フォト

-天気予報コム-
2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

友人のページ

こんなページを見つけました。

無料ブログはココログ

2011年10月21日 (金)

新作合唱曲初演のお知らせ

仙台の合唱団・木声会による新作合唱曲初演です。


・「光」(まど・みちお詩、吉川和夫曲)
・「泣いているきみ」(谷川俊太郎詩、吉川和夫曲)。
・「手品」(永瀬清子詩、寺嶋陸也曲)


指揮・横山琢哉、ピアノ・掛田瑶子

10月30日、横浜みなとみらいホール。

11時開演のマラソン・コンサートですが、木声会の出番は16時51分の予定です。

http://www.ongakuju.com/corofesta/main2011.html

2009年6月28日 (日)

オペラ「ポポイ」

間宮芳生作曲の新作オペラ「ポポイ」初演を観る。静岡音楽館AOI。

1987年に、倉橋由美子書下ろしラジオドラマの音楽として書かれてから、間宮先生はこの作品のオペラ化構想を持ち続け、22年経ってようやく完成、上演となった。1997年に作曲されたピアノ協奏曲第4番につけられた「いまだ書かれざるオペラの情景」という副題も、この「ポポイ」を念頭に置いたものだった。大変残念なことだが、原作者・倉橋氏は2005年に逝去された。

舞台は近未来。政界を引退しながら、未だ影響力を持ち続ける元老のもとに、二人の少年テロリストが押し入り、要求が聞き入れられないと知ると、ひとりがその場で割腹自殺、もうひとりも彼の介錯をしたのち自害。ところが、割腹した少年の首は、すぐに人工心肺に繋がれ、首だけで生き続けることになる。元老は、その夜脳梗塞に倒れ、彼らの要求が何だったのか、誰にもわからない。首は元老の孫娘・舞が引き取り、ポポイと名づけて世話をすることになった・・・。

もちろんすぐに三島事件を思い起こす。高校の授業から帰って事件を知り、テレビに釘付けになったあの秋の日を。三島事件は、もちろん契機になっているのだろう。けれども、まったく違う展開を創造してしまう倉橋文学の凄さに、あらためて目を瞠る。原作は新潮文庫で出ていたが、現在は絶版。古書でしか入手できない。

さて、この原作がどんな舞台になるのだろうと興味津々で出かけたのだが、幕が開いた直後から、見事にオペラになっていることに驚いた。出演は、吉川真澄(舞)、上杉清仁(ポポイ)の他、波多野睦美、大槻孝志、河野克典の各氏。そして、寝たきりの元老役は能楽師の清水寛二。楽器は11人アンサンブルで、間宮先生自身が指揮。演出は田中泯。

カウンターテノールの上杉氏やリュートソングやバロック歌曲のエキスパート・波多野氏、能楽師の清水氏をキャスティングするあたり、凡百のオペラとは違っている。それは、この作品が持つ音楽史的、様式的風紋を引き出すための必然だった。そして、これらの人々の音楽的個性が、ほぼ出ずっぱりで大健闘の「舞」を支えた。

2時間を超える長い作品で、間宮先生の音楽書法の集大成となった。音がとても美しい。鋭い音や密集した音も、まったく濁らない。そして、休憩中に会場に置かれてあった楽譜を覗いてみたら、譜づらがシンプルなのに唖然とした。たった22段の五線紙!

そのことを後で間宮先生に書き送ったら、「一見シンプルで、しかし危険な音にあこがれ続けようではありませんか。その危険が作為でなく、湧いて出る(出た!)ものなのが一番ということでしょうが。そんな危険物のきわめつけは、多分『カルメン』でしょう。」と、お返事を頂いた。

田中泯氏の演出は、舞台を左右に、演技エリアと楽器エリアに分け、無造作に吊り下げられたザラザラした感じの布に、時折ビデオ映像が映し出される。映像は、手持ちカメラのリアルタイムの画面だったり、あらかじめ録画されたものだったりする。休憩をはさんだ後半では、演技エリアと楽器エリアの配置の左右が逆になっていたので、びっくりした。そんな面倒なことは、音楽関係者だったら決して思いつかないだろう。だが、その効果は、はっきり説明できないにしても、絶大だったと思う。

