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2009年6月28日 (日)

オペラ「ポポイ」

間宮芳生作曲の新作オペラ「ポポイ」初演を観る。静岡音楽館AOI。

1987年に、倉橋由美子書下ろしラジオドラマの音楽として書かれてから、間宮先生はこの作品のオペラ化構想を持ち続け、22年経ってようやく完成、上演となった。1997年に作曲されたピアノ協奏曲第4番につけられた「いまだ書かれざるオペラの情景」という副題も、この「ポポイ」を念頭に置いたものだった。大変残念なことだが、原作者・倉橋氏は2005年に逝去された。

舞台は近未来。政界を引退しながら、未だ影響力を持ち続ける元老のもとに、二人の少年テロリストが押し入り、要求が聞き入れられないと知ると、ひとりがその場で割腹自殺、もうひとりも彼の介錯をしたのち自害。ところが、割腹した少年の首は、すぐに人工心肺に繋がれ、首だけで生き続けることになる。元老は、その夜脳梗塞に倒れ、彼らの要求が何だったのか、誰にもわからない。首は元老の孫娘・舞が引き取り、ポポイと名づけて世話をすることになった・・・。

もちろんすぐに三島事件を思い起こす。高校の授業から帰って事件を知り、テレビに釘付けになったあの秋の日を。三島事件は、もちろん契機になっているのだろう。けれども、まったく違う展開を創造してしまう倉橋文学の凄さに、あらためて目を瞠る。原作は新潮文庫で出ていたが、現在は絶版。古書でしか入手できない。

さて、この原作がどんな舞台になるのだろうと興味津々で出かけたのだが、幕が開いた直後から、見事にオペラになっていることに驚いた。出演は、吉川真澄(舞)、上杉清仁(ポポイ)の他、波多野睦美、大槻孝志、河野克典の各氏。そして、寝たきりの元老役は能楽師の清水寛二。楽器は11人アンサンブルで、間宮先生自身が指揮。演出は田中泯。

カウンターテノールの上杉氏やリュートソングやバロック歌曲のエキスパート・波多野氏、能楽師の清水氏をキャスティングするあたり、凡百のオペラとは違っている。それは、この作品が持つ音楽史的、様式的風紋を引き出すための必然だった。そして、これらの人々の音楽的個性が、ほぼ出ずっぱりで大健闘の「舞」を支えた。

2時間を超える長い作品で、間宮先生の音楽書法の集大成となった。音がとても美しい。鋭い音や密集した音も、まったく濁らない。そして、休憩中に会場に置かれてあった楽譜を覗いてみたら、譜づらがシンプルなのに唖然とした。たった22段の五線紙!

そのことを後で間宮先生に書き送ったら、「一見シンプルで、しかし危険な音にあこがれ続けようではありませんか。その危険が作為でなく、湧いて出る(出た!)ものなのが一番ということでしょうが。そんな危険物のきわめつけは、多分『カルメン』でしょう。」と、お返事を頂いた。

田中泯氏の演出は、舞台を左右に、演技エリアと楽器エリアに分け、無造作に吊り下げられたザラザラした感じの布に、時折ビデオ映像が映し出される。映像は、手持ちカメラのリアルタイムの画面だったり、あらかじめ録画されたものだったりする。休憩をはさんだ後半では、演技エリアと楽器エリアの配置の左右が逆になっていたので、びっくりした。そんな面倒なことは、音楽関係者だったら決して思いつかないだろう。だが、その効果は、はっきり説明できないにしても、絶大だったと思う。

脳死が人の死であるかどうかという議論がある。では、脳さえ生きていれば、首から下はヒヤシンスの水栽培のような生命維持装置であっても生きていると言えるのか。原作の新しさに驚く。オペラでは割愛されたけれど、20年前には想像できなかった(しかし、現在では当たり前の)通信手段、例えば電子メールのようなものも予告されている。

感動した。けれど、何がその感動を呼び起こしたのか、説明するのは容易ではない。そして、とにかくこんな舞台が、一回だけの上演しか許されない文化状況というのは、「勿体ない」を通り越して、芸術家に対して犯罪的なのではないかとすら思う。それはもちろん、静岡音楽館AOIの責任ではない。

この翌日は、間宮先生の80歳のお誕生日。終演後のロビーでは、打ち上げを兼ねて、ささやかなお祝いのレセプションが開かれた。80 しかし、音楽は瑞々しいし、副指揮者を置かず、音楽練習からすべてご自分で指揮をされた先生には、年齢の区切りを祝う必要などなかったかも知れない。

2008年12月20日 (土)

秋から冬へのコンサート(2) オーケストラ・ニッポニカ

11月30日(日) オーケストラ・ニッポニカ「日本の交響作品撰集」 その3 (東京・紀尾井ホール)

「東京交響楽団の1950年代」と銘うたれ、本名徹次氏の指揮で、1953年から55年までの5作品が演奏された。

池野 成:ダンス・コンセルタンテ

入野義朗:小管弦楽のための「シンフォニエッタ」

篠原 眞:ロンド

間宮芳生:交響曲

林 光:交響曲ト調

池野作品は、演奏時間30分に迫ろうかという大作。4つの楽章に分かれているということだが、最後はは叩きまくり吼えまくることになるエネルギッシュな大音響へのいくつかの道筋を探しているかのよう。演奏会の冒頭としては、いささかハード。

入野作品は、ずいぶん前からスコアは見ていた。実際に聴くのは何年ぶりだろう。整然として潔癖な音楽。もう一度落ち着いて聴いてみたい。

篠原作品は、美しく作られた、本当に「ロンド」。形式とオーケストレーションの習作的な意味もありながら作られた作品だろうと思うが、佳品。

間宮作品は、とても不思議な「交響曲」。習作時代を終えて、独自の世界を構築しようとするごく初期の成果と位置づけられるだろう。後に、「合唱のためのコンポジション」をはじめとする様々な作品に結実する萌芽が見て取れる。同時に、西洋音楽的なものとは異なる論理で構築された「交響曲」を作曲する実験であったろう。

林作品は、初演後も演奏され、ディスクにもなっている。作曲者にとっての、当時の「アイドル」がよくわかる。それにしても、若干22歳でこの作品を纏め上げた手腕は凄い。

どの曲からも、1950年代における東京交響楽団の芸術運動の熱意が伝わってくる。その中心となった指揮者・上田仁は、私などには伝説の人だが、その仕事にはもっと敬意が表されるべきだし、そこで初演された作品の中には、通常のレパートリーとして演奏されるべきものが多く含まれていると思う。

2008年10月 6日 (月)

新作初演のお知らせ

久しぶりに、仙台で新作を初演します。

第45回 宮城県芸術祭音楽会「20世紀の風Ⅱ」

10月19日(日)14時開演 仙台市青年文化センター・コンサートホール

吉川和夫:アンティフォニーⅣ ~2本のクラリネットのための~(クラリネット=熊谷梢、鈴木奈緒)

正確には、2005年に作曲した作品の改訂初演ですが、かなり大きく書き直したので、ほとんど新しい曲を出す気分になっています。初演を覚えている方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうし。

初演の演奏をしてくれたのは、仙台の二人の音楽高校生さんたちでした。そういう人たちに演奏してもらうことを前提で作曲したのです。だからといって易しく書いたということはありませんが、若い奏者でも無理なく演奏できるようにとは考えたつもりです。今回も演奏してくれるのは、私たちの大学の卒業生さんたちです。

入場料は1,000円。チケットは私もたくさん預かっていますので、どうぞお申し付けください。

2008年10月 4日 (土)

林光 バースデーコンサート2008

作曲家の林光さんが、間もなく喜寿を迎えられ、また小学館から『林光の音楽』という書籍+CDが発刊された、お祝いのコンサート。発起人に名を連ねさせていただいていたので、今日は大学院入試だったのだけれど、免除をお願いして出席する。東京文化会館小ホール。

チケットは、夏になる前くらいに完売していたそうなので、もちろん満席。来たくても来れなかった人がずいぶんいたんじゃないのかな。

前半は室内楽作品、後半はソングなどなど、光先生ご自身がピアノを弾いたり、歌を歌ったりするコーナーもあって盛りだくさん。

その中でも、アコーディオンと4奏者のための室内協奏曲「それがわかったら」と、こんにゃく座オペラ「変身」のソング集が、とくに印象的だった。

室内協奏曲は、萩京子さん、寺嶋陸也さんと私が3人で組んでいる作曲家グループ「緋国民楽派」の演奏会で初演した作品。あぁ、すてきな曲を書いて頂いたのだなぁ・・・と、あらためて思う。

カフカを原作とする「変身」は、林作品の中でも特に作曲者の力の入ったオペラだ。それぞれの景の音楽が、「シャンソン」、「ブルース」、「ロマンス」、「子守歌」といったように、明確なスタイルを持っていて、そういう曲が積みあがってオペラを成すかたちは、少しだけベルク「ヴォツェック」を連想させる。

プログラム後半にはおなじみの曲も多いが、さまざまなスタイルを書き分ける職人技は見事だ。そして、どんなスタイルの曲でも、単に擬態を装うだけではなく、どこかに必ず「作曲・林光」という刻印が見える。どんなスタイルの場合でも、アイデンティティと無縁になったりすることがないからだろう。

小学館から発刊された『林光の音楽』は、400ページを超える書籍と20枚ものCDがセットになっている。以前に出た『武満徹全集』に継ぐもの。

詳細はこちら→ http://sgkn.jp/cdhayashi/

こんにゃく座にお願いして、割引きで購入した。題名は知っていても実際に聴いたことのない作品も多く収録されていて、楽しみだ。けれど、いつになったら落ち着いて聴けるかなぁ・・・。それに、こんな物凄い全集でなくてもいいから、いろいろな日本人作曲家の埋もれている作品を、もっと身近に聴けるようになると良いと思う。

(『林光の音楽』を、左サイドバーで、アマゾンへリンクしておきます。)

2008年9月14日 (日)

オペラ「そしてみんなうそをついた」

オペラシアターこんにゃく座公演を観る。林光さんの新作。東京・六本木、俳優座劇場。

タイトルは、原作である芥川龍之介「藪の中」の内容を象徴するもの。原作では、登場人物である「木樵り」、「旅法師」、「放免」、「媼」、「多襄丸」、「女(真砂)」、そして「金沢の武弘の霊」が、藪の中で起こった出来事を語っていくが、それらの証言は少しずつ食い違っていて、結局誰がどのようにして武弘を殺害したのか、わからないようになっている。

作曲者自身による台本は、原作では一人ずつ順番に語られる証言をバラバラにして組み合わせ、モノローグドラマを劇的構造に変換させた。その組み立てはとても面白く、ただでさえわかりにくい「事件」の核心が、もっとわからなくなった。

けれども、おそらくは「もっとわからなくなる」ことこそ、台本作者・作曲の狙いであって、ひとつの「真実」が存在するかのように見えて、実は何が「真実」かわからないという話を用いながら、「真実はひとつである」という公式など、人間の営みにおいてはそれこそ「真実」ではなく、そもそも「『真実』とは何か。どこかに必ず存在するひとつのものなのか」と問いかけてくる。もとより、武弘殺しの犯人探しはオペラ化の目的ではない。

「こちらの調査結果こそが『真実』である。」と主張し合うのは、非常によくあることだ。例えば、戦争の後始末に失敗したこの国は、今でも近隣諸国から、教科書に載っている「真実」の正当性について異議を出され、そのたびに関係がぎくしゃくする。「みんなうそをついた」かどうか、それすら不明な事象が人間社会にはあるのだということのみが、本当の「真実」なのかも知れない。

最近の林作品の音楽書法の簡潔さについては、すでに一つの様式が確立されているようにさえ見える。歌のパートに対して楽器パートは、背景ではあっても伴奏であることはほとんどない。歌パートは楽器に対して優位ではなく、それぞれの楽器も、歌パートと同価値のひとつの声部としてアンサンブルを成す。言い方を換えれば、歌パートもアンサンブルの声部のひとつに過ぎない。

楽器は、クラリネット、ヴァイオリンに太棹三味線、打楽器、ピアノが加わる。どの楽器も(ピアノですら)、声部を成す線の1本として機能させる部分が多い。それだけに時折鳴る不協和音のインパクトは強く、全体に音の数は多くないだろうと思われるが、音楽はとても雄弁だ。

演出は、座の中心的な歌役者である大石哲史さん。京都生まれである彼の出自が、歌われる詞のイントネーションも含めて、作品の地理的背景を的確に押さえることに役立っている。

原作が求める登場人物の他に、二人の「添乗員風の女」と二人の推理者(?野次馬?)が登場して、音楽を中断させ、証言に注釈を加えたり、疑問を発したりして、「真実」がますますわからなくなることに貢献する。ただ、その登場頻度が多いので、そのたびに音楽の流れも私たちの思考通路も寸断される。そして、かえって説明的になってしまう憾みも感じる。これらの付加的人物を割愛すると、作品全体の表現力がどれほど落ちてしまうものなのか、いつか音楽だけ通して聴いてみたい気がした。

それはともかく、「放免」に扮する富やんの風貌は、すごいハマり方だったなぁ。こんなに迫力ある坊主頭はなかなかないだろう。彼の主演で「薮原検校」を観てみたいものだ。

2008年8月 4日 (月)

7月のいろいろなこと(4)

7月27日(日) 東京室内歌劇場公演、間宮芳生作曲のオペラ「夜長姫と耳男」を観る。第一生命ホール。

第一部は、竹澤嘉明さんの独演で昔噺「おいぼれ神様」(詩=大岡信)。

もう何度も観ている演目だが、怪演の度合いはどんどんエスカレートしているような気がする。それは大変結構なことだが、竹澤さんをもってしても詞が全部は聴き取れない。作品の、音と言葉の関係に問題があるとは思われない。ホールが完全にコンサートホール仕様であることにも原因があるだろうけれど、一体どうしたら良いのだろう。ものすごく面白い内容なのに、客席には詞が半分くらいしか伝わっていないように思う。

第二部がオペラ「夜長姫と耳男」。坂口安吾原作、友竹正則台本で、指揮は寺嶋陸也、中村敬一の演出。

1990年に水戸芸術館で行なわれた初演を観ているが、正直言って、その時は何だかよくわからなかった。夜長姫だの長者だのが登場するとなると、何やら昔話めいて聞こえるが、原作は、壮絶なシチュエーションの上で、真の芸術が生まれることの厳しさを見つめている。しかし、そのシチュエーションのとんでもない凄まじさは、スプラッターさながら。

しかし、今回は響いてくるものが多くあった。まず、音楽が壮絶な設定と堂々と対峙して美しく、生命力が漲っている。そして、演奏は、5名の歌手も8名の器楽も、周到に準備されたアンサンブルで、強い説得力があった。初演の時は、おそらく私が勉強不足だったせいでよく理解できなかったところが、今回は最初から最後まで腑に落ちた。

前日は別キャストでの公演があったのだが、スケジュールの関係でこの日しか観ることができなかったのは残念。しかし、いつもながらのボヤキになるが、このように優れたオペラが、初演以来18年も放置されてしまう現状は、そろそろ本当に何とかならないものだろうか。

ちなみに間宮先生は、来年新作オペラを発表される予定。来年は御歳80歳になられるが、かくしゃくという言葉さえ失礼なくらいお元気。新作の題材は、首だけが生命維持装置で生き続けるという倉橋由美子の近未来小説「ポポイ」。またスプラッターかしら。

2008年7月13日 (日)

本間先生の告別式

6月21日に亡くなられた作曲家・本間雅夫先生の告別式が、仙台斎苑別館で行なわれた。音楽家仲間が実行委員会を組んでの音楽葬である。作曲家であり僧侶である片岡良和先生による伽陀、表白文から始まり、作品の演奏や弔辞が続く。

本間作品は、無調を基本とした厳しい書法によるものが多いけれど、比較的近作であるフルートとピアノによる「かなたへ」は、とても抒情的に聴こえたのが少し意外だった。作曲のお弟子さんに対して、「雰囲気で書いてはいけない。仕掛けで書きなさい。」と、常々言っておられたからだ。

また、故郷に贈った「深浦讃歌」は、調性を持った優しく穏やかな歌。このような書法では、滲み出る人柄は隠せない。

眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情で小言をおっしゃり、そんな表情のまま、こちらが崩れ落ちそうになるような駄洒落を言われた。そして、仙台圏を中心とする東北の作曲家の束ね役となって、創作活動を刺激し続けた。自ら推進役となった多くの創造と啓蒙の運動のほとんどは手弁当だっただろう。そして、若い人たちを世に送ることにも熱心だった。

指導は厳しかったが学生たちは慕っていた。先生が、仙台でいかに大きな存在だったか、会葬者が500名近かったことにも現われている。

私は、今勤めている大学で、本間先生の直接の後任者ではないが、先生が受け持っておられた授業の大半を引き継いでいる。大学の「同僚」としてご一緒したのは1年半だけだったが、その後も作曲家仲間としてお付き合いさせていただいた。

当時、先生が作られた音楽理論についてのカリキュラムは、完璧なものだった。私は、それをそのまま踏襲しようとしたけれど、何度かの大学改革によって、このカリキュラムを維持するのが困難になり、崩さざるを得なくなった。それは、今でも私にとっては痛恨事だ。

弔辞も演奏も、そして弟さんが語る先生の青年時代の話も、胸にしみるものだった。義弟であるジャズ・ピアニスト、ケイ赤城さんのために書かれた曲も、アメリカから一時帰国したケイさん自身によって演奏された。ケイさんは、日本人で唯一マイルス・ディヴィスと共演したミュージシャンである。

最後に、モーツァルト「レクイエム」の「ラクリモーザ」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が献奏された。遺影の中の先生は、モーツァルトの美しい音楽を聴きながら微笑んでおられるように思えた。

Photo 写真は、準備中の式場。この式で、私は司会を任ぜられた。大役だったが、本間先生へほんの僅かだけれどご恩返しができたかなと思う。

先生のホームページ→ http://www.masao-homma.com/ ご逝去の告知と石川浩さんによる追悼文が載っているが、作品データベースなどは、現在もそのまま。

2008年5月 3日 (土)

沖縄を歌う

寺嶋陸也さんの新作合唱曲初演があったので、聴きに行く。TOKYO CANTAT 2008 という合唱フェスティバルでのコンサート。すみだトリフォニー大ホール。

「沖縄諸島 歌の島」と銘うたれたコンサートで、5人の作曲家の6作品が、コーロ・カロスを中心とする様々な合唱団によって演奏された。

いくつかの作品が共通のテーマによって括られる多くの場合に起こり得ることだが、とりわけ「沖縄」というキーワードは、作曲者の「沖縄」の捉え方、考え方、距離などの違いが如実に明らかになるように思える。音楽的には、琉球音階が醸し出す独特の雰囲気をどう処理するかという作曲書法上の問題もある。

冒頭に初演された寺嶋作品「おもろ・遊び」は、琉球の古い神歌「おもろさうし」3首を歌詩として書かれた。「おもろさうし」に記されている詩は、もともと口承伝承の歌だが、現在では節は失われているから、詩として読むほかはない。古い琉球のことばで書かれたそれは、詩というよりはほとんどおまじないの文言のように見える。

寺嶋作品でも歌詩を追うことにはほとんど意味がない。大意だけを承知して、あとはことばの音韻、音の響きの美しさを、ゆるやかに流れていく舟の上か何かにいる心地で楽しんだ。だが、それは、聴き流すことのできる通俗的気楽さとは遠く、琉球音階を避けたことで、むしろ架空の国の架空の神への宗教歌のように聴こえる。そして、その無論特定の神に対するものではない宗教的な高揚と沈静の音楽は、最後には海に流れる風のあわいに溶けるかのごとく消えていった。演奏時間20分以上を要する真摯な力作。間宮芳生「コンポジション」シリーズの後を継ぐ存在感と内容を持っている。

高橋悠治「クリマトーガニ」(1979)からも、ある種の呪術的な響きが聴こえてくるが、こちらは琉球音階を避けず抽象化したことで、南方のさまざまな異国への、より強い繋がりを示すことになった。楽曲としての構築が排されているかのように見え、聴いていると快く開放された退屈さに満たされてくるが、実は決して構築を放棄しているのではない作法は興味深い。

信長貴富「廃墟から」は、「ヒロシマ」、「ガダルカナル島」、「オキナワを踏まえたすべての戦争犠牲者への鎮魂」という3章のうちの2と3のみが演奏されたが、おそらく全章を通して聴くべき作品なのだろうと想像する。抜粋演奏では、2章と3章との書法の違いばかりが目立って、「鎮魂」に収斂されていく過程が見えにくい。

沖縄のわらべうたや民謡を素材とする瑞慶覧尚子「花ぬ風車」組曲、林光「島こども歌」、寺嶋陸也「沖縄のスケッチ」では、作曲者の素材への距離の取り方の違いが見て取れる。林作品と寺嶋作品の方向性は似ていて、元の歌に最小限のものを付け加えることによって、創作としての独自性を最大限に膨らませようとする。瑞慶覧作品では、特に「月の美しゃ」の素材に与えたテクスチュアはこよなく美しいけれども、創作として付け加えたものがやや饒舌に過ぎる箇所もあるように思えた。

演奏会全体は、加藤直さんの構成・台本。ラジオ番組仕立ての朗読(竹下景子)が曲を繋いでいく。成瀬一裕さんによる美しい照明が、それぞれの曲や場面を集中させていたが、ことばによる繋ぎが効果的に有機的であったかどうかは、よくわからない。休憩なしで2時間10分。先週軽く腰痛を再発させている身にとって、座りっぱなしはいささか辛いものがあった。途中休憩が入ったとしても、このコンセプトは集中を切らさず持続できただろう。「休憩なし」が効果的な公演があることは十分承知しているけれど、同時に、会場にはいろいろな事情を抱えた聴衆がいることも考えてほしいと思う。

2008年3月19日 (水)

春の雨の夜、横浜の洋館で。

横浜のみなとみらい線、馬車道駅のすぐそばに、大きな洋館がある。元は銀行だったもので、現在は東京芸大大学院映像研究科となっている。

実に立派で美しい建物だが、ここで「野田暉行退任記念・作品コンサート パートⅡ」があった。過日、新奏楽堂で行なわれたパートⅠは行けなかったので、今回は出かけていく。

なぜ映像研究科で退任コンサートかというと、野田先生が副学長として、映像研究科の設置に尽力されたことから、映像研究科スタッフよりの御礼の意味が込められているのである。

そして、映像研究科を束ねる科長の藤幡正樹さんは、私とは大学の同級生。すっかり偉くなっておられるわけだが、お互い、美校、音校の数少ない友人のひとりだっただけに、昔一緒に遊んだ記憶は鮮明だ。「あれぇ!?こんなところで会えるとは~!」と、私を見つけて声をかけてくれたフジハタくんの、何ともいい感じの自然体は、学生の頃と全然変わっていない。

