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2008年4月28日 (月)

マイルス本の耐えられない(?)厚さ

現代芸術論Aという授業、今年は半期をかけて「マイルス・ディヴィス」だけを聴いてもらうというプランを立てた。以前から一度やってみたかったのだ。

おぉ、何という偏った内容!大学の授業たるもの、独断偏見を排除してもっと多角的総花的になるよう内容を精査すべきである・・・な~んて言われそうだな。

バカ言うんじゃない、な~にが、ふぁかるてぃ・でぃべろなんとかだ。少なくともジャズというフィールドを見渡そうとしたら、結局マイルスにたどり着くのだし、ジャズのみならず、フュージョンやロック、レゲエやラップ、ヒップホップサウンドに至るまで、非クラシック音楽の多様な面に接近できる可能性を、マイルスは持っているのだ。もっとも、結果的にはマイルス以外のミュージシャンに焦点を当てる時間も多いと思うけれど。

そんなわけで調べてみたら、家にはマイルスのCD、レコードが50枚くらいあることがわかった。とりわけマイルス狂いというつもりもなかったのに、いつの間にかそんなことになっていたのか・・・。でも、マイルスのディスクはブート盤などを含めると300とか400とかいう数字になるそうだから、大したことはない。

そして、授業の準備には多少本を読んだりもしなければならぬ。いや、ならぬことはないが、やはり興味深いミュージシャンなのだから、読んでみたいと思う本が多いのだ。

ところが、ここに立ちふさがる問題。マイルス本は、どうしてこんなに厚いのだろう。

新書の2冊、『マイルス・ディヴィス ジャズを超えて』(中山康樹著、講談社現代新書)の228ページ、『マイルス・デイヴィス完全入門』(中山康樹著、ベスト新書)219ページや地球音楽ライブラリー『マイルス・デイヴィス』(TOKYO FM出版)221ページは、ごく手頃なページ数だ。

マイルス語録である『マイルスに訊け』(中山康樹著、イーストプレス)167ページ、『マイルスからはじめるJAZZ入門』(後藤雅洋著、彩流社)190ページ、『定本マイルス・デイヴィス』(ジャズ批評ブックス)267ページ、恐れることはない。

『マイルス・デヴィスの芸術』(平岡正明著、毎日新聞社)397ページは、できればじっくり読んでおきたいし、『マイルス』(ビル・コール著、諸岡敏行訳、晶文社)は本文197ページに逆側から開く資料109ページがついて、しかしこの2冊とも見た目にはごく普通のハードカバーの体裁。

『マイルス・デイビス自叙伝』(マイルス・デイビス、クインシー・トロープ著、中山康樹訳、宝島社文庫)は、とても面白いし真っ先に読むべき本だが、Ⅰ、Ⅱの2冊に分かれていて、それぞれが350ページ以上ある。

ちょっとびっくりするのは、最近出た『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』(菊地成孔、大谷能生著、エスクァイア・マガジン・ジャパン)770ページ。小ぶりの版なので、本屋に並んでいると厚みが際立つ。厚いわりにはそれほど重くない(内容がではなく、目方が)のがせめてもの救い。

そして、極め付きは『マイルスを聴け』(中山康樹著)である。1992年に径書房から出た『マイルスを聴け!!』は340ページのハードカバーで瀟洒な装丁。初版を手に入れてからずっと愛読・・・というか参考にさせてもらっていた。

その後ヴァージョンアップを重ね、現行版は『マイルスを聴け!version7 』。なぜか「!」がひとつになり、双葉社文庫で975ページ!文庫で1,000ページに迫ろうかという厚さは京極夏彦と双璧。天晴れというかなんというか。

ここに挙げた以外にも、マイルス本はたくさん出版されている。その内容は入門書から伝記、研究書まで様々だ。ともすると、マイルス本が肥大する傾向があるのは、やはりマイルスの音楽にそれだけ論じるべき内容が多いということだろう。それは理解できる。しかし、新幹線移動の多い私などにとって、厚い本を何冊も持ち歩くのは、なかなか辛いものがあるのである。

2007年7月 9日 (月)

青葉山にシャンソンが流れる、夕暮れ近い五時間目

授業記録記事の更新がすっかり遅れてしまい、申し訳ないです。現在、3週間くらい遅れ中。

現代芸術論第9回(6月19日分)。テキストに、シャルル・トレネとエディット・ピアフが載っているので、まとめてシャンソン特集。

授業の最初、学生くんたちに「シャンソン知ってる?」と尋ねてみた。ある程度予想していたことだが、「枯葉」はかなりの人数が知っていると手を上げた。「愛の讃歌」で3分の2くらいに減った。「パリの屋根の下」「サン・トワ・マミー」は数人、「モン・パパ」「パリ祭」に至っては、20数人のクラスの誰も手が上がらない。

もはや年寄りの戯言にしか聞こえないかもしれないが、私が子どもの頃、これらの歌は当たり前のようにそこいらから、たぶんテレビから聞こえてきて、誰に教えられなくても知っていた。今でも現役の石井好子氏はもとより、越路吹雪、岸洋子、芦野宏、高英男といった日本のシャンソン歌手たちが、わかりやすい日本語で盛んに歌っていたからだろう。NHKの「みんなのうた」でも、取り上げられていたと思う。

さて、この日の音楽メニューに添って、少しずつコメントを付けていこう。

シャルル・トレネ
1. ドゥース・フランス[優しきフランス](シャルル・トレネ詞・曲)
2. ラ・メール(シャルル・トレネ詞・曲)
3. ブン(シャルル・トレネ詞・曲)