脳死が人の死であるかどうかという議論がある。では、脳さえ生きていれば、首から下はヒヤシンスの水栽培のような生命維持装置であっても生きていると言えるのか。原作の新しさに驚く。オペラでは割愛されたけれど、20年前には想像できなかった(しかし、現在では当たり前の)通信手段、例えば電子メールのようなものも予告されている。

感動した。けれど、何がその感動を呼び起こしたのか、説明するのは容易ではない。そして、とにかくこんな舞台が、一回だけの上演しか許されない文化状況というのは、「勿体ない」を通り越して、芸術家に対して犯罪的なのではないかとすら思う。それはもちろん、静岡音楽館AOIの責任ではない。

この翌日は、間宮先生の80歳のお誕生日。終演後のロビーでは、打ち上げを兼ねて、ささやかなお祝いのレセプションが開かれた。80 しかし、音楽は瑞々しいし、副指揮者を置かず、音楽練習からすべてご自分で指揮をされた先生には、年齢の区切りを祝う必要などなかったかも知れない。

2008年12月20日 (土)

秋から冬へのコンサート(2) オーケストラ・ニッポニカ

11月30日(日) オーケストラ・ニッポニカ「日本の交響作品撰集」 その3 (東京・紀尾井ホール)

「東京交響楽団の1950年代」と銘うたれ、本名徹次氏の指揮で、1953年から55年までの5作品が演奏された。

池野 成:ダンス・コンセルタンテ

入野義朗:小管弦楽のための「シンフォニエッタ」

篠原 眞:ロンド

間宮芳生:交響曲

林 光:交響曲ト調

池野作品は、演奏時間30分に迫ろうかという大作。4つの楽章に分かれているということだが、最後はは叩きまくり吼えまくることになるエネルギッシュな大音響へのいくつかの道筋を探しているかのよう。演奏会の冒頭としては、いささかハード。

入野作品は、ずいぶん前からスコアは見ていた。実際に聴くのは何年ぶりだろう。整然として潔癖な音楽。もう一度落ち着いて聴いてみたい。

篠原作品は、美しく作られた、本当に「ロンド」。形式とオーケストレーションの習作的な意味もありながら作られた作品だろうと思うが、佳品。

間宮作品は、とても不思議な「交響曲」。習作時代を終えて、独自の世界を構築しようとするごく初期の成果と位置づけられるだろう。後に、「合唱のためのコンポジション」をはじめとする様々な作品に結実する萌芽が見て取れる。同時に、西洋音楽的なものとは異なる論理で構築された「交響曲」を作曲する実験であったろう。

林作品は、初演後も演奏され、ディスクにもなっている。作曲者にとっての、当時の「アイドル」がよくわかる。それにしても、若干22歳でこの作品を纏め上げた手腕は凄い。

どの曲からも、1950年代における東京交響楽団の芸術運動の熱意が伝わってくる。その中心となった指揮者・上田仁は、私などには伝説の人だが、その仕事にはもっと敬意が表されるべきだし、そこで初演された作品の中には、通常のレパートリーとして演奏されるべきものが多く含まれていると思う。

2008年10月 6日 (月)

新作初演のお知らせ

久しぶりに、仙台で新作を初演します。

第45回 宮城県芸術祭音楽会「20世紀の風Ⅱ」

10月19日(日)14時開演 仙台市青年文化センター・コンサートホール

吉川和夫:アンティフォニーⅣ ~2本のクラリネットのための~(クラリネット=熊谷梢、鈴木奈緒)

正確には、2005年に作曲した作品の改訂初演ですが、かなり大きく書き直したので、ほとんど新しい曲を出す気分になっています。初演を覚えている方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうし。

初演の演奏をしてくれたのは、仙台の二人の音楽高校生さんたちでした。そういう人たちに演奏してもらうことを前提で作曲したのです。だからといって易しく書いたということはありませんが、若い奏者でも無理なく演奏できるようにとは考えたつもりです。今回も演奏してくれるのは、私たちの大学の卒業生さんたちです。

入場料は1,000円。チケットは私もたくさん預かっていますので、どうぞお申し付けください。

2008年10月 4日 (土)