コンサートは、芸大の学生さん、大学院生さん中心の演奏。作曲者の指揮で女声合唱曲「湘南讃歌」が歌われたあと、ピアノ曲「オード・カプリシャス」、編曲集「日本のメロディ」より。冒頭には、野田先生と藤幡さんのプレトークがあり、休憩時間には野田先生の音楽によるアニメーション「まつりご」が上映された。密度の高い、そして演奏難度も高い作品ばかりだが、いずれも、大変に好演。決して広くはないけれど、天井が高く残響が多い、素敵な雰囲気の会場。充実した、とてもいいコンサートだった。

2008年3月16日 (日)

旧師を囲む

受験から大学を通してお世話になった作曲家の野田暉行先生が、この3月で芸大を定年退任されるとのことで、門下生中心のお祝いの会があった。フォーシーズンズホテル椿山荘。

野田先生は、特にエクリチュールの師匠としては完璧な方で、でもこちらの能力の無さから、いくばくかのものすら受け継がせていただくことができていないなぁと思う。ただ、私が大学教師稼業で、曲がりなりにも和声学なぞを偉そうに長年にわたって担当していられるのは、まぎれもなく先生のおかげなのである。

大学院を修了されてすぐ、1967年に助手として芸大にお勤めになられてから実に40年、芸大一筋。私が、先生のレッスンに通うことを許されたのが1971年ごろのはずだから、もう35年以上も前だ。100名近い関係者がお祝いに駆けつけた会場は、意外にも若い人が多いなぁと思ったのだけれど、計算してみれば、私たちの世代は比較的初期の弟子ということになるのだから当然かも知れない。

Photo 乾杯の音頭を取られた松尾楽器の松尾治樹社長は、最初期のお弟子さんとのことだが、一番最初のお弟子さんは加古隆氏なのだそうだ。門下生の系列、私などは末席もいいところだが、私の上には、新実徳英さん、野平一郎さん、糀場富美子さん、西村朗さんらがおられ、少し下には南聡さん、安良岡章夫さん、国枝春恵さん、徳山美奈子さん、だいぶ若いところでは夏田昌和さんらが活躍している。とりわけ異色なのはウィーンでコレペティトゥアの仕事を続けている三ツ石潤司さんが一時帰国中で、ユニークなスピーチに大笑いした。

お弟子さんではないが、関わりの深いピアニスト渡邉康雄さん、規久雄さんご兄弟や、作曲の西岡龍彦さん、小鍛冶邦隆さん、佐怒賀悦子さん、山本純ノ介さん、山内雅弘さんといった方々とも、久しぶりにお会いできて楽しかった。同級だった山本泰久さんなどとは大学卒業以来ではないだろうか。

私自身は、べつに反逆したつもりもなかったが、ふと気がついたら、ありゃ「芸大アカデミズム」とはかなり離れたところに立っているぞという具合で、いささか敷居が高いのだけれど、集まってみれば単なる同窓会。先生の風貌も以前と少しもお変わりないから、和声課題で連続5度を直されたり、落とした臨時記号を大きく書かれたりしていたころから30数年経ったと言われても、何だか変な感じがするばかりなのだ。

2008年3月15日 (土)

「ボルヘスの時間」

現音の音楽展、作曲の若い友人門脇治さんの新作モノオペラの上演に出かける。東京文化会館小ホール。

登場人物は一人、「ピエロ・リュネール」と同じ楽器編成のアンサンブル、それに、あらかじめ録音された音などがかぶる。

台本は、アルゼンチンの作家ボルヘスの、だが特定の作品を題材にしたものではなく、数作品が混合されて作られたとのこと。出演:松平敬、台本:村上茂伯、演出:飯塚励生、指揮:松尾祐孝の諸氏。上演時間は30分ほど。

精緻で、高いテンションが維持されて作曲されたと思える作品。テクスチュアもよく工夫されている。もう少しメリハリがあっていいだろうけれども。そのあたり、やはりかなり真面目な作品という感じがある。

残念なのは声と楽器のバランスが最悪で、しばしば声が楽器にかき消されることだ。そのため、すべての言葉が聴き取れたとしても(おそらく)全部はわからないであろう抽象的な内容が、ますます断片的にしか伝わって来なくて、もどかしい。せめて、どのくらいわからない内容なのかくらいは、わかりたかった。

原因は、書法や唱法にもあろうが、会場と、アンサンブルのコントロールの問題が大きいように思われる。東京文化会館小ホールは、この作品の上演にふさわしい雰囲気を持っているけれども、もう少し工夫をしないと厳しいものがある。増幅された音響を伴なったりもする部分もあるので、なおさらだ。

素材はいかにも門脇さんらしいものだし、しっかりした作品を書いたなと思う。環境を変えての再演の機会が待たれる。

たまたま隣の席に座ったAOIの大坂さんはどうだったかわからないが、このあと上演された別の作曲家の約1時間かかる作品に、私はどうしても馴染むことができなかった。ただ、終演後の帰り道で、作曲家の北爪やよひさんや高嶋みどりさんにお会いできたので良しとしよう。高嶋姐さんは大学の同級生だが、実に数年(数十年?)振りの再会だった。

2007年11月10日 (土)

こどもたちへ メッセージ2007

Photo作曲家協議会主催、カワイ出版とタイアップ企画の「こどもたちへ」。

毎年、作曲家協議会の会員が子ども用のピアノ小品を書き、曲集として出版し、自作自演のコンサートを催す。もう23回目、今年は37名の作曲家が参加。あと2回くらいで、総計1,000曲になるという。

今年もお話をいただいたので、「ドミレソ」というタイトルの曲を書いた。「ドミレソ」というフレーズが、2小節(後には1小節になったりもする)ごとに繰り返される。パッサカリアとかシャコンヌとか、そんな大それたものではないけれど、そういう仕掛け。

去年は連弾で「ミミファラ」というタイトルの曲を書いた。曲の冒頭の音をそのままタイトルにしてしまうというのは、知る人ぞ知る北村大沢楽隊のやり方を真似たもの。この方法が良いのは、ヘンテコな嘘臭いタイトルを考えなくて済むことだ。子ども向けだからといって、子ども騙しのようなタイトルは付けたくない。

自作自演というのが厄介で、ピアノが上手い作曲家の方々は良いけれど、私のように、ピアノを弾くっていうだけで珍しがられるような手合いにとっては、大変ユウウツである。でも、紀尾井ホールの舞台に立ってみると、少しだけ楽しかったりもする。11月10日にあった今年の演奏会では、ちょっと間違えてしまったけれど、人にはあまりわからなかったみたい。所詮実力がないのだから、まぁこんなものだ。

Photo_3 今年出版された楽譜は2冊。私のは「その1」に入っているが、「その2」には、羽田健太郎さんの遺作が収められている。「ゆびずもう」というタイトルのその作品を、演奏会では寺嶋陸也さんが初演した。ムードに流れることなく、鍵盤上での指の遊びを展開した良い曲だ。それまでの羽田作品とずいぶん趣が異なっている感じがする。

左下のリストからも、この楽譜の情報を見ることができます。

2007年9月25日 (火)

聖玻璃の風

9月30日に、笙の演奏家・髙原聰子さんのリサイタルで、私の作品が演奏されます。篳篥独奏曲で、このリサイタルにゲストとして参加する中村仁美さんの演奏です。

笙 ミニ・コンサート

9月30日(日)14時 求道会館(東京都文京区本郷)

笙:髙原聰子、篳篥:中村仁美(ゲスト)

第一部:古典・・・演奏とお話

・平調調子

・盤渉調調子

・青海波

第二部:現代作品

・西部哲哉:天の夜曲(笙独奏)

・吉川和夫:聖玻璃の風(篳篥独奏)

・髙原宏文:笙のためのアリア(笙独奏) ほか

全自由席 3,000円

「聖玻璃の風」は、2005年にアサヒビール・ロビーコンサートのために作曲したもの。タイトルは、宮澤賢治「春と修羅」の一節によっています。

2007年8月14日 (火)

15番と17番、など。

Photo12日(日)午後、創る会の演奏会に行く。四谷区民ホール。

創る会は、会員である合唱愛好家が拠出する会費によって、作曲家に合唱作品を委嘱し、会員の手で初演する。演奏に参加する人たちは全国から集まって、演奏会のために集中練習をするそうだ。今までに、17曲の新作が発表されている。

今年の委嘱によって生まれたのは、間宮芳生「合唱のためのコンポジション第17番」。8月12日付けの記事で林光「原爆小景」について書いたけれど、「合唱のためのコンポジション」の記念すべき第1番が書かれたのも、「原爆小景」と同じ1958年なのである。

プログラムは、まずはモンテヴェルディの3曲のマドリガーレ。間宮合唱作品の出発点は、日本民謡と同時にマショーやモンテヴェルディなどルネサンス合唱作品にある。間宮先生自身「モンテヴェルディと並んで私の書いた音が鳴るのは、大きな幸福です。」と、プログラムに書いておられる。

2曲目は、合唱のためのコンポジション第15番「空がおれのゆくところについてくる」。これは、2002年に児童(女声)合唱のために書かれたものだが、今回は「おじさん、おばさんが歌ってもいいことにした」と作曲者がふざけておっしゃるように、大人の合唱によって歌われた。つい最近楽譜が出版されて、送ってくださったのを見ながら聴く。隣席には作曲者。開演前に遠くから会釈をしたら、わざわざ席を移ってこられたのだ。

15番の歌詞は、アメリカ先住民族と古代アルメニアの口承詩。児童合唱で歌われたら、キラキラ輝いて素敵だろうなぁと思う。だが、大人にとってはそれほど難しい音ではないし、長い曲でもないから、「おじさん、おばさんが歌ってもいい」のならば、コンポジション入門として最適だ。簡素な音使いでありながら、とてもコンパクトに引き締まった佳品。

さて、初演された17番は、混声合唱のための作品で、「七戸」「宇曾利」「牡鹿」の3曲からなる。テキストは3曲とも、菅江真澄が著した、今はフシが失われてしまった民謡の詞章と、旅日記の文章。世界規模の口承詩が歌われたいくつかのコンポジションとは違い、日本の東北(青森と宮城)に題材を得ていることもあってか、構成的にも音楽的にも落ち着いた作品という印象。かつて16番の初演を聴いて、私は思わずぶっ飛んだが、それとは違い、モンテヴェルディに通じる響きの美しさ、色っぽさがある。

最後のステージは、「合唱のためのエチュード」。間宮作品を歌うためのエチュードであると同時に、さまざまな歌や響きのスタイルを勉強するのに最適な演奏会用エチュードである。現在までに8曲が書かれている。いずれも長くないそれぞれの曲にはテーマが決まっていて、「風流」「リズムエチュード・唱歌」「ハーモニー」等という具合。コンポジションのスケッチを垣間見ているような楽しさ。

全ての指揮は、田中信昭先生。会費で委嘱料をまかない、会員が演奏して初演するというこのなかなか困難なプロジェクトを支え続けているのは、合唱創作への信昭先生の熱意にほかならない。ただ、演奏会としての宣伝が行き届いていないのか、夏休みのど真ん中と言え、客席が寂しいのが残念だった。

写真は、四谷区民ホールのロビーから撮ったもの。あまりにも天気が良すぎて、新宿御苑の森が真っ暗になってしまった。

2007年8月12日 (日)

夏、川のほとりで

Photo 8月9日、「林光・東混 八月のまつり」を聴くために、第一生命ホールに行く。

以前の第一生命ホールは日比谷にあり、二十数年前、私の最初のオペラが初演された会場でもあった。歴史を感じさせる建物で、どっしりと落ち着いた雰囲気が懐かしい。今は、隅田川沿いの晴海トリトンスクエアという今風なコンプレックスの中に移っている。

「八月のまつり」は、毎年、林光さんの合唱曲「原爆小景」を東京混声合唱団が演奏する催しで、今年でもう28回目になるそうだ。この時期、まだ仙台にいることも多いが、神奈川の家に戻っている時は聴きに行くようにしている。今年も指揮は、作曲者の林光さん。

原民喜の詩による「原爆小景」は、1958年に第1曲「水ヲ下サイ」が発表されて、大きな反響を起こした後、1971年に「日ノ暮レチカク」「夜」が書き継がれ、2001年「永遠(とわ)のみどリ」で完結した。「今後百年、草も生えないだろう」と言われたという焼跡の広島で書かれた「ヒロシマのデルタに 若葉うづまけ」という言葉が音楽になるのには、40年以上の歳月が必要だった。

やはりこの作品は、私たち日本人にとって「特別な作品」であると、あらためて思う。全4曲が書き継がれるのに要した40年の歳月は、林さんのその間の作曲スタイルの変化をも反映しているが、それにも関わらず、いやそれゆえに、詩と音楽とが向き合ってきた歳月の重みが伝わってくる。また演奏も、回数を重ねて十分に練られているだけに、端正にして透明。一時の感傷や安直なプロパガンダではなく、この厳しいテーマの深みに芸術的に迫る。

かねてから思っていたことだが、誰でも少なくとも一度は、広島と長崎の原爆資料館を訪ねるべきだし、丸木夫妻の絵画を見て、林光「原爆小景」を聴くべきだと思う。「誰々はこのようにすべき」というような口調は好まないが、このことだけは特別だ。

2005年に書かれ、2007年に新たな章が加わって完結した「とこしへの川」は、竹山広の短歌を詞として、ナガサキを扱う。合唱が響かせる音の帯、もしくは音の川のあわいに、ヴァイオリンとピアノが浮かび上がる。山田百子さんと寺嶋陸也さんの分をわきまえた演奏が、曲の流れを的確に引き締める。

プログラムの後半に演奏された「四つのイギリス民謡」は、岩田宏さんが自由訳で訳詞を付けたもので、1962年の編曲とのこと。私は初めて聴いた。とても素敵な編曲だ。こういう曲があまり歌われてこなかったとすれば、もったいないことだ。

最後は、中山晋平生誕120周年を記念しての「中山晋平歌曲集」で、新編曲も含めて6曲。「シャボン玉」は、詩人・野口雨情の、生まれて間もなく逝った愛娘への思いに添うように、儚く美しい編曲。「鞠と殿様」の意表を突くピアノ・パートといい、いつもながら林さんの職人技に感嘆させられる。「カチューシャの唄」と「ゴンドラの唄」は、「日本叙情歌曲集」の中で既に発表されていたものだが、このように中山晋平作品がまとめられるのは嬉しい。実は私は、結構晋平ファンなのである。

2007年3月31日 (土)

Japanese Orchestras Performances 1930s-50s

YouTube に、こんな映像があるのを発見しました。

NHKが放送した番組をアップしたのだろうと思いますが、タイトルのように1930~50年代の日本のオーケストラ演奏の映像です。オリジナルはニュース映画のようですね。

http://www.youtube.com/watch?v=ehueWt2vTbY

全部で7分半ほど。山田耕筰、ローゼンシュトック、ストラヴィンスキーなどの指揮を見ることができますが、ほんの一瞬だけれど橋本國彦の指揮姿が映ったのには驚きました。それから、若き日のヤマカズ先生こと山田一雄(当時は和男)が指揮台から落ちそうな勢いで、マーラー「千人の交響曲」を振っているのも興味深いです。

ついでに、こんなものもありました。

http://www.youtube.com/watch?v=RgWiAvP6qHU&mode=related&search=

ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲の子守歌から最後まで。アンセルメが指揮するN響。

2007年3月18日 (日)

「寺嶋陸也ピアノリサイタル」を聴く

昨日は、大学院二次募集入試の仕事を勤めてから新幹線に乗り、東京文化会館小ホールで「寺嶋陸也ピアノ・リサイタル」を聴く。

寺嶋さんの作曲、演奏両方の仕事を支える「サポーター」たちが主催する(と言って良いのかな)リサイタル。彼をよく知り、その仕事を尊敬する人たちが多く駆けつけ、たいへん盛況。ふだん自作の演奏や、室内楽などを中心に活発な演奏活動を行なっている中で、時折このような本格的なピアノリサイタルを開いてくれるのは、嬉しいことだ。

プログラムは、バッハ「パルティータ第2番」、シューマン「幻想曲」、モンポウ「内なる印象」そして林光の第3ピアノソナタ「新しい天使」。

バッハは、ロマンティックに傾いた演奏と言われるかも知れないが、ルバートやディナーミクの変化は気紛れではなく、彼の明確な演奏設計を反映するもの。その結果、すべての声部が明瞭に響きあう美しい立体造形が立ち現われることになった。私たちは、バッハだけではなく、ベートーヴェンもショパンもドビュッシーもシェーンベルクも知っている。その上で、バッハを新しくどう弾くか、どう聴くかというテーマは、曲の造形を理解すること抜きには成り立たないだろう。

シューマンの難曲は、ともすると第1楽章だけで、弾き手も聴き手もへこたれてしまいがちだが、あくまでも「3つの楽章をもって完結する壮大な叙情詩である」ことを見事に示した演奏。安手のロマンティシズムに溺れることなく、全体と細部との対照が常に行なわれ、構築的に組み上げられていったからだろう。

第3楽章のある部分で、シューマンの時代の闇とはどのようなものだったのだろうか・・・と、ふと妙なことを考えてしまった。心の闇は計り知れず、ここでいう闇とは、夜の闇、あるいは夜の室内の明るさのことである。

私たちは、私たちが日常としているこの明るさの下で、数世紀前の音楽を聴いている。本番中のコンサートホールの中は、照明が落とされているけれども、一歩ロビーに出ると、ガラスの大きな壁を通して眩しいばかりの街のネオンが目に飛び込んでくる。そして、それが普通のことであるから特段の違和感も持たない。

シューマンの時代、当然ながら、屋外の闇は私たちが暮らしの中で感じるよりも深く、それが日常だったわけだ。闇を隔てた演奏会場には、それなりの明るさが確保されていただろう。けれども、そんな日常生活の中で、この作品はどのように聴こえたのだろうか・・・。

もちろんこれは妄想だ。だがそれは、寺嶋さんの演奏がシューマン時代の闇とかけ離れていると感じたからではなくて、むしろその逆のように思えたゆえの妄想なのである。

モンポウの作品は、私は恥ずかしながらほとんど知らなかった。いつまでたっても未知の曲がたくさんあるのは当然だとしても、普段できるだけいろいろな作品を聴くようにはしているのだけれど、この歳になってまだ、今まで知らなかった名品に出会うことができるのは幸せというべきかも知れない。

モンポウの作品は、寺嶋さんの作曲家としての語り口に、もしかしたらとても似ている面があるように思う。「哀歌」「ゆりかご」「ジプシー」などのタイトルは、内容を直接に示すというよりは象徴的であり、そこで鳴る音楽は作曲者の意図するところすべてを言いきるものではない。実際に書かれ演奏される音楽は饒舌ではなく、むしろ抑制されている。それは意図の入り口にしか過ぎず、精選された音だけを提示することで奥深い世界を想像させるような在り方。これは、寺嶋さんの「ロルキアーナ」などの作品を想起させ、彼の自作曲の演奏を聴いているかのような説得力と安心感がある。

寺嶋さんが林光作品の良き解釈者であることは言うまでもない。作曲者が弾いたら、おそらくもっと淡々としたものになるだろうが、彼の解釈はこの引き締まったソナタが内包している振幅を大きく広げて見せる演奏で楽しい。

アンコールは、カタロニア民謡「鳥の歌」、宮澤賢治「星めぐりの歌」で、いずれも寺嶋自身の編曲。今回のリサイタルのプログラムには自作が組み込まれなかったので、嬉しいデザートだった。

(今月中くらいを目処に、最近特に聴いて気になっているピアニストのことをあと二人、書いておきたいと思っています。)

2007年3月15日 (木)

非国籍のパラダイム~安部幸明の交響的作品

安部幸明氏は、数年前まで演奏会場で何度かお見かけしたことがあるが、昨年暮れ、95歳で亡くなられた。

日本で最長老の作曲家として名の知られた方ではあったが、実際に作品に触れる機会はほとんどなかった。弦楽四重奏曲を15番まで書いておられるとのことだが、第何番だかがいい曲らしいよなどと誰かが言うのを聞いても、ショスタコーヴィッチ並みに録音でもされていればともかく、演奏される機会は少ないし出版もされていないのだから、その作品はほとんど伝説のように感じられた。

唯一の例外は「クラリネット五重奏曲」で、このブログの昨年6月8日の記事にも登場している。私はそこで、「率直でけれん味のない清潔な音楽」と書いた。

日本作曲家選輯と銘うったディスクを出し続けている naxos が、このたびの新盤に安部幸明氏の交響的作品を収めたのは、シリーズのここまでの流れから見ればとても自然なことだ。世界初録音の「交響曲第1番」(1957)、それに「アルトサキソフォーンとオーケストラのための嬉遊曲」(1951)、「シンフォニエッタ」(1964)の3曲が収録された。

「シンフォニエッタ」は日本フィルシリーズに応えて書かれたもの。これまた伝説になりかけている渡邉暁雄氏の仕事を顧みるためにも、この作品が録音されたのは歓迎すべきことだと思う。

いつもながら分厚いブックレットに、片山杜秀さんによる詳細きわまるライナーノートがついている。これがこのシリーズのもうひとつの「売り」だ。字が細かくて老眼の進んだ眼には少々きついが、他では資料が入手しにくいので、とてもありがたい。昨年亡くなった作曲家は、250年前に生まれた作曲家よりわからないことが多いのだ。

そしてその作品だが、何度聴いても不思議な印象が残る。いわゆる「保守的な」作風には違いないのだが、「シンフォニエッタ」の一部分で聴こえてくる擬「雅楽」調や擬「火の鳥」調などを除けば、これは一体いつの時代の、どこの国の作曲家が作った作品なのかわからなくなってくる。「嬉遊曲」は特にそうだ。

ここまでの naxos のシリーズで聴けるいくつかの作品、山田耕筰はもちろん、例えば橋本國彦でも大木正夫でも、「私は日本の作曲家である」という刻印がどこかに聴き取れる。シンフォニスト諸井三郎でさえ、そう感じる。だが、そういった刻印、聴く側から言うと邦人作品というアイデンティティを、安部作品から聴き取るのは難しいように思える。かといって、ドイツ風とかフランス風とかいった勉強の名残が響いているのでもない。無国籍というより非国籍的なのかも知れない。

一般論として、「保守的な作品である」という言われ方は、後世への影響が薄いということに繋がっている。斬新な作品ほど後進に大きな影響を与える、だから影響力の乏しい保守的な作品はその価値も軽い・・・と。

しかし、そういう一面だけでは、作品を本当に聴いたことにはならない。「保守的」であろうが「前衛的」であろうが、その作曲家が彼の音楽言語で、何をどのように語っているか、そしてそれが成功しているのかどうかを聴き取ろうとしない限り、作品に近づくことはできないだろう。そもそも、古いか新しいかではなく、使われている音楽言語が彼のものになり得ているかどうかがまず問題であるはずだ。

だが、安部幸明が作曲家として活躍した時代には、「現代音楽」の熱心な聴き手たちは、新しい音楽に対してそのようには考えなかった。「保守的」と見られた作曲家の作品は、敬してあるいは軽蔑して遠ざけられた。あえて近づこうとする人は、その作曲家と同じかそれ以上に頑迷固陋と見做された。だが、今では「現代音楽」という言葉さえ、もはやある種の時代的スタイルを示すに過ぎないものになっている。