トレネは知らなくても「ラ・メール」は知っている。いや、「ラ・メール」というタイトルは知らなくても、大抵どこかで聴いたことがあるだろう。先ほども、テレビで車のCMに使われていた。トレネのレパートリーは明るい。人生の機微は、ここではほんの小匙一杯の苦味でしかない。「ドゥース・フランス」も、ナチ占領下で密かに歌われていたという愛国歌だが、そういうエピソードは、トレネの明るさにはあまり似合わない。だが、こういう歌手がいたこと自体が、シャンソンの草分けという功績以上に、何となくホッとさせられる。

イヴ・モンタン
◎ 枯葉(ジャック・プレヴェール詞、ジョセフ・コスマ曲)

シャンソンの定番だからと言って馬鹿にすべきではない。授業で大きなスピーカーでかけたら、耳タコのはずなのに、あらためて名歌、名唱であることがわかる。

ジョルジュ・ミントン
◎ モン・パパ(ルネ・プジョール、シャルル・ボッチエ詞、カジミール・オベルフェルド曲)
榎本健一
◎ モン・パパ(白井鐵造訳詞)

原語と邦訳との聴き比べ。これはもう、訳詞の見事さに恐れ入るばかり。原詞の意味を正確に押さえながら、メロディーに無理なく乗る日本語、それもとびきり面白い言葉を選んだ白井鐵造の仕事はすごい。「ウチのパパの大きいのは、靴下の破れ穴」など、それこそ昔から知っている訳詞だが、あらためて感服する。

ジョルジュ・ブラッサンス
1. 修道女の伝説(ヴィクトル・ユゴー詩、ジョルジュ・ブラッサンス曲)
2. ゴリラ(ジョルジュ・ブラッサンス詞・曲)
3. ポルノグラフィー思考(ジョルジュ・ブラッサンス詞・曲)

ブラッサンスは、いつからかわからないが、私の大好きな歌手になっていた。誰かが教えてくれたのかも知れない。自由を阻むものを憎み、からかい、どん底の生業をする人たちへ暖かい眼差しを向ける。その結果、しばしば反体制的な姿勢を取ることにもなるが、それは私たちが学生だった時代の空気とも合っていたのだろう。当時は、何枚ものLPレコードが販売されていたけれど、現在国内盤はベスト盤のかたちをとった3枚だけという、残念な状況である。自らギターを持って、サブ・ギターとベースを従えただけの楽器編成。その反骨さ加減も含めて吟遊詩人の伝統を引き継いでいるこの渋い男の歌は、今でも決して古びていない。

エディット・ピアフ
1. パダン・パダン(アンリ・コンテ詞、ノルベール・グランズベール曲)
2. 谷間に三つの鐘が鳴る(ジャン・ヴィヤール詞・曲)
3. 群集(エンリケ・ビセオ、ミシェル・リヴゴーシュ詞、アンヘル・カブラル曲)
4. 愛の讃歌(エディット・ピアフ詞、マルグリット・モノー曲)
5. アコーディオン弾き(ミシェル・エメール詞・曲)

芸術的歌曲と呼ぶべき名唱「谷間に三つの・・・」、映画のワンシーンのような「群集」、そして、トレネでは一匙の苦味でしかなかった人生模様は、ここに来て身を切り裂く痛みとなる。「パダン・パダン」も「愛の讃歌」も「アコーディオン弾き」も、崖っぷちに立ちながらあえかな希望を見出そうともがく姿を、残酷なまでにリアルに映し出す。歌とは、何と恐ろしいものなのだろう。

最後は、シャンソンの精神でたくさんの美しい歌曲を作曲したプーランクの即興曲第15番ハ短調。 「エディット・ピアフに捧げる」という副題が付けられた、小品ながら印象的な1曲。

シャンソンのCDを入手するのは、今では思いのほか楽ではない。それぞれの歌手のアルバムは少ししか見つけられず、ベスト盤のようなものに頼るしかない。その中では、4枚組のシャンソン・ベスト100(EMIミュージック・ジャパン TOCP-67881)は、全曲の解説・対訳が整ったとても良いものだ。

しかし、今の若い人たちにとって、シャンソンはナツメロに近いものとして映るのだろうか。現在の音楽産業での扱いもそれに近いし、シャンソンの代替となるような新しい歌のジャンルも見当たらない。

すぐれた歌の歌詞やメロディーは、人間について、社会についてのさまざまなことを教えてくれる。だが、今の若い人たちが、そのようにして歌から学ぶ機会がないとすれば、彼らは一体どうやって大人になっていくのだろう。

2007年6月18日 (月)

映像のショスタコーヴィチ

現代芸術論第8回(6月12日分

音楽記録映画「ショスタコーヴィチ」を観る。ずいぶん昔に市販されていたVHSテープで、1967年ソ連「中央科学映画」製作、A. ゲンデルシテイン監督。DVD化されている様子はないようだ。

この映像は、いわゆる「冷戦」の時代に作られた。そういった社会的背景を背負っているためだろうが、久しぶりに見直してみると、「偉大な国民的作曲家ショスタコーヴィチ」の仕事に焦点を当てたソ連の国策的映画という感は残る。

第7交響曲を作曲しているショスタコーヴィチの部屋の外では、第二次世界大戦空襲のすさまじい爆撃音がしている。戦争にひるむことなく作曲を続けたと訴えたいのだろうけれど、現実にはあり得ないシーンだ。

「ショスタコーヴィチの証言」という本が1980年に出た時には大きな話題になったし、読んでみると驚くことがいっぱいで、とても面白かったのだが、現在ではこれはほぼ偽書であるということになったらしい。しかし、内容のすべてがデタラメというわけでもないように思う。ショスタコーヴィチの交響曲が身にまとっている悲劇性は、作曲者自身の言葉を待たずとも、戦争のみならずスターリン独裁政権下の恐怖と無縁だとは言えないだろう。

