なぜならそれは、一時的にせよ「転調」を暗示する和声進行だから。
瀧廉太郎は、「え」をシャープにして、この旋律が西洋音楽のイディオムと同化することを願った、しかし、山田はそのバタ臭さを嫌ってシャープをはずし、日本的情緒の徹底を図った・・・と言えないだろうか。

生前出版された組曲「四季」の楽譜の巻頭には、次のような内容が書かれている。引用は大意。

「近来音楽は著しい進歩発達を遂げたが、多くは音楽の普及伝播を目的とする学校唱歌であって、それより程度の高いものはとても少ない。やや高尚なものがあっても、西洋歌曲に日本語の歌詞をあてはめたもので、原曲の妙味を損なっている。このことをいつも遺憾に思っているので、私たち日本人の手による歌詞に基づいて(オリジナルに)作曲をしたもののいくつかを発表しようと思う。」

「この任にあたるのは私の力では十分ではないが・・・」という控えめな但し書き付きながら、この序文は、私には瀧廉太郎の「作曲家宣言」と読める。文学では言文一致が始まったばかりの時代だ。そして、西洋音楽を勉強しているのもごく限られた人たちでしかない。そんな時代にあって、彼は、自分が音楽家として何をなすべきかわかっていた。私たちに遺された「花」という美しい歌、これこそはこの国のかけがえのない宝物だ。
21歳の青年が、熱い思いを込めたこの気高い「作曲家宣言」に、私は限りのない敬意を捧げる。だが、それと同時に、この「宣言」をまっとうできなかった瀧廉太郎の悲痛な運命と、彼がやり残したことの大きさについて、あらためて思いをめぐらせてしまうのだ。