安部幸明の音楽言語は、一見似たようなものがどこにでもありそうに見える。ところが、実はどこにもないものであるように思えてくる。だから、じわじわと面食らう。面食らいはするが、いずれも意欲作であり傾聴に値する音楽である。今聴いてみたら思いがけず新鮮だったというのではない。だが、今後古びることもないだろう。

2007年3月 8日 (木)

「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」

コンサート・シリーズ「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」最終回に行く。東京・紀尾井ホール

このコンサート・シリーズは、1940年頃から2000年までの日本の作曲家による(管弦楽やオペラを除く)作品を回顧するもので、1998年にスタート。以来9年間、全40回のコンサートにおいて、119名の作曲家による220曲の作品が演奏されるという大プロジェクトになった。音楽評論家の秋山邦晴氏と寺西春雄氏の尽力により実現した企画だったが、お二人とも最終回に立ち会うことなく、すでに逝去されている。

昨年行なわれた第35回で私の作品も演奏され、昨年3月1日にこのブログにもメモしている。119名の中に入れていただいたのは嬉しいことだったけれど、アンソロジーとして扱われるのは、ちょっと妙な気分でもあった。

それはともかく、戦中・戦後の作曲家たちが何を考えてきたかについて、かつてない規模で振り返る企画だったわけである。題名だけは知っていても実際に聴いたことのないたくさんの作品が演奏されて、(特にひと昔前の)邦人作品に興味がある私としてはリストを見ているだけでわくわくしてくる。だが残念なことに、私はそのほとんど聴きに行くことができなかった。平日、それも週の真ん中に東京でコンサートを聴くのは、地方の大学で宮仕えをしている身分では至難の技なのだ。

幸い25回までのコンサートはCD化されているが、これまた残念なことに、26回以降の記録は資金難のためにCD化のメドが立っていないのだという。

最終回のプログラムは、武満徹「ガーデン・レイン」、間宮芳生「KIO」、柴田南雄「金管六重奏のためのエッセイ」、林光「苦行・・・1974」、池辺晋一郎「ストラータⅤ」。1960~90年代の名作ばかりで、間宮・林作品は初演を聴いた記憶があるし、武満作品は初録音のLPレコードを持っている。その頃のことをいろいろ思い出すと同時に、当時とは印象の違う作品もあって、何がそう感じさせるのか考えると面白い。

だが、私のようにわくわくする人はそれほどはいないとみえて、客席は最終回の今日ですら空席が目立つ。そもそも聴衆動員力が強いとは言えない音楽活動だが、30年前の客席はもう少し活気があった。

戦後の日本文学がかつてほど読まれなくなったように、戦後の音楽作品も、現代の聴衆との間に少しずつ距離が開いてきた。だが一方には、NAXOSの日本の作曲家シリーズCDが成功しているという現象がある。その距離は思ったほどではないという音楽も必ずあるし、プロモートの仕方にも一考の余地があるだろう。

残る作品と残らない作品という残酷な峻別は、当然なされていくだろう。だがそれにしても、ほとんどの作品が初演されてすぐに眠ってしまうような現状は、砂嵐の真ん中にオアシスを作ろうとし続ける営為のようにさえ思える。

作曲家個人の努力だけで何とかなることではないが、このコンサート・シリーズが終わった後、日本の作曲家の作品はどのように紹介されていくべきかについて真剣に考え実現する頭脳が出てこないと、今後日本の作曲家の作品は本当に顧みられなくなってしまうのではないか。

どうせ要らないようなことをやっているのだから、顧みられなくなったって当然じゃないかという見方もあるかも知れない。だが、いいのかそれで、この国の文化は本当にそれでいいのか?と、期せずして作家の特集をしている二つの雑誌を書店で手にとりながら思う。ひとつの雑誌は、わかりやすく感動できるということで評判の若い人気作家を特集、もうひとつの特集は吉行淳之介。若い人気作家に批判的であるつもりはないけれど、私はためらわず、吉行の方を持ってレジに向かう。

2007年2月28日 (水)

まっぷたつのなりゆき(20)

序の歌5ページ分、ちょっとした行き違いがあって、こんにゃく座にはコピーを渡し、原譜は手元にあった。

音や歌詞の誤記を訂正し、変更を書き込んだ原譜から最終的なコピーを取りたいということなので、手元にあった原譜を座に届ける。これで4人の作曲者のすべての手書き譜が揃ったはずだ。

この後は、完全なるコピーが座に保管され、手書き譜はそれぞれの作曲者に返却される。保管された譜面が次に日の目を見るのはいつか。何年後か何十年後か何百年後か。

気象庁は、「冬」の定義を12月~2月と決めていて、明日からは3月だから「春」。するとこの「冬」、東京都心ではまったく雪が降らなかったことになるそうだ。これは1876(明治9)年に観測開始して以来初めてとのこと。新潟の豪雪地帯でさえ、今年は平年の2パーセントしか雪が降らなかったと、夜のテレビで言っていた。

仙台から山形へ通じる幹線道路の入り口に、県境関山峠の気温を伝える電光掲示板がある。先週の冷えていた晩に「関山峠 マイナス6度」と表示されていた。いつもならそのくらいはよく見かける気温表示なのだが、「マイナス6度」と示されて、へぇ~今夜は寒いんだ・・・と、ちょっと驚いてしまうぐらい今年は異常な暖冬だった。

明日からの「春」までが、異常な気象ではありませんように!

2007年2月27日 (火)

まっぷたつのなりゆき(19)

4人の作曲家による共同作曲について、メモしておこう。

共同作曲は、私たちの共通の友人、知人たちに、どの場面を誰が作曲したのか推理する楽しみ(?)を提供したようだった。作曲の分担については、無料配布されたシートにも、公演パンフレットにも書いてあるから、秘密ではないのだが。

楽士の常連であるYさんは、ほとんどわかったと言う。さすがというか、私たちの音楽を多く弾いてくれているYさんには簡単なクイズだったかも知れない。だが、そういうマニアックな遊びは大半のお客様にとっては無縁だし、重要なことではないだろう。

場面ごと違う作曲者に受け渡されていくことについて、その繋ぎ目には違和感を感じなかったという感想が多かったけれど、内情を知り、繰り返し何度も聴いてきた者としては、4人の違いがかえってわかって面白かった。もちろんそれは、違和感というのとは違うけれど。

共同作曲の結果については、「どの場面も音楽が豊かだった」という感想と、「それぞれが力をこめて作曲しているために、息を『抜ける』場面がなくて疲れた」という意見と、まっぷたつに分かれた感じがある。だが、一人で作曲すれば息が抜けるところができるかというと、必ずしもそうは思わない。「ヴォツェック」や「モーゼとアロン」に、どこか息の抜けるところがある?「息が抜けない」のは、必ずしも共同作曲に原因があるのではなく、むしろ作劇上の問題なのではないかな。

これに直接答えるものではないが、24日マチネ終演後に行なわれたファンクラブ向けトークの中での一節をメモしておこう。

「それぞれの場面の曲想や繋ぎ目について、4人の間で打ち合わせなどはしたのですか」という質問に答えて光先生曰く、

「たとえば、ぼくらの上に『親玉』がいて、『この場面はこういう曲想で』とか『ここはこんなテンポで』とか指示するやり方もあるだろうけど、この中には『親玉』がいないから(そういう打ち合わせはやっていない)。」

そう、『親玉』になってもらえそうな先生は、一番初めに書き上げて涼しい顔をしていたもんなぁ。

萩さんが言った。「でも、もしそんなふうに『親玉』が指示をしたら、みんな『職人』に徹しちゃって面白くなくなったと思う。」

おそらくそのとおりだろう。『職人』になって、それぞれ自分だけの仕事場に閉じこもることを、今回誰もしなかった。ある場面の前後や全体の中での位置は、作曲者が各々で考えながら計っていった。他の3人を意識し、いわばライバル心を燃えあがらせて作曲するなどということは、少なくとも私はなかった。私一人で作曲したとしても、同じ場面には同じ音楽を書いただろう。他の3氏の存在は、ライバルではなくむしろ血を分けた分身の兄弟として存在していた。

オネゲル、ミヨー、プーランクらによる「エッフェル塔の花嫁花婿」を除けば、林-萩によるこんにゃく座のシェイクスピア作品、間宮-コルテカンガスによる「木々のうた」など、共同作曲の前例はそれほど多くない。けれどもこの創作方法は、今回の進め方が最善であったかどうかは別にしても、さまざまな可能性を秘めていると、今さらながら思う。

2007年2月25日 (日)

まっぷたつのなりゆき(18)

Photo_18 公演最終日。11時と16時の2回公演。

11時という開演時間はちょっと不思議だけれど、近年は需要の多い時間帯らしい。休日、朝少し早めに出かけて、終演後に遅い昼食を食べても、まだ夜までは時間の余裕があるというわけで、子ども連れで出かけてみようという場合などは特に都合が良いのだろう。

原作の翻訳者、河島英昭先生がいらしてくださった。公演パンフレット「おぺら小屋81」に書いていらっしゃる文章もとても興味深かったが、紹介されたので、いかがでしたかと伺うと、「大変結構でした」と嬉しそうにおっしゃった。高名なイタリア文学者だが、テッラルバの村からスーッと抜け出てきたような方だった。

19時、歌役者たちも演奏者たちも、最後の力を振り絞った(?)舞台は無事幕を閉じる。カーテンコールから引っ込んだ時の舞台裏には、初日以来の、だが初日とは少し違う高揚感が漂う。

・・・というわけで、この「まっぷたつのなりゆき」も、そろそろ終わりである。だが、事後報告や、今までにまだ書いてなかった考えなど、あと少しだけ書くことになるだろう。

ともあれ、たくさんのご来場、ありがとうございました!仙台や山形、大阪、京都、名古屋など遠方から、たくさんの方々がわざわざ来てくださったのも嬉しくありがたいことでした。皆さまの応援に、心より感謝申し上げます。

2007年2月24日 (土)

まっぷたつのなりゆき(17)

224 公演2日目。13時と18時の2回公演。

1回目が終わった後、こんにゃく座ファンクラブの企画で、4人の作曲家によるトークが行なわれる。適当なことを発言すると、別の人がもっと適当なことを言ったりするから、見世物としては面白かったのではないかな。

昨日の初演と合わせて3回の公演が終わったことになるわけだが、テンポや全体のテンション、逆に全体の落ち着き方などは、当然のことながらまだ揺れ動いている。

演者がそうであるように、作品も舞台の上で育つ。観客の息に触れることで初めて見えてくるものはとても多い。台本も音楽も演出も精査して上演を重ねることができれば理想だし、レパートリーとして定着させるにはそういった過程が不可欠だが、全5回だけの上演では熟しきらないうちに終わってしまうことになる。何十人もの人が、それぞれの持ち場を守りながら関わっている作品なのだから、すべての役割が機能し作品が熟成するには、観客に見守られる時間がたくさん必要なのだ。だが、この作品の再演は当分(二度と?)ないだろう。もったいないことだと思うが、それがこの国の音楽創作の現実なのである。

2007年2月23日 (金)

まっぷたつのなりゆき(16)

何も報告せずに寝てしまうわけには、いきますまい。

本日、2月23日午後6時30分、オペラシアターこんにゃく座公演「まっぷたつの子爵」、東京・世田谷パブリックシアターで無事に初演初日の幕を開けました。4人の作曲家によるオペラは、前代未聞の試みとして記録されるに足る作品に仕上がっていると思います。

今日は、14時から場面転換を中心に抜き稽古。演出の加藤さんは、ここにきて「ボク」役のまりさんにずいぶん厳しくダメ出しをしている。ひ弱な性格だったら、潰れてしまいかねないなぁ・・・とちょっと心配になるけれど、気合を入れるための確信犯的ダメ出しだったのかも知れない。4人の作曲家から出てくるそれぞれ違ったスタイルの音楽を、最も真正面に受け止めなければならないのが「ボク」で、その意味でも大変な難役だが、その大健闘ぶりについて、少なくとも稽古を多少なりとも見てきた人なら、誰も異論はないだろう。

カルヴィーノの原作は、小説で読んでも面白いけれど、かなり舞台芸術向きな構造を持っていると思う。このオペラの、音楽にしても歌唱や演技にしても、また台本にしてももちろん改善の余地はあるかも知れないが、良い原作に巡りあえてオペラ化できたのは、とても幸せなことだと思う。

明日から2日間、2回公演。チケットはまだありますよ~。詳細はこちら→ http://www.konnyakuza.com/

2007年2月22日 (木)

まっぷたつのなりゆき(15)

0222 午後から、抜き稽古。昨日まで仙台だったので、私は今日初めて会場に入る。

舞台はモノクローム中心だが、衣裳を着た歌役者たちが揃い、明かりが入り、大道具が動き出すと、そこには私たちの架空の村テッラルバが現われる。

午後6時から、本番とまったく同じ段取りでのゲネプロ。プレス関係などのカメラが何台も入り、客席では関係者とはいえ今まで以上の数のギャラリーが見守っているから、いよいよ総仕上げという心地よい緊張感が漂う。午後9時、カーテンコールまでを含むゲネプロは無事終了。上演時間約3時間という大作となった。明日は、午後から細かいダメ出しや部分稽古をして、午後6時30分、初日の幕が上がる。

あれ?「大魔女ビバリー様の部屋」がもう更新されているぞ。ビバリーとは、さっきまでみんなで一緒にいたんだけどな、三茶に。家に帰り着く時間の差かな。http://yamanekosama.cocolog-nifty.com/blog/

02221「大魔女ビバリー様の部屋」でも触れているが、この不思議な光景をご覧あれ。楽屋で、4人の作曲家がそれぞれ机に向かっている。4人とも、楽譜係・ともさんから出された宿題をやっているのです。宿題とは、楽譜の訂正や変更箇所などをそれぞれの自筆譜に書き込むこと。一番奥は、ひとり関係ないフリをしている演出の加藤さん。

「振り返ってみたりしようよ!」という音楽監督の提案によって、振り返ってみた。

02222

2007年2月19日 (月)

まっぷたつのなりゆき(14)

ピアノ以外の楽器も入っての通し稽古。衣装をつけ、メイクもして、もちろん本番と同じ道具を使っての稽古で、いよいよ初日が近づいているという緊張感と高揚感が漂う。

0219 きのこ平の人「ガラテーオ」。

0219_1 ユグノー教徒の人々。

今日で稽古場での稽古は打ち上げ。明日と明後日は、コヤ(劇場)に道具を運び込んでの仕込みが中心となる。今夜を持って、この稽古場のセットは解体され、トラックに積み込まれた。細かいダメ出しはまだ続いているものの、全体にはとても良い雰囲気でコヤ入りできそうだ。「まっぷたつのなりゆき」も、いよいよ最終段階である。

2007年2月12日 (月)

まっぷたつのなりゆき(13) 「別冊まっぷたつ~全曲完成記念号」とのリンク付き

午後6時過ぎ、こんにゃく座の稽古場を覗きに行ってみると、ちょうど休憩中で、テーブルを囲んで食事をしていた歌役者さんたちが拍手で迎えてくれる。

私の遅筆のためにこんなに完成が遅れたのに、このおおらかさというか太っ腹というか根性が座っているというか怖いもの知らずというか、何しろこのパワーが座の活動を支えているのに違いない。

休憩の後は、今日の昼に渡したばかりの譜面を中心とした音楽稽古。全体練習は昼間に終わっていて、この場面の登場人物役の人たちが居残って練習というわけだ。ついさっきまであれこれいじくっていた譜面がすぐ音になり歌われるのは、いつもながらちょっと妙な気分がする。

稽古が終わって、まずは完成祝い、音楽監督や大魔女ビバリーさまの声がけで、稽古場内通称パンチ部屋で数人で乾杯をしていると、その後も自主練習を続けていたメンバーが上がってきて、次々と輪に加わる。「あたしが出来上がった時も、こんなに祝ってもらってない」と、音楽監督がすねる。たしかに最後は「一人旅」になってしまったので、その分余計に応援してもらえたかも知れない。今日の昼間は、舞台衣裳のお披露目があったのだそうだ。初日はいよいよ11日後。

Photo_13 Photo_14

きのこ平の女たち+音楽監督+大魔女ビバリー、ユグノー教徒の男たち+トレロニー博士、そしてコワれるサッキョク家。

こんにゃく座ホームページ委員会(?)のとみやんは、宴会中も「座日記」を更新していました。

こんにゃく座「座日記」へのリンクはこちら→http://zakonnyaku.blog.shinobi.jp/

まっぷたつのなりゆき(12)

脱稿までのなりゆき。

2月9日(金)

留学生のための入試があったので、午後まで学校のお仕事。夕方は、来年度の研究プロジェクトの打ち合わせ。その隙間の時間に少し書く。研究プロジェクト関連のイベントのために、コントラバス奏者のKEIZOさんが仙台に来ているので、一緒に牛タンをもりもり食べ、夜は家に帰って書き溜めてあったところまで清書。

2月10日(土)

午前11時頃から学校の演習室にこもる。楽譜を翌日届くようにしようと、宅急便のサテライト店に駆け込んだのが20時。けれども、土日は発送できる受付が19時半までだというのだ。1枚でも多くとギリギリまで粘っていたのが裏目の大失敗!仕方がないから、演習室に戻って続きを書く。午前0時過ぎ、ざっくりとしたスケッチながら、ようやく最後の台詞まで到達。さすがに朦朧としてきたし、電気ストーブ1台では寒いので、細部を再検討するまでの元気はなく撤収。この日、外に出たりして休んだのは1時間くらいだけ。少なく見積もっても10時間は作曲していたことになる。

2月11日(日)

午前、研究プロジェクト関連のイベントを覗きに出かける。KEIZOさんが、ダンスのサトミ先生や朗読の早川氏とのコンボで演じた即興作品は、なかなか面白くて良いものだった。KEIZOさんは風邪気味、しかも車が壊れたと言うので、夕方楽器の搬出を手伝うことにする。午後のイベントは失礼して、いつもの演習室で昨日夜書いた部分が使い物になるかどうか見直す。概ね悪くはないけれど8小節書き替えて、約束の時間まで清書。KEIZOさんの搬出を手伝い、神奈川の家に戻る。深夜、清書など残りの作業を再開、午前2時頃すべてが終了。日付は2月12日とした。

そして本日2月12日13時、楽譜係ともさんに9枚を渡し、最後の受取りの仕事で稽古場に向かうのを握手して送り出す。いつも労をいとわず動いてくれたともさん、どうもありがとう!

たくさんのご声援、ありがとうございました。ご迷惑、ご心配をおかけしてすみません。4人で書いているのに、みんな早々と書き上げて私がぶっちぎりで遅れてしまったから、この数週間の声援は、他の選手はすでにみんなゴールしているのに、ひとりだけまだ走ってるマラソンランナーがもらうような暖かいものでした。

追記 「まっぷたつ」に関する記事は、「まっぷたつのなりゆき」というカテゴリーにまとめることにしました。バックナンバーは左側「カテゴリー」欄からどうぞ。

2007年2月11日 (日)

まっぷたつのなりゆき(11)

今どきは、文章の原稿だと大抵の場合パソコンを使うから、いくら初めにザクッと下書きをして少しずつ直していったとしても、書きあがった時には清書も同時に完成する。しかし、楽譜だとそうはいかない。いきなり本番の譜面を書く作曲家もいるかも知れないが、多くの場合スケッチとして走り書きしたものを後から清書することになる。

清書といっても、右から左へ書き写すだけではなくて、スケッチの段階で決まっていなかった細部を決めたり直したり、テンポやディナーミク、練習番号などを書き込んだりする作業だから、作曲の第二段階と言ったほうが良いかも知れない。

この数年は、楽譜も浄書ソフトを使うことが多い。けれども今回は、他の三人が浄書ソフトを使わないので、私ひとりだけキレイな譜面なんてズルイとかいう訳のわからない理由で、浄書ソフトの使用を禁止されてしまった。そこで、手書き、つまり古今東西の大作曲家たちとほぼ同じ方法で清書をしている。

手書きと浄書ソフトを使うのと、どちらが速い?とよく訊かれるが、どちらが速いかは微妙だ。

浄書ソフトだと、同じ音型が続くようなところはコピー&ペーストで一瞬にして完成だし、小節を飛ばしてしまったり、別のパートに書き込んでしまったりといった間違いの修復は簡単。楽器編成が大きくなると、小節線をひくこと自体が結構面倒なものだけど、浄書ソフトではそれはまったく意識する必要がない。

ただし浄書ソフトは操作が複雑なので、続けて使っていないと、細かい操作をすぐ忘れてしまう。ええっと、音符の符尾を逆向きにするのってどうやるんだっけ・・・と、わかり易いとは言えないオンライン・マニュアルを睨んでいる間に、手書きならば1段分くらい書けてしまうだろう。

そして一番大きな違いは、やはり手書きで楽譜を書くのは、作曲の仕事をしているという実感があることだ。もう30年くらいにもなる大半をエンピツで書いてきて、作曲とはそんなふうに手間のかかる手仕事であると、習い覚えてきたからだろうか。

「エンピツ」と書いたが、正確には私の場合はシャープペンシル。芯はハイユニの2B。先輩の作曲家に、今の若い人はエンピツでなくてシャープペンで書くんだってねぇ・・・と言われたことがある。もうずいぶん前の話だが、シャープペンを使って作曲することでさえ、先輩たちには新人類に見えるのかも知れない。

ただね、久しぶりに完全手書きをすると、やはり老眼の進み具合を実感するのだよ。悔しいけれど、今回は「おちか用眼鏡」がとても活躍している。

2007年2月 8日 (木)

まっぷたつのなりゆき(10)

6日の火曜日、楽譜係・ともさんに待機してもらって3枚渡す。3枚くらいで一日振り回してしまって申し訳ないけど、このあと仙台に行ったら、少しの間帰ってこられないから1枚でも多く渡したくて、待ってもらった。そしてその足で、仙台に移動。

これで何枚上がったのかな?この「まっぷたつのなりゆき」というタイトルの記事を(1)から順番に見ていけば、何枚になっているのかわかるはずだけど。あ、数えなくていいですからね。

怒涛のような二日間が、ようやく通り過ぎた。卒業論文と修了論文の発表と試問。試問を受ける学生くんたちやギャラリーからは「音楽島の8人の鬼」とかいう声もあがっているようだけれど、ぼくらも本当に消耗するのだよ。昨日なんか、夜遅く修士論文を読もうと思っても、どうしても目が活字を追って行けない。夜中には、両足がつって激痛で飛び起きた。今日Tルせんせは、上野で降りるべき新幹線が、気がついたら東京駅に停まっていたそうだ。いつもは深夜だか明け方だかまで研究室で仕事をしているさとてぃせんせは、憔悴した顔で守衛さんが巡回に来るよりも前に帰っていった。このふたり、どちらもこういうことはとても珍しい。

そして、試問を受けた皆さん、お疲れさまでした。でも、これで年度末行事がだいぶ片付いたことになる。やれやれ・・・。あ、明日は留学生の入試があるが・・・。

そんな中でスケッチを取るのは容易ではないけれど、時間がなくても少しずつでも書くようにしている。今かかえている場面は、いくつかのエピソードが続くのだが、スケッチはようやく最後の登場人物たちが出てくるところまで来た。今週は日曜日まで仙台に居続けて仕事をします。

2007年2月 5日 (月)

まっぷたつのなりゆき(9)

昨日2月4日の日曜日、楽譜係・ともさんに10枚、今日3枚渡す。まだまだ終わらない。明日も、1枚でも2枚でも渡せるように、本日も夜なべ。

終わってなくてもいいから稽古場へ来て見てよと、いろいろな人から言われ、私自身も行きたいなぁと思っていたのだけれど、まだひとりだけ曲が上がっていないのは、なかなか行きづらいものなのだ。だいいち、その暇があったら作曲しなければ、絶対的な時間が足りないし。

でも、粗いながらもはじめての通しをやるということなので、稽古場に行ってみた。光先生はじめ作曲家が4人とも揃って立ち会う。

Photo_9 1場からほとんど止まらずに通す。私の曲ができていないところは芝居で繋ぐ。なかなか面白いと思う。ただ、長い。休憩を含めて3時間を超えている。どこかをカットするのか、カットできるのか相談するけれど、結論は出ない。稽古を重ねるうちに、これからはもっとテンポも良くなっていくだろうけれども。

4人の作曲家がそれぞれに書いているものを繋げていくわけだけれど、今までこの4人の曲をよほどマニアックな関心を持っている聴いている人でなければ、どこで作曲者が替わったかわからないのではないかな。それくらい、大きな違和感なく繋がっていて不思議だ。

Photo_12 家に帰ってびっくりしたのは、本日の朝日新聞東京版夕刊。なんと題字の下に広告が!