ソ連共産党第一書記フルシチョフによるスターリン批判が発表されたのは1956年。この映画は、それからさらに11年が経ってから作られているわけだが、ショスタコーヴィチとスターリンとの暗闘について、映画ではほとんど何も語られない。あるいはショスタコーヴィチ本人が、口をつぐんでいたからかも知れない。しかし、第8交響曲第3楽章から第4楽章にかけての緊迫した音楽が、ショスタコーヴィチが心臓疾患で運ばれることを象徴する救急車の映像に重ねられるのは、作曲者としては苦々しい思いだったに違いない。そんな映像のために書いた音楽ではないからである。ちなみに、この映画が作られた時は、ショスタコーヴィチはまだ存命中だった。

そんなわけで、記録としてショスタコーヴィチを正しく捉えているかという点ではやや疑問が残るのだが、それにも関わらずこの映像が一見に価すると思うのは、当時のソ連の最高の音楽家たちの演奏風景をも、同時に観ることができるからだ。ムラヴィンスキー、コーガン、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤ、オイストラフ・・・。そして、何よりもショスタコーヴィチ自身の姿がたくさん映っているのが大変貴重である。

近年、「ショスタコーヴィチの反抗 戦争交響曲」というDVDが発売された(ラリー・ワインスティーン監督)。ゲルギエフが音楽監修の立場で、ロッテルダム・フィルを指揮するだけでなくインタビュー出演もしている。こちらは、ショスタコーヴィチとスターリンとの暗闘、ショスタコーヴィチの音楽に戦争が落とした影を描いている。当然ながら画質も音質も良い。歴史的解釈も新しいものかも知れないが、「証言」に寄り添うような内容になっているのが少し気になる。思わず目をそむけてしまう実写映像も含まれている。そして、テーマを限っているために、扱われる音楽も交響曲の第4番から第9番までが中心となっている。ソ連の巨匠たち総動員で、協奏曲や室内楽や映画音楽も聴こえてくる67年版VHSの方が、音楽的には多様だ。さらにDVDの方は、ショスタコーヴィチ自身の映像がとても少ない。

67年版VHSと90年代DVDのどちらも、隔靴掻痒の感は残る。一人の作曲家の人生がたかだか2時間の映像におさめられてたまるかということはともかくとしても、ショスタコーヴィチという作曲家が生きた時代の特殊性が、彼に独特の複雑さを背負わせているためでもあるだろう。

2007年6月11日 (月)

レクオーナとキューバの音楽

現代芸術論第7回(6月5日分

エルネスト・レクオーナ(1895~1963)は、クラシックを学んだのち、作曲家、ピアニスト、バンドマスターとして活躍した。クラシックとキューバ音楽とを繋ぐ仕事をしたということから、「キューバのガーシュイン」と書かれているのを読んだことがある。クラシックと民衆音楽を繋いだという点では、6月4日に訃報が伝えられた羽田健太郎さんのことを思い出す

自作自演のディスクを聴く限り、レクオーナが作曲した作品は、隙間なく音を埋めるような技巧的なものが多い。分厚いテクスチュアやオクターブ重複がメロディーを飾る。即興風に聴こえるけれど、おそらくすべての音は書き込まれているのだろう。アルベニスのピアニズムを思い出させる音のアラベスク。

スペイン組曲「アンダルーサ」は、タイトルどおりスペイン音楽の風味が濃厚で、キューバの作曲家の作品という感じは、あまりしない。その中の「アンダルーサ」という曲は、アメリカで英語の歌詞がつけられて、「そよ風と私」というタイトルのスタンダード・ナンバーになった。「マラゲーニャ」も、よく耳にする曲である。他には、この組曲ではないが、「シボネイ」もラテンのナンバーとして知られている。

「アフロ-キューバン舞曲集」は、スペイン組曲と違う素材を扱っているとはいえ、基本的な音楽のつくりは似ている。西洋音楽の技術、方法を身につけた作曲家が、西洋音楽の視点を通してまとめたアフロ-キューバン音楽である。

中村とうよう氏選曲・解説による「キューバ音楽の真実」というCDが面白い(ライスレコードより発売)。

中村氏は、キューバ音楽は「聞けば聞くほど奥深さを感じる」と、ライナーノートに書いておられるが、解説を読みながら聴いていると、いつの間にかはまりそうになっていることに気づく。スペイン風な和音進行、アフリカ風の複雑なリズムやコール&レスポンス、ジャズの楽器編成やアラビアから来た楽器までが加わる豪華な世界音楽。キューバ音楽は、レコード店のジャンル分けでは「ワールド・ミュージック」だろうが、キューバ音楽自体がすでに「ワールドミュージック」に近いクレオールなのである。

「ボレーロ」「ルンバ」「クリオージャ」「グァグァンコー」「ダンソーン」「ソン」「プレゴーン」「モントゥーノ」「グァラーチャ」など、さまざまに音楽を類別する用語を、私はまだきちんと説明できないが、どうやら「ソン」がキューバ音楽の「肝」のようなものであるらしいことはわかってきた。

昭和のムード歌謡には、ラテン音楽からの影響を受けているものが少なくない。キューバ音楽を聴いていると、「コモエスタ赤坂」「夜の銀狐」などを思い出すことがある。若い方々は、この手の曲をご存知ないだろうと思うけれど、コード進行がかなり似ているのだ。スペインからラテンを経て、影響を受けたのだろうと思われる。ただ、キューバの歌は、後半にメジャーに転調したりする場合もあって、昭和ムード歌謡とはずいぶん湿度が違う。キューバの方が音楽的には高温低湿、日本は低温高湿である。

そもそも、キューバ音楽を聴くことになったきっかけは、映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」だった。2000年の封切のとき、評判を聞いて渋谷のどこだったかこじんまりした映画館で観て以来、何度か観ている。