林光 バースデーコンサート2008

作曲家の林光さんが、間もなく喜寿を迎えられ、また小学館から『林光の音楽』という書籍+CDが発刊された、お祝いのコンサート。発起人に名を連ねさせていただいていたので、今日は大学院入試だったのだけれど、免除をお願いして出席する。東京文化会館小ホール。

チケットは、夏になる前くらいに完売していたそうなので、もちろん満席。来たくても来れなかった人がずいぶんいたんじゃないのかな。

前半は室内楽作品、後半はソングなどなど、光先生ご自身がピアノを弾いたり、歌を歌ったりするコーナーもあって盛りだくさん。

その中でも、アコーディオンと4奏者のための室内協奏曲「それがわかったら」と、こんにゃく座オペラ「変身」のソング集が、とくに印象的だった。

室内協奏曲は、萩京子さん、寺嶋陸也さんと私が3人で組んでいる作曲家グループ「緋国民楽派」の演奏会で初演した作品。あぁ、すてきな曲を書いて頂いたのだなぁ・・・と、あらためて思う。

カフカを原作とする「変身」は、林作品の中でも特に作曲者の力の入ったオペラだ。それぞれの景の音楽が、「シャンソン」、「ブルース」、「ロマンス」、「子守歌」といったように、明確なスタイルを持っていて、そういう曲が積みあがってオペラを成すかたちは、少しだけベルク「ヴォツェック」を連想させる。

プログラム後半にはおなじみの曲も多いが、さまざまなスタイルを書き分ける職人技は見事だ。そして、どんなスタイルの曲でも、単に擬態を装うだけではなく、どこかに必ず「作曲・林光」という刻印が見える。どんなスタイルの場合でも、アイデンティティと無縁になったりすることがないからだろう。

小学館から発刊された『林光の音楽』は、400ページを超える書籍と20枚ものCDがセットになっている。以前に出た『武満徹全集』に継ぐもの。

詳細はこちら→ http://sgkn.jp/cdhayashi/

こんにゃく座にお願いして、割引きで購入した。題名は知っていても実際に聴いたことのない作品も多く収録されていて、楽しみだ。けれど、いつになったら落ち着いて聴けるかなぁ・・・。それに、こんな物凄い全集でなくてもいいから、いろいろな日本人作曲家の埋もれている作品を、もっと身近に聴けるようになると良いと思う。

(『林光の音楽』を、左サイドバーで、アマゾンへリンクしておきます。)

2008年9月14日 (日)

オペラ「そしてみんなうそをついた」

オペラシアターこんにゃく座公演を観る。林光さんの新作。東京・六本木、俳優座劇場。

タイトルは、原作である芥川龍之介「藪の中」の内容を象徴するもの。原作では、登場人物である「木樵り」、「旅法師」、「放免」、「媼」、「多襄丸」、「女(真砂)」、そして「金沢の武弘の霊」が、藪の中で起こった出来事を語っていくが、それらの証言は少しずつ食い違っていて、結局誰がどのようにして武弘を殺害したのか、わからないようになっている。

作曲者自身による台本は、原作では一人ずつ順番に語られる証言をバラバラにして組み合わせ、モノローグドラマを劇的構造に変換させた。その組み立てはとても面白く、ただでさえわかりにくい「事件」の核心が、もっとわからなくなった。

けれども、おそらくは「もっとわからなくなる」ことこそ、台本作者・作曲の狙いであって、ひとつの「真実」が存在するかのように見えて、実は何が「真実」かわからないという話を用いながら、「真実はひとつである」という公式など、人間の営みにおいてはそれこそ「真実」ではなく、そもそも「『真実』とは何か。どこかに必ず存在するひとつのものなのか」と問いかけてくる。もとより、武弘殺しの犯人探しはオペラ化の目的ではない。

「こちらの調査結果こそが『真実』である。」と主張し合うのは、非常によくあることだ。例えば、戦争の後始末に失敗したこの国は、今でも近隣諸国から、教科書に載っている「真実」の正当性について異議を出され、そのたびに関係がぎくしゃくする。「みんなうそをついた」かどうか、それすら不明な事象が人間社会にはあるのだということのみが、本当の「真実」なのかも知れない。