「なに!?4人でオペラの作曲だと?!」

悪いかね?

2007年2月 3日 (土)

生まれ変わる音達

枽形亜樹子さんのチェンバロリサイタルに行く。新宿、淀橋教会。「生まれ変わる音達」とは、このリサイタルのサブタイトルである。

枽形さんは、大学の作曲科在学中に渡欧、優れたチェンバロ奏者になって、2000年に帰国するまで17年にわたって欧米で活躍してきた。作曲学生だった頃からよく知っているが、賢く元気な人柄は、面白いくらい当時と全然変わっていない。

昨今、コンテンポラリーが弾ける本格的なチェンバロ奏者がいなくなってしまった・・・とは、コンサート前のプレトークでの発言だが、彼女はまさにコンテンポラリーを重要なレパートリーとする数少ないチェンバロ奏者なのである。この日も、ベッツィ・ジョラス、ヤセン・ヴォデニチャロフといった、日本ではあまり知られていない現代作曲家のチェンバロ曲、成田和子氏の書き下ろし、そして北爪やよひ、間宮芳生両氏と私のピアノ曲をチェンバロで弾くというプログラムだ。

私のピアノ曲をチェンバロで弾いてもいいですかと枽形さんから聞かれたとき、考えもしなかったことだったのでとてもびっくりしたけれど、枽形さんはこの曲は「チェンバロにはまりすぎている」と言う。聴いてみると、たしかに元々がピアノ曲だとは思えないくらいチェンバロと馴染んでいる。いや、彼女がそういうふうに作ってくれているのだけれど。

とにかく音色が美しい。そして、見事なテクニック。プレトークで語っていた「チェンバロはピアノの仲間と思われているけれど、たまたま鍵盤の様子が似ているだけで、実はギターなどに近い楽器だと思った方が良い」という見方には、目からウロコだった。

作曲を勉強した人だから、コンテンポラリーに理解があるのは自然だが、彼女のような演奏家の存在がもっと知られることで、チェンバロのための作曲も活性化すると良いのにと思う。

間宮先生の「かぜのしるし・オッフェルトリウム」は左手のためのピアノ曲だが、先生のお隣で楽譜を見せていただきながら聴いていたら、音程がほぼ2度低くて、移調楽器の楽譜を読んでいるようで面白かった。

2007年2月 2日 (金)

まっぷたつのなりゆき(8)

22 昨日、雪が降らないことを書いたばっかりなのに、今朝起きてみたら外が真っ白になっている。わ!やられた!

仙台では、この冬初めての積雪。この時期に初めてというのは遅すぎるけれど。

ただ、昼近くなったら陽が差してきたから、果てしなく降り積もるということはなかった。

今年度最後の授業を2つ、それからH先生クラスの弾き歌い試験の採点をお付き合いして、学内の委員会関連のメールを書き、発注していたのが届いた本とCDを図書館から研究室に運んで、今週の仕事は終了。

「まっぷたつ」は、今日は初の楽器合わせだった。もちろん、私は立ち会えなかったけれど。

楽譜係・ともさんから質問メール。「XページX小節目のヴァイオリンは3本の斜線ありですか?ダリダリダリってゆれます?」

ダリダリダリって何だよ(笑)。あぁ、刻み、つまりトレモロのことね。そこは斜線なしです。ダリダリダリって揺れません。・・・こういう擬音は初耳だな。

つらいことに、来週までに卒業・修了論文を7本くらい読まなければならない。新幹線で、そのうちの1冊を読み始めた途端に爆睡。神奈川の家に戻り、今週書いたところの整理と清書。少しやっただけで、もう午前2時半を回った。

2007年2月 1日 (木)

まっぷたつのなりゆき(7)

天気予報は午後から弱い雨か雪。はたして予報どおり、昼過ぎ雪が舞いだした・・・と思ったら、すぐにやんでしまった。今年の仙台は、本当に雪が降らない。岩手でも、やはり雪が少なくて、いつもは小学校の授業でやるスキーができないそうだ。雪が降ると、道路が凍って面倒なことになったりするから、降らないのは楽だけれど、真冬なのに何となく妙だ。ある学生くんは、学年末っていう気分がしません・・・と言っていた。

今日は、昼間に40分ほど時間が空いたので、そこでも台本3行分作曲したし、寝不足が続いているから早めに切り上げようと思っていたのだけれど、19時にいつもの演習室に立てこもって、結局出てきたのは23時過ぎ。いつの間にかそんな時間になっている。その間、暖房は足元に小さな電気ストーブを置いているだけ。

昨日までに書いたのを見て、気に入らない部分を直す。少し先を書くためにとばしていたところを埋める。スケッチ9枚分くらいが、一応繋がった。あとで清書しながら、また直すけれど。

来週の初めに、荒く通してみるから稽古場に来ないかと連絡がある。微妙だなぁ。稽古場にはとっても行きたいのだけれど、一方で、その時間があるならば書け・・・という囁きが聞こえる。週末の進捗状況から判断することにしよう。

わが学食の、夕方だけ出てくる定食、400円でなかなかボリュームがある。今日は食堂のおばちゃんが、「今日の定食のお味噌汁は特別です」とかいうから何かと思えば、味噌汁にわかめとともにワンタンが入っているのである。

う~ん・・・特別です!と強調するあたり、かえって怪しい。他の料理で余ったのを入れたか?

そして。

やっぱりね、予想通りなんだけどさ、ワンタンは味噌汁に入れない方がいいよ。この企画、何か間違ってるよな。

2007年1月31日 (水)

まっぷたつのなりゆき(6)

今日は、朝9時に呼び出されて会議、9時半から卒業演奏試験。午前の部が12時10分に終わって20分間で学食のカレーを流し込み、12時30分会議に再召集、13時から演奏試験の続き、会議の再々召集をはさんで、大学院の修了演奏試験、そして会議再々々召集と、わずかな休みもなく続き、ようやく終わったのが18時過ぎ。つまり、演奏試験の合間に同じメンバーが集まって会議をしているというわけ。

こういう異常な日が、たまに時々しばしばある。水曜日がこういう日だと、金曜頃には息切れがしてしまう。

(演奏試験を受けた諸君、お疲れさま!みんなとても立派な演奏だったよ。)

ヘタれてはいられない。学食で晩ご飯を食べて、今夜も演習室にこもり作曲をする。この数週間、仙台では学食以外のところで食事していないなぁ・・・。

19時前から始めて、気づいたら午前0時を過ぎていた。スケッチ4枚ほど。書いているところの少し先の台本を読んでいると、そっちが面白くなって、音がつき始めてしまったりする。あとで使えるから、もちろん書き留めておくけれども、途中が繋がっていないから進んだ感じがしない。こういう場合、途中を埋めるのが結構厄介な作業になることもある。

キャラクターがますます変になっている。だが、これはもうこのままいく。そして、そう、今日はちょっとしたアイデアを思いついた。まだ少し先のところなのだけれど、うまくはまればちょっと面白いことになるのではないかな。何かって?秘密だよ!

午前1時くらいに帰ってきて、明日も学校があるからさっさと寝るべきなのだが、夜遅くまで書いていると、神経が立っているからか、疲れているのにすぐ眠る気になれない。かといって、こうしてブログなんか書いてるのはもっといけないんだろうけどね。

2007年1月30日 (火)

まっぷたつのなりゆき(5)

昨日の予定どおり、リレーを受けて書いた歌を、楽譜係・ともさんに渡してから仙台に移動。甘い恋の歌?

昼間は授業があったりするので、作曲はできない。学食で少し早い晩ご飯を食べて戻ってくると、テルせんせが、最近仙台にできたキルフェボンのケーキがあるからと誘ってくれる。後でと思ったけれど、見たらあまりにも美味しそうだったから、食後にも関わらずペロっと食べてしまった。美味しかった。

8時前から演習室にこもる。気がついたら11時を回っている。登場人物のキャラがおかしくなるようなハチャメチャな音楽になってきたので、今夜はほどほどのところでやめることにした。使えそうなのは3枚ほど。今さらだけれど、登場人物たちをいじるのが面白くなっているのだ。

別のシーンでは、同じ登場人物を、別の作曲家が別のキャラで作っているだろうに、いいのか?

物語が進むにつれ、次第に明らかになってくることがあるわけだから、前の場面と比べてキャラが変わったとしても良しとする(勝手に)。だいいち、そこが共作の面白さだろうし。

明日は一日中、卒業・修了演奏試験。合間を縫って会議もあるそうだ。夜になっても、作曲するモチベーションが残っていると良いのだけれど・・・。

2007年1月29日 (月)

まっぷたつのなりゆき(4)

最近更新が滞っていますが、寸暇を惜しんで作曲をしているため(本当です)お許しを。

先週から週末にかけて、昼夜問わず何時間ピアノや机の前にいただろう・・・まるで受験生みたい。

昨日の日曜日9枚、今日5枚、楽譜係・ともさんに渡す。これでようやく大きなシーンがひとつ終了。明日仙台に移動する前に、4人の作曲家でリレーして作っている歌の部分を渡す予定。

自分的には、それなりに加速がついてきていて、だいぶ進んできたぞと思うのだけれど、如何せん初日もだんだん近づいてきているし、しかもあとの3人は、担当箇所をほぼ終了させてしまったらしい。何ということだ。私には、まだ大きなシーンがまるごと残っているのに・・・。

スタートを出遅れたことが響いているけれど、その後はかなり根詰めてやっているつもり。なのに、どうしてこんなに遅れているかなぁ・・・。最近は、作曲のために授業を休むということをしないもんなぁ・・・って、グチっていても仕方がないから、ひたすらやるしかない。けれど、煮詰まり過ぎると、本当に思考が停止してしまって、アイデアのかけらも出てこなくなる。

昨日は、気分転換のつもりで、ネマキさんの合唱団のコンサートに行った。この合唱団、正確には「歌のあつまり 風」は、以前私の作品を歌ってくれたこともある。今回は林光とアイスラー作品が中心。

「自然な声」「率直な声」「自分の声」「今の声」を求めて・・・というのがモットー(コンセプト?スローガン?)。「自然な声」「率直な声」というのはよくわかるが、「今の声」というのが面白い。

合唱団「じゃがいも」とも共通点があるけれど、こちらはよりシニアな世代が中心だし、無理をせず、作為的に作りこんだりもせず、「今の」「自分の」声をまっすぐそのまま出して歌うことに意味を見出しているようだ。人生の年輪がそのまま声に出ていると言ったら、美しく言い過ぎだろうか・・・。アミコさんがプログラムに「野放しの声」と書いていたけれど、まさにそのとおり。いずれにしても、声もステージも、グンタイ式にてきぱきしていないところが気分良い。

会場は、国政施設地帯のど真ん中。会館の前からは、こんなものが見えた。そう言えばこれ、久しぶりに見たな。

Photo_8 手前の広大な土地は工事中。ギインさんの施設ができるらしい(?)。

2007年1月22日 (月)

まっぷたつのなりゆき(3)

お前の書いた場面の音楽、すごく変で可笑しいぞ・・・と、稽古を見た何人もの関係者から言われる。音楽監督・萩の月書記長は、わざわざメールまでくれた。

しかし、稽古を覗きに行く時間が取れないので、そんなふうに言われても、何がどう可笑しいのかわからない。本人は、変だろうとも可笑しいだろうとも思わずに書き散らしているのだから、変で可笑しいとすれば、きっとナベさんはじめとするその場の歌役者たちの怪演によるものだろう。

いずれにしても、可笑しくないより可笑しい方が数倍良いわけだから、まぁ結構なことだ。

毎週月曜の定期便のように、今日も楽譜係ともさんに8枚渡す。いい加減この場面に決着をつけたいのだけれど、場面はまだまだ続く。渡した後も、ひたすら書き続ける。

私を除く作曲家諸氏からは、楽譜が続々と出てきていて、稽古もフル回転しているようだ。その様子は、大魔女ビバリー様のお部屋にも詳しく書かれている。大魔女ビバリー様のお部屋へは、左サイドバー「友人のページ」から。

2007年1月21日 (日)

元気いっぱいの「じゃがいも」たち

山形の合唱団「じゃがいも」が、亀有リリオホールで初めての東京公演を行なった。(「じゃがいも」については、昨年11月5日他に記事あり)

神奈川の家から延々と電車に乗って行く亀有というところ、そもそも初めて行くホールで、そこに山形で顔馴染みの人たちがいるのは、とても妙な気分。一体ここはどこ?

そして、演目は昨年11月5日に山形で初演されたそのままだが、あの時よりはるかに良くなっていた。そして、初めての東京公演、おとなも子どもも修学旅行状態でテンションが上がっているのか、山形にいる時よりみんな元気じゃないか!

指揮者の鈴木さんに請われて、プログラムにこんなコメントを寄せた

元気いっぱいの「じゃがいも」たち

 練習に集まってくる父親、母親。くっついてきた子どもたちが一緒に歌うようになり、「子じゃが」と呼ばれる。けれども、大人も子どもも一緒に楽しめる作品がない。だったら、作曲家に新しい曲を書いてもらっちゃおう!・・・と、まぁこんなステキなことをずっと続けてきたのが「じゃがいも」だ。こんな合唱団って、他にあるのかしら。そうやって、たくさんの合唱劇が生まれた。近頃はついに「孫じゃが」まで登場。「子じゃが」と呼ばれてきた子どもたちもすっかり大きくなり・・・というよりすでに合唱団の主力。むしろ大人を、「じじじゃが」「おばじゃが」とか呼んだ方がいいんでない?なんて冗談も聞こえてきそうだ。

その「じゃがいも」たちが東京にやってくる。初冬の山形の、ピーンと張りつめたような冷たい空気こそ彼らの歌には似合うけれど、出羽桜は東京で飲んでも美味しいよ。「じゃがいも」の歌が東京で悪かろうはずがない。

「じゃがいも」のホームページでは、他の人たちから寄せられたコメントも読むことができる。→http://homepage2.nifty.com/jagaimo/new_page_75.htm

この人たちと一緒にいてつくづく思うのは、みんなどうしてこんな素敵な笑顔をしているのだろうということだ。特に、子どもたちや若い人たちの表情がとても輝いているのである。

もっと上手い合唱団は他にいくらもあるだろう、だが、彼らには他のどんな合唱団にもまねのできない独特の暖かさがある。歌を仲立ちとして、親たちは子どもたちが、子じゃがたちは親じゃがたちが大好き。こんな当たり前のことが、昨今では何と貴重なのだろう。

121 打ち上げでのひとコマ。光先生が、ピアノで自作はもちろん、Over the rainbow だの Yesterday だのを弾きまくり、みんな歌いまくる。子じゃがのめぐみちゃんは、ブログに「人生で一番幸せな日」と書いた。

そしてこの日、ついにオソロシイ計画が公表された。この大胆不敵な計画は、すでにあちらこちらで波紋を呼んでいる模様。本当に実現するのかしら・・・、実は当人が一番不安なのだが。この際、最新情報も含めて書き込んでおくことにする。

合唱団じゃがいも 第34回定期演奏会

2007年10月20日(土) 山形市中央公民館ホール、2008年1月27日(日) 仙台市青年文化センター・シアターホール

合唱劇「銀河鉄道の夜」(委嘱・初演) 

原作:宮澤賢治、演出:山元清多、作曲:吉川和夫

2007年1月15日 (月)

近況~まっぷたつのなりゆき(2)

風邪をひいてしまった。年末あたりから治ったと思ったらぶり返し・・・の連続。先週はもう大丈夫と思ったのだが、またぶり返している。学校の暖房の乾燥した空気にやられてるような気がする。幸い、インフルエンザでもノロ・ウィルスでもなさそうだし、寝込むほどではないが、かなりうっとうしい。

にもかかわらず、「まっぷたつ」の作曲に追われ中。朝、楽譜係りのともさんから様子伺いの電話。午後、近くの駅まで来てもらって9枚渡す。

台本にしてたかだか2ページなのに、楽譜にすると9枚になる。そしてその2ページ分を作曲するのにこんなに時間がかかってしまって、つくづくいやになってくる。夕方、学校の授業が終わってから、暖房のない演習室にストーブを持ち込み、夜なべ仕事のように毎日少しずつ書いて、一週間でやっとこの量。この場だけで、台本はまだあと8ページあるのになぁ・・・。

ユグノー教徒の古老の口癖「ペストに飢饉だ!」、このひとことの音を決めるのに二週間はかかった。そして、一応音を置いたけれど、これで良かったのかどうかわからない。いつもそんな調子の手探りだ。

2007年1月 5日 (金)

「まっぷたつ」のなりゆき(1)

こんにゃく座2月公演「まっぷたつの子爵」。11月26日、12月26日に関連記事あり。

今朝、こんにゃく座の座員、楽譜係のともさんからご機嫌伺いの電話。楽譜係というのは、この時期に限っては早い話作曲家に楽譜の取立てをする人のこと。1月5日にお電話しま~す!と言っていたけど、きっちりお仕事しているのね。

だいぶできている部分はあるけれど、まだシーンの最後までいっていないし清書も済んでいないから、今日明日はまだ渡せないな、日曜日だったら渡せると思うよ、でも、それだったら月曜日に座に行くことになっているから、その時に持っていくのでいい?

それでいいですということになって、一安心。安心するとサボりたくなるんじゃないかって?そんなことはないです。もうすぐ学校が始まってしまうから(本当は今日から始まっているから・・・しくしく)、授業のない時にできるだけ進めておかなければならないことに変わりはないのだ。

かつて別の作品で、大魔女ビバリー様様が楽譜係だった時には、にこやかな物凄い形相でやってきては、1枚でも出来上がった端から奪い取っていった。それに比べると、ともさんは若い分だけ初々しい(かも知れない)。

ちなみに、今回の清書は久しぶりに手書き。最近は浄書ソフトを使ってパソコンで書くことが多いのだが、今回は、ひとりだけきれいな楽譜になってずるい!というわけのわからないブーイングが飛んでくるので遠慮しているのだ。

4人の作曲家がリレーして書いているところと、シーンを分担している部分とがある。先ほど、ようやくひとつのシーンの下書きができた。台本にして3ページしかない部分なのに、ずいぶんと言葉が多くて難航した。年末から始めてこんなに手間どっているようでは、この先もっと長いシーンが待っているのに、思いやられるなぁ・・・。

蛇足 このブログを覗いてくれている常連に「トモさん」と「tomoちゃん」がいるので、楽譜係さんは「ともさん」と平仮名にした。トモさんとtomoちゃんは同級生だが、「さん」と「ちゃん」にしていることに、深い意味はない。

2006年12月26日 (火)

「まっぷたつ」プレ稽古

こんにゃく座2月東京公演「まっぷたつの子爵」は、4人の作曲家による共作という、そこらにあんまりころがっていないオペラ。このことについては、11月26日付けの記事にも書いています。

26日、この時期には珍しい嵐のような悪天候の中、プレ稽古が行なわれた。

こんにゃく座は、昨日までに大引越しをして、別々のエリアにあった事務所、稽古場、倉庫が一箇所にまとまった。会議室や作業場、資料庫も完備して、本当の意味での拠点ができたわけだ。内装などには、まだ改築して間もない初々しさが感じられる。

本格的な稽古入りは年明けからだが、4人の作曲者が集まって打ち合わせをするついでに、出演者や座の制作スタッフが集まり、演出の加藤さんも駆けつけて、今までに作曲ができている部分を試演してみようということになった。だからつまりプレ稽古。

まだまだ芽を出した程度だから、内容についてのコメントを書くのは控えるけれど(そんなことしてる暇に作曲しなさいって言われそうだし)、4人の作曲家による共作は、なかなか面白い話題を提供することになるんじゃないかな。そういう予感は、ほんのわずかな試演でも感じ取れる。

どの部分を誰が担当するのかは見てのお楽しみだが、私の担当部分の進行は、他の3人に少々遅れをとっているので、年末年始に稼がなければ・・・。

こんにゃく座はホームページも引越しをして、リニューアルされました。「まっぷたつの子爵」公演情報もこちらへ→ http://www.konnyakuza.com/index.aspx

2006年11月26日 (日)

4つ切れの「まっぷたつ」いよいよ始動

そんなタイトル読まされてもわからないよね。

オペラシアターこんにゃく座が、2007年2月公演に計画しているのが「まっぷたつの子爵」(イタロ・カルヴィーノ原作)。そして、このオペラは4人の作曲家による共作で作ろうとしている。4人の作曲家とは、林光、萩京子、寺嶋陸也の諸氏と私。

台本・演出の加藤直さんから台本がまだ半分くらいしか出てきていないので、台本がないうちは何も動きだせないよねぇ・・・ということで、ひとまず安穏と暮らしていたわけだが、さすがにそんなことばかり言っていられなくなってきた。もうまもなく12月に入ってしまうのである。とりあえず、台本ができているところまでの作曲をどのように分担するか話し合うために集まった。(そういうわけで、今日の授業発表のオペラは見に行けなかった。ごめんな。)