6月5日には、Miyakyo Fine Arts Club (M-Fac)なる集まりの立ち上げに参加したので、その第1回として、この映画を話題にした。封切の印象と大きくは変わらないが、イブラヒム・フェレールやコンパイ・セグンド、ルーベン・ゴンザレスら、出演している魅力的な音楽家たちがすでに世を去ってしまったことに、時の流れを感じる。そして、カーネギーホール公演のためにニューヨークを訪れたキューバの音楽家たちが、エンパイア・ステートビルの展望台から景色を見ているシーンでは、貿易センターのツインタワーがはっきりと映っていることにドキッとされられた。

そんなわけで、この日は午後4時半くらいから8時前まで、キューバ音楽を聴き続けていたことになるけれども、もう当分はご馳走様・・・という気分にならないのは、やはりキューバ音楽が実に多種多様だからだろう。

2007年6月 9日 (土)

デューク・エリントン

現代芸術論第6回(5月29日分

DVD「エリントン・ミュージック」Vol.1を観る。1920年代のニューヨークに始まって、コットン・クラブでの演奏風景、ハリウッド映画出演での演奏と続き、3人のスタープレイヤーたち(ジミー・ハミルトン、ジョニー・ホッジス、ベン・ウェブスター)のピックアップ、作曲家やバンドリーダー、ピアニストとしてのエリントンに焦点を当てるパートなど、演奏映像と関係者へのインタビューを中心に構成されている。丁寧に作られたDVDで、エリントン入門としても適しているだろう。

授業では、当初「ジャズ創生」の歴史を辿ろうかと思ったのだが、やめた。結局「ジャズ」は、エリントンとマイルス・ディヴィスを中心に聴けば良いと、最近は考えるようになったからだ。エリントンやマイルスを聴けば、その周囲にいたミュージシャンたちも同時に聴くことになる。もちろん、他にもたくさんの魅力的なジャズメンたちがいるけれど、それらの演奏や、まして創生の歴史なんぞは、「ジャズ」が面白くなった後からでも遅くはない。

A Duke Named Ellington というのがDVDのオリジナル・タイトル。彼の本名は、エドワード・ケネディ・”デューク”・エリントンといい、父はホワイトハウスの執事だったというから、良家の出と想像できる。「デューク」つまり公爵というのは、言わば呼び名。しかし、彼の仕事の重要性を考えると、決して大げさなものではない。

DVDを観て気づくのは、初期の、つまりコットンクラブやハリウッド時代のプレイヤーたちはともかく、ビックバンド・スタイルを確立した後の、さまざまなスター・プレイヤーたちの表情は、みな「楽隊屋」のそれではなく、実に毅然と、「芸術家然」としているということだ。エリントン自身がそうであることはいうまでもない。

彼は、バンド・マスターとして単に興行の取りまとめをしただけではなく、非常に厳しい音楽監督だった。また、自身は苦労しながらも、メンバーにはプライドに見合う額の給金を配ったという。さらには、「世の中の音楽には二つしかない。いい音楽とそうでない音楽だ。」という有名な発言は、彼にとって「ジャズ」というジャンルの枠がまったく無用なものだったことを示唆している。こうしたことが、彼のプレイヤーたちをして「芸術家然とした」表情をさせるに至ったのだろう。

余談だが、2004年にワシントンD.C.へ行った時のことを思い出した。

時間の空いた午後、私は、スミソニアン協会運営の博物館地区を、ナショナル・ギャラリー(国立絵画館)目指して一人で歩いていた。ふと道端を見ると、ポスターがある。ディジー・ガレスピーのトランペットの写真だった。途中でグニャリと曲がったトランペットだから、すぐわかる。国立アメリカ歴史博物館に展示してあるよ・・・というこのポスターに惹かれて、行ってみることにした。

国立アメリカ歴史博物館は、17世紀の新大陸入植以来のアメリカの歴史と文化を展示した巨大な博物館だ。子どもでも楽しめるように展示は工夫され、文化やスポーツ、エンターテインメントにも焦点が当てられている。

中があまりにも広いので、「文化」のフロアだけを見ることにしたが、展示品の「一点豪華主義」はなかなか愉快で、「映画『オズの魔法使い』でジュディー・ガーランド扮するドロシーが履いたルビーの靴」だの、「ベーブルースのサイン入りボール」、「モハメド・アリのグローブ」や「マイケル・ジョーダンのユニホーム」だのの「お宝」が、それぞれガラスケースの中におさまっている。たしかに、ディジー・ガレスピーの曲がったトランペットもあった。

それ以上に私の目を惹いたのは、「お宝展示」よりもう少し広いスペースを取って設けられていたエリントンとエラ・フィッツジェラルドのコーナーだった。

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エリントンのコーナーでは「ムード・インディゴ」の自筆楽譜が展示されていて嬉しくなった。複雑な譜面ではないが、きれいに見易く書かれた楽譜は、紛れもなくプロフェッショナルの手仕事だとわかる。Photo_35

エラ・フィッツジェラルドのコーナーでは、展示されていたビデオを見て、エラの歌声を聴いて、とても幸せなゆったりした時間を過ごすことができた。Photo_36

(写真はクリックすると大きく表示できます。ちなみに、多くの博物館では写真撮影は自由。また、スミソニアンの博物館、美術館は入場無料です。)

2007年6月 4日 (月)

カザルスとセゴビア

現代芸術論第5回(5月22日分まず、この日の視聴曲目を示そう。

バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007 [パブロ・カザルス(チェロ)]

バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007より 1. プレリュード

バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV1009より 3. クーラント[アンドレス・セゴビア(ギター) ]

ポンセ:ソナタ第3番(1927)[セゴビアに献呈]より カンシオン ポストリュード

タレガ:アルハンブラの思い出(1896)

ロドリーゴ:ある貴紳のための幻想曲[セゴビアに献呈](1954)より カナリオ[アンドレス・セゴビア(ギター) ]

シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70(1849)

カタロニア民謡(カザルス編曲):鳥の歌[パブロ・カザルス(チェロ) ミエチスラフ・ホルショフスキー(ピアノ) 1961年11月13日 ホワイトハウス・コンサート]

カザルスとセゴビアには、いくつかの共通点がある。二人ともスペインの人であること。カザルスは1876年生まれ、セゴビアは1893年生まれと、カザルスが17くらい年上だが、ともに世紀をまたぎ20世紀後半まで活躍したのだから、同時代人と言って差し支えない。

そして、最大の共通点はそれぞれの楽器の「巨匠」であることだが、単なる「大演奏家」というだけではないところも共通している。

ためしに、チェリストに「あなたにとってカザルスは、『偉大なお父さん』のような存在だと思いませんか」と尋ねてみよう。否定するチェリストがいるだろうか?

同じように、ギタリストに「あなたにとって、セゴビアは『偉大なお父さん』のような存在だと思いませんか」と尋ねてみたい。好きか嫌いか個人的な好みはあるかも知れないが、カザルスがチェロに、セゴビアがギターに果たした功績の大きさに対して異論を唱える人はいないだろう。ロストロポーヴィッチが凄いとか、イエペスが好きとかいうのは、その後の話になるだろう。

これが、ピアノだったらどうか。「あなたにとって『偉大な父』は誰ですか」と尋ねたなら、実に様々な答えが返ってくるに違いない。ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、リヒテル、ゼルキン・・・いやいや、グレン・グールドさと言う人もいるかも知れない(「父」という感じではないけれど)。

ヴァイオリンしかり。シゲティだ、いやティボーだクライスラーだ、いやいやハイフェッツだ、メニューイン、オイストラフ、ミルシテイン、スターン・・・。ちょっと思い起こすだけでも際限がない。

この空想は、カザルスとセゴビアの、それぞれの楽器における存在の大きさを表している。

カザルスは、それまでの奇妙な慣習を破棄して(彼以前には、練習中、右腕の腋の下に本を一冊はさんだまま弾かなければならなかったという)現代の奏法を確立したし、最もよく知られているのはバッハ無伴奏組曲を「発見」したことだ。カザルス以前には、いくつかの曲だけを弾くことはあっても、誰もこの組曲を通して弾こうとしなかったとは、現代ではむしろ想像できにくい。

セゴビアもまた、指の使い方などの工夫で美しい音色を響かせ、作曲家たちに新しいレパートリーを生もうとする霊感を与えた。それは、タレガによって確立された近代的奏法をさらに展開させるものになった。ポンセのソナタ、カステルヌオーヴォ=テデスコの「プラテーロと私」(ヒメーネスの美しい物語詩への付曲)などなど。それにセゴビア自身の編曲によるバッハの諸作品。

中でもロドリーゴ「ある貴紳のための幻想曲」は、最も優れた成果のひとつだろう。G.サンスという17世紀のギタリストがまとめたリュート曲を材料に、新古典的に構成したもので、レスピーギ「リュートのための古風なアリアと舞曲」やストラヴィンスキー「プルチネルラ」などと共通する手法である。古風な曲想が、爽やかな風に舞い上げられて空を翔る。「ある貴紳」とは、サンスとセゴビアの二人に向けられた讃であるという。

チェロもギターも古い伝統を持つ楽器だが、これらの存在価値を大きく発展させた「偉大な父」を持てたことは、何と幸せだろう。そして、「父」たちが持つ音楽に対する熱い心が、ディスクを通してさえ強く伝わってくる。これも大きな共通点だ。

今さら言うまでもないが、1961年のホワイトハウス・コンサートにおけるシューマンと「鳥の歌」は、世紀の大名演。そして、有名かと思うが、「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」は大変面白く、また素敵な本だ(アルバート・E・カーン編 吉田秀和・郷司敬吾訳 朝日新聞社 朝日選書439)。

2007年5月22日 (火)

シェーンベルクとガーシュイン

現代芸術論第4回(5月15日分

シェーンベルクと・・・と言ったらウェーベルンかベルクか、つまり「新ウィーン楽派」と続くのが普通だが、ガーシュインと続けてみるのが、この授業のひねくれているところ。

シェーンベルク「ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)」は、20世紀最大の問題作であり傑作のひとつだが、しばらくぶりに引っ張り出してみて、あらためてその感を強くした。だが、今の若い人たちはこの曲をどう聴くのだろう。

感想を聞いてみると、意外に想像を裏切るものではなくて、あの歌い方、シュプレッヒシュティンメが醸し出す雰囲気に対する不安、不気味さといったものが真っ先に出てくる。それは、私などが学生の頃に初めて聴いてびっくりしたこととほぼ同じで、つまりシェーンベルクが1912年に取ったこの表現主義的な書法が、今なお有効に鮮度を保ち続けているということの証なのだろう。

では、十二音技法はどうか。これまた久しぶりに聴き直す「ピアノ組曲 作品25」も、やはり色褪せたとは思えない。和声的進行に依存する代わり、対位法的書法で変幻自在に操られたリズムは、古典組曲を模した確信犯的構成とあいまって、この曲を活気づかせている。この後、凡百の追従作品が現われては消えていった1世紀だったが、「元祖」は強いぞ。

今こそシェーンベルクを、20世紀後半の頭の痛くなるような「現代音楽」の始祖としてではなく、文芸キャバレーの出し物のように、もっと気楽に愉快に楽しむことはできないだろうか。カフカの作品が、仲間内では爆笑しながら読まれていたように。作品24「セレナード」の冒頭楽章など、相当にぶっ飛んでいて面白いと思うのだが。