最近の林作品の音楽書法の簡潔さについては、すでに一つの様式が確立されているようにさえ見える。歌のパートに対して楽器パートは、背景ではあっても伴奏であることはほとんどない。歌パートは楽器に対して優位ではなく、それぞれの楽器も、歌パートと同価値のひとつの声部としてアンサンブルを成す。言い方を換えれば、歌パートもアンサンブルの声部のひとつに過ぎない。

楽器は、クラリネット、ヴァイオリンに太棹三味線、打楽器、ピアノが加わる。どの楽器も(ピアノですら)、声部を成す線の1本として機能させる部分が多い。それだけに時折鳴る不協和音のインパクトは強く、全体に音の数は多くないだろうと思われるが、音楽はとても雄弁だ。

演出は、座の中心的な歌役者である大石哲史さん。京都生まれである彼の出自が、歌われる詞のイントネーションも含めて、作品の地理的背景を的確に押さえることに役立っている。

原作が求める登場人物の他に、二人の「添乗員風の女」と二人の推理者(?野次馬?)が登場して、音楽を中断させ、証言に注釈を加えたり、疑問を発したりして、「真実」がますますわからなくなることに貢献する。ただ、その登場頻度が多いので、そのたびに音楽の流れも私たちの思考通路も寸断される。そして、かえって説明的になってしまう憾みも感じる。これらの付加的人物を割愛すると、作品全体の表現力がどれほど落ちてしまうものなのか、いつか音楽だけ通して聴いてみたい気がした。

それはともかく、「放免」に扮する富やんの風貌は、すごいハマり方だったなぁ。こんなに迫力ある坊主頭はなかなかないだろう。彼の主演で「薮原検校」を観てみたいものだ。

2008年8月 4日 (月)

7月のいろいろなこと(4)

7月27日(日) 東京室内歌劇場公演、間宮芳生作曲のオペラ「夜長姫と耳男」を観る。第一生命ホール。

第一部は、竹澤嘉明さんの独演で昔噺「おいぼれ神様」(詩=大岡信)。

もう何度も観ている演目だが、怪演の度合いはどんどんエスカレートしているような気がする。それは大変結構なことだが、竹澤さんをもってしても詞が全部は聴き取れない。作品の、音と言葉の関係に問題があるとは思われない。ホールが完全にコンサートホール仕様であることにも原因があるだろうけれど、一体どうしたら良いのだろう。ものすごく面白い内容なのに、客席には詞が半分くらいしか伝わっていないように思う。

第二部がオペラ「夜長姫と耳男」。坂口安吾原作、友竹正則台本で、指揮は寺嶋陸也、中村敬一の演出。

1990年に水戸芸術館で行なわれた初演を観ているが、正直言って、その時は何だかよくわからなかった。夜長姫だの長者だのが登場するとなると、何やら昔話めいて聞こえるが、原作は、壮絶なシチュエーションの上で、真の芸術が生まれることの厳しさを見つめている。しかし、そのシチュエーションのとんでもない凄まじさは、スプラッターさながら。

しかし、今回は響いてくるものが多くあった。まず、音楽が壮絶な設定と堂々と対峙して美しく、生命力が漲っている。そして、演奏は、5名の歌手も8名の器楽も、周到に準備されたアンサンブルで、強い説得力があった。初演の時は、おそらく私が勉強不足だったせいでよく理解できなかったところが、今回は最初から最後まで腑に落ちた。

前日は別キャストでの公演があったのだが、スケジュールの関係でこの日しか観ることができなかったのは残念。しかし、いつもながらのボヤキになるが、このように優れたオペラが、初演以来18年も放置されてしまう現状は、そろそろ本当に何とかならないものだろうか。

ちなみに間宮先生は、来年新作オペラを発表される予定。来年は御歳80歳になられるが、かくしゃくという言葉さえ失礼なくらいお元気。新作の題材は、首だけが生命維持装置で生き続けるという倉橋由美子の近未来小説「ポポイ」。またスプラッターかしら。

2008年7月13日 (日)