どの部分を作曲したい(したくない)という思惑がある人、べつにそんなものはない人が入り混じり剣呑な空気が漂い・・・ということだと話としては面白いかも知れないが、別にそんなことはなく、お互い気心知れているから、割合あっさりと分担は決まった。だが、どのように分担することになったかは企業秘密だから、ここには記さないよ。悪しからず。

つまり、いよいよ始動しなければならない態勢が、完全にとは言えないまでもできてしまったのである。もちろん原作は読んでいるが、台本はまた別の作りだから、先が完全には見えないままの出発。しかも、他の3人がどんなふうに作曲してくるかわからないままに自分のところを書くこともあるわけだから、かなりの冒険であるし楽しみでもある。どうなることやら、乞ご期待。時々は、このブログでも進行状況を報告していこうと思っている。

ちなみに、原作本は河島英昭氏の訳で晶文社から出ています。左サイドバー「話題になった本」で紹介しておきます。

2006年11月 5日 (日)

合唱団「じゃがいも」林光作品を歌う PART 11

1105 昨日は、合唱団「じゃがいも」の33回目の定期演奏会を聴きに、山形へ行った。合唱団「じゃがいも」については、4月4~5日にも記事を書いている。

隔年で、作曲家・林光さんに合唱劇などを書いてもらって上演するといったようなことが、もう11回目、足かけ20年にもなるのだそうだ。そして「じゃがいも」さんたちとは、近年その隙間の(?)隔年で、私も少々お付き合いをさせてもらっている。

今年は、「宮澤賢治詩華集(アンソロジー)」と、委嘱作品の音楽劇「革トランク・賢治の東京」。加藤直さんが演出、第1部の指揮は林さん。

この合唱団では、団員である父親、母親にくっついてきていた子どもたちがいつしか一緒に歌うようになり、「子じゃが」と呼ばれるようになった。既製の作品で、大人も子どもも一緒にステージに上がれるようなものは、ほとんどない。そこで、そのためのレパートリーを広げるために、毎年作曲家に委嘱して、たくさんの合唱劇が生まれてきたというわけだ。今年はついに(?)「孫じゃが」まで登場。「子じゃが」と呼ばれてきた子どもたちもずいぶん大きくなり、合唱団の大きな戦力になっている。むしろ、大人を「じじじゃが」「おばじゃが」とか呼んだ方がいいんでない?なんていう冗談も聞こえてきたりする。

音楽劇「革トランク・賢治の東京」は、童話「革トランク」を縦糸として、賢治が上京した時のエピソードを賢治作品に置き換えて配したもの。東京でチェロを習うというエピソードのあとにオペラ「セロ弾きのゴーシュ」の一場面が、浅草でオペレッタを見たというエピソード紹介に続いて「飢餓陣営」が演じられるという具合。

光さんの音楽は、熟達した職人仕事。「ゴーシュ」などはもちろんだが、書き下ろしの無伴奏合唱「鳥のように栗鼠のように」などもいつも変わらぬ清潔な美しさ。どの場面も楽しく賢治の世界で遊ばせてもらった。

今回のプログラムは、来年1月21日に東京・亀有のリリオホールで、初の東京公演がある。合唱団「じゃがいも」のホームページ→http://homepage2.nifty.com/jagaimo/

1105_2 仙台から山形へは、いつもはバスで行くのだけれど、昨日は久しぶりに仙山線で出かけて行った。面白山高原あたりは紅葉の真っ盛り、山寺駅は観光客でいっぱいだった。山形の空は広い。そして、やっぱり蕎麦は美味しい。

2006年9月28日 (木)

こどもたちへ メッセージ2006

0928

日本作曲家協議会とカワイ出版とで毎年催している「こどもたちへ」。

作曲家協議会所属の作曲家たちが子どもたちのためのピアノ曲を作曲して、カワイ出版が出版する。もう22回目になるのだそうです。そして、毎年作曲家が自作自演するコンサートでお披露目することになっていて、今年は9月30日に紀尾井ホールで行なわれます。

詳細はこちら→http://kawai-kmf.com/topics/2006/09.30/

今年は、「ミミファラ」というタイトルの易しい連弾曲を作曲しました。30日に、カワイ音楽教室所属の小学校1年生あいりちゃんと連弾します。作曲家はみんなピアノが上手いと思っているととんでもない間違い。上手い人はとんでもなく上手いけれど、誰とは言いませんが、大御所の作曲家だけれどピアノの腕前はかなりよちよちな先生もいらして、でも作曲家本人が弾くことを面白がられるらしい。私だって、ものすごくよちよちですからね。あいりちゃんを困らせないようにしなければ。

刷り上ったばかりの楽譜が届きました。楽器屋さんの店頭に並ぶのは、10月上旬かと思います。機会があったら、ぜひ手にとって見てくださいね!

楽譜の詳細はこちら→http://www.kawai.co.jp/editionkawai/detail.asp?code=0473

2006年8月26日 (土)

甦ったオペラ~高木東六氏を悼む

昨日(8月25日)、作曲家の高木東六氏が亡くなられた。

私が子どもの頃には、歌合戦番組の審査員としてテレビに登場していたのをよく覚えている。黒ぶち眼鏡に「ベレー帽」というものを被りちょっと気障な物腰、「作曲家」という浮世離れした仕事をしている人はみんなこういう雰囲気なのかと思った人も多いかも知れない(決してそんなことはないのだけれど)。そして、「水色のワルツ」をはじめとする洒落た小唄の作曲者。青年時代にはパリのスコラ・カントルム音楽院などに学び、ヴァンサン・ダンディに作曲を師事したというような本格的な経歴を知ったのは、ずっと後のことだ。

印象深いできごとがある。
ある日、友人のヴァイオリニストMS女史から電話。今度高木東六氏のオペラの再演があって、彼女のご主人が演出をするので見に来ないかという。へぇ~・・・高木東六さんにオペラがあったの?失礼ながら、東六氏についての知識は、上の段落に書いた程度なのである。オペラ「春香」の蘇演が神奈川県民ホールで行なわれたのは、2002年4月のことだった。特別な期待も持たずに出かけていった。だが、この日は忘れ難い一日となった。

作曲者の言葉によれば、オペラ「春香」は、「昭和十四・五年に手をつけ出して大戦直前迄に第三幕迄書き上げてあった」のだが、戦禍によって完全に失われてしまった、そこで別個の作品として、前作とは違った創作態度をとって第二作というべきものを、「昭和廿一年早々から、とりかかって翌年の二月にピアノ・スコアを脱稿し、引き続いて管弦楽総譜はその十月に完成した」のだという。つまり、第三幕までも書けていた楽譜を戦災で失ってしまった、そこで、一からもう一度作曲し直したというのだ。ものすごい創作意欲ではないか。

原作は朝鮮の古典文学「春香傅」、台本は村山知義。プロレタリア演劇の旗手とフランス帰りの作曲家の協働と聞いて少し妙な感じを覚えるのは、先入観にとらわれ過ぎだろうか。朝鮮半島の文化への共感が、この二人を結びつけたのかも知れない。
初演は1948年。このたびの公演は何と54年ぶりの再演!折から日韓共催ワールドカップ・イヤーで、日韓文化交流の一環として実現できたのだという。今回の公演のために、奥慶一さんが補作した。

作品は、まずヴェリズモ・オペラのスタイルであることを了解したうえで言うが、実に見事な音楽だった。メロディーは美しく、オーケストレーションも流麗、また展開や構成はとても劇的だ。高木東六という作曲家に対する私自身の認識が浅かったことを恥じた。
なぜこんな立派なオペラが半世紀も放っておかれたのだろう。日本のグランドオペラの歴史は、山田耕筰「黒船」の次は團伊玖磨「夕鶴」で、それ以外見向きもされなかったのはとても不当なことに思える。そして54年ぶりに甦った「春香」は、今また眠りについている。そんな作品が、この国には無数にあるのだ。

98歳の東六氏は車椅子で舞台に登場、カーテンコールに応えられた。また、休憩時間には、喫煙所で美味しそうに煙草を吸う姿があった。煙草が身体に悪いというのは、すべての人に対して一様に言うべきではない。

後日、オペラ「春香」蘇演のことを林光さんにお話したら、「あぁ、あれなかなかのものでしょ?」とおっしゃった。ご覧になりましたかという問いに、光さんいわく「ぼく、初演見てる」。それもすごい話だ。

高木東六氏、享年102歳。ご冥福をお祈りする。

2006年8月25日 (金)

琉球カチャーシー~金井喜久子の音楽

金井喜久子(1906~86)という沖縄(宮古島)出身の作曲家について、今年生誕百年ということもあってか、再評価の動きがある。一般にあまり知られていない、日本の(特に物故)作曲家の作品に触れる機会が増えるのは、とても良いことだ。
「琉球カチャーシー~金井喜久子ピアノ曲全集」(ピアノ=高良仁美、キングインターナショナル)というCDを見つけたので、メモしておこう。

金井喜久子は、沖縄から出た最初の本格的なクラシック系の作曲家。女学校時代、学校の音楽室のピアノで沖縄民謡を弾いていると、教師から「そんな下品な沖縄民謡など弾いてはいけません」と注意された。この衝撃をきっかけとして湧き起こった「沖縄音楽の真価を世の中に知らしめたい」という心情は、彼女の音楽活動の原点となった。創作活動以外にも、1954年には「琉球の民謡」という本を著している。これは民謡を採譜した楽譜と研究論文からなるもので、毎日出版文化賞を受賞し、現在は復刻本が刊行されている。

少し前に、1939年に作曲された「交響曲第1番」の初演(1940)の録音を復刻したという珍しいCDが出たので聴いてみたが、習作の域を出ないもので、「日本の女性作曲家が作った最初の交響曲」という触れ込みには興味を惹かれるけれど、この作曲家の特徴を聴き取ることはできなかった。
「ピアノ曲全集」(CD1枚)に収められている曲は、十二音技法を試したという「アダージョとアレグロ」と、初期の交響曲第1番「未発表のフィナーレ(ピアノスケッチ)」以外はすべて民族色の濃いもので、タイトルも、バレエ音楽「龍神の祭り」序曲、「琉球カチャーシー」、「琉球譚詩曲」「琉球狂詩曲」といった具合。もうひとつ、「ブラジル・ラプソディ」という曲もある。

琉球色の強い作品は、いずれもピアノのヴィルトゥオージティに裏打ちされており、構成にはいささか取りとめのなさも感じられるけれど、独自の語法を拓こうとしていることはわかる。ひとつひとつの曲の作曲年代は違っているが、年代による作曲上のスタイルの大きな差異はなさそうだ。共通して意識されているのは、アルベニスやファリャあたりだろうか。惜しむらくは、これらのピアノ曲が一連のまとまった連作にはならなかったことだ。もし連作として、もっと違ったタイプの楽想も取り込みながらまとめられていたら、琉球版アルベニス「イベリア」もこの作曲家には可能だっただろう。

いずれにしても、今どき沖縄民謡を下品と言い捨てる音楽教師はいないだろうし、いささかのエキゾティシズムを伴ってではあるとしても、沖縄文化はごくあたりまえに受容されている。私たちは、さまざまな沖縄音楽に触れる機会を日常的に持っているし、先島諸島も含めて沖縄への観光も盛んだ。だが、それはほんの最近の傾向に過ぎない。1970年のLPレコード「母と子の沖縄のうた」で音楽監修をつとめた金井は、わらべうたの歌詞を、沖縄語のまま吹き込むべきか標準語に直すべきか迷った末、標準語に直している。「花のかざぐるま」などと歌われるその録音は、すでに「花ぬかじまや」という「原語」を聴き慣れている耳にはかえって違和感もあるが、「本土」の人たちに少しでも内容を伝え、愛唱してもらいたいという金井の願いの重さを記録したものと言えるだろう。
沖縄音楽普及の先駆者である金井喜久子の役割を、生誕百年を期に、あらためて記憶しておきたいと思う。

2006年8月14日 (月)

私は誰?ここはどこ?そして何をうたうのか?・・・

現代芸術論第15回(8月3日最終回分)

4月から15回にわたって、「現代芸術論A」という授業で「日本の作曲家」を取り上げてきた。授業概要と授業計画は以下のとおり。これらは、大学のホームページ掲載の電子シラバスでも見ることができる。

●授業概要
現代の音楽の展開を、様々なトピックに基づき考察する。社会情勢が激動し、価値観が多様化し続けた時代にあって、作曲家・演奏家たちは何を考え、自らの作品・演奏に何を託そうとしたのか、そしてそこで何が実現でき、また何が実現し得なかったか等について、ディスクを聴きながら考えていく。
●授業計画
今年度のトピックは日本の作曲家。音楽スタイルの変遷を追いながら、瀧廉太郎や山田耕筰以降の日本の作曲家たちが目指してきたものについて考察する。

このブログでは要点の他に、授業で言い残したこと、うまく言えなかったことなどをまとめてきた。左側下の方の「カテゴリー」で「芸術・文化(授業の余滴)」を選ぶと、この関係の記事だけを表示することができる。

15回の授業では、約30人の日本人作曲家の作品、70曲余りを聴いてもらってきたことになる。もとより「日本現代音楽小史」ではない。歴史的視点から日本人作曲家の仕事を網羅するには、特に戦後の作曲家の作品傾向は偏りすぎている。林光、三善晃、松村禎三、一柳慧、湯浅譲二、高橋悠治といった作曲家について話すことができなかったのは残念だし、武満徹にしても、没後10年というメモリアルイベントもあいまって、これだけ世界的名声を誇っているのに、取り上げたのは「秋庭歌」だけとはいかがなものかと非難を受けそうだ。だが開き直るようだが、限られた時間の中で聴ける作品は限度がある。そのためには、ともすると見逃しがちな作品を優先したい。武満は他にいくらでも聴く機会があるから、ここで取り上げるのは1曲にとどまった。

15回をゆるやかなテーマで括るとすれば、「日本の作曲家は、どのように『(自分が)日本人(作曲家)であること』と向き合ってきたか」ということになろう。その格闘ぶりは、現代の作曲家たちに比べ、戦前、戦中の作曲家たちの方がより熾烈だったように思える。「どのように日本人(作曲家)であることと向き合ったか」といっても、その姿は千差万別、集約することなどは不可能だから、それぞれの作品から聴きとっていくしかないだろう。だが言えることは、どのような作風であるにせよ「自分が日本人であること」から完全にフリーになっている作曲家は皆無ということだ。海外暮らしが長ければコスモポリタンになるかといえば決してそうではなくて、かえって強烈な愛国主義者になったりする。振りかぶって言えば、「日本人作曲家であること」との格闘の諸相を見ることは、作曲家たちが「日本とは何か」「日本人とは何か」について考えてきた精神史を辿ることになるだろう。

しかし、それはちょっと振りかぶり過ぎで、要は日本の作曲家たちの作品に興味を持ってもらいたい、その切っ掛けになればということなのである。音楽を専門的に学ぶ人たちが、何世紀も前の、遠い異国の、なかなか想像しがたい階級と生活環境の、測り知れない才能を持った天才たちが作った音楽以外には一切目が向かないというのは、やはり異様なことだと思うのだ。
ただ日本の作曲家たちの作品、特に戦前・戦中の仕事は、故秋山邦晴氏の労作「昭和の作曲家たち」(みすず書房)などをわずかな例外として、十分に検証、紹介されてきたとは言えない。最近になって、NAXOSからシリーズで出ているCD「日本作曲家選輯」や音楽評論家・片山杜秀さんの仕事、紀尾井ホールでの演奏会シリーズ「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」や、芥川也寸志氏の遺志を継いだオーケストラ・ニッポニカの活動などが、戦前から戦中の創作状況をようやく少しずつ伝えてくれるようになった。これらのディスク、演奏会でいくつもの作品が甦ったのはとても喜ばしいことだ。

最終回の2つの作品は、吉川和夫「遠野民譚抄」~歌と十七絃のために (2003/平成15)~よりと、「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」(2002/平成14)。
バリトン歌手谷篤さんの「柳田国男『遠野物語』を歌いたい」という念願を叶えるべく作曲された「遠野民譚抄」は、当然のことながら、いわゆる「歌曲」にはならず「語り物」に近いものになった。「遠野物語」の中から選ばれた7話の文章そのままにフシ付けがされているが、そのフシは、聲明や平曲などからたくさんのエッセンスを得ている。新作聲明「論義ビヂテリアン大祭」で取った方法を、ここでは僧侶ではない歌手が歌うことを前提で行なったということになるだろう。
「2つのヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」でも、聲明から敷衍した旋律が曲をリードしていく。2つのヴァイオリンは、どちらかが優位になるということはほとんどなく、双子の姉妹のように、ひとつの性格の2つの分身のような鏡像をなす。
いずれの作品も瑕があり、完璧な出来栄えとはとても言えないし、簡単には再演できそうにない作品だが、自分なりに集中できた仕事であるとは思うので、この授業の(ゆるやかな)テーマの延長にある表現として聴いてもらうことにした。

2006年8月11日 (金)

日本の謡・歌・唄

現代芸術論第14回(7月27日分)

日本の民謡や民俗芸能を素材にした作品。
間宮芳生「日本民謡集」は1955(昭和30)年に始まり、今なお書き継がれている作品集。作曲者自身、この曲集は「私の作曲の仕事の中心の核のようなもの」と述べているとおり、アルト歌手内田るり子氏との「共同研究」でもあった初期作から最近作に至るまで、間宮作品のエッセンスが凝縮された曲集であると言えるだろう。民謡からの作曲といえば、ブラームス「ドイツ民謡集」、バルトークとコダーイによる「ハンガリー民謡集」、そしてファリャ「7つのスペイン民謡」を思い出す。さらに、歌のパートに対するピアノ・パートの楽しい意外性という意味で、ストラヴィンスキー「4つのロシアの歌」や初期のいくつかの歌曲を加えても良い。間宮「日本民謡集」は、これらの仕事を意識した上で書かれながら、これらのどれよりも端正な居ずまいを誇る。素材となった唄は、「とのさ」や「まいまい」「南部牛追い歌」のようなスタンダードな民謡の他にも、東京・青ヶ島の呪術的な「でいらほん」、八戸神楽による「翁舞の唄と囃子」のような民俗芸能の唄が含まれていて大変多彩。秋田の「杓子売唄」のようにしばしば単独で演奏される作品もある。そして、ピアノパートは単なる「伴奏」ではなく、歌のパートと常に拮抗するように書かれており、そこからは日本の伝統楽器やジャズからのエコーを聴き取ることもできよう。
CDの時代に入ってから長らくディスクで聴くことができなかったが、フォンテックからCDが出て、最新作を含めた全曲を聴くことができるようになった。ルネサンスやバロックの名歌手である波多野睦美、東京混声合唱団時代からの表現者である森一夫による歌唱は、それぞれの曲のキャラクターを的確に表現していて、この作品の決定盤と言うべきディスクになっている。野平一郎、寺嶋陸也のピアノによる優れたサポートも特筆すべきだろう。

今なお書き継がれている間宮作品ということでは、合唱のためのコンポジションを忘れるわけにはいかない。現在第16番まで発表されているこの連作は、ゆるやかに繋がったシリーズを成しながらも、それぞれが強烈な個性を放っている。第5番「鳥獣戯画」は1966(昭和41)年の作品だから40年前ということになる。この作品は、他の多くの「コンポジション」シリーズのように、ノンセンス・シラブルだけで構成されている。この作品を形作る音楽語法は、決して「保守的」ではなく、むしろかなり大胆なものだが、いわゆる「前衛」のそれとはまったく違っていて、聴く者を疎外させるようなことはない。哄笑をたっぷり含んだ大らかな風刺の表現は、鳥羽僧正の筆と伝えられている「鳥獣戯画巻」同様みずみずしく、色褪せることがない。

日本の民謡や民俗芸能を素材にした作品ということで、柴田南雄の仕事にもひとこと触れておきたい。1973(昭和48)年の「追分節考」を皮切りに多くのシアターピースが作られたが、やはり「追分節考」が現われた時の新鮮さは記憶に残る。ここには合唱と演劇と音楽学が融合された面白さ、楽しさがある。そしてこれは、伝承と前衛とをひとつの作品の中で共存させるという実験的な「場」でもあるけれど、単なる試みの範疇だけにとどまったものではない。本来はコンサートホールでの生演奏に立ち会って、音の空間性や重層性を受け取らなければ作曲者の意図が完全に伝えられたとは言えないけれど、ディスクを聴くだけでは致命的に不十分とまでは言えないと思う。シアターピースであるとはいえ、その根幹はさまざまなヴァリエーションを持つ「追分節」が生き生きと構成された美しい音楽で、聴き終わったあとにはほのかな郷愁のようなものが残る。視覚的、空間的要素を取り払って単なる合唱曲としてディスクで聴いたとしても、一定の充実感を味わうことができるのである。

2006年7月25日 (火)

国立劇場の冒険(2)

承前

昭和59(1984)年、石井眞木作曲による新作声明「蛙の声明」の誕生は、プロデューサー・木戸敏郎と国立劇場による三つ目の冒険と言えよう。舞台に登場するのは本職の僧侶たちであり、日々のお勤めの場でのみ唄われていた声明の声に、仏典ではない言葉、伝統的ではないフシ回しが作曲された。日本語の言葉と芸術的な音楽表現との関係は、瀧廉太郎以降様々に試みられてきたことだが、表現者としての僧侶の登場は、日本語の作曲にとって大事件と言えるだろう。またここでは、宗派の異なる声明が同じ舞台に立つという画期的な試みが成功している。
「蛙の声明」は、草野心平の詩と石井眞木の音楽的資質が、幸福に結びついた例である。ただし、草野心平の詩にある破天荒とも言えるスケールの大きさに対峙する石井眞木の音楽的設計は、ダイナミックでありながらも予定調和的であり、全体としてはお行儀良く感じられる。それだけ、草野心平の世界が型破りなものなのだと言えそうだが。

「蛙の声明」の成果は、平成3(1991)年初演の吉川和夫「論義ビヂテリアン大祭」に繋がっている。石井眞木が演者任せにして、細部についてはやや放置した感のある論義風の部分の言葉ひとつひとつについて、この作品では丹念にフシが付けされている。日本語にどのような音を付し、どのようにテンポを伸縮させ、どのような声で歌われることによって、語りと歌との間(あわい)なるものが現出できるか、作曲者がかつてオペラ「金壷親父恋達引」で試みて以来のテーマを、別の面から考える作品となった。声明と狂言の語り、そして唄には、日本語を歌うということの原点があるはずだ。だが、現代の日本の歌、歌曲のほとんどは、そういうところを出発点にするなど眼中にないといった様子である。
「論義ビヂテリアン大祭」は、宮澤賢治の原作の面白さ、田村博巳による優れた構成・演出もあいまって、「秋庭歌」を除けば国立劇場委嘱作品としては異例と言ってもよいほどに再演を重ねている。