シェーンベルクが、初めて完全な十二音技法で「ピアノ組曲 作品25」を書くべく苦闘していたのは1923~25年。ちょうど同じ頃、1924年、アメリカではガーシュインが「ラプソディ・イン・ブルー」のオリジナル(ポール・ホワイトマン・オーケストラ)版を作曲していた。ピアノの「3つの前奏曲」が1926年。

ほとんど同時期に、これほど違うことがウィーンとニューヨークで起こっていたというのが面白い。当時は、まだお互いのことを知る由もない。だがこの二人の仕事は、クラシック音楽の語法、領域を大きく広げることになった。シェーンベルクは音を組織化するための新しい方法によって。同時に、対位法を磨くことで生みだされる斬新なリズムによって。ガーシュインは、こちらもリズム、だがシェーンベルクとは出自のまったく違うリズムが音楽を推進させる、その音楽的スタイルによって。同時代の音楽語法の変革者は、彼らのほかには、古代旋法を持ち込んだドビュッシーと、民衆音楽を解体、再構成したストラヴィンスキー、バルトークの名前を挙げておけば良いだろう。

本来ならば出会うはずのなかった二人の作曲家が、実際に出会うという奇跡が起こる。いや、奇跡というよりアクシデントと言うべきかも知れない。少なくともシェーンベルクにとって、二人が出会うことになった経緯は不本意なことだったのだから。

ナチスに追われた亡命ユダヤ人シェーンベルクは、カリフォルニアでガーシュインと出会う。対するロシア系ユダヤ人の移民の息子は、その頃ハリウッドの仕事をしていたのだった。

二人がテニス友だちだったことは、割合よく知られている。テニスの腕前はガーシュインの方が上手だったようだが、24歳若い分だけ当然かも知れない。だが、彼らの交友はテニスだけにとどまるものではなかった。シェーンベルクはガーシュインの音楽を認め、ガーシュインはシェーンベルクの音楽を一生懸命勉強していたという。

交友は長くは続かなかった。ガーシュインの早世によって断ち切られてしまったからだ。短い生涯の中では到底活かしきることのできなかった優れた才能について、シェーンベルクは哀惜に満ちた小論を発表している。

「多くの音楽家はジョージ・ガーシュインを芸術作曲家と見なさなかった。しかしわれわれは、彼が、芸術か否かにかかわらず作曲家つまり音楽の人間であり、芸術か否かにかかわらずあるいは深遠か浅薄かにかかわらず、音楽を通してすべてを表現したということ、そしてそれは音楽が彼の母国語だったからだということを理解しなくてはならない。(中略)・・・私は、彼が芸術家であり作曲家であることを知っている。彼は音楽の観念を表現した。そしてその観念は、表現した方法と同様、斬新であった。」(「もうひとつのラプソディ~ガーシュインの光と影」ジョーン・ペイザー著、小藤隆志訳、青土社)

シェーンベルクとガーシュインを並べて語るのは奇異に思われるかも知れない。だが、それによって、ある時代の諸相が見えてくるのもまた確かなことだと思う。

2007年5月13日 (日)

ディアギレフとロシアバレエ団 1911~12

現代芸術論第3回(5月1日分。5月8日は、健康診断のため休講)

ディアギレフ率いるロシアバレエ団[バレエ・リュス]が1911~12年に行なった公演を、パリオペラ座バレエ団が1980年に復元した映像を見る。演出、美術、振付が当時の記録をもとに復元されている興味深い映像である(使用ディスクはLDで、この作品はまだDVDにはなっていない模様)。

今回視聴したのは以下の演目。ディスクには、この他に  《結婚》(ストラヴィンスキー)が収録されている。

     《ばらの精》(1場)[1912.5.15 初演,パリ・シャトレ劇場]

音楽=カール・マリア・フォン・ウェーバー(<舞踏への勧誘>ベルリオーズ編曲)

振付=ミハイル・フォーキン

装置・衣裳オリジナルデザイン=レオン・バクスト

     《牧神の午後》(1場)[1912.5.29 初演,パリ・シャトレ劇場

音楽=クロード・ドビュッシー(<牧神の午後への前奏曲>)

振付=ワツラフ・ニジンスキー

装置・衣裳オリジナルデザイン=レオン・バクスト

     《ペトルーシュカ》(4場)[1911.6.3 初演,パリ・シャトレ劇場〕

音楽=イーゴリ・ストラヴィンスキー

振付=ミハイル・フォーキン

装置・衣裳オリジナルデザイン=アレキサンドル・ブノワ

    《ばらの精》の初演は、ニジンスキーが踊った。この伝説の天才ダンサーの妙技はさすがに復元できないが、驚くべき跳躍力を持っていたというニジンスキーをもってすれば、この演目が観衆を大いに喜ばせたであろうことは想像に難くない。娘とばらの精との二人だけが出演するバレエだが、娘はほとんど最初から最後まで眠っているから、事実上「ばらの精を見せる」出し物なのである。バクストの美術、衣裳は奇をてらっているとは言えないが、よく見るとなかなか異形である。

  《牧神の午後》は、その初演がスキャンダルになったことが伝えられている。ニジンスキーが振付し自ら踊った意欲的な実験作だが、《ばらの精》のように華やかな跳躍技による見せ場などは皆無で、そのことも観衆の不興を買ったのだろう。

モダンバレエやモダンダンスを知る私たちにとっては、もはやそれほど奇抜には思えない。むしろ、ギリシャ彫刻やレリーフが動いているような視覚効果には様式的な美しさを感じる。だが、当時としては異様な作品として受け止められたことも理解できないわけではない。(スキャンダルの要因となった終結の部分での牧神のエロティックなしぐさを見ると、田山花袋「蒲団」を思わず連想してしまう私は変だろうか?)

《ペトルーシュカ》は、 《火の鳥》や《春の祭典》と並んで、ロシア習俗をパリの観衆に面白く観せた作品で。中でも 《ペトルーシュカ》は、ロシアの謝肉祭が舞台となり、人形芝居のアイドルが主人公になので、舞台装置も抽象的ではなく、大がかりな書割り道具が使われている。( 《春の祭典》の美術プランを見ると、作品全体が抽象的な設定であるにも関わらず、これもロシア色の強い衣裳、装置だったことに、少し意外な気がしたことがある)。

異国情緒に溢れ、異国の音楽(民謡)がふんだんに聴こえてくる 《ペトルーシュカ》は、意地悪く言えば「輸出用の」ロシア習俗であっただろう。そのことにパリの観衆は喝采をした。だが、ありきたりの民謡バレエにしないで、作曲上の数々の実験が(非難を受けなくてすむやり方で)できたおかげで、ストラヴィンスキーは、20世紀最大の傑作 《春の祭典》に辿り着けたのだと思う。

ディアギレフは、作曲家ではストラヴィンスキーやドビュッシーの他にも、ラヴェル、サティ、ファリャ、レスピーギ、ミヨー、プーランク、プロコフィエフらに、画家・美術家ではピカソ、マティス、ブラック、ルオー、ローランサン、シャネルらに、すなわち当時まだ駆け出しだった気鋭の芸術家たちに、舞台実現のプランを次々と託した。ディアギレフに対する毀誉褒貶はいろいろあるにせよ、彼の才能を発掘する目の確かさは比類がない。

もしタイムマシンがあったら行ってみたい時代がいくつかある。その一つが1910年代のパリだ。

2007年4月29日 (日)

マーラーの交響曲についてのごく些細なメモ

現代芸術論第2回(4月17日分) マーラーの交響曲を聴く。

「聴く」と言っても、マーラーの交響曲はいずれも演奏時間が長いから、ひとコマの授業では完全に聴くことはできない。そこで、第1番第3楽章と第8番の第1部をCDとDVDで。

マーラーについて、語りたがる人はたくさんいる。私はマーラーの熱心な聴き手であるとは言えないから、本当はこのテーマは私の任ではない。だが、そんなことばかり言っていては授業にならない。学生の頃から少しずつは聴いていたのだから、学生くんたちに紹介するのも無駄ではないだろうと思って、久しぶりにいろいろ聴き直している。

目新しい話ではないが、マーラーの交響曲の特徴を簡単にメモしてみよう。

・聖と俗(神聖なものと世俗的なもの)が併置される。民謡、軍楽行進曲などがコラージュのように突然差し挟まれたりする。 マーラー自身がフロイトに言ったとされる言葉によれば、「崇高な悲劇性と軽薄な娯楽性の併置」。

・楽器編成に、しばしば声楽が加わる(2、3、4、8番 と「大地の歌」)。例えば、「千人の交響曲」と称される第8番は、交響曲なのか?カンタータではないのか?と考えてしまうけれど、第1部の形式や主題労作を見てみると、紛れもなく「交響曲」であることがわかる。

・楽器編成に特殊楽器が加わる(第6番のハンマー、第7番のギター、マンドリン、第8番のオルガンやバンダ[別働隊]など)。独特のオーケストレーション。室内楽的な音色から大伽藍のような響きまで、幅広い表現のために、通常オーケストラの楽器とは見なされないものが加えられる。また、「音色旋律」(ひとつの旋律をいくつもの楽器が受け渡していく)も見て取れる。

・神経質なまでのテンポやディナーミク などの詳細な指示。他の指揮者を信頼していなかったのか?そもそもこの人は、他人を信頼するということがあったのだろうか?

・演奏時間が長い。最短が第1番の約55分、次が第4番で約60分。最長の第3番は約1時間40分かかる。東北新幹線「はやて・こまち」に乗って、仙台から東京まで行ってもまだ終わらない。だが、大構築物であるためには、また聴き終えた時に何かが天から降りてきたような達成感をもたらすためには、このくらいの長さは必要だったのかも知れない。

・アイロニー。例えば第1番の第3楽章は、「昔の童話の本にあるパロディ的な絵『狩人の葬送』」に由来していて、「森の獣たちが(おどけた様子で)死んだ狩人の棺に付き添って行進していく」というような説明が初演には付いていたそうだ。しかし、そんなふうに聴こえるだろうか?聴こえないとすれば、それは作者の思い込みか?演奏が的を外しているからか?

・最も重要に思われるのは、交響曲は、いずれもマーラー自身の世界観、宇宙観を披瀝したものであること。

・ごくごく簡単に言ってしまうなら、ドミナント-トニックという古典和声進行の効能を信じて書かれている。ドビュッシーは1894年までに「牧神の午後への前奏曲」を作曲し、時代は調性構造に拠らない音楽を生み始めているけれど、少なくとも第8番までは、ドミナント(にあたる部分)が延長され緊張感が強調されて、トニックに解決することで快感を得ようとしている音楽である。

「大地の歌」や第9番などでは、よく「死への想念、畏れ」との関連が言われる。マーラーが抽象的な「死」について考えていたことは確かだろう。だが、「死」に怯えるあまり実生活に支障をきたしていたというようなことは、あり得ない。なぜだと言うならば、どれでも良いが、例えば第9番の第3楽章の後半とかのスコアを、書き写してみてください。単に左から右へ書き写すだけだって、ものすごいエネルギーが必要だとわかるだろう。「死」に怯えて震えている人が、こんなスコアを200ページにもわたって書けるわけがない。作曲という営為には、体力も精神力も必要なのだ。

マーラーを今よりは聴いていた学生の頃、この作曲家はものすごく年配の人のように思えていた。だが、ふと考えると今の私は、すでにマーラーが死んだ年齢を通し越しているのだった。