本間先生の告別式

6月21日に亡くなられた作曲家・本間雅夫先生の告別式が、仙台斎苑別館で行なわれた。音楽家仲間が実行委員会を組んでの音楽葬である。作曲家であり僧侶である片岡良和先生による伽陀、表白文から始まり、作品の演奏や弔辞が続く。

本間作品は、無調を基本とした厳しい書法によるものが多いけれど、比較的近作であるフルートとピアノによる「かなたへ」は、とても抒情的に聴こえたのが少し意外だった。作曲のお弟子さんに対して、「雰囲気で書いてはいけない。仕掛けで書きなさい。」と、常々言っておられたからだ。

また、故郷に贈った「深浦讃歌」は、調性を持った優しく穏やかな歌。このような書法では、滲み出る人柄は隠せない。

眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情で小言をおっしゃり、そんな表情のまま、こちらが崩れ落ちそうになるような駄洒落を言われた。そして、仙台圏を中心とする東北の作曲家の束ね役となって、創作活動を刺激し続けた。自ら推進役となった多くの創造と啓蒙の運動のほとんどは手弁当だっただろう。そして、若い人たちを世に送ることにも熱心だった。

指導は厳しかったが学生たちは慕っていた。先生が、仙台でいかに大きな存在だったか、会葬者が500名近かったことにも現われている。

私は、今勤めている大学で、本間先生の直接の後任者ではないが、先生が受け持っておられた授業の大半を引き継いでいる。大学の「同僚」としてご一緒したのは1年半だけだったが、その後も作曲家仲間としてお付き合いさせていただいた。

当時、先生が作られた音楽理論についてのカリキュラムは、完璧なものだった。私は、それをそのまま踏襲しようとしたけれど、何度かの大学改革によって、このカリキュラムを維持するのが困難になり、崩さざるを得なくなった。それは、今でも私にとっては痛恨事だ。

弔辞も演奏も、そして弟さんが語る先生の青年時代の話も、胸にしみるものだった。義弟であるジャズ・ピアニスト、ケイ赤城さんのために書かれた曲も、アメリカから一時帰国したケイさん自身によって演奏された。ケイさんは、日本人で唯一マイルス・ディヴィスと共演したミュージシャンである。

最後に、モーツァルト「レクイエム」の「ラクリモーザ」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が献奏された。遺影の中の先生は、モーツァルトの美しい音楽を聴きながら微笑んでおられるように思えた。

Photo 写真は、準備中の式場。この式で、私は司会を任ぜられた。大役だったが、本間先生へほんの僅かだけれどご恩返しができたかなと思う。

先生のホームページ→ http://www.masao-homma.com/ ご逝去の告知と石川浩さんによる追悼文が載っているが、作品データベースなどは、現在もそのまま。

2008年5月 3日 (土)

沖縄を歌う

寺嶋陸也さんの新作合唱曲初演があったので、聴きに行く。TOKYO CANTAT 2008 という合唱フェスティバルでのコンサート。すみだトリフォニー大ホール。

「沖縄諸島 歌の島」と銘うたれたコンサートで、5人の作曲家の6作品が、コーロ・カロスを中心とする様々な合唱団によって演奏された。

いくつかの作品が共通のテーマによって括られる多くの場合に起こり得ることだが、とりわけ「沖縄」というキーワードは、作曲者の「沖縄」の捉え方、考え方、距離などの違いが如実に明らかになるように思える。音楽的には、琉球音階が醸し出す独特の雰囲気をどう処理するかという作曲書法上の問題もある。

冒頭に初演された寺嶋作品「おもろ・遊び」は、琉球の古い神歌「おもろさうし」3首を歌詩として書かれた。「おもろさうし」に記されている詩は、もともと口承伝承の歌だが、現在では節は失われているから、詩として読むほかはない。古い琉球のことばで書かれたそれは、詩というよりはほとんどおまじないの文言のように見える。