国立劇場の作品委嘱活動は、木戸が取り組んだ雅楽、復元楽器、声明以外にも、筝や尺八、打ち物など日本の楽器のためにたくさんの作品が書かれてきた。この活動は、木戸の定年退職後、後輩のプロデューサー田村博巳らに受け継がれるが、1999年第94作を最後にリストは途絶えてしまう。理由はわからない。しかし、そもそも国立劇場というところは、廃絶した作品の復活や普通に上演されているレパートリーの確認が本分であって、新しい作品を作曲家に委嘱する必要などないという、全盛期当時から洩れ聞こえてきていた上層部の声が反映したものでないことを祈るばかりだ。創作のエネルギーを失った劇場は、生きた現場とは言えないからである。

国立劇場の冒険(1)

現代芸術論第13回(7月20日分)

東京・隼町にある国立劇場は、数々の特筆すべき「冒険」を積み上げてきた。ここでは、雅楽や声明に限って記してみる。そのためには、まずこの劇場のプロデューサー・木戸敏郎の大いなる功績を辿ることになるだろう。

昭和45(1970)年に初演された黛敏郎作曲による「昭和天平楽」が、国立劇場委嘱による最初の作品となった。現在この記念すべき第1作は、古いLPレコードでしか聴くことができない。残念なことだ。

「昭和天平楽」に続くのが、昭和48(1973)年に書かれた武満徹「秋庭歌」で、この委嘱作品シリーズは、第2作にして歴史的な名作を世に送り出すことになった。6年後の昭和54(1979)年には、「秋庭歌」を第4曲目に置いた「秋庭歌一具」がまとめられ、全6曲、演奏時間1時間近くを要する大曲となる。
「秋庭歌」という曲名は、雅楽本来の抽象性からはずれることなく、なおかつファンタジーを喚起する、実に的を得たタイトルだと思う。そして、そのタイトルから連想されるファンタジーを裏切ることのない美しい音楽である。これほどに、タイトルと内容が補完し合うタイトルは、なかなかあるものではない。
私は、「秋庭歌一具」の演奏者のひとりとして、初演と最初のレコーディングに参加するという得がたい経験をした。当時、この作品に対する演奏者たちの理解は、全体としては決して高かったとは言えず、武満さんも練習に立ち会いながら首をひねる場面が多かったように思う。だが、初演者である東京楽所のメンバーは協力的であったし、この作品が美しいものであることは理解していたから、真剣に取り組んでいたことは間違いない。近年では、芝祐靖氏率いる伶楽舎がこの作品を重要なレパートリーとして磨きあげ、世界各地で演奏し続けている。その演奏は整然としていて見事なものだが、反面、かつての東京楽所による、やや雑な部分がありながらも大らかなたたずまいを漂わせていた演奏を懐かしく思うこともある。

「秋庭歌」は、初演時から好評をもって迎えられたが、すべての委嘱作品がそうだったわけではない。昭和52(1977)年、シュトックハウゼン「LICHT - HIKARI - LIGHT」の初演では、この国ではあまり例を見ないブーイングが鳴り響いた。しかし、プロデューサー・木戸敏郎は、「賛否両論」というよりはほとんどが「否」の包囲の中で、かえって戦闘意欲を燃やしたようだった。例えば、ある舞楽面を指して、あんなふざけた面をつけて舞を舞わせるとはけしからん!というような批評が載る。「ふざけた」デザインに見えたとしても、それは舞楽の伝統的な面のひとつだったのであり、批評者の無知を晒したというわけで、木戸のその後のアグレッシブなプロデュース活動は、柔軟な思考ができなくなり、根拠に乏しい「伝統」を金科玉条のように掲げ依存する知識人たちへの挑戦という面も、大きくなっていく。シュトックハウゼンのこの作品が良い作品であったかどうかはともかくとして、雅楽創作史上、重要で刺激的な出来事であったことは間違いない。シュトックハウゼンは楽箏の弾き方を誤解しており、ハープのように両手で絃を弾くものとしてこのパートを作曲して演奏者を困らせたが、このことは、かつて楽箏も両手で絃を弾いていた時代があったことを思い出させ、現代では雅楽が日本の中ですら異文化であることを思い知らせることになった。

木戸と国立劇場の冒険の二つ目は、古代楽器の復元である。正倉院の御物に含まれる残欠を基に、推理と試行錯誤を繰り返して、箜篌(くご)や倭琴(やまとごと)、方響(ほうきょう)をはじめとする多くの楽器が復元された。そしてそれらの楽器のための新しい作品委嘱が始まった。一柳慧や石井眞木の作品をもって嚆矢とするが、ここでは最も若い世代の作曲家による優れた成果として、寺嶋陸也「大陸・半島・島」(平成10年、1998)を挙げておきたい。題名は、文字通り中国大陸、朝鮮半島、そして島国・日本を象徴し、古代楽器の伝来と隆盛、そして衰退のドラマを見はるかしている。

2006年7月20日 (木)

雅楽の窯変

現代芸術論第12回(7月6日分)

「窯変」とは、「陶磁器の焼成中、火焔の性質その他の原因によって、素地や釉(うわぐすり)に変化が生じて変色し、または形のゆがみ変わること。」(広辞苑電子辞書版より)

雅楽、舞楽は、特定の情緒や感情をそこはかとなくかもし出すといった芸能ではない。
ある時、宮内庁の某楽人氏に、「舞楽の舞って、難しいんですか?」と尋ねたことがあった。難しいに決まってるのに、なぜそんな愚問を発したのかは、若気の至りと言うしかない。ところが、楽人氏は「いやぁ、ラジオ体操と一緒ですよ」とのたもうた。
ラジオ体操と一緒・・・というのは、もちろんふざけた物言いだが、ポイントを突いた言い方でもあるかも知れない。例えば、この授業で例として挙げた舞楽「還城楽」は、「蛇を見つけて喜んでいる西域の人」というシチュエーション以上に、何か秘められた抒情を表現したりするものではない。「蛇を見つけて喜ぶ」さまを、舞いは躍動感溢れるダイナミックな「型」で表現する。「1、2、3、4・・・」という動きがキレ味良く、また優美に様式化される。
同様に、雅楽も「絶対音楽」であり、標題的内容や喜怒哀楽を表現したりするものではない。

現在伝承されている雅楽は、伝来した当時に比べれば、時間の窯の中で「窯変」していることだろう。そして、舞楽・雅楽を素材に作られた現代作品ともなれば、当然ながら「窯変」ぶりはさらに顕著である。
黛敏郎のバレエ音楽「BUGAKU」(1962、昭和37年)は、エモーショナルであり、時にはデモーニッシュでさえある。そういうことは、古来の舞楽・雅楽ではあり得ないことだろう。そもそもこれは、「舞楽を素材に作られた」と言って良いのだろうか。確かに、舞楽と同じ笛のパッセージや打ち物のリズムが聴こえたりするけれども、本質的には古来の舞楽とはほとんど接点を持っていないようにさえ思える。むしろ、古来の舞楽に思いを馳せながら、まったく新しいBUGAKU~舞踊音楽を創りあげたと考えた方が良いだろう。そしてこのBUGAKUは、このように伝統とゆるやかに繋がりながらも、実験的手法、完璧に施されたオーケストレーションに加え、ハリウッド映画的と言えるくらい通俗的な愛想の良さを併せ持っている。「涅槃交響曲」以降の黛敏郎の作品としては、最大級に腕によりをかけたものであることは間違いない。

松平頼則「左舞」(1958、昭和33年)は驚くべき作品で、手元に楽譜がないので詳細な検討はできないが、おそらくはトータルセリエルの手法で書かれていながら、完全に舞楽に聴こえるという離れ業を成功させている。伝統と前衛をこれほどまでに融合させた作品は、それほど多くはない。全体にはスタティックであり、渋いというより晦渋で、容易に近寄らせてもらえないような印象もあるが、中心楽章である第4曲が、それとはわからないうちに次第に熱を帯びていくのを感じていると、いつの間にかわが身はこの音響に快く浸っていることに気づく。松平作品は、演奏される機会が少ないのがとても残念だ。1950年代の前衛手法を用いていながら、現代でも決して古びた印象はないのである。

黛敏郎「BUGAKU」のディスクを久しぶりに聴き直してみると、これが実に熱のこもった名演であることがわかる。
岩城宏之指揮のNHK交響楽団が、日本の作曲家の作品を精力的に取り上げていた時期の録音。私は残念ながら、岩城氏と直接にはほとんど接点がなかったが、彼が指揮したたくさんの邦人作品の録音を聴いて学んだことは多い。
岩城宏之氏、平成18年6月13日逝去。心よりご冥福をお祈りする。

2006年6月29日 (木)

伝統と前衛~黛敏郎の音楽

現代芸術論第11回

黛敏郎の初期作品、「シンフォニック・ムード」(1950、昭和25年)が naxos レーベルによって初録音され、ディスクで聴くことができるようになった。9分ほどの楽章二つからなる野心作。第1曲では、ドビュッシーやラヴェルに基礎をおく曲想から導かれて、ガムランからヒントを得たに違いないテクスチュアと時間構築によって頂点を作ると、チャールズ・アイヴスやエドガー・ヴァレーズを思わせるような音響的カオスに突入する。第2曲では、ガムランの代わりにラテン音楽のリズムが響き渡る。この作品を21歳で書いたという黛敏郎の早熟ぶりには瞠目すべきだろう。

現代音楽の技法を駆使した音響とガムラン、あるいはラテン音楽との一種の「チャンプルー」という作り方は、「饗宴」(1954、昭和29年)でも基本的には変わらない。そこでは、現代的音響に点描的な鋭角さが加わり、ガムランやラテンに代えてビッグバンド・ジャズが「チャンプルー」される。「饗宴」の後半、ダンス音楽のようなビッグバンド的な部分は、片山杜秀氏の解説によればバーンスタイン「ウエストサイド・ストーリー」のシンフォニック・ダンスからヒントを得たものだという。「饗宴」はずいぶん前から聴いてきたが、その指摘はとても頷けるものだ。

「涅槃交響曲」」(1958、昭和33年)は、日本の梵鐘の音を音響分析してオーケストラ上に再構築したという「カンパノロジー」と名づけられたクラスターばかりが取沙汰されるが、久しぶりに聴き直してみると、カンパノロジーを遠景に、点描的な音色旋律を近景に配した立体的な造形を意図していることがわかる。
「涅槃交響曲」の合唱を、本職の僧侶の唱える聲明・読経によって演奏したらどうかという提案に、黛敏郎は頑として承諾しなかったという話を聞いたことがある。本職の僧侶たちが、「新作聲明」という未知のジャンルに理解を示し、創作に積極的に協力するようになるのは、「涅槃交響曲」が書かれてから25年くらい後のことだが、黛のそのこだわりは、当時協力者がいなかったからという理由ではない。ニューヨークシティバレエのための舞踊音楽「BUGAKU」、あるいは独奏チェロのための「BUNRAKU」や男声合唱「始段唄・散華」にも共通することかも知れないが、本職の声明ではなく、合唱団によって歌われるというのはイミテーションに他ならない。だが、確信犯的にイミテーション状態を作り出すこと、良質のイミテーションを構築し、「舞楽」や「文楽」、「聲明」をコスモポリタンなものにするところにこそ、黛敏郎の目論見があったのではないだろうか。

だとすれば、これらの作品は、「輸出用の」日本文化ということになる。本来あるべき「真正な」日本文化とは質が違うのではないかという議論に発展するだろう。しかし、彼の音楽を聴いていると、コスモポリタンを目指すための切っ掛けとしてイミテーションを作って何が悪い?と問われているような気になってくる。黛敏郎の音楽は、エネルギッシュでダイナミック、そしてすっぱりと割り切っているように迷いがなく陽性だ。通俗性も持ち合わせている。最も意欲的な実験作「涅槃交響曲」でさえ、第6楽章「フィナーレ」の、楽天的とも言いたくなるような現状肯定的クライマックスなどその例外ではない。彼が備えていた完璧な作曲技術は、とりあえず衆目を集めるには十分なものだった。

黛敏郎は、その職人技を駆使して、文芸映画からやくざ映画に至るまで200作品に及ぶ映画の音楽を書き、30年以上に亘ってテレビ「題名のない音楽会」の構成・司会を勤め、ベジャールやバランシンと仕事をしたり、ベルリンドイツオペラやハリウッド映画から委嘱されたりした。また、ミュージック・コンクレートや電子音楽、プリペアド・ピアノの実験者、現代では最初の創作雅楽曲「昭和天平楽」の作曲者としても記憶されるべきだろう。

ストラヴィンスキー「春の祭典」は、彼の生涯にとっては早く書かれ過ぎてしまったために、その後の仕事は心なしか色褪せて見える。同様に、黛敏郎にとっての「涅槃交響曲」も早く書かれ過ぎた傑作だった。その後の演奏会用作品は、どうしても小粒に思えてしまう。
黛敏郎は、おそらく壮年期以降だろうと思われるが、右翼の論客となった。そのことは、彼の音楽を広く普及させることには結びつかず、逆にその音楽までもが色眼鏡で見られてしまうことになった。だが、彼が真正の音楽家・作曲家であったことは、疑い得ない。戦後日本の作曲界の風雲児としての黛敏郎の仕事は、今後も正当に論じられるべきだと思う。

2006年6月22日 (木)

「東洋」の視点(2)

承前(現代芸術論第10回 6月22日の記事の続き)

1941~42(昭和16~17)年に書かれた早坂文雄「室内のためのピアノ小品集」は、楽譜のごく一部分だけ目にふれることはあったが、最近全音楽譜出版社から楽譜が、カメラータから高橋アキさんの演奏でCDが出て、その全貌を知ることができるようになった。

早坂文雄は、この作品の作曲ノートに次のように書く。
 

(前略)室内で誰に聴かせるのでもなく弾いて自らがたのしむといつたもの、このやうなありかたは至極日本的だと思ふのである。
 日本には芸術を生活化するといふ特性があり、生活的現実を離れた芸術といふものはなかつた。西洋のやうな芸術を抽象化して受取ることは東洋人はかつてして来なかつた。
 日常生活における深い静かなそして短くとも芸術味に富んだピアノ曲がほしいと思ふ。さういふもののためにこのピアノ曲を役立てたいと思ふ。(後略)

芸術を生活化すること。例えば、俳句や短歌を詠む。それは生活の中の些細な事象を見つめ、自己と対話することが第一義的な目的であって、句会や投稿というのは二次的な目的だろう。水差しや花瓶や器は、生活用品であると同時に芸術的な陶芸品であり得たし、庭木や盆栽に鋏を入れ念入りに手入れするのは、生活環境を調えると同時に、最も身近な場所に美を演出することであった。そして、そのようなたしなみとして、早坂文雄は17曲のピアノ小品を書いた。これを第一輯として、「第二輯、第三輯とつゞけていく」という構想は実現できなかったが、東洋人としての芸術のあり方についての深い意識を表明したものとなった。20世紀後半では「資本主義社会と社会主義社会」が、また現代では「キリスト教とイスラム教」が世界を二分する対立概念であるように、西洋の芸術に相対する東洋の芸術について探究することは、早坂にとっては創作における心棒のようなものだった。

書籍に「奇書」というものがあるように、もしも音楽に「奇曲」という言い方があるとしたら、交響組曲「ユーカラ」はぜひともそのリストに加えるべきだろう。アイヌの叙事詩「ユーカラ」に基づいたプロローグを含む6楽章からなるこの作品は、それぞれの楽章に元になった物語を持つが、音楽は完全に抽象的で、その筆致のユニークさは比類を見ない。第5楽章「ノーペー」のよるべない静けさは、武満徹「弦楽のためのレクイエム」への繋がりを示唆する。ストラヴィンスキーやメシアンからの影響を指摘するのは容易だが、それをあげつらったところでこの作品の存在意義が揺るぐことはない。瀧廉太郎以降の日本の西洋音楽系作曲家たちが、「西洋に対する日本(そして東洋)」という構図の中でアイデンティティを探り歩んできた道筋のひとつの道標のように、この作品は屹立している。
1955(昭和30)年、早坂文雄は交響組曲「ユーカラ」を遺言のように遺して、その生涯を閉じる。享年41歳。年齢で言えば壮年期真っ只中といったところだが、この音楽は老境の作曲家が辿り着いた境地を見晴るかしているかのように思える。

「東洋」の視点(1)

現代芸術論第10回

今回は、早坂文雄の音楽を聴くことにしたが、どのような選曲にしたら良いか散々迷った。結局取り上げなかったのだが、「序曲ニ調」という1939(昭和14)年の作品から始めるのも面白いかも知れないと思った。「皇紀2600年奉祝管弦楽曲懸賞」で受賞した10分弱の作品だが、奉祝気分の厳かさとはおよそかけ離れたダイナミックな音楽で、後に早坂が担当した映画音楽「七人の侍」を思い起こさせる。だが、曲全体の完成度という点では、やはり「左方の舞と右方の舞」に一歩道を譲ることになるだろう。

1941(昭和16)年の管弦楽曲「左方の舞と右方の舞」は、早坂の代表作と言って良い。「左方の舞・右方の舞」は、舞楽でいう「唐楽・高麗楽」にあたるが、この作品では舞楽の形式や音楽的特徴をなぞってはいない。絵巻物のように、開いていくとひとつの場面が見え、雲か霞かによって隔てられて別の場面が見えてくる、さらに開いていくとまた雲か霞かによる中断があって別の場面が・・・という具合に、次々と抽象化された「舞」が現れる。求心的なクライマックスに向かって進むのではなく、また聴き手に特定の感情を喚起するような音楽でもない。作曲者は、茫洋たるスケールの音楽によって祭祀の場、抽象的な舞が舞われるみやびな場を設けることに腐心しているように思える。

早坂文雄によって、映画において音楽が果たす役割の重さ、映画音楽作曲家の市民権が、はじめて広く認識されるようになったと言っても良いだろう。「酔いどれ天使」「白痴」「生きる」「七人の侍」などの黒澤明監督作品や「雨月物語」「近松物語」をはじめとする溝口健二監督作品などで、早坂は歴史的名画を支える重要な仕事をした。映画音楽が、単なる伴奏ではなく映画を構成する主張を持ったひとつの部分であり、映画音楽を書くことが作曲家にとって大きな表現手段になり得ると示したことは、後に続く作曲家たち、芥川也寸志、黛敏郎、とりわけ武満徹に大きな影響を与えた。
「羅生門」の「タイトルバック」は、笙の合竹(和音)から始まる。コントラバスとティンパニとピアノ(?)によるアクセントに導かれてオーボエが旋律を奏で、金管楽器が和音をはさみ、筝のアルペジオが区切りをつける。今でこそ、このような雅楽器と西洋楽器との混交は珍しいことではないが、1950(昭和25)年あたりまでに西洋音楽系の作曲家によって書かれた作品に、そういった編成のものがあったかのどうか寡聞にして知らない。映画音楽だからこそ、このような編成による作曲も容易だったのかも知れないが、こうした和洋楽器が混交する響きの実験は、武満徹の数々の映画音楽や「ノヴェンバーステップス」などの作品に引き継がれていくことになる。
「真砂の証言の場面のボレロ」は、あまりにもラヴェルの「ボレロ」に酷似しているということで、当時は物議をかもしたと伝えられる。昨今も、日本の画家の作品がイタリアの画家の作品を盗作した疑いがあるとかで、文部科学省まで巻き込んだ大きな騒ぎになっているが、昨今の騒ぎと決定的に違うのは、「羅生門」のこの音楽を聴いたすべての人は、下敷きがラヴェルだとわかるようになっているということだ。また、模写に近い方法を取っていることは確かだが、ラヴェル「ボレロ」の持つエクスタシーに向かうような幸福な高揚感はここにはなく、心理的に追いつめられていくような切迫感が取って代わっている。リズムと音色が似かよっていても、旋律や和音が違うことで、結果的にはまったく逆方向の音楽を目指すことができるのである。(続く)

2006年6月15日 (木)

戦後社会の息吹き

現代芸術論第9回

1947(昭和22)年から1950(昭和25)年までに書かれた作品から。

平尾貴四男「ヴァイオリンソナタ」は、軍隊から復員した直後から着想され、1947(昭和22)年に完成された。モデラート~アレグロ、アンダンテ、ヴィヴァーチッシモという3楽章構成は、いうまでもなく古典的なフォルムであり、このソナタが志向するフォルムも、そこから逸脱しようとするものではない。日本的な旋法や旋律とフランス風の澄んだ音色感が、安定した構造の中でごく自然に融合される。それにしても、復員して間もない時期に、こんなに充実した音楽の作曲に取り組めるものなのだろうか、敗戦を経験した虚無感に苛まれるようなことはなかったのだろうか・・・。私は、まずそのこと、平尾貴四男が音楽に傾けた気概の強さに驚く。戦争が終わって、これからは自由に音楽を書けるという解放感が、この作品の「ひたむきさ」に反映している。「ひたむきさ」、そして作曲家がこの作品に賭けた気概は、特に両端の楽章で熱く伝わってくるが、しかしそのことが過剰になりすぎて、フランスに学んだこの音楽家の、教養人としての気品を崩してしまうようなことはない。上質のロマン(フランス語の小説)を読んでいるような印象がある。さらに言えば、それは原語でではなく、優れた翻訳で読んでいるようなということになる。

昨年の秋、外山雄三指揮の仙台フィルが、尾高尚忠「交響曲第1番」を蘇演したので聴きに行った。単一楽章ながら、リヒャルト・シュトラウスの洗礼を存分に浴びたとおぼしき大交響曲のたたずまいで、充実した構成、オーケストラを知り尽くした書法には大変感銘を受けた。敗戦直後の日本に、こんな立派な交響曲が生まれていたのだ。さらに驚くべきは、この作品は単一楽章であると誰しもが考えていたのに、実は作曲者には、続く楽章の構想があったということだ。全楽章が完成していたらマーラーばりの巨大交響曲になっていたかも知れない。1948(昭和23)年に書かれた「フルート協奏曲」は、同年の「交響曲第1番」の厳しい仕事の余滴から成されたと言われ、全曲でも約15分、決して規模の大きな作品ではないが、尾高尚忠の代表作であると同時に、日本の作曲家による協奏曲を代表する作品であると言っても過言ではないだろう。後期ロマン派風色彩の中に、日本的な旋律が見事にブレンドされ、その意味では平尾貴四男の前出作品との共通点がありそうだ。熟達したオーケストレーションにも注目すべきだろう。そして、第2楽章の異国風(スペイン風?)な、時に増音程を含んだカンティレーナは一体何だろう・・・久々に聴いてみると、今まで気がつかなかったそんなことが気になった。

1950(昭和25)年に書かれた名高い芥川也寸志「交響管弦楽のための音楽」については、あらためて論ずるまでもあるまい。戦後社会を象徴し、来るべき高度成長期を予告するかのような活気に溢れた音楽。10分に満たない作品だが、ひとつの時代の終わりを告げるには十分なものだっただろう。同時に、日本の作曲家たちにとっての「アイドル」が、ドイツやオーストリアやフランスの作曲家ではなく、ソヴィエト連邦の作曲家たちに変わっていったことをも象徴している。

2006年6月 8日 (木)