昨年出版された村井翔氏の「作曲家◎人と作品シリーズ マーラー」(音楽之友社)は、読み物としてもなかなか面白く、また参考になった。柴田南雄著「マーラー 現代音楽への道」(岩波新書)は手頃だが、今は版元で品切れとのこと。

2007年4月14日 (土)

1900年 ミラノ パリ セントルイス

昨年度に引き続き、今年度も「芸術・文化(授業の余滴)」というカテゴリーに、「現代芸術論A」のメモを書き込みます。授業をまとめるために考えたこと、言い足りなかったことなど。

今年度は、小沼純一さんが編集したユニークな20世紀音楽入門書「あたらしい教科書8 『音楽』」(プチグラパブリッシング)を教科書にして、20世紀のさまざまな音楽シーンを切りとってみたい。第1回は、「1900年 ミラノ パリ セントルイス」。

まずは、カルーソーが歌うプッチーニから。

昨今「泣ける」音楽や文学が世間を賑わしているが、19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパでも「泣ける」音楽・文学が、崩壊寸前の調性音楽の上に咲いた。プッチーニ「ラ・ボエーム」はその典型。

現代では「三大テノール」のCDが世界的なヒットになったりしたが、カルーソーは、録音技術の発達によってその演奏が世界中に伝播した最初の大スターといって良いだろう。存在感溢れる美しいテノールの歌声は、今聴いてもまったく色褪せることなく、当時厖大な枚数のレコードを売り上げたことも納得させられる。

ついでながら、「ラ・ボエーム」の二重唱を共演しているネリー・メルバの美声も忘れ難い。メルバは、オーストラリア出身のソプラノ歌手だが、その活躍ぶりは、母国の紙幣に肖像が飾られていることからも知ることができる。余談だが、「ピーチ・メルバ」というデザートは、ネリー・メルバのために作られたことからその名がついたのだそうだ。

プッチーニは、演劇として上演された「蝶々夫人」に心を動かされ、オペラの作曲に没頭した。1900年から1903年にかけてのことだ。その際、彼がどのような資料を見て「日本の音楽」についての情報を得たのか、興味深い。オペラ「蝶々夫人」の中には、「お江戸日本橋」「さくらさくら」などの旋律が、歌詞の本来の文脈とは無関係に引用され、音楽におけるジャポニスムの代表例としてもよく知られる作品となった。有名なアリア「ある晴れた日に」の直後の場面では、「宮さん宮さん」の旋律が聴こえてくる。

1900年、パリでは万国博覧会が催された。エミール・ガレのガラス工芸やアルフォンス・ミュシャのポスターや装飾などアール・ヌーヴォーで知られるこの万博は、会場の動力はすべて電力であったことや、開発されて間もない映画が公開されるなど、20世紀の生活、芸術を予告するものだった。夏目漱石も、ロンドン留学の途中立ち寄ったとされる。

反政府自由党の壮士・川上音二郎は、妻の貞奴とともに川上一座を率いて、サンフランシスコ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、そしてロンドンと興行の旅を経て、1900年パリにやってくる。一座は、「日本帝國演劇集団」としてパリ万博会場内の劇場に5ヶ月にわたって出演、ヨーロッパで公演した最初の日本人劇団となった。

驚くべきことに川上一座は、その際パリでレコード録音をしていたのである。一般には知られることなくイギリスのEMI社で眠り続けていたその録音は、1990年代になって発見されCD化された(「甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座」東芝EMI)。音二郎や貞奴その人の声は録音されていないが、彼ら一座のレパートリーや芸の一端を知ることができる。

授業を聞きに来ていたさとてぃ先生が、貴重な指摘をしてくださった。録音で聴くことのできる「オッペケペー節」は、飴売りなどのフシによく似ているそうだ。

「オッペケペー」は命がけの世相風刺ソングだが、まったく新しいフシが作られたのではなく、物売りの唄の一種の「替え歌」だったというのは、とても興味深い。一般庶民は、耳馴染んでいるフシに強烈な世相風刺の歌詞がついているのだから、面白がって喝采を送っただろう。

さて、川上一座の演目には、長唄、新内、三味線曲弾き、詩吟、歌舞伎役者の声色模写などさまざまなものが含まれる。

「ニューヨークの演劇学校で見た『笑い』の練習風景を真似てみます」という「笑いの試験」。西洋演劇の笑い方を真似る後ろには三味線の伴奏が付いて、ちゃんとひとつの「芸」にしているのが面白い。また、「才六 人肉質入裁判 白洲之場」という愉快な出し物は、見ての通りシェイクスピア「ヴェニスの商人」裁判の場面の翻案。「才六」はユダヤ人の金貸し「シャイロック」である。

そして、「こちゃ江婦志」という出し物では、「お江戸日本橋」そして「宮さん宮さん」が歌われる。プッチーニが川上一座を観たかどうかはわからない。だが、ジャポニスムが1900年代初頭のヨーロッパにおけるトレンドだったことは窺い知ることができよう。

川上一座は、アメリカで何を聴いただろうか。その頃セントルイスでは、スコット・ジョプリンが多くのラグタイムを作り始めていて、ピアノロール録音も残している。ジャズと呼ばれることになる音楽はまだ生まれていないが、黒人の音楽と西洋音楽は入り混じり、ジャズの萌芽が生まれ始めている。

川上一座も、歌や芝居を生業とした人たちである。異国の音楽にまったく興味を示さなかったとは思えない。スコット・ジョプリンそのものではないかも知れないが、彼らはアメリカのどこかでこのような音楽を耳にしたに違いないと、私は思う。

根拠のないことだが、そんなふうに考えていくと、同じ時代にいろいろな人たちが、別の場所で全然違うことをやっていながら、どこか繋がっていくように思えて楽しい。

追記:左サイドバー下の方「このブログで話題になった本」に、「あたらしい教科書8 『音楽』」を追加しておきました。