寺嶋作品でも歌詩を追うことにはほとんど意味がない。大意だけを承知して、あとはことばの音韻、音の響きの美しさを、ゆるやかに流れていく舟の上か何かにいる心地で楽しんだ。だが、それは、聴き流すことのできる通俗的気楽さとは遠く、琉球音階を避けたことで、むしろ架空の国の架空の神への宗教歌のように聴こえる。そして、その無論特定の神に対するものではない宗教的な高揚と沈静の音楽は、最後には海に流れる風のあわいに溶けるかのごとく消えていった。演奏時間20分以上を要する真摯な力作。間宮芳生「コンポジション」シリーズの後を継ぐ存在感と内容を持っている。

高橋悠治「クリマトーガニ」(1979)からも、ある種の呪術的な響きが聴こえてくるが、こちらは琉球音階を避けず抽象化したことで、南方のさまざまな異国への、より強い繋がりを示すことになった。楽曲としての構築が排されているかのように見え、聴いていると快く開放された退屈さに満たされてくるが、実は決して構築を放棄しているのではない作法は興味深い。

信長貴富「廃墟から」は、「ヒロシマ」、「ガダルカナル島」、「オキナワを踏まえたすべての戦争犠牲者への鎮魂」という3章のうちの2と3のみが演奏されたが、おそらく全章を通して聴くべき作品なのだろうと想像する。抜粋演奏では、2章と3章との書法の違いばかりが目立って、「鎮魂」に収斂されていく過程が見えにくい。

沖縄のわらべうたや民謡を素材とする瑞慶覧尚子「花ぬ風車」組曲、林光「島こども歌」、寺嶋陸也「沖縄のスケッチ」では、作曲者の素材への距離の取り方の違いが見て取れる。林作品と寺嶋作品の方向性は似ていて、元の歌に最小限のものを付け加えることによって、創作としての独自性を最大限に膨らませようとする。瑞慶覧作品では、特に「月の美しゃ」の素材に与えたテクスチュアはこよなく美しいけれども、創作として付け加えたものがやや饒舌に過ぎる箇所もあるように思えた。

演奏会全体は、加藤直さんの構成・台本。ラジオ番組仕立ての朗読(竹下景子)が曲を繋いでいく。成瀬一裕さんによる美しい照明が、それぞれの曲や場面を集中させていたが、ことばによる繋ぎが効果的に有機的であったかどうかは、よくわからない。休憩なしで2時間10分。先週軽く腰痛を再発させている身にとって、座りっぱなしはいささか辛いものがあった。途中休憩が入ったとしても、このコンセプトは集中を切らさず持続できただろう。「休憩なし」が効果的な公演があることは十分承知しているけれど、同時に、会場にはいろいろな事情を抱えた聴衆がいることも考えてほしいと思う。

2008年3月19日 (水)

春の雨の夜、横浜の洋館で。

横浜のみなとみらい線、馬車道駅のすぐそばに、大きな洋館がある。元は銀行だったもので、現在は東京芸大大学院映像研究科となっている。

実に立派で美しい建物だが、ここで「野田暉行退任記念・作品コンサート パートⅡ」があった。過日、新奏楽堂で行なわれたパートⅠは行けなかったので、今回は出かけていく。

なぜ映像研究科で退任コンサートかというと、野田先生が副学長として、映像研究科の設置に尽力されたことから、映像研究科スタッフよりの御礼の意味が込められているのである。

そして、映像研究科を束ねる科長の藤幡正樹さんは、私とは大学の同級生。すっかり偉くなっておられるわけだが、お互い、美校、音校の数少ない友人のひとりだっただけに、昔一緒に遊んだ記憶は鮮明だ。「あれぇ!?こんなところで会えるとは~!」と、私を見つけて声をかけてくれたフジハタくんの、何ともいい感じの自然体は、学生の頃と全然変わっていない。

コンサートは、芸大の学生さん、大学院生さん中心の演奏。作曲者の指揮で女声合唱曲「湘南讃歌」が歌われたあと、ピアノ曲「オード・カプリシャス」、編曲集「日本のメロディ」より。冒頭には、野田先生と藤幡さんのプレトークがあり、休憩時間には野田先生の音楽によるアニメーション「まつりご」が上映された。密度の高い、そして演奏難度も高い作品ばかりだが、いずれも、大変に好演。決して広くはないけれど、天井が高く残響が多い、素敵な雰囲気の会場。充実した、とてもいいコンサートだった。

より以前の記事一覧