敗戦から戦後へ

現代芸術論第8回

1944(昭和19年)に作曲された守田正義「バラード」と深井史郎「三つの歌~戦死せる彼等のために」は、ともに同年12月に初演される予定だったのが、当日空襲警報が発令されたため演奏会が中止となり、初演は「戦後」にずれ込んだ。また、安部幸明「クラリネット五重奏曲」は1943(昭和18)年の作だが、初演されたのは「戦後」だった。

守田正義は、プロレタリア音楽運動の担い手として知られているが、ピアノ曲「バラード」は、そういったイメージとは少し違っている。「プロレタリア音楽」が何を意味するかを明らかにしないといけないだろうが、少なくともこの「バラード」は、ショパンから始まる同名の曲の歴史を受け継いだ音楽で、その根ざすところは内面的であり、体制に対してプロテストするといった表情よりも、むしろロマンティックな思索の記録のように思える。

深井史郎の歌曲「三つの歌~戦死せる彼等のために」は、副題が示すように戦死した者たちへの哀悼の曲である。死は美化されることなく、ごく普通の生活者の視線で、残された者の悲しみを描く。戦死をテーマにしながら、軍歌でもなく戦意高揚歌でもないこのような芸術的歌曲が、戦局真っ只中の時期に作曲されていたことは驚きだ。深井史郎の現実認識の確かさを示したものと言っても過言ではないだろう。

安部幸明「クラリネット五重奏曲」は、浮世離れしていると言えばそれまでだが、率直でけれん味のない清潔な音楽。昭和18年に書かれたということは、知らされなければ想像できないに違いない。しかし、このようなのびのびした音楽がこの年代に書かれていたことを知って、何かほっとする。

指揮者として知られる山田一雄の組詩「祖師ケ谷より」は、何よりも作曲者自身の言葉が、この作品を作ろうとした気分を示している。「その八月といえば日本じゅうの誰もがおなじこと、このわたしにもどうにもならない虚無が宿っておりました・・・」そんな時に、深尾須磨子の詩が山田一雄の作曲家心を揺さぶった。「小さな小さな地球の襞/私は祖師ケ谷をつまみあげる/そして裏返したり/はたいたり/蛇や蜥蜴を追いだしたりして/やがて私はもとどおり/盆景をならべる」「祖師ケ谷」という足元の土地、その自然、そこに住まう人々を見つめ、美しい盆景を描くこと、それこそが戦争からの解放感を歌うことだった。

伊福部昭「土俗的三連画」は1937(昭和12)年の作品だから、この回のテーマにはそぐわない。だが、昭和20年8月28日に、敗戦後初めて放送された管弦楽曲の一つがこの作品だったということから取り上げることにした。敗戦直後の人々にとって、この作品はどんなふうに聴こえたのだろう。古風とモダン、懐旧と未来、スケールの大きさと音色の繊細さ、民衆的であり尚且つ孤高・・・相反する(かに思える)これらの概念の両方が伊福部昭の音楽にはある。そんなアンビヴァレンスな魅力が再発見されて、近年若い人たちの間に大ブレイクを引き起こした。作曲家として最高に幸福な晩年だっただろうと思う。

2006年6月 1日 (木)

封印された音楽~信時潔をめぐって

現代芸術論第7回

ピアニスト・花岡千春さんの演奏による「木の葉集~信時潔ピアノ曲全集」(Bellwood Record)というCDが出て、信時潔の作品の多くを聴けるようになった。1928(昭和3)年に書かれたピアノのための組曲「野花と少女」は、作曲者曰く「愛好するシューマンのピアノ小曲にならって」書かれたという、3曲からなる小品連作。シューマンからの影響とともに、シューマンが聴いたであろうドイツ民謡からも、多くのインスピレーションを受けているように聴こえる。そして、ところどころには日本音階がこだまする。
15曲からなる組曲「木の葉集」は、さらにキャラクターの強い小品が並ぶ。ドイツ民謡調だったりロシアの田舎の踊りのイメージだったり。全15曲まとまって一つのことを訴えかけようするというよりは、1曲ごとの意匠を楽しんでもらいたいという趣旨であるように思える。

1936(昭和11)年の「沙羅」は、信時潔の代表作と言って差し支えない。簡素な造りで整えられた8曲の連作歌曲。実直なこの作曲家の性格を映してか、派手さはないが同時にあざとさなど微塵もない潔癖な作品だ。現在入手できるCDは、柳兼子83歳の歌唱によるもののみ。西洋音楽の発声で日本語を歌う技術において草分け的存在であるアルト歌手柳兼子の歌唱は、年齢によると思われる声の震えは多少あるものの、その表現力には目を瞠らされる。時に伝統的な日本音楽の歌唱のように聴こえたりするのは、彼女が小さい頃から長唄に親しんでいたことと無関係ではないだろう。

ここまで挙げたような作品は、これからも無条件で演奏されていくだろう。問題は、「海ゆかば」と「海道東征」である。

「海ゆかばのすべて」というCDがある(キングレコード)。さまざまな編成の「海ゆかば」が、録音の新旧や別の作曲家による異曲もとりまぜて25種類収録されている。中には、林光編曲による弦楽四重奏版(映画「東京100年」挿入曲)や、寺嶋陸也演奏によるグルリット作曲「『海ゆかば』変奏曲」抜粋のような珍品もあるが、やはり海軍軍楽隊の演奏によるものや、出陣学徒壮行会実況録音などは、この歌が背負った不幸な歴史を如実に語っている。私の母親は昭和4年生まれだが、「海ゆかば」は、事あるごとに聞かされたし歌わされたと言い、今でも詞章がスラスラと口をついて出る。この世代の人たちは皆そうなのだろう。戦後は、テレビのワンシーンでの効果音としてか、街宣車の大音響でしか聴くことはできない。いい曲なのに・・・と多くの人は言う。実際、曲の半ばで借用和音(ハ長調に対してイ短調からの)が大変効果的に使われ、曲を引き締めている。そして、歌詞を外して、例えば弦楽四重奏版などで聴くと、ほとんど賛美歌のようにも聴こえる。

おそらく日本で最初の交声曲(カンタータ)である「海道東征」1940(昭和15)も、皇紀2600年奉祝行事のために、戦争協力機関からの委嘱によって書かれたという出自を持つのでなかったら、封印される必要はなかっただろう。北原白秋による詞章は、目で読むとかなり晦渋に感じられるが、信時潔は随所に美しい旋律を付している。大らかで剛直、そしてここでもエキセントリックな夾雑物のまったくない潔癖さで、作品はすっくと立っている。この国の「天地創造」の物語を歌うカンタータは、元になった伝説とともに長く健康的に受け入れられて良いはずだった。

天平12年、建立された大仏を覆う金の発見に関わる大伴家持の言立てが、太平洋戦争兵士の殉死を美化する歌にすりかえられたことで、「海ゆかば」の生みの親・信時潔は国民的作曲家になったが、戦後は、葬り去るべきものとして「海道東征」とともに封印されてしまった。彼の保守的な作風が、戦後日本のモダニズムからは受け入れにくいものであったことも大きく関係しただろう。
だが、あらためて作品を聴いてみると、その精神は瀧廉太郎に象徴される唱歌、さらに遡って賛美歌や民謡にまで、まっすぐ繋がっていることがわかってくる。信時潔の音楽は、同じく賛美歌から出発した山田耕筰流の、マニエリスムとも言えそうなレトリックとは対極にあって、朴訥な農民のように邪気がなく率直である。「海ゆかば」や「海道東征」のメロディーやハーモニーからは、「会衆による祈りの歌」とでもいうような穏やかなこころが聴こえてくる。玉砕を強いるような暴虐な思想は、ここにはない。
音楽に染みついてしまった血を、きれいさっぱりと洗い落とすことができたら、どんなに良いだろう!

2006年5月29日 (月)

ピアノ・デュオの至福

斎木ユリさんと浅井道子さんのTierra ピアノデュオの夕べを聴いた(東京文化会館小ホール)。1曲目は連弾で、シューベルト「幻想曲D.940」。人間の感情のみなもとを見つめるかのような、澄んだ悲しみに満ちた冒頭から、お二人の音はこよなく美しく、そして豊潤。音楽の中にごく自然に引き込まれていく。2曲目は寺嶋陸也編曲による、プロコフィエフ「古典交響曲」。アルゲリッチが愛奏しているこの寺嶋編曲は見事なリダクションで、まるで2台ピアノのためのオリジナルとして書かれた作品のようだ。演奏もプロコフィエフの遊びプラス真面目精神をよく受け継いでいる。後半はすべてピアノ2台で、三善晃「唱歌の四季」のあと寺嶋陸也の委嘱新作「幻想曲」。この「幻想曲」、合唱ファンタジー「オホホ島奇譚」(3月29日の記事参照)と関連があるので、作曲者は「オホホ幻想曲」と呼んでほしいらしいけれども、それだったら最初から「オホホ幻想曲」とすれば良いものを、そうはしなかったところにこれら2作品の間の距離がある。この「幻想曲」は合唱ファンタジー「オホホ島奇譚」からはまったく独立していて、「オホホ島奇譚」を知らずともその端正な構成を楽しめる佳品である。最後は、寺嶋、斎木隆両氏がゲストとして加わっての2台8手で林光「鳥たちの八月 あるいはナガサキ1984」。林さんのソング「新しい歌」が、8手から紡ぎだされる音の渦の間から浮かび上がってくる。本プロの後は、ショスタコーヴィッチ編曲「二人でお茶を」をさらに寺嶋が2台8手に編曲したという美味しいアンコール付き。

斎木さん、浅井さんには、合唱などの伴奏者としてお世話になった人が多いだろう。しかし、このコンサートを聴けば、彼女たちが単なる「伴奏者」ではなく、非常に優れたアンサンブル・ピアニストであることがわかる。ピアニストは、ある意味孤独な種族である。ピアノという楽器は過不足なき構造を持っていて、大抵のことは何でもできてしまうために独奏曲が多く、たった一人だけで練習するということが日常になっている。しかし、今夕のようなコンサートを聴けば、どんなピアニストでも、このような音楽の楽しみ方、表現の仕方があるのだと、改めて感じさせられるだろう。ピアノを学ぶ人たちにとっても、元気づけられることだと思う。

2006年5月25日 (木)

戦争と交響曲 1940年を軸に

現代芸術論第6回

1940(昭和15年)、歴史的根拠のない「皇紀2600年」のために、多くの音楽家が動員された。中でも最大のトピックは、各国の5人の作曲家が「皇紀2600年を奉祝するための作品」の作曲要請に応じたことである。リヒャルト・シュトラウス、ピツェッティ、イベール、ヴェレシュ、そしてブリテン。ドイツ、イタリア、フランス、ハンガリー、イギリスの代表として、彼らの作品は国際親善と国威高揚のシンボルとなった。あるいは、なるはずだった。

リヒャルト・シュトラウス「皇紀2600年奉祝音楽」は、5つの部分からなる交響詩仕立て。元々はそれぞれの部分に標題があり、「海の風景」「桜の祭り」「火山の噴火」「侍の攻撃」「天皇賛歌」というものだったという。この音楽には、リヒャルト・シュトラウスの様々な名高い交響詩のようなキレはなく、たしかにリヒャルト・シュトラウスの音楽的な特徴は聴き取れるけれども、深みのある作品とは到底思われない。最終部分など、「1812年」も裸足で逃げ出す滑稽なほどのクライマックス。しかし、だからと言っても、リヒャルト・シュトラウスにはニッポン国の馬鹿げたマツリゴトを戯画化する意図はなかっただろう。

ブリテン「鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)」は、皇紀2600年奉祝音楽会では演奏されなかった。おめでたい祝典にレクイエムとは何ごとだというわけである。演奏が易しくないことも、初演が見送られた一因かも知れない。第2楽章は「ディエス・イレ」と記されているが、おなじみの「怒りの日」のグレゴリオ聖歌の旋律は聴き取れない。けれども、機関銃が連射されるような激しく攻撃的な曲想で魔神が跳梁跋扈する、これはまぎれもなく「死の舞踏」である。そして第3楽章は「レクイエム・エテルナム」。このようなキリスト教的昇華が「皇紀2600年奉祝」にそぐわないと指摘した関係者がいたのだろうか。

諸井三郎「交響曲第3番作品25」は、1943年から44年(昭和18年~19年)にかけて作曲された。第1楽章「静かなる序曲~精神の誕生とその発展」は、この部分だけで15分、この楽章だけでも、完結した内容を持った大交響曲の風格がある。第2楽章「諧謔について」は、ショスタコヴィッチを思わせるグロテスクに歪められたスケルツォ。最後から15秒ほど前、トランペットが突然悲鳴のような叫び声を上げ、小太鼓が応える。これが軍隊ラッパの狂気の象徴でなくて何であろう。第3楽章のタイトルは「死についての諸観念」。ここでいう「死」は自然死を意味するものではないはずだ。強いられた死、志願した死、理不尽に身近に迫る死。おそらくは「様々の不自然な死についての様々な観念」だ。死を賛美するのではなく、またいたずらに怯えたり悲嘆にくれたりするのでもなく、真正面に見据えて想念する厳粛な音楽。諸井三郎は、この曲を遺書のつもりで書いたのだろう。演奏時間33分を要する全曲の、どこを取っても緩みのない、大変に思いつめた音楽である。だが、思いつめてはいるが、決して戦争賛美的、大政翼賛的ではなく、また同時に反戦・厭戦的でもない。具体的に知らされなかったとしても、戦局の厳しさは感じられていただろう。悲壮な覚悟が号令され、国全体が冷静さを失っていたであろう時代に、これほどまでに思索的な作品が作られていたということをぜひ知っておいてほしいと思い、あえて全曲を聴いてもらった。

ブリテンと諸井三郎のこれらの交響曲は、直接的に戦争を描いた交響曲ではない。だが、その誕生が戦時という時局と無縁だったとはとても思えない。ブリテンは肉親へのレクイエムのかたちを、諸井は一般的概念としての「死」への想念の姿をとりながら、戦争という現実を抽象化して、交響曲という彫塑の中に刻みこんだ。どれほど現実が醜く戦争が悲惨でも、刻み込まれた音楽は美しい。そして、この美しさに伴うやりきれなさは、人間という哀れな存在への愛惜なのかも知れない。

2006年5月20日 (土)

「ガリバー」

オペラシアターこんにゃく座公演「ガリバー」を観る(朝比奈尚行=台本、萩京子=作曲、立山ひろみ=演出、東京三軒茶屋・シアタートラム)。

原作はジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」だが、訳者は原民喜。これを選択した時点で、あたりまえのメルヘンで済むはずがないことは明らかである。果たして朝比奈台本は、原民喜再話による「ガリバー旅行記」と、「夏の花」をはじめとする被爆体験を刻んだいくつかの作品との間を往還し、そこにオリジナルな言葉、原民喜を現代から見つめるような視点が加味されるものとなった。

廃墟を思わせる場に、巨大なジャケットが不安定な角度で吊り下げられた舞台セット。冒頭から爆撃機の飛来音に覆われ、「ガリバー」の物語はいずれ「被爆体験」と重なっていくであろうことを予測させる。
萩さんの音楽は、往還する二つの局面、どちらの場面でもあまり大きく変化することなく進んでいく。「ジャストマイサイズ」というタイトルの、ちょっとポピュラーソング風な歌などを除けばあまり寄り道はしないし、こちらの場面だからこういう音楽手法・・・といった「書き分け」は聴き取れなかった。9年ぶりの大改訂とはいえ、この作品に対する思い入れの深さが、音楽的寄り道を止めるのだろうか。ピアノ、ヴァイオリン、クラリネットを過不足なく使い(ことにバス・クラリネットがとても効果的だった)、役者の奏する種々の打楽器が要所を引き締めている。

二つの局面の像がはっきりと結ばれていくのは後半である。「死なない人間」のいる国や、馬の国の支配者フウイヌムと人間そっくりな醜い生きものヤーフの話、そして川の中に浮かぶ裸体の少年の屍体や、原爆投下の数日後練兵場の柳の木のそばで悄然とたたずんでいた馬の姿について語られる場面と進むにつれて、原民喜が呻くように遺した言葉は厚く折り重なっていく。それらの言葉は何とも重いのだ。「ほらはやく/不吉な黒雲の下/嵐のまっただ中へ/船の向きを変えなさい/大好きなわたし」というラストの歌は、それまでモノトーンだった上着の下から淡く彩色された衣装があらわれ、ほのかな希望を求めるように舞台は明るく美しくなるが、それまでに溜まった言葉の重さを受けとめきることはできない。筋肉が引きつって笑顔にはなれないといった感じ。もっとも、このひとつの場面だけで折り重なった重さを昇華しようとすれば、嘘臭くなってしまうことを作り手たちはわかっているだろうから、微妙な空気のまま幕が下りる。淡く現われる前向きな歌、そのさなかにこそ爆撃機は飛来するというのがおそらく現実だろう。二度挿入される漫才をもじった狂言回しなども、あまり面白くないから哄笑を呼ばないが、そもそも哄笑を呼ぶ意図はないのだろうから、やはり気配は微妙である。

しかし、被爆というテーマは、どんなかたちにせよ愚直なまでに語り続けられるべきであると、私は思っている。けれども、観念的に憤ってみたり、根拠もないのに未来に能天気な希望を見出そうとしたりすることにもまた抵抗を感じるのだ。大声ではないがはっきりとした言葉で語る微妙な後味は、戦争を知らない世代がこの重いテーマに向き合ったひとつの真摯な回答例であると言えるのかもしれない。

2006年5月18日 (木)

1936年~1938年の管弦楽曲

現代芸術論第5回

ナクソスレーベルから日本作曲家選輯なるシリーズが次々と発売されて、日本人作曲家の、特に戦前の作品に俄然光があたるようになった。定価1,000円のこのシリーズは、発売されるたびに大手CD店のクラシック部門売り上げ上位となり、日本人作曲家に多少とも興味がある人たち、それも結構若い人たちの間で話題を呼んでいるようだ。毎回、片山杜秀さんの詳細極まる解説がついていて大変有り難いのだが、そのためにブックレットはぶ厚くなり、活字は細かくなり、老眼が進みつつある眼を悩ます。

カンタータ「人間をかえせ」などで知られる作曲家大木正夫に、「日本狂詩曲」(1938)なる作品があることを知ったのは、ごく最近のことである。交響曲第5番「ヒロシマ」(1953)を収録したナクソスCDの余白に収められたかたちの「日本狂詩曲」は、異様ともいえるほどの活気を帯びて、同名の題を持つ伊福部昭のデビュー作(1935)と対照をなす。福島県の盆踊り唄と「木曾節」が素材となっているとのことだが、元唄から連想できるようなそんなのどかさはどこにもない。まるで狂乱のカーニバル、ということはつまり「狂詩曲」本来の意味を踏まえているというわけか。

深井史郎「パロディ的な四楽章」(1936)は、日本的な素材とはおよそ無縁で、その無縁ぶりが興味深い。そして各楽章には、パロディの元になったとされる作曲家の名前がつけられていて、作曲者はご丁寧にそれぞれの作曲家に宛てた手紙のような文体でプログラムノートさえ残している。しかし、聴き手がそれに振り回されるのは、どうも考えものであるようだ。第1楽章は「ファリャ」と記され、確かに「スペインの庭の夜」を思わせる響きはする。けれども、だからこれはファリャのパロディであると言い切ってみても、この曲に近づいたことにはならない。第4楽章「ルーセル」などは、初期稿では「バルトーク」だったのだ。作曲者は、謎解きをするようなふりをして、実はさらなる謎を積み上げてほくそ笑んでいるかのようだ。であるならば、こちらもその謎解きは斜に眺めて、音楽そのものを楽しませてもらうのが良かろう。
昭和11年。この曲が書かれたのは、若い人たちにとってはもちろんのこと、私にとってさえ時代劇のように古いむかしだ。だが、そんな時代に、これほどにもモダンで洒落た作品が書かれていたことに驚嘆してしまう。

驚嘆といえば、大澤壽人という、今ではほとんどその存在を忘れられている作曲家が、「ピアノ協奏曲第3番変イ長調」というタイトルの作品を戦前に書いていることを知ったときも、かなり驚いた。交響曲は、日本でも山田耕筰以来少しずつ書かれていたが、協奏曲、しかもピアノ協奏曲を昭和13年までに3曲も書いていたという作曲家は、他に思いつかないのだ。そして、当時の日本人作曲家の作品には標題音楽的な題名が多い中、この堂々たるネーミングである。オーケストラ・ニッポニカと野平一郎さんによる「おそらく初演以来65年ぶりの蘇演」の録音を聴いて、またぶっ飛んだ。3楽章から成り演奏時間は約25分、曲の構成、独奏とオーケストラとの関係、オーケストレーション、そして曲想から湧きあがるファンタジーなど、どれを取っても見事なコンチェルトで、こんな怪物のような作品を生んだ作曲家の存在が長い間忘れられていたことに、時が過ぎゆくことの酷薄さを思い知らされるのだ(大澤壽人を、昭和のファンタジスタと呼ぼうか)。どこかジャズ的な雰囲気が漂うこともありながら、やはり全体を振り返れば剛速球の直球勝負。さらに、この作品には、「糠味噌臭い」ようなところが微塵もない。作曲者の名前を伏せて聴けば、誰も日本人作曲家の作品だとは思わないだろう。近代フランスあたりの作曲家かしらと思うだろうか。あるいは、プロコフィエフにもう1曲ピアノ協奏曲があったのかと思われるだろうか。

これらの3曲からは、上気して火照っているかのような熱気、熱風が共通して感じられる。それは単なる偶然だろうか。「皇道派青年将校が挙兵、閣僚らを殺害(すなわち2.26事件)」「蘆溝橋で日中軍が衝突」「日本軍が南京で大虐殺事件を起こす」「国境紛争が起こり、日ソ軍衝突」・・・1936年~1938年の年表を見ていると、こんなきな臭い事項が列挙されているのがわかる。音楽作品から感じる熱気と歴史的事件とを安易に結びつけることは慎まなければならない。だが、音楽の沸騰ぶりと政情の急傾斜ぶりが完全に無関係であるのかどうかもまた、わからない。

2006年5月11日 (木)

1930年代の器楽曲

現代芸術論第4回

たまたま音源が手元にあった3曲のヴァイオリンとピアノのための作品は、昭和6年から12年までの間に作られている。この3曲は、いずれもジャポニスムを強く意識している作品だが、そのアプローチの仕方はだいぶ違っている。

橋本國彦「侍女の舞」(舞踊劇「吉田御殿」より、昭和6年)は、舞踊劇の中の音楽ということもあるだろうが、まさに絵に描いたようなジャポニスムぶり。だが、よく聴いているとかなりモダンな和音によって彩られているのがわかる。日本情緒纏綿たる旋律はいわば食材であって、シェフたる作曲者は自在にそれを料理し操っていく。つまり、彼はこの音楽に主情的にのめりこんではいない。ラヴェルがそうであるように、旋律や和音や音色の意匠工夫が腕のふるいどころという橋本國彦の職人意識がうかがわれる。

それに対して、貴志康一「月/花見」(昭和9年?)は、濃厚なジャポニスムを吐きだしながらも、ドイツロマン派的なパッセージが突然姿を現したりする。若くしてドイツに渡り、カール・フレッシュにヴァイオリンを、フルトヴェングラーに指揮を、ヒンデミットに作曲を学び、ベルリンフィルを指揮した最初の日本人となった貴志康一にとっては、母国の音楽情緒とともに、ドイツ・ロマン派の、たとえばブルッフあたりのヴァイオリン作品に対しても強烈な憧れがあったに違いない。ジャポニスムとドイツ的ロマンティシズムがどちらの色も濃いままにないまぜになったこれらの作品はいささか奇妙な風情だが、実はそれは作曲家としてのアイデンティティーをひたむきに求めようとしたための軋みのようにも思える。

箕作秋吉「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」(昭和10年)は、たいそう落ち着いた大人の音楽で、第1楽章冒頭のピアノは明らかに筝の音色を模しているが、日本的な素材は咀嚼されており、いわゆるジャポニスムという呼称は似つかわしくないだろう。派手な音楽ではないが、名品として記憶されて良いものだと思う。

江文也については、まだ知られていないことがたくさんある。台湾に生まれ、日本に「内地」留学し、「日本の」作曲家として活動。昭和13年頃からは、日本と大陸中国とを行き来しながら、北京や上海の文化・芸術に自らのアイデンティティーを見いだす。だが一方、国策映画の音楽なども書いたために、戦後は北京で投獄されていた時期もあったという。その後復活するも、文化大革命では「ブルジョア的」の烙印を押されて下放。亡くなる数年前に「名誉回復」されたというのがせめてもの救いだが、まさに運命に翻弄されたこの作曲家の作品は、現在はほとんど演奏されていない。ジューイン・ソンの演奏によるCD「日本時代のピアノ作品集」におさめられている「三舞曲」(昭和10年)など、もっと普通に演奏されてしかるべき作品のように思う。

最後は、尾崎宗吉の「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番」(昭和14年)。緩・急の2つの楽章からなり、演奏時間は11分ほどだが、このような2楽章構成でヴァイオリンソナタを書く場合の模範とでも言えそうな安定感のある堂々とした作品である。師である諸井三郎仕込みの絶対音楽を、彼も目指していたのだろうか。尾崎宗吉は、このソナタを完成直後出征し、昭和20年に中国大陸で戦病死する。尾崎が戦後も生き永らえて作品を書き続けていたら、おそらくその後の作曲界に大きな影響を及ぼしただろう。

それにしても、江文也も尾崎宗吉も、そして貴志康一も、これらはみな24~25歳の時の作品なのである。何と早熟、何と大人だったことだろう!

2006年4月27日 (木)

作曲家の栄光と悲惨~橋本國彦の音楽

現代芸術論第3回

学生くんたちのほとんどが、瀧廉太郎や山田耕筰は知っていても、橋本國彦の名や作品を知らない。そんな彼らに、橋本作品のいくつかを聴いてもらうことができただけで、この授業は意義があっただろう。
古典舞曲<サラバンドの面影>の端正なたたずまい、歌曲「お菓子と娘」の清楚でおしゃれな美しさ、歌曲「薊の花」に聴こえる日本音階と西洋近代和声の融合・・・大正から昭和初期にかけてのこの国に、こんな音楽作品が生まれていたのは何と素敵なことか!だが、橋本國彦の才能はそこに留まるものではなかった。「班猫」「舞」と続く歌曲では、山田耕筰の流儀とはまったく違う作曲術でドビュッシー流の朗唱やシュプレッヒシュティンメが実験され、海外の最新の音楽的思潮が彼のすぐ隣にあったことが示される。かと思うと、新民謡「富士山見たら」やノーエ節のリミックスである「旅役者」からは、いささか浮薄にも見える曲想の中から一味効かせた伴奏が聴こえてくる。そして、彼の作品に見られるジャポニズムは、内側から滲み出たものというより、外側からの憧れ、エキゾチシズムとしてのジャポニズムに近いものであるように思える。
彼の音楽的才能は、求めに応じてところ厭わず振りまかれた。前衛的な手法を用いた純音楽から歌謡曲、CMソングやラジオ体操の音楽まで彼は作曲した。そしてまた、東京音楽学校の教官として戦争に巻き込まれていく。戦意高揚を目的とした音楽活動にまで、彼の才能は消費されることになる。

昭和15年に書かれた交響曲第1番ニ調は、皇紀2600年奉祝曲であるという出自に惑わされることなく評価されるべきだろう。マーラーのように、それまでとはまったく違う曲調が突然カットインされたりする第1楽章、琉球音階による主題がボレロ風に積み重ねられていく第2楽章、そして第3楽章は唱歌「紀元節」(伊沢修二作曲)を主題とする8つの変奏とフーガだが、彼はどの楽想をも、交響曲を構築するひとつひとつの素材として冷静な視点で扱っていく。主題は自在に変形される、たまたま主題が「紀元節」という曲だっただけのハナシ・・・作曲者には主題を変形し展開させていくのが面白くて仕方がない。フーガまでくると、こんな主題だが料理の仕方によってはこんな音楽が作れるんだぞと言わんばかりの腕の振るいようである。あくまでも作曲家の目は、この主題をどう展開させると音楽的に豊かな楽章が出来あがるか、その一点にしか感心がないように思える。皇紀2600年におもねって筆をすべらせている感じがほとんどしないのだ。

橋本には、戦時中の活動の責任を負う必要があったのだろうか。確かに多くの戦時歌謡を作っている。しかし、それは橋本ひとりのことではない。音楽家を束ねる役割を果たし、軍服を着て日本刀を下げて歩いたという山田耕筰に対して、戦争責任を追求する声が沸き起こっていた。しかし、その論争はほどなく霧散する。結局、山田はその後も音楽活動を続け、橋本は公職を辞した。戦後の橋本に残された時間は、ほとんどなかった。遺作「アカシアの花」は通俗的な歌曲だが、美しい旋律の上に漂う寂寥感は晩年の心境を映し出しているようだ。いや、そう感じるのは、思い込みが過ぎるだろうか。晩年といっても、没年44歳なのだが・・・。

2006年4月20日 (木)

山田耕筰

現代芸術論の第2回「山田耕筰再考」

史実に「たら」「れば」を問うことの愚かさを承知の上で、やはりこの作曲家、日本における西洋音楽受容と啓蒙、そして創作の道を拓いた山田耕筰の年譜を見ていると、どうしても様々な「もしも・・・」を考えてしまう。

1912(明治45)年、ベルリン留学中に作曲した「序曲ニ長調」、そして同年引き続き書かれた交響曲「かちどきと平和」は、それぞれ日本人が最初に作曲した管弦楽曲、交響曲となった。ドイツ古典派、もしくは前期ロマン派をお手本に書かれたこれらの作品は、青春の大作にふさわしい輝きとみずみずしさを持っている。そして、これは誰もが言うことだろうが、翌年の交響詩「暗い扉」「曼陀羅の華」は、様相がすっかり違っている。この曲で思い浮かぶのはベートーヴェンやシューベルトではなく、リヒャルト・シュトラウスなど後期ロマン派のスタイルだ。彼は1年間の間に、まるで100年を駆け抜けたような様式上の変化を遂げた。そしてそれは、単に彼にとってのアイドルが入れ替わったというだけではない。この疾走を経て、彼は作曲家としての個性を獲得したのだった。

一時帰国のつもりが、第一次大戦勃発のためドイツに戻ることができなくなる。もしも、ドイツに戻ることができたら、ドイツで作曲活動を続けることができたら、彼はどんな作曲家になっていただろうか・・・。おそらく、第二の、あるいは第三の交響曲が生まれただろう。もっと大規模な交響詩が何曲も構想されただろう。北原白秋をはじめとする様々な詩人とのたくさんの歌曲は生まれなかったかも知れないが、国際的に活躍する最初の日本人作曲家になったことは、間違いないように思う。帰国後の山田耕筰が作曲した管弦楽曲の多くは国粋主義的標題を持つもので、現代では顧みられる余地がない。美しい歌曲を次々と作曲しながらも、彼は戦争に向かってエスカレートしていく政局に歩調を合わせ過ぎてしまった。無論ドイツに留まったとしても、ナチスの台頭にもっともっとファナティックに反応したかも知れない。それとも、彼のナチスに対する傾倒は、留学によって国の事情を熟知していたドイツへの恋心ゆえか。もしもドイツに留まり続けていたら、全体主義に対して彼はどのような態度を取っただろうか。

道の開拓者として、山田耕筰がああしたからこうなった・・・ということが、先駆者に責任をなすりつけるようだが、現代の音楽界にも多くある。日本歌曲というジャンル、グランドオペラを志向するオペラ界、そして、戦争中音楽家の元締めとして果たした彼の立場も、先駆者ゆえの毀誉褒貶にまみれている。たくさんの名作歌曲を、これらの文脈と完全に切り離しては考え難いところに、山田耕筰理解の複雑さがある。

2006年4月13日 (木)

瀧 廉太郎

今日から始まった「現代芸術論A」の授業では、日本の作曲家による作品を扱うことにしている。第1回は瀧廉太郎。

「荒城の月」について。
あまり知られていないことかも知れないが、瀧廉太郎が遺した楽譜と、現在一般に普及し歌われている楽譜とでは、いくつかの点が大きく異なっている。実は、現在一般に普及し歌われている楽譜は、山田耕筰編曲によるものなのである。

相違点の一つ目は、どちらも4分の4拍子だが、瀧廉太郎が書いたオリジナルの基本単位が8分音符であるのに対して、山田版は4分音符であること。従って、8小節で収まっていた1コーラスが、16小節になる。二つ目は、調性。オリジナルのロ短調に対して、山田版はニ短調。三つ目は速度・曲想標語。オリジナルは「アンダンテ」と記されているだけだが、山田版では「レント・ドロローソ・エ・カンタービレ」(悲しげに歌うように)である。その結果、山田版の方が荘重で、情緒を強調した音楽になる。

しかし、最も注目すべきは、オリジナルでは、「春高楼の花の宴」・・・「花の宴」の「え」の音にシャープがついており、「の」と「え」が半音であることだろう。山田は、このシャープをはずして全音とした。

私は大学の作曲教師として、学生たちに和声学という音楽理論を教え、作曲のアドバイスをするなどして糊口を凌いでいる。考えてみれば、23歳と10ヶ月でこの世を去った瀧廉太郎の時間は、私の学生たちとほぼ同じ年代で止まっていることになる。だから、数々の美しい曲を作曲した瀧廉太郎が、学生時代にどんな勉強をしていたのか、とても興味が湧く。

有名な「花」は、組曲「四季」の第1曲として作曲された。「花」のあとに、「納涼」「月」「雪」という歌が続く。この連作をはじめとして遺された作品を見る限り、彼は和声学の知識や技術について、少なくとも基本的な部分については、ほぼ完璧にマスターしていたと言って差し支えない。「花」などでも、ドッペルドミナントと呼ばれる和音やその変化形としての減七の和音の使い方はまったく的確だ。的確であると同時に、結構好んでいたのではないかと思われるふしがある。

山田は、「荒城の月」の「編曲」について次のように書いている。

「・・・ただ原作には何か西洋臭をぬけきらぬ点があまりにも際立って見えるので先輩に対して非礼とは思いましたが旋律に一ヶ所筆を加えました。」

シャープがはずされることによって、「花の宴」の和音進行はⅠ-Ⅳ-Ⅰとなった。しかし、もしシャープがあったら、Ⅰ-ドッペルドミナント-Ⅴとなるだろう。これは、ある意味とても西洋音楽的な和音進行だ。なぜならそれは、一時的にせよ「転調」を暗示する和声進行だから。
瀧廉太郎は、「え」をシャープにして、この旋律が西洋音楽のイディオムと同化することを願った、しかし、山田はそのバタ臭さを嫌ってシャープをはずし、日本的情緒の徹底を図った・・・と言えないだろうか。

生前出版された組曲「四季」の楽譜の巻頭には、次のような内容が書かれている。引用は大意。

「近来音楽は著しい進歩発達を遂げたが、多くは音楽の普及伝播を目的とする学校唱歌であって、それより程度の高いものはとても少ない。やや高尚なものがあっても、西洋歌曲に日本語の歌詞をあてはめたもので、原曲の妙味を損なっている。このことをいつも遺憾に思っているので、私たち日本人の手による歌詞に基づいて(オリジナルに)作曲をしたもののいくつかを発表しようと思う。」

「この任にあたるのは私の力では十分ではないが・・・」という控えめな但し書き付きながら、この序文は、私には瀧廉太郎の「作曲家宣言」と読める。文学では言文一致が始まったばかりの時代だ。そして、西洋音楽を勉強しているのもごく限られた人たちでしかない。そんな時代にあって、彼は、自分が音楽家として何をなすべきかわかっていた。私たちに遺された「花」という美しい歌、これこそはこの国のかけがえのない宝物だ。
21歳の青年が、熱い思いを込めたこの気高い「作曲家宣言」に、私は限りのない敬意を捧げる。だが、それと同時に、この「宣言」をまっとうできなかった瀧廉太郎の悲痛な運命と、彼がやり残したことの大きさについて、あらためて思いをめぐらせてしまうのだ。

2006年4月 4日 (火)

ポラーノの広場(2)

合唱劇「ポラーノの広場」は、昨秋山形で、合唱団「じゃがいも」によって上演された。「じゃがいも」はとても楽しい合唱団で、お父さんやお母さんの練習についてきた子どもたちも、一緒にまじって歌ってしまうのである。そんな子どもたちのことを「子じゃが」と呼んでいる。
この日は、萩京子さんの合唱曲「はっぱと りんかく」も演奏された。柔らかくしかし芯は強く、ちょっととぼけていて暖かい、まどみちおさんの詩の魅力を十分に引き出した曲だ。
後半に、私の作曲した合唱劇「ポラーノの広場」。上演にあたって書いたプログラム原稿は、当日会場に来てくださった方々以外には読んでいただける機会がないので、以下に掲載しておこうと思う。なお、初出の原稿に、ほんの少し手を入れてある。

0405

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To:kenji-M@ihatov.or.jp
SUB:RE:「ポラーノの広場」~宮澤賢治へのEメール~

賢治さん、こんばんは。今夜は、山形駅に程近い新しいきれいなホールで、「ポラーノの広場」の練習を聴かせてもらって、最終の高速バスに飛び乗り、仙台に戻ってきたところです。賢治さんも、「ポラーノの広場」の中で、センダードの街の様子を描いていますね。高速バスが暗い峠を越え、トンネルを抜けてたどり着く現代のセンダード、つまり仙台、その繁華街広瀬通は、たくさんのネオンが「モール」のようにきらきら光っていて、賢治さんが見たら、さぞかし目を白黒させてしまうことでしょう。でも、毒蛾はいませんから安心してくださいね。それはともかく、今夜の私のちょっと複雑な心持ちをどんなふうにお伝えすれば良いでしょう。嬉しいような胸がいっぱいのような少しさびしいような・・・。

賢治さんの「ポラーノの広場」を合唱劇にすることになって、作曲を始めようとしたとたん、正直私は頭をかかえてしまいました。だって、よくわからないんだもの。山猫博士って「山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売」だっていうんだけれど、売られた山猫はどうなるの?ファゼーロのお姉さんロザーロって、「旦那」のところで何をしている?「皮を十一枚あすこへ漬けておいたし」というけれど、何の皮?なぜ十一枚?あすこってどこ?漬けておくと何ができるの?・・・きりがない。
しかも長い。原作そのままに作曲すると、上演時間3時間を越える大オペラになってしまう。あぁ、賢治さん、もっと長生きして、もう少し整理してくれてたらなぁ・・・と何度思ったことでしょう。
でもね、どの場面も何だか面白いんだなぁ・・・。

まぁ、いいや。

おいおい!まぁいいやじゃ困るだろう!・・・いえ、たしかに学者さんだったら「まぁいいや」では困るでしょう。でも私は作曲家で、合唱団のみんなは、なかなか出来てこない楽譜を首を長くして待ってくれている。いつまでも頭をかかえてばかりいないで、なんとか少しでも早く音にしてあげなければいけない。「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたしにもまた、わけがわからないのです」(「注文の多い料理店」序)などと言う賢治さんのことです。きっと許してくれるだろうと勝手に考えて、よくわからないところにも、とにかく音をつけていきました。ところがどうでしょう、音がついて歌われると、みるみるうちにことばが立ち上がってくるのです。私が考えた音なんか貧しいものなのに、ことばが音にしみこんでいって、全体を豊かに膨らませてくれるかのようです。今までわからなかったところが、それでわかるようになったかと言われると、やっぱりわからないところはわからないままだけど、少しくらいわからないことなんかどうでもいいと思えるようになってくる。読み慣れたから?いや、そうではない。それこそが賢治さんのことばの力であり魔法であると思うのです。

テキストの整理に頭をかかえている私をみかねて、指揮者の鈴木さんや団員の東海林さんが、マラソンランナーに付き添う伴走者の心配りで、幾通りもの案を考えてくれましたし、演出の山元さんが最後には何とかしてくれるという安心に甘えて作曲をしていきました。そして、聴きに集まってくださった皆さんの前で、「じゃがいも」のみんなが歌って「ポラーノの広場」という合唱劇を創りあげる。実は、その過程こそが賢治さんが思い描いたポラーノの広場の建設そのものだったように思えて仕方がないのです。もうすぐ私たちのポラーノの広場ができあがる・・・高速バスで仙台に戻ってきたときの心持ちは、そんな感慨だったのかも知れません。この作品のいちばん最後に歌われる「つめくさ灯ともす 夜のひろば/むかしのラルゴを うたいかわし」という「ポラーノの広場のうた」、林光さん作曲の名曲で知られているこの歌を、私は静かな祈りの歌にしたいと思いました。私たちのポラーノの広場、賢治さんも喜んでくれるだろうと信じています。

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文末の部分、初出では「私たちのポラーノの広場、賢治さんは喜んでくれるでしょうか。」と、いささか控え目に書いていたが、TV「ビフォー・アフター」のアナウンスみたいだよと指摘されたので、上記のように直しておく。
合唱劇「ポラーノの広場」は、仙台での再演を企んでいる。まだまったく具体的ではないけれど、実現するといいなぁ。そして、鈴木さんとは、もっと厖大な計画を話し合っている。まだ夢物語の段階だが、いつか実現させたいと思う。ただし、実現までに2~5年くらいはかかるだろう。

合唱団「じゃがいも」のホームページはこちら

http://homepage2.nifty.com/jagaimo/
(勝手にリンク張ったよ、ごめん!ついでにこの記事の写真も、「じゃがいも」のHPから転用させていただきました。)

ポラーノの広場(1)

山形の合唱団「じゃがいも」の鈴木さんから、合唱劇「ポラーノの広場」の記録映像が送られてきた。この合唱団からの委嘱に応えて作曲、昨秋上演されたもの。早速視聴してみて、苦労したけれど楽しかった秋の日々を懐かしく思い出した。

宮澤賢治の「ポラーノの広場」は不思議な作品だ。賢治作品の多くは、完成形とは言い難いところがあって、生きる時間がもっと残されていたら、さらに手を入れたかったのだろうと想像させるが、とりわけ「ポラーノの広場」は、一読すると未整理で散漫な印象が残る。ページ数で「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」を上回る賢治最大の長編にも関わらず、いささか知名度が低いのはそのためか。そして、いくつかなされたこの作品の舞台化の試みは、いずれも苦労していた様子と聞く。私たちも例外にもれず、とても難渋した。全体があまりにも茫漠としていて、どの部分をどう活かし、どこに焦点を絞っていけば良いか、容易に対策が見つからないのだ。

しかし、同時に、キューストやファゼーロという登場人物たちと毎日のように付き合っているうちに、私たちの悩みをやすやすと通り越して、彼らは勝手に動き始めていることに気づく。どうやら彼らにとっては、整えられちんまりした「物語」の枠の中など居心地が悪くて仕方ないらしい。この作品には、「物語以前」の朴訥で大らかな「場」が必要で、茫漠と読んだのは私の目のまちがい、読み物としての「物語」が多少破綻していたとしても、いや、それを超えた「場」だからこそキューストやファゼーロたちは生き生きと存在できるのだという気がしてくる。

「『ポラーノの広場』という作品は、魔物なんだよね。なんかわからないけど、いつの間にかズブズブはまっていくんだ」と、演出のゲンさんこと山元清多さんは言う。それは実感としてとてもよくわかる。私もそうだし、「じゃがいも」のみんなもきっとそうだったのだろう。だから、曲の完成が大幅に遅れて練習期間が短かった(ごめんなさい!)にも関わらず、あんなに楽しく演じきることができたのだと思う。演じきると言ったが、キューストやファゼーロやミーロや山猫博士たちは、とても童話的に描かれているにも関わらず、私たちにとっては架空の人物ではなくなっていた。私たちも、整えられた「物語」の枠の中などで、論理的で計画的で矛盾や隙のない人生など送ってはいない。キューストやファゼーロたちが隣人のように思えてくるのは、そのためだろうか。

2006年3月31日 (金)

合唱劇

3月29日に引き続いて、新国立劇場中劇場で栗友会の演奏会。コーロ・カロスの出演で、「冬のオペラ。大正二十五年の」(作曲=林光、台本・構成・演出=加藤直)。今夕も休憩なしで1時間30分。

書き下ろしのソングとともに、昭和初期の歌謡や浅草オペラの有名曲が歌われる合唱劇。「月は船」や「いつもその日は雪」などたいへん美しいオリジナルを聴くことができる。そして光先生の、いつもながら冴えわたっている職人技に敬服。
しかし、若い観客にはギャグが通じにくくなっているのではないか。客演・大月秀幸氏によるエノケンの物まねなど、かなり似ていて可笑しかったが、周りからはほとんど笑いが起こらないのだ。
なお、栗山先生体調不良とのことで、光先生が指揮。

合唱劇という形体、とても興味があるし、私も何作か作っている。ただ、この作品は「劇」のウエイトがかなり高いので、歌だけならば大丈夫だが、どこの団体でも再演できるというわけにはいかないだろう。そういう意味では、先端的な作品と言える。

2006年3月 7日 (火)

つぶやき

紀尾井ホール。3月1日に引き続いて日本の作曲家によるアンソロジーのシリーズ、今年の最終回を聴きに行く。2曲の作品を楽しみにでかけたのだが、まさにそのふたつに満足した。それにしても、先週もそうだったが、聴衆の少なさが気にかかる。それに、作曲家もそうだが聴衆も高齢化しているような気がする。アンソロジーだからということでもないだろうに。

2006年3月 1日 (水)

演奏会

0301 紀尾井ホールで、私の曲「5つのウムイ」再演。ここ何年も続いてきた、日本の作曲家による作品の、戦前からの膨大なアンソロジー・シリーズに入れていただけたというわけで、光栄だが同時に何だか妙な感じもする。歴史的検証の材料にはそぐわない曲だろうとも思